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色部勝長

色部勝長

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詳細 2023年8月17日 10:17更新

色部 勝長(いろべ かつなが)

越後国岩船郡小泉庄平林村(新潟県村上市平林)の平林城主で揚北衆の一人。色部氏は桓武平氏秩父氏の流れを汲み、宗家である本庄氏らと共に越後秩父氏を形成した。勝長は長尾為景・晴景・景虎の三代に仕えた宿老である。

生誕:明応2年(1493年)?
死没:永禄11年1月10日(1569年2月7日)
別名:通称:弥三郎
戒名:益山昌善大禅定門
墓所:山形県米沢市窪田町窪田 千眼寺
官位:修理進
主君:長尾為景→晴景→景虎(上杉謙信)
氏族:色部氏
父母:父:色部憲長
兄弟:勝長、黒川清実室、長継
子 :顕長、長実

享禄4年(1531年)揚北・刈羽の諸将18名が連盟して壁書(命令や掟等を壁に掲示した文書)を作ったが、そこには中条藤資・本庄房長らとともに色部憲長の名がある。ほどなくして勝長が父憲長の跡を継いで平林城主となった。

天文2年(1533年)上条の乱が起きると、色部勝長は揚北衆の国人と共に、長尾為景に抵抗して上条定憲方に加わり、家督を晴景に譲ることで為景を引退に追いやった。その後も抵抗を続けたが最終的に晴景に帰属し次第に乱は終息していった。

天文8年(1539年)上杉定実の養子問題を巡り、伊達家で天文の乱が発生すると、本庄房長・黒川清実らと共に伊達晴宗方につき伊達稙宗方についた中条藤資の居城・鳥坂城を攻撃している。この乱の途中で、小川長資・鮎川清長による本庄家中の謀反が発生。房長が没すると両者の調停に入った。12年後の天文20年(1551年)に房長の子・本庄繁長が長資を自害に追い込んで仇討ちを果たし、清長を討ち取ろうとしたときに再び両者の仲裁をしている。

弘治3年(1557年)の第三次川中島の戦いの際、長尾景虎(後の上杉謙信)は武田信玄と対決するため配下の諸将に動員を下した。勝長へも令状が下され、その内容は丁寧な言葉使いではあるが勝長の出陣を強く促すものであった。

永禄2年(1559年)景虎は2度目の上洛を果たし、越後の諸将は太刀を贈って祝賀した。その時の記録である「侍衆御太刀之次第」によれば、侍衆は上杉・長尾一門の「直太刀之衆」、国人衆・譜代の「披露太刀之衆」、景虎旗本の「御馬廻年寄分之衆」に分かれ、それはそのまま春日山城中における席次でもあった。勝長は「披露太刀之衆」の第5位に列し太刀を献上している。ちなみに、披露太刀之衆の筆頭は中条藤資で、第2位は本庄繁長であった。

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、景虎は北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣、勝長も従軍した。

永禄4年(1561年)第四次川中島の戦いでは柿崎景家の危機を救うなど上杉軍の勇将として奮戦し、謙信から血染めの感状を貰った。感状を与えられたのは次の7人である。色部勝長、安田長秀、中条藤資、垂水源二郎(荒川長実)、本多右近允、松本忠繁、岡田但馬。そのうち、色部、安田、中条、垂水に宛てられた4通が現存している。

永禄7年(1564年)正月、武田信玄は北条氏康と共同作戦をとって、北関東の親上杉派の諸将を攻撃した。これに対し謙信は、氏康の誘いで叛旗を翻した小田氏治を討ち一気にその居城を落した。ついで下野佐野城の佐野昌綱を攻撃し、佐野城を落し昌綱を降した。佐野城攻撃には勝長も従軍して功があり、謙信から感状を授けられている。

同年6月、北条氏康・氏政父子が謙信の留守を突いて佐野城を攻撃してきた。この時、城内にあった勝長は昌綱とともによく防いで後北条勢を撃退した。以後2年間、勝長は城将として佐野城に在番した。

永禄9年(1566年)将軍足利義昭は謙信の武力をもって側近らの不服従を弾圧し、秩序を回復しようと謙信の上洛を促した。このとき義昭は勝長にも書を送って、謙信の上洛が実現するように依頼している。このことから、この時期の勝長が京都においても一目おかれる存在であったことが知られる。

永禄11年(1568年)4月、本庄繁長が武田信玄の誘いに応じて叛乱をした。この「本庄繁長の乱」に際して、勝長は繁長からの密書を受け取るが、謙信側についた。繁長の抵抗は強烈であったが、翌年春、伊達・葦名両氏の仲介で繁長は謙信に降り反乱は落着した。

この乱の最中の永禄12年(1569年)1月、勝長は死去した。繁長の夜襲に遭い討死したとも、病没とも言われている。

跡をつぐべき弥三郎(顕長)はまだ幼かったため、謙信は後見人を決めて色部氏家中の動揺を抑えている。乱後の元亀2年(1571年)謙信は勝長の忠節を賞して、府内における色部氏の席次を本庄繁長の上に据えることを約した。これによって、鎌倉以来、秩父平氏の宗家たる本庄氏と庶家である色部氏の地位は逆転した。

勝長の生年は明応2年(1493年)とされるが不明な点が多い。天文4年(1535年)に本庄房長や新発田綱貞らと連名で書状を送った際、勝長の名前の下に花押の印がみられないため、天文4年時点で勝長は未だ元服前だった可能性もある。

★トップ画像:米沢上杉まつりにおける色部勝長の旗。
★背景画像 :浮世絵「信州川中嶋合戦之図」

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