Jun
今、サヨナラ公演の生録音の周波数特性を調整しているのですが、大変な間違いに気が付いた。一部の最後が#20昭和ブルースであった事。そうだった、それで「入れる?(女子のファンの子に)」と言う私共の声が入り、ここにもマイクのノック音が入っていたこと。また全体を通しては録音レベルが大きいのと、手入れもしないで(実際は分掃出来ない箇所)左右のサブボリウムの接触不良をおこしていたこと。現役4年間、人ごみの中、ご苦労さまでした。
Jun
藤圭子とルバート
持ち歌を含めて藤圭子を聴いていると私の知らない歌のリズムと揺れがあり、ルバートの領域を超えているのが不思議であった。当時の日本音楽に存在しない歌い方であった。師匠(圭子さん)を追いかけ、附いて今日まで来たが、漸く徹子の部屋を見た人から藤圭子そのものがグルーヴであると教わった。初めて聞く言葉であった。
Jun
藤圭子はグルーヴィー?
デビュー当時は口も顔もお化粧だって無表情だったし身体も。そしてその余り動かさない唇から凄い歌声が飛び出して来る。それから、やがて腕や足に動きが出て来る。(演歌の花道とは違う)R&Bやブルース、ジャズに触れると身体をふり肩を揺すって全身てそれを受け止めてゆく。日本人が殆ど知らないリズムのstreamだった。いつからかは定かではないが、尾藤イサオ氏とか宇崎組と一緒になって目覚めたのかも知れない。未知の歌、面影平野もきっかけの一つかな。
Jun
柔 美空ひばり
「柔」TV放映も映画も見たと思う。当時のひばりさんのこの歌に違和感を感じ無かった。変だと感じるのは、やはり藤圭子を知ってからである。前にも言ったが、ひばりさんの「柔」は特に不自然である。簡単に言えば男歌として無理をしている事だ。調べて見ると、「柔」は「男の人の歌でしょ、わたし、歌えません」と一度は古賀氏に断ったそうです。肩肘張ってオーバーに歌う。ひばりさんのチャンバラを思い起こしてしまうなぁ。(再掲改)因みに、時期的には'66年この尺八の前奏をフルートの先輩が独奏して喝采を浴びたそうです。
Jun
命預けます
7/22(火)伍代夏子「命預けます」を歌う
あれ!「命預けます」は恐らく100回以上聴いているし、他の歌手がカバーしているのも聴いていたはず。なのに伍代さんのカバーは「演歌」の命預けます になっていて何かしら汚された気分になった。逆に言えば藤圭子は曲によっては時々演歌も歌うが基本圭子節は演歌ではない事を改めて知った想いがする。
Jun
藤圭子と歌好きなカラオケファンとの乖離
1970年以降、本格的に藤圭子を、(師匠として)その歌と心を追いかけて往くことになるが、一方平行してカラオケ文化なるものが華やかになって往く。余談だが私の同胞はカラオケ機器の販売を生業として夜の店を「はしご」して、早世した。閑話休題
カラオケに興じる人は全てと言って良い、バックの伴奏にリズム、音程、いい喉を聞かせることが、その場を盛り上げる大きな力となり,上手だと見なされる風潮となってしまう。その大勢的風潮の中では藤圭子の歌う楽曲はその大勢からははじき出されてしまう。いわゆる音楽愛好家、評論家からはB級歌手の刻印を押された事になる。本当の歌が失われた時代に入る。
Jun
藤圭子と歌好きなカラオケファンとの乖離
1970年以降、本格的に藤圭子を、(師匠として)その歌と心を追いかけて往くことになるが、一方平行してカラオケ文化なるものが華やかになって往く。余談だが私の同胞はカラオケ機器の販売を生業として夜の店を「はしご」して、早世した。閑話休題
カラオケに興じる人は全てと言って良い、バックの伴奏にリズム、音程、いい喉を聞かせることが、その場を盛り上げる大きな力となり,上手だと見なされる風潮となってしまう。その大勢的風潮の中では藤圭子の歌う楽曲はその大勢からははじき出されてしまう。いわゆる音楽愛好家、評論家からはB級歌手の刻印を押された事になる。本当の歌が失われた時代に入る。
Jun
藤圭子と歌好きなカラオケファンとの乖離(2)
藤圭子の歌は歌う数だけ藤圭子がいる、と称するファンもいる。勿論、バックの決められたリズム通り歌うこともあるが、基本は彼女の「その時その時の」感性で歌っている。一例を挙げる。決定ではないが、さよなら公演の中の「女のブルース」をTVの(演歌の花道?)女のブルースの映像の口の動きに合わせようとするもフレーズ自体が異なっている。ルバートの範囲を超越しているのだ。これは体こそリズムは明確ではないが、グルーヴィーを地でいってのことなのでしょう。
Jun
藤圭子さんの話は出なかったけれど。
武田鉄矢氏の非整数倍の講義。しっかりと見たかったが、録画もせずに聞き逃したが、概ねGoogle で調べれば出ます。偶数倍音…主にパイプ系の共鳴音、奇数倍音…ヴァイオリン、リードを使った木管楽曲。そして音のエンペロープなどが基本だが音色に整数倍音以外のものが混じると音色に味が加わる。倍音の組み合わせに対して1/fがよく言われるが概して大ざっばである。日本の歌手では非整数倍つまり鉄矢氏曰く、かすれ声。筆頭に、森進一 (歌手としての差別化を望んで浪曲師と同じくわざと声を潰した)次に美空ひばり,宇多田ヒカルと挙げていくが藤圭子の名はやはりなかった(心にあっても)。
Jun
女のブルース(坂本冬美版)
現役で10人位、女性歌手で「歌うま」は、いるのだけれども、中でも坂本冬美はトップクラスに入ると思う。故に「女のブルース」を録画と音声で聞いて見た。
4番迄のフルコーラスだったが、歌自体は出来が良いと思うのだが、2点ばかし欠点が浮かび上がる。一つはいつも、いつもの苦しい表情は視覚として見るに忍びない。歌詞に合わせた表情の出し方も在るはずだが。そして何よりも気になったのは、1番から4番迄、同じメロディ、同じパターンを通していた事。圭子さんなら1番だけでも何通りもの表現があり、1番から4番迄単調な事にはならない。歌詞が異なるごとく、歌自体も変えている。芸術性の高さを物語っている。
Jun
故郷の人の思い出
圭子さんが亡くなられてから、東京では同志たる人達に出会ったけれども、私が生きて共に応援した「仲間たち」 に出逢うことは無かった。僅かに取れた連絡も、期待を裏切られるばかりだった。ただ一人、「故郷の駅」の人が、引退と同時に縁を切ったと前置きをしつつも、藤圭子グッズを見せて頂けた。私が失ったもの以上のコレクションが其処にあった。一つ自慢して見せてくれたもの、藤圭子の絵柄の団扇だった。「それは私が造ったものです」言わなかった方が良かったかも知れない。想い出は私のみでよかったのかも。
https://youtu.be/FU6bL0GcHk0?si=6aT3KVsSeFXG3kgB
Jun
物まね芸人 針谷紀久子
圭子の夢は夜ひらくを歌う。
声質は似せることは「物まね芸人ですか」似ているような似て異な様な微妙なところでしたが、けれども良かったとも思う。藤圭子には歌う度、どころか、歌詞、フレーズごとに歌が違う。それでいて藤圭子なのだ。プロ歌手でも物まねできない理由が其処にあるようである。
Jun
藤圭子さんの歌唱法
一般の歌手は顔の表情と口腔の動きが一体化している。
故に口ぱくも目立たない。一方圭子さんは全くの無表情と時には口腔の変化無しでも歌っていました。後に表情を付けたり、全身を使うようになっても、細かな歌の表情は口腔内で出来る。全てが細かく変化しているのである。口ぱくしようにも口と躰と息づかいでは自分自身の歌った歌に合わせきれないと言うかそのときの藤圭子とは違うのである。例えば演歌の花道かどうか知らないが、「女のブルース」を懸命に上半身全体を使って歌に合わせている。一方、ハッケン伝での「京都から博多まで」ではどの録音音源とも合わないし、発声、形態が一致しているとしか思えない。
Jun
藤圭子さんの歌唱法
一般の歌手は顔の表情と口腔の動きが一体化している。
故に口ぱくも目立たない。一方圭子さんは全くの無表情と時には口腔の変化無しでも歌っていました。後に表情を付けたり、全身を使うようになっても、細かな歌の表情は口腔内で出来る。全てが細かく変化しているのである。口ぱくしようにも口と躰と息づかいでは自分自身の歌った歌に合わせきれないと言うかそのときの藤圭子とは違うのである。例えば演歌の花道かどうか知らないが、「女のブルース」を懸命に上半身全体を使って歌に合わせている。一方、ハッケン伝での「京都から博多まで」ではどの録音音源とも合わないし、発声、形態が一致しているとしか思えない。
Jun
続・藤圭子 天然素材名曲ハッケン伝小話
「京都から博多まで」に使用しているマイクが変だと言いました。マイヤードマイクの端は大きく分かれて、キャノンコードのコネクターが一般的で安価なタイプはゴムブッシュから直接マイクコードがでている。この場面をよく見るとマイク(ワイヤレス)の端にあたる所からキャノンコネクターがテーピングされてマイクコードへとなっている様である。つまり何が言いたいかと言えば、生歌(アカペラ)の録画と録音の証(あかし)となる材料としてマイクの偽装がある。