飯田 房太(いいだ ふさた)
1913年(大正2)2月12日〜1941年(昭和16)12月8日
昭和15年、中国戦線での戦果に浮かれる中、27歳の飯田房太大尉はこう漏らした。「重慶に60キロ爆弾一発落とすには、爆弾の製造費、運搬費、飛行機の燃料、機体の消耗、搭乗員の給与、消耗など諸経費を計算すると約千円かかる。相手は飛行場の爆弾の穴を埋めるのに苦力(クーリー)の労賃は五十銭ですむ。実に二千対一の消耗戦なのだ。こんな戦争を続けていたら、日本は今に大変なことになる」
これを聞いた零戦搭乗員の角田和男は、「飯田大尉こそ、私の11年半の海軍生活の中でただ一人だけ、この人とならいつ、どこで死んでも悔いはないとまで信服していた士官だったのである」と述べている。
昭和16年12月8日、真珠湾奇襲攻撃で自爆、戦死。享年28。
※背景画像:
零式艦上戦闘機21型 航空母艦「蒼龍」所属 飯田房太大尉機
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山口県都濃郡富田村 (現周南市)で旧家の一人息子として生まれる。1925年(大正14)に徳山中学校 (現山口県立徳山高等学校)進学。1931年(昭和6)4月に海軍兵学校(62期)入学、1934年(昭和9)11月、125名中5番の成績で卒業した。1936年(昭和11)12月、霞ヶ浦海軍航空隊の飛行学生となり、1937年(昭和12)9月、第28期飛行学生教程を首席で修了。
海軍大尉に進級後、佐伯海軍航空隊、大村海軍航空隊を経て、1938年(昭和13)11月、空母「蒼龍」に配属された。1939年(昭和14)、霞ヶ浦航空隊の教官として内地に帰還し、霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊の分隊長として海兵66期の坂井知行、原正、日高盛康、藤田怡与蔵、山下丈二らを鍛えた。
1940年(昭和15)9月、華中方面の前線部隊12空 (司令長谷川喜一大佐)に配属。同年10月26日、成都に対する戦闘機単独長駆襲撃 (第3回成都攻撃)を指揮、中華民国軍機10機と交戦して全機撃墜を報告する。同年11月6日に公開された『日本ニュース』第22号で「敵機撃墜の八勇士」として報道された。
第3回成都攻撃における飯田隊(8機)の編成と搭乗員
第一小隊 一番機 飯田房太大尉(指揮官)
二番機 光増政之一空曹
三番機 平本政治三空曹
第二小隊 一番機 山下小四郎空曹長
二番機 角田和男一空曹
三番機 岩井勉二空曹
第三小隊 一番機 北畑三郎一空曹
二番機 大木芳男二空曹
1941年(昭和16)9月、空母「蒼龍」の分隊長となる。同年12月8日、第二次攻撃隊の第3制空隊(空母「蒼龍」制空隊)第3中隊長として真珠湾攻撃に参加。カネオヘ海軍航空基地を銃撃した後、ベローズ陸軍航空基地を機銃掃射し、再びカネオへ海軍基地を攻撃中、飯田機は燃料タンクに被弾した。
飯田大尉は、部下の第2小隊長藤田怡与蔵中尉に燃料切れを意味する手信号を送った後、手を振って、カネオへ海軍基地格納庫に向かって突入した。飯田大尉の遺体は、カネオヘ海軍基地で戦死した18名の米海軍兵と1名の民間人とともに、同基地内に埋葬された。なお、2番機の厚見峻一飛曹、3番機の石井三郎二飛曹も未帰還となった。
真珠湾攻撃における第3制空隊 (9機)の編成と搭乗員
第一小隊 一番機 飯田房太大尉(指揮官)
二番機 厚見峻一飛曹
三番機 石井三郎二飛曹
第二小隊 一番機 藤田怡与蔵中尉
二番機 高橋宗三郎一飛曹
三番機 岡元高志二飛曹
第三小隊 一番機 小田喜一一飛曹
二番機 田中二郎二飛曹
三番機 高島武雄三飛曹
飯田大尉は、牧野三郎大尉(「加賀」爆撃隊指揮官)、鈴木三守大尉(「加賀」雷撃隊第二中隊長)とともに「真珠湾偉勲の三勇士」と謳われ、戦死後、二階級特進して海軍中佐となった。
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