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哲学が好きコミュの語られざる哲学とは何か。

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これまでに哲学として語られたことがないことって何だと思いますか?

話題として、このコミュで語られない哲学でも、哲学者によって語られない哲学でも、人間には語れない哲学であっても、構いません。

「これは、そうに違いない」というものがありましたら、教えてください。

コメント(28)

>哲学者によって語られない哲学
(哲学者の定義はおいておくとして)学会では語られてはいないが、日常では語られていること全般だと思います。
もう少し具体的な例だと、「薬物とセックスというのは、多くの人々が独自の見解を強く持ちながら、実態についてはろくに理解していない2大テーマである」(ポーリングって人の言葉みたいです)とかでしょうか。

>人間には語れない哲学で
今日常ですら語られてないことがいずれ学会でも語られるようになるかもしれませんが、それを想像するのは難しいですね。。
自己完結的な俺的哲学を披露させてもらいます。

・個人のレベル思いつく哲学は紀元前の哲学者が思いついてる
・古今東西の哲学を収集しても何も変わらないし網羅不可能
・哲学マニアとして使用する言語は、マニアや商取引での符丁と同じ。
知っているか知らないかの差。個人の哲学的思考体系とは別物。
・1つの哲学者を信じることは1人の神を信じることと同じ
・神は否定。宗教は肯定
・自我を持つということが哲学である
・相手を論破するのは方法論であって哲学ではない
人間に語れないというところだけですが、

他者ではなく自分が死んだとき、自分が考える事。死者がその都度考えたかもしれないが、人には伝わらない。自分の順番が来て初めて考えるのでは?

非科学的ですいません。
それ以外は思いつきませんでした。
>留吉onlineさん
「既に誰かが思いついている」って、どういうイメージの言葉だと思います?
哲学者のやっている哲学も、昔の哲学者の言っていることに+αしたりとか、別の見方をしているとか、そういう形で進んでいるのは変わらないと思うんですよね。ときどきニュートン力学に対する相対性理論みたいのがあらわれて、過去の哲学が「間違っていた」と解釈されることもあるのでしょうが。

だから、私は哲学に何らかの評価を与えるとするなら、それは深いか浅いかといったイメージなのかなって思ってます。深いってのはそれまでよくわからなかったこともよく説明できるってことでしょうか。
より深い哲学をわかっている人は、より浅い哲学をわかっている人のいうことをすぐ理解できて、それが「ああ、もうそれは誰それが言っているよ」という感覚につながるんだと思います。
>サーペントさん
もうだれかが思いついているのにその人が外に伝えなかったから残らなかった考えというのは、いっぱいあると思います。

死以外にも人に考えが伝わらなくなることとして、発狂があります。
ニーチェは発狂する前に友人に以下の手紙を送ってます。
「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」

狂気の兆候とみなされているようですが、もしニーチェが西洋の思考の枠にとどまらないものの見方にたどり着いたと考えるなら、これは狂った手紙を書いたというよりは他人が理解できない手紙を書いたということであって、ニーチェ自身はその意味を「理解している」といってもいいかと思います(「理解している」とは「人に説明できること」という話もありますが、おいておきましょう)。
実際東洋哲学のノリでこの手紙を眺めてみると、ごく普通の平凡で浅い見解にしか見えないんじゃないでしょうか(量子力学者とかで東洋哲学にひかれた人っているみたいですが、二元論を超えるとこういう手紙のような感覚で世の中を見始めるんだと思います)。

話が長くなりましたが、例えばかつてニーチェより高速にニーチェと同じような思考をたどった人がいた場合でも、その人は世の中に考えを出す前に発狂してしまってて、その考えが世の中にでることはなかったでしょう。
あるいは相当早い段階(小児とか)に発狂寸前のニーチェと同じように世界をみるようになった人は、社会からは狂人か、せめて相当変わった人という見方をされて、彼らの考えも世にでることはないでしょう(それも東洋でうまれるか西洋でうまれるかによってかわるかもしれませんね)。
>を地蔵さん
社会学とか(経済学もそうかな)と役割分担している感はありますね。

「哲学」を、辞典でひいたら、

「仮説に基づかず、
すべての領域にわたる、事物の根本原理を追求する学問……」
と、書いてありました。

「仮説に基づかず」??
やはり、未来のことは、取り上げにくいんでしょうか。

(コミュニティーに、
参加させて頂いて
日も、浅いので、よく、わかりませんが…)

> 〇永遠氏

その辞書に記載されている意味は妥当なものではないね、

形而上の問題はその限りではないからね、

根本原理は過去未来に関わらず万物すべてに共通する原則によって導出されなければ現実的に考えて意味を為さない。

故に“絶対的な真理など存在しない”となれば哲学は現実対応するための都合解釈。一定のルールに基づく言葉遊びにしかならない。

しかし、人間が道徳的によく生きていくための有用価値のあるツールにはなる。

また、過去は現在的に立脚された点から見れば確定事項であるが未来には不確定要素が含まれるがゆえ、確実な未来予測は困難を窮める。

未来・過去の存在の是非は事実解釈として、これとは別に問われるところ、

未来そのものの観念が語られない訳ではない。
>未来そのものの観念が語られない訳ではない。

 「未来」という概念については確かにそうだけど....。

 例えば、ソクラテスやプラトンの時代に「携帯電話」や「インターネット」や「テレビゲーム」について語られたかというと、その頃にはそんなものは存在しなかったので、もちろん話題にのぼる事はなかった。
 これらに関する話題が哲学的でないかというと、決してそんな事はない。
 ネット社会がもたらすものや、TVゲームにしか興味がない人間についてなど、けっこうトピの話題としてもあげられている。

 同様に、これから先、人間が新しく創造するものや、未来のその時点まで観測されることのないもの(現代人の想像力の限界を超えているもの)については、「現時点では」語りようがないのでは?
> 春助さん

>008での、
哲学の意味に
『根本原理』という、
表現が、適切でないということですね?

形而上の問題を、
扱う哲学だから。

辞典のはじめに書いてあった、

「仮説に基づかず」のところに、
ちょっと引っかかりを感じて、

未来は、仮説に基づかないと、語れないので、
その最初の部分のみ、
引用しました。

あと「……自然や、社会を貫く 一般的な法則性を 探究する学問…ギリシャに始まる…(哲学の簡単な流れ)…Philosophia………
西周が…希哲学と訳したことに、始まる」
結構、長いですあせあせ(飛び散る汗)

〔金田一春彦監修〕

「一般的な法則性」というのは、
春助さんのご見解に近いでしょうか。

未来という観念について、語るとして、
哲学は、時間を、
超える、普遍的な真理を、持ち得るんでしょうね。

「仮説に基づいてexclamation」というのは、

哲学的態度では、
ないのでしょうか。
そうならば、未来については、哲学からのアプローチは、
しにくいですが。

> 21gさん

もともと、心理学も、
哲学から、発展したそうですね。

>まず、事実を元に
考える事が 哲学の
根っこにあるから。

きっと、
そうなんでしょうね。

> yopisoundさん

自然科学での、
新しい発見も、あるようですが、

事物としてはっきり
確認できないと、
哲学の対象には、
なりにくいのでしょうか。

想像力の及ぶ範囲で、
想像力を駆使して、語るのは、
哲学することに、
なりますか。

> yopisound氏

現在的な立脚点から見れば確実な未来予測は困難を窮める。

現時点での想像力の範疇を逸脱していれば、想像することが出来ないので語ることは出来ないだろうね、

ただ、包括的に捉えれば言葉で表現される以上、個人の想像を越えているものであれど人間の想像力の範疇におさまる。

特に物理的現象は超越的で認識されない限りに於いては知りようがない。

人間の想像力で創造されたものが人間の想像力を超えた未来予測を打ち立てることも考えられる。

あくまでも未来予測は事実確認から因果関係を明白にし、そこからその法則性を見出だし推測するしかない。

時空間世界そのものが自由意志による決定によりバタフライエフェクトを起こしていると仮定すればその未来が遠ければ遠いほど可能性として未来が細分化されて存在することが想定されるため、決定論としての予測はより困難となる。

いずれにせよ未来が客観的実在として存在しているとしても現在的にしか生きられない私達人間には原理的に未来そのものを知ることが出来ないだろう。
僕の前世はニーチェだった気がする。
ふと思ったのは、言葉になっていないものは、語ることができないのではないでしょうか。

言葉にすることで、哲学は、それを語り、そのことを、「理解しよう」としてきた。

だから、「言葉」になっていないことは、語られざる哲学だと思いました。

たしかに、同語反復かもな。

「言葉になっているものは、語られたからこそ言葉になっているし、言葉になっていないものは、語られなかったから言葉になっていない。」

当たり前かもしれないけど、それ以外に思いつかなかった。
言葉になっていない物や現象を、
新たに哲学者が呼び名を作ることもあるので、
それまで言葉になっていなかったことでも、
考える対象にすることは可能であるように思います。
(プラトンのイデア等)
ただ、哲学では人が物を認識する根本的な原理などを
研究対象にするので、
人の個別的な事(その人の思い出など)については
語ることが出来ず、
よって語られたことがないのではないか、と考えます。
経験を一つ一つ別個のものと捉えず、
何らかの意識に貫かれていると捉えるとき、
その意識がいわゆる「人生哲学」と呼ばれるものではないでしょうか。
φ(.. )…「語れないもの」は「語れない」という言葉になって語られていると思います。
稚拙な考えですみません。
φ(.. )
意外に結構あるのではないか?
マニアックな疑問みたいな。
ファーブルの昆虫研究のような。
誰もが関心を示さなそうなテーマ。
誰か面白そうな変わったテーマトピ立てして。

>5

その逸話はウィキペディアのニーチェの項で見たことがあります。印象に残っている。
豪華なメンバーwwww
ニーチェはその人達の考えにずいぶん共感していたのではないか、という気がする。ニーチェほどの哲学者ならニーチェ以前の哲学者の本をニーチェが読んでいたら、相当深く理解してそうです。
仏陀がでてきていますが、ひょっとしてニーチェが仏教書を読んでいてもおかしくは無い気がします。(19世紀のドイツには仏教書は出回っていたのだろーか?)読んでいたら、かなり深く理解していたのではないでしょうか。

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