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直江景綱

直江景綱

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詳細 2023年8月9日 10:15更新

★トップ画像:KOEI「信長の野望」の直江景綱CGより
★背景画像 :浮世絵「永禄四酉年九月四日信州於川中島 
       甲越大合戦之図」

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直江 景綱(なおえ かげつな)

越後国の守護代・戦国大名の長尾氏(上杉氏)の家臣。山東郡(三島郡)与板城城主。長尾為景・晴景・上杉謙信の3代にわたって仕えた宿老で、奉行職を務め主に内政・外交面で活躍した。また七手組大将の一人として軍事面で活躍することもあった。

生誕:永正6年(1509年)?
死没:天正5年3月5日(1577年3月24日)
改名:実綱→政綱→景綱
別名:仮名:神五郎
号 :酒椿斎?
他 :与兵衛尉
戒名:固岳道監
墓所:徳昌寺(新潟県長岡市与板町)
官位:大和守
主君:長尾為景→長尾晴景→上杉謙信
氏族:直江氏
父母:父:直江親綱、母:不明
兄弟:景綱、重綱、篠井正信
妻 :正室:北条輔広の娘 
   継室:正国尼(山吉政久の娘、山吉政応の妹
   または山吉政応の娘、山吉豊守の姉)
子 :伊勢松、男子、女子?、
   船(直江信綱室→直江兼続室)
養子:信綱、兼続

直江氏はもともと越後守護上杉氏の家臣・飯沼氏の被官であったが、永正11年(1514年)守護代・長尾為景によって飯沼氏が滅ぼされると、その居城・本与板城の城主となった。景綱は仮名は神五郎、初名は実綱と名乗った。

天文8年(1539年)からの守護・上杉定実の養子問題を巡る天文の乱では、中条藤資、平子氏らと共に入嗣推進派を形成した。養子問題に関して直江氏と長尾氏の立場は相反し、直江氏は長尾氏とは一線を画していたものと思われる。天文11年(1542年)には伊達家へ時宗丸の迎えの使者にあたっている。

天文12年(1543年)長尾景虎(後の上杉謙信)は、病弱な兄晴景の名代として栃尾城(長岡市)に入る。天文15年(1546年)景虎は兄晴景に反抗していた黒田氏一族を黒滝城(弥彦村)に攻めた。

景虎の活躍に着目したのが守護代晴景と対立する中条藤資で、藤資は景虎を新しい国主にかつごうと画策した。これに高梨政頼や古志長尾景信、本庄実乃が加担し、直江景綱も景虎擁立派に属した。一方の晴景には上田長尾政景・黒川氏実らが加担して双方武力抗争となった。結局、守護定実が調停に乗り出し、晴景に家督を景虎に譲って隠退することをすすめ、晴景もそれをいれて隠居した。こうして景虎は新しい守護代となって春日山城に入り、越後の内乱も鎮静化した。天文19年(1550年)守護定実が死去すると、景虎は名実ともに越後の国主となり、幕府からもその地位を認知された。

弘治2年(1556年)景虎の出奔騒ぎが起きると、長尾政景は中条藤資と結んで大熊朝秀を追い出し、本庄実乃=直江実綱ラインによる執政府をまとめ、景虎に春日山へ帰ることを求めた。これに対して旧上杉氏被官派の大熊朝秀は越中に逃れて兵を集めて府中に攻め寄せようとしたが、敗れて武田信玄のもとに奔った。

ここに、景虎のもとに家中は統一され、本庄・直江らの執政府による政治体制が発足した。以後、景綱は景虎政権下における奉行を務め、上杉家の中枢に位置して軍政両面に活躍した。荒武者の多い上杉家中において景綱は内政・外交にも秀でた貴重な存在であった。

永禄2年(1559年)景虎が2度目の上洛を果たした際には、神余親綱とともに朝廷および幕府との折衝にあたり、前関白の近衛前久(当時は前嗣)が越後に来訪したときにはその饗応役を務めた。永禄12年(1569年)の越相和睦の際は、小田原北条氏の使節との交渉役を担当し同盟の締結に尽力した。

永禄3年(1560年)関東出陣で謙信が越後を長期間不在にする際は、春日山城の留守居を吉江景資と共に任された。永禄4年(1561年)第四次川中島の戦いでは小荷駄奉行として出陣し、武田信玄嫡男・太郎義信隊の突撃に窮地に陥った謙信を助けて奮戦、義信隊を敗走させている。このように景綱は、七手組大将の一人として軍事面でも活躍した。七手組大将とは、直江実綱(景綱)・長尾藤景・本庄慶秀・北条高広・柿崎景家・斎藤朝信・中条藤資の7人で、いずれも謙信麾下の錚々たる武将ばかりであった。

永禄5年(1562年)大和守に任官し、実綱から「政綱」と改名する。永禄7年(1564年)には、謙信のかつての諱である「景虎」から一字を拝領して「景綱」と名乗ることになった。

謙信麾下における直江氏の勢力を知るものとして、天正3年(1575年)2月の「上杉家軍役帳」があるが、それによれば直江大和守(景綱)は旗本・譜代の一員として軍役数305とあり、山吉孫次郎(豊守)の377に継ぐ動員数であった。

天正4年(1576年)景綱は河田吉久・吉江堅資・杉原盛綱らとともに能登の石動山城(石川県中能登町)に在番した。石動山城は能登の最前線であり、石動山城将は謙信の側近として活躍した信任の厚い者たちばかりだった。

天正5年(1577年)3月5日に病没。享年は69といわれている。墓所は徳昌寺(新潟県長岡市与板町)にある。

景綱には男子が無く、総社長尾氏から長尾藤九郎を娘・お船の婿に迎えた(直江信綱)。景綱の後を継いだ信綱は、御館の乱で上杉景勝方に付いて勝利に貢献し、景勝の下でも直江氏は重用された。天正9年(1581年)に信綱が暗殺されると、景勝側近の樋口兼続が未亡人となったお船の婿となって直江氏当主となる。

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