ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

経済学史コミュの国富論と道徳感情論

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
アダムスミスの二大書物、「国富論」と「道徳感情論」。

前者は経済活動における個人の感情は「利己心」だけであり、それ以外のものは何も含まないという考え方を基礎とし、経済における富の生産方法を体系的に述べた書物である。

後者は理性ではなくて感情に影響された「同感」を社会の秩序を創り上げる基礎として、近代社会において、自由で平等な個人の平和的共存のための社会生活のルール(つまり道徳)を明らかにしようとした書物である。

利己心と同感といった一見相互矛盾を持っている双書、いわゆるアダムスミス問題を議論しましょう。

コメント(34)

えっと、読了までもう少々お待ち下さい。
(すんません、不勉強な管理人で・・・汗)

いま、知っている知識を総動員すると、スミスは必ずしも「神の見えざる手」に代表されるような自由放任主義を採っていたわけではありません。
確か、「正義と秩序の下に」自由貿易は為されるべきだ、と言っているはずです。
そういう意味では、矛盾はしてないと思いますが、どうでしょうか?
>となりもトトロ

「正義と秩序の下に」・・・まさにそれが自由経済において重要なファクターとなるべきものです。道徳感情論のほうでは、正義や道徳について語られてますので、読んでないのであれば読んでみてください。

>ヘリオット先生

神の見えざる手は正確には二箇所ではなかったでしょうか??
まあ、市民的自由に関してはヒュームの真似事みたいな感じがしてならないです。
はじめまして。

数年前に読んだので、正確ではないかも知れませんが、
スミスは、invisible handという言葉を使っただけで、
見えざる手の前に、(神の)という言葉はつけてなかった
はずです。
「見えざる手」は『国富論』の中では第4編・第2章の中に出てくるだけです。そして、「神の」という言葉は付いていません。ですから、翻訳として「神の見えざる手」と書けば、少し「やり過ぎ」でしょう。しかし、それに「神の」という「解釈」を付したとしても、あながち間違いではないと想います。

ちなみに「見えざる手」という言葉は『道徳情操論』の中にもあります。第4部・第1編。岩波文庫版ならば下巻のp.24です。

「見えざる手」の概念は、使用頻度の問題とは別に、スミスの思想の「軸のひとつ」だと想っています。この点について考えるには、やはりスミスの「宗教観」について検討してみる必要があります。
今日のところは、この点について深入りしませんが、田中正司氏の『アダム・スミスの自然神学』(御茶の水書房)などは示唆的だと想います。
(ただし、その内容の妥当性までは保証できないので、各自検討してみてください。)

スミスの「見えざる手」は、近代経済学の中では「市場の自動調整機能」という風に説明されていますが、この点については大いに疑問があります。少なくとも、スミスが「見えざる手」という言葉を使った部分は「市場」を主題とした部分ではありませんし、「自動調整」という概念がスミスの思想に馴染むかも疑問です。
そのような近代経済学的解釈に比べれば、「見えざる手」を「神の配慮」として解釈する方が、よりスミスの即した解釈であると想います。
はじめまして。


経済学の父と呼ばれるアダム・スミスの著作『国富論』は有名でよく知られていますが(神の見えざる手、ですね)、その発表の15年以上前に彼が執筆した『The Theory of Moral Sentiments (道徳感情論)』はあまり知られていないようですね。僕はそのことが非常に残念です。

以下に少し長くなりますが、まずは国富論の一部を抜粋します。

「人は仲間の助力をほとんど常に必要としており、しかもそれを彼らの慈悲心だけから期待しても無駄である。自分の有利になるように彼らの自愛心に働きかけ、自分が彼らに求めることを自分の為にしてくれることが、彼ら自身の利益になるということを彼らに示すことのほうが、有効だろう。他人に何らかの種類の提案をする者は誰でも、そうしようとする。私のほしいそれをください、そうすればあなたのほしいこれをあげましょう、というのがすべてのそのような提案の意味であり、われわれが自分達の必要とする好意の圧倒的大部分を互いに手に入れるのは、このようにしてなのである。―われわれが食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からではなく、彼ら自身の利害にたいする配慮からである。」

ここからアダム・スミスは、交換の理論を構築します。自己の利害関心を追求することが社会全体の幸福を達成することを示した、当時としては画期的な理論でした。後世の学者はこの理論を発展させ経済学を築き上げていきました。彼らの多くが経済理論の根底に仮定として置く人間像の姿は「合理的人間」と呼ばれています。「合理的人間」は、自己の利潤最大化を常に目指し、また何が自己の利潤を最大化する行動かをよく知っている、そんな人間です。

僕は苦労してアダム・スミスの難解な『道徳感情論』を読みましたが、もし後世の経済学者がもう少しこの著作にも目を向けてくれたならば、経済学は今よりももっと豊かな学問になっていただろうと思います。
以下に『道徳感情論』の最初の最初、書き出しを抜粋します。僕はこの文が非常に好きなのですが・・・。

「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、あきらかに彼の本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、彼に他の人々の運不運に関心をもたせ、彼らの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも、彼はそれからひきださないのに、彼にとって必要なものとするのである。この種類に属するのは哀れみまたは同情であって、それはわれわれが他の人々の悲惨を見たり、大変いきいきと心にえがかせられたりするときに、それにたいして感じる情動である。」

そしてスミスは「いくつかの原理」を論じていきます。そこで見出される重要な概念は「Sympathy=同感」というスミス独自の概念でした。

さて、問題はここからです。国富論で展開される論理の根底にある重要なキーワード「利己心」と道徳感情論で展開される「利他心」。ドイツの経済学者はこの矛盾に悩みました。結局彼らは、アダム・スミスはパリで唯物論に洗脳されたため、方向転換をしたのだろうという結論を出しました。
しかし両書物を精読すれば分かりますが、この二つの概念はスミスの学問のなかで相反するどころか、互いに補い合ってスミスの調和した世界観を作り上げていることが分かります。たまたま後世の学者が国富論にばかり注目してしまったが為に、アダム・スミスを本当の意味で理解する人が少なくなってしまいました。「神の見えざる手」は、スミスの世界のほんの一端を表すにすぎません。『国富論』の考え方を引き継いだのは「経済学」でした。しかしスミス自身は、偉大なる道徳哲学者であり、法学者であり、社会学者でした。

僕が経済学と向かい合うときは常に、あの一文を決して忘れないよう心がけています。

―人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても・・・―
トモさん、こんにちは。

格調高いご意見を伺うことが出来て、非常に嬉しいです。

『道徳感情論』ですが、昔に比べれば、随分と知られるようになってきたと思います。
文庫本にもなったし、気の利いた経済学者ならば教科書などで紹介されるようにもなってきました。

ただ、読まれてるかどうかと言うと、別ですね。
僕のように、そもそも哲学も経済学も好きな人間にとっては余り問題にならないのですが、経済学部の学生さんだと「道徳感情」というタイトルだけで興味が削がれるのかも知れません(笑)。

この本の大切さを理解するには、3つのポイントがあるのではないかと思っています。

ひとつ目は、「経済学とは何か」という問題です。
伊藤光晴氏は最新作『現代に生きるケインズ』(岩波新書)の中で、ケインズにとって経済学とは「モラル・サイエンス」であったということを繰り返し述べられています。道徳哲学(モラル・フィロソフィー)の教授であったスミスにとっても、それは同様でしょう。アダム・スミスからケインズまで、英国思想史の中には、経済学をモラル・サイエンスとみなす伝統があったのではないかと思います。

第二のポイントは、「モラル」という言葉の意味の理解です。
日本語の「道徳」という言葉が持つニュアンスから離れて、原語の「モラル」の語義について考えてみる必要があると思います。大胆に意訳するならば、ここでいうモラルは「人間行動」と訳せると思っています。ただ、現代の行動科学よりも広く、行動の原理、根源、価値観までを包含したニュアンスを持っているのだと思います。

こうして考えると、スミスにおける「モラル・サイエンスとしての経済学」という視点は、現代の経済学に対しても、色々と示唆するところが多いと思います。これが、3つ目のポイントです。
この視点から経済学の再構築を試みられている経済学者のひとりに、アマルティア・セン教授がいらっしゃいます。彼は『On Ethics and Economics 』(邦題『経済学の再生―道徳哲学への回帰』)という本を書いていますが、その中で、彼は現代の経済学の中で倫理的な伝統が廃れていることを指摘しています。彼によれば、経済学には倫理的なアプローチと工学的アプローチの2つがありますが、これは車の両輪のようなものと考えています。そして、両者が調和した経済学の祖形として、アダム・スミスの思想を考えています。センの議論を読んでいると、アダム・スミスこそ、現代において読まれるべき「古典」であると感じられてきます。
(この点に関する要約は、絵所秀樹教授の以下の論文の16ページを参照してください。)
http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/bpub/research/public/forum/25/01.pdf

しかし、やはり『道徳感情論』は難しい本だと思います。
前にも記した田中正司氏の『アダム・スミスの自然神学』(御茶の水書房)を読んでから、特にそう思います。スミスが属する思想的な潮流、スコットランド啓蒙主義について理解していないと、なかなか行間が読めないと思うのです。特に宗教観が背景にあると思われるところなど。

「見えざる手」=「市場の自動調節メカニズム」という公式が頭にこびり付いた現代的な視点から、虚心坦懐にスミスの真意を探ることなどできるのだろうか。そんな疑問も湧かないでもありません。

もちろん、そうした時代背景や思想背景を抜きにして、ただ「テキスト」として読むという読み方もアリだとは思いますが。
僕の専攻は、開発経済学ですが、その分野においても、どうしても経済学の再構築が必要であると感じざるを得ない問題にぶつかってしまいます。
この問題意識から、経済学史を紐解いたとき、まず3人の経済学者が、僕の目を引きました。アダム・スミス、マルクス、そしてケインズです。
この3人が、極めて特殊で、天才的だと感じるのは、その理論の重要性のみならず、それを超えて独自の「世界」とでも呼ぶべきものを持っているからです。紅之豚 さんと同じく、僕もアマルティア・センに非常に注目しています。彼も、独自の「世界」を社会科学の領域に打ちたてようとしています。

経済学とは何か、という問いは、特に開発経済学の領域において、本当に切実です。紅之豚さんが、Moralを「人間行動」と訳せる、と述べたとき、正直僕は驚きました。今の大学の経済学部の学生でも、そこまで理解が及ぶ人は、ほとんどいませんよ。
はじめまして。

スミス問題は様々な著作で論じられており、とっくに解決されている問題であるように思います。
特に岡山大学の新村聡先生の『経済学の成立』で詳細に論じられているので、参照してみてください。
わたくし自身は、スミスの共感概念のいちばんのポイントは、想像力にあると思います。

わたくしは18世紀イングランド思想史を専門にやっているのですが、当時は、人間本性(human nature)が様々な人々によって論じられていたということが非常に重要ではないでしょうか。
スミス以前にはロックやハチスン、ヒュームが重要な人物として浮かび上がってくるように思います。
おそらく、ハイエクがそのへんのことについてまとめていたのではないかと。

現在の研究では、スミスを以前からの自由主義者スミスとして論じるのか、ないしは、ポーコックが提唱したシヴィック・ヒューマニズムのパラダイムにスミスを置いて、シヴィック・ヒューマニストとしてのスミスを論じるのかのほうが非常に大きな問題になっていると思います。
前者は富の追求、後者は徳の追求として、特にスコットランド啓蒙の中で大きな問題を提示しています。
ホント、イグナチェフ編『富と徳』のなかで、その統合が図られていますが、まだ、現状では答えが出ていないし、出るかどうか分からない問題であるように思われます。
(´・ω・`) さん、こんにちは。

「アダム・スミス問題」については、僕も田中正司氏の『アダム・スミスの自然神学』(1993)を読んだときに、既に整合的な説明はなされていると感じました。今回、ご紹介のあった新村聡氏の『経済学の成立』(1994)を図書館で斜め読みしたのですが、新村氏が田中氏の『アダム・スミスの自然法学』(1988)なども参観されながら、より平易かつ広い視野で論じられていると感じました。

ただ、この種の問題において「解決」とは何を意味するのかについて考えてみる必要もあるのではないでしょうか。少なからぬ場合、この種の問題における「解決」とは、その道の大家か新進気鋭の学者による「説明」がなされ、それに対する有力な反論がなく、その説明が「通説」として学界の中で認められることを言うのではないかと思います。そういう意味での「解決」は、もちろん重要です。

しかし、こと思想的な問題においては、自分で原典を読み、取り組んでみることも重要だと感じています。この種の問題については、「原典」と「解説書」とどちらを先に読むべきか悩ましいところですが、試験対策でない限りにおいては(笑)、「原典」から読んでみるべきだと思っています。その後に解説書を読むと、解説書(=解説者)の偉大さが分かることでしょう。

『アダム・スミスの自然神学』を読んでなお、まだ僕なりの「解決」に至っていない理由は、僕自身が、同書の中に出てくる他の思想家(カーマイケル、ハチスン、ケイムズなど)について何も知らず、また自然神学という思想にも馴染みがないためです。現時点では、田中氏の論を無批判に鵜呑みにしているだけで、自分なりに消化するには、もう少し周辺の思想について勉強をする必要があると感じています。

「自由主義者スミス」というとき、「自由主義」という言葉が多義的で分かりにくいのですが、少なくともシカゴ学派や80年代に興隆を極めた新自由主義について言えば、「サッチャーやレーガンの政権の政策担当者がアダム・スミスの著作をどれだけ読んでいたかは疑問であるし、ハイエクやフリードマンの思想もスミス自身の思想と異なる点が少なくない」という新村聡氏の指摘(前掲書p.352)が当を得ていると思います。

また、スミスについて「市民的自由の闘士」などと評されることについては、僕自身は、やや懐疑的になっています。

もう一点。「アダム・スミス問題」とは、アダム・スミスのテキストの側の問題だったのか。それとも、読み手の側の問題であったのかということがあります。『富と徳』の「あとがき」の中で水田洋氏は19世紀のドイツを念頭におきながら「この論争は、一方ではたしかに、スミスの同感概念への誤解にもとづいていたが、他方では、そうゆう誤解の根底に、徳と富が対立せざるをえない後進国特有の事情があった」と書かれています。そして更に「それは後進国固有ではなく、時代の(とくに近代化への)転換期特有というべきかも知れない。旧時代の秩序をあらわす徳と、それを打破していく個人の力をあらわす富の対立である」と続けられています。
たとえばライブドアや村上ファンドなどの昨今の経済事件を見ていると、時代の寵児であることと経済犯罪者であることが表裏一体であるかのようです。ある意味で今日の日本においてこそ、「アダム・スミス問題」は熟考されるべきかも知れません。
ホントらのスミス解釈について新村氏は「サッチャリズムの政策によって貧富の格差が拡大し、最低所得階層の実質賃金水準が絶対的にも低下したイギリスのような国で読むときほどのリアリティは、現代の日本では感じにくいように思う」と1994年の時点で書かれました。しかし、その後の10年は、日本でも「格差社会」が進行した時期でもあり、その意味ではスミス問題の「現代日本的」な意味づけについて考えてみるのも意義のあることのように思われます。

先日、洋書屋で Jerry EVENSKY という人が書いた"Adam Smith's Moral Philosophy"という本を見つけ、買って来ました。この本では、(´・ω・`)さんがおっしゃる「自由主義とシヴィク・ヒューマニズム」の問題を「"Chicago Smith" versus "Kirkaldy Smith"」という形で表現していました。
また、この本は、冒頭で「イマジネーションは知識よりも重要である」というアインシュタインの言葉を掲げ、最後にはジョン・レノンの「イマジン」(笑)を引用して締め括るといった具合に「想像力」の問題を重視していました。

また、色々とご教示ください。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=211846669&owner_id=2312860
ヘリオット先生、こんにちは。

> モーラルというのは、nomosなんですよね。

ここの部分、やや唐突で、分かりにくかったです。
「ノモス」というのは、「古代ギリシア」における「習慣・法律」あるいは「社会制度上の道徳的観念」のことなどとされていますが、このことに同義反復以上の意味があるということですよね。
ノモスは英語の接尾辞「-onomy」の起源だそうですから、「Economy」も「ノモス」に関わる言葉ではあります(笑)。

> モーラル・センチメントについては、
> 学び始めた当初から、重要さを叩き込まれましたね。

「何にとって」「何故」重要なのか?
簡単で結構ですので、ご教示いただければ幸いです。
ヘリオット先生

すみません。別に難問をふっかけてイジメようと思ったわけではありません(笑)。

> そして誤った拝金主義へと堕することもなく、
> 正しい自己への関心こそが、社会の発展と、
> 紐帯としてのモラリティを形成する礎石となる。

というところは賛成なのですが、

> 宗教的な高邁な倫理観や、利他心に頼るでなく、

という部分に引っ掛かっているのです。

「社会秩序の形成」という問題(いわゆるホッブス問題)に対するスミスの解答において、彼の宗教観がどの程度関わっているかということについて疑問をもっているのです。いうならば、スミスの思想における「神」の位置づけです。

このトピックスの前半の方では、「見えざる手」という言葉に「神の」と加えることについても懐疑的なご意見がいくつかありました。

逆に問うならば、スミスにとって「神」という概念なしに、「正義」とか「秩序」と言った概念が成り立ち得たのでしょうか。スミスにおける「自由貿易」とか「自由経済」という思想が、その概念の下にあるとしたら、これは非常に重要な論点であるように思われます。

確かにスミスは、重商主義の勢力や教会的権威に対して戦闘的だったかも知れませんが、その拠って立つ所が「市民的自由」であったというのが本当なのかどうか、もう少し考えてみたいところです。「市民的自由の闘士」というのは、ひとつのスミス像ではありますが、多分に後世が作ったもののような感じがしています。

高島善哉氏や内田義彦氏の著書は大昔?に読みました。水田洋氏の本は、今でも手元にあります。しかし、これらの先生は、スミスの神学的認識についてあまり重視されていなかったような気がします。(もう一度、読み直してみないと、自信をもっては言えませんが。僕の不勉強のせいで、気が付かなかっただけかも知れません。)それは、何故なのだろうかと考えています。

ケインズがニュートンについて、「最初の科学者ではなくて、最後の魔術師」という面白い人物評をしています。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=217978442&owner_id=2312860

これに倣うならば、我々もスミスに対して、
「最初の経済学者というよりも、後期の自然神学者」
という評価が出来るのかも知れないと感じています。
Hi, Mr. アンジェラ・亮 ,Your indications are very interesting for me. Free market system is the one of the best great social systems , but It's not stable always, light? It's needs government intervention and regulation,sometimes.
How do you think about mixed economic system? I think the balance between free market system and regulation of government is needed.
As you say, Selfish is essential. But also Moral or sympathy is the fact everyone have.
> 21: orrico_2 様
> アダム・スミスのころは、静的な経済モデルを基本としていますよね。

久しぶりに、このトピックスを読んでみて、この部分に反応(笑)。
アダム・スミスの経済モデルって、静的だったんだろうか?
これは、なかなか難しい問題ですね。限界効用学派の少なくとも初期、たとえばワルラスの『純粋経済学要論』などは、静的といっても異論がないのではないかと思います。しかし、古典派経済学、とくにスミスを「静的」と見做してよいかどうかという点には、少し疑問が残りました。確かに、スミスの「見えざる手」論は、市場において各経済主体の行為が「均衡」へ向かって収斂していくことを論じているように思われます。その意味では、彼の経済モデルは「安定的」な経済を想定しているようです。
しかし、『国富論』第三編「さまざまな国民における富裕の進歩のちがいについて」あたりなんかは、「静的」という枠には収まらない議論をしていたような気もします。つまり、彼の議論の中には「安定的(均衡的)成長(発展)」という概念があったようにも思われます。その意味では、スミスの経済モデルは「動学的」とも言い得るのではないか。つまり、スミスの経済モデルは「均衡論的な動学」あるいは「動学的均衡論」だったのではないかと言う風に考えたのです。
ここで、そもそも、「静的」「動的」とは何を意味するのか?という点を確認しようと思って、シュムペーターの『理論経済学の本質と主要内容』と『経済発展の理論』をひらいてみました。そうしたところ、次のような一節がありました。

「彼(アダム・スミス)は多くの発展現象について語っている。しかし、彼の議論が確固とした構造を示す場合にはすべて、その観察方法は本質的に静態的である。このことはとくに彼の第一編について(中略)そうであり、またとくに問題の中心である価格理論および分配理論においてそうである。」「彼が進歩について語る場合にはいつでも、彼は進歩を経済的過程自体の中から説明することなく、単に規則的に期待しうる与件の一定の変動の助けをかりて説明している。このことは人口の増加についてまったく明瞭である。しかし資本の増加その他についてはそれほど明瞭でない。」「アダム・スミスの議論を研究するならば、われわれがそこに見出す経済的真理は本質的にはそのような静態的性質のものだけである。」「もちろん彼は次に第三編において他の諸対象にわれわれを導いていく――しかしそれは同時に純粋理論からも離れることになるのである。」
シュムペーター『経済発展の理論(上)』岩波文庫p.148〜151

というわけで、シュムペーターは、orrico_2 説を支持しているようです。
果たして、本当にそうなのか。そういう視点で『国富論』を読み直してみても面白いかも知れませんね(笑)。

(「静的」「静学的」「静態的」等の定義については、いずれまとめてみたいと想っています。)
これはこれは中身の濃い議論が展開されているようで。

アダムスミス問題とは若干論点がずれるやもしれませんが、道徳(あるいは規律or社会規範)を基礎付けるものとしての「利己心」の働きに着目した面白い(と私は感じるんですが)論文がございます。評判(reputation)をキー概念として(あと承認の印 seal of approval もそうですが)アダムスミス以上に自然的自由の体系を擁護しております。何らかの参考になれば幸いです。

Jeremy Shearmur and Daniel B. Klein、“Good Conduct in a Great Society: Adam Smith and the Role of Reputation”
http://lsb.scu.edu/~dklein/papers/goodConduct.html
ベンサムというよりはハイエク的、リバタリアン的な議論です。個々人の自由なかつ自発的な取引を最大限に保証する市場経済はスミスが所々で懸念するようには社会的な頽廃を導くことはなく、政府等外部からの介入がなくとも個々人に規律ある行動を促すような(=相手を出し抜いたり、騙したりすることが利益とならないような)仕組みを自生的に生み出すと。必要は発明の母よろしく、流動的で人間関係が希薄な社会では種々の社会集団による個々人の道徳の質に対する承認の印が「公平無私な傍観者」の代わりとして機能する。patchwork of reputational nexusesとしての自由社会に対する信頼表明と言えましょうか。
>筆者は道徳律の根拠を自然法に見てるのか、キリスト教に見てるのか、それともわかってないのか。知りたいところです…。

筆者らのアダムスミス理解によれば(道徳感情論からも筆者らの主張を裏付けるような文章を引用していますが)、スミスは他者からの反応、特に他者からの賞賛を希求し、他者からの非難を忌避するような人間本性こそが道徳律の根拠であると見なしていたということです。自らの行動に対する他者からの評価・反応は自身の道徳の質を映す鏡のようなものであり、人は他者から受けた評価に基づいてよき行動(good conduct)とは何であるかということを学習していく(道徳律を内部化していく)と。人間は孤立化した状況においては道徳律を体化することはできず、具体的な人と人との付き合いを通じて徐々によき行動とは何であるかが理解されていく。しかしながら、経済が発展し、社会が流動化するにつれ、人間関係が希薄になるにつれ、他者と接触する機会=他者によって行動の是非(あるいは道徳の質)を評価される機会=よき行動を内部化する機会、が減少してしまう。ここでスミスは道徳的な頽廃を防ぐ1つの手立てとして政府による教育の必要性を説くわけですが、筆者であるクラインらはそのような政府による介入がなくても人は自らの評判を維持すべく(評判を維持しようとする動機の背後には利己心の存在があるのですが)その人の信用度にお墨付きを与えるような社会集団を利用する、あるいは社会集団に所属している事が規律ある行動をとるよう促す仕組みとして機能していると論じているわけです。スミスは道徳律の根拠として人間本性に訴えたけれども、クラインらはself-interestが道徳律の根拠となり得ると考えているということになります。
hicksian 先生
静学の権威、ヒックシアン先生にご参加いただけるとは、心強い限りです。色々とご教示ください。それと、面白そうな論文のご紹介、ありがとうございます。読んでみます。

orrico_2 さん
先日、ロックの自然法思想についてのお話を伺う機会があったのですが、その方は、
自然法思想=近代的=合理的=反教会的
というイメージでお話をされていました。
ここで「反教会的」というところまでは間違いがないのかも知れませんが、これが
自然法思想=近代的=合理的=反宗教(キリスト教)的
となると、「果たしてそうだろうか」という疑問が湧きます。

なんでこんな話を持ち出したかと言うと、27の orrico_2さんの質問の中に
自然法思想=非(あるいは脱)キリスト教的
という公式があるように感じられたからです。相当な程度に脱宗教化(無宗教化?)した現代の日本人にとって、この図式は無意識のうちに前提としやすいものです。しかし、この公式は、いつの時代、どこの国でも成り立つものでしょうか。

15において、ケインズがニュートンを「最初の科学者ではなくて、最後の魔術師」と評していることをご紹介しました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=217978442&owner_id=2312860
ケインズのニュートン評は大雑把であり、その論拠が十分には示されていません。この点について長らく不満がありましたが、最近になって(というよりも昨晩ですが・笑)、京都大学大学院文学研究科の芦名定道准教授がこの点について詳しく論じられていることを知りました。
「近代キリスト教における自然神学と理神論」
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~sashina/sub4h.pdf

僕なりに(乱暴に)要約すると、ニュートンにとって「科学」とは、無神論を論駁しキリスト教を擁護するためのものであったということになります。
科学的・非神秘的な説明が、脱宗教的であるよりも、むしろ宗教(キリスト教)擁護論的である。このような命題は現代の日本人にとっては逆説としか感じられません。しかし、意外とキリスト教圏では、それが「自然な」思想であることもあり得るのではないかとも想っています。西洋人が「モラルと経済学」について語っているのを聞く(読む)ときには、このような点にも留意する必要があるような気がしています。

フォイエルバッハ、マルクス、ニーチェ、ラッセル、ケインズ、サルトルなどは、かなり明確に無神論的と言えます。
<神を失った時代>
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=344714124&owner_id=2312860
しかし、こうした思想家を除けば、多くの場合、科学的であること、自然的であること、合理的であることなどは、必ずしも非(あるいは反)キリスト教的であることを意味しないと考えた方がよいように想われます。(ちなみに僕は仏教徒ですが・笑。)

hicksian 先生
さて、ここまで「自然法」や「自然神学」について考えてみて、20年来の僕の疑問について、ひとつのヒントが与えられました。それは「自然利子率」や「自然失業率」というタームにおける「自然」という言葉の意味です。
多くの経済学者は、「ヴィクセルにおける自然利子率とは、貯蓄と投資を均衡させ物価を一定に保つ利子率のこと」などとコトもなげにご説明(定義)されます。しかし、「貯蓄と投資を均衡させること」や「物価を一定に保つこと」が、なぜ「自然」と形容されるのでしょうか。その理由がよく分かりませんでした。日本語で「自然」と訳すのは誤訳ではないかと考えたこともありました。
しかし、こうした用語法の影には、自然法思想・自然「神学」思想との何らかの親近性があるのではないか、そんなことに思い至るようになりました。
もちろん今日では、このような用語法も、十分に脱イデオロギー化、脱価値判断化されているかも知れません。しかし、その語源というか思考の枠組みの根源には、「最後の魔術師(あるいは錬金術師)」たちと通じるものがあるような気もしています。

乱文多謝
<スピノザの神>
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=106406987&owner_id=2312860
<アインシュタインの神>
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107162927&owner_id=2312860
とても興味深い議論ですね!29: 紅之豚さんのお話を聞いていて思い出したのは、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。
皆様ご存知の通り、合理主義に基づく近代資本主義がプロテスタンティズムからいかに導き出されていったかを述べた古典です。


転じて、アダム・スミスが「道徳」を、そして「社会」をどのように考えていたのかについては、僕も興味が尽きません。

繰り返すまでもなく、アダム・スミスの議論の本質は、28: hicksian さんの記述にあるとおりだと思います。


先に申し上げておくと、クラインらの「self-interestが道徳律の根拠となり得る」という議論は納得できるのですが、果たして「self-interest」「のみ」が道徳の根拠でありうるかどうかに関しては、慎重な検討が必要になってくると考えています。


それはひとまず置いておいて、ここまでくると、「道徳」とは何か、についての整理が必要になってくると感じています。社会学の整理では、「規範」や「倫理」との違いで定義されます。すなわち、「規範」や「倫理」は社会に存在するものであり、個人の「外」に存在しているものです。それらが、「個人」の「内部」に「内面化」されたとき、「道徳」となる。

つまり、「倫理」や「規範」は個人の外側に、そして「道徳」は個人の内に内面化されたものだ、というわけですね。


そういう意味では『道徳感情論』は、まさに、いかに「道徳」が個人の内に生成されていくかのプロセスを詳細に記述したものだとも言えます。

これらの議論を踏まえると、「ある社会集団に所属していること」だけでは「道徳」が生成される必要条件ではあっても、十分条件ではない、ということが言えそうです。重要になってくるのは、やはり、いかに社会の規範や教育を個人の内に「内面化」するかの「プロセス」であると考えています。




皆さんはどのようにお考えでしょうか。
>>[028]

とても興味深いお話として読ませていただきました。


>筆者らのアダムスミス理解によれば、スミスは他者からの反応、特に他者からの賞賛を希求し、他者からの非難を忌避するような人間本性こそが道徳律の根拠であると見なしていたということです。


人間はやはり、他者とともに生きざるをえない存在だから、
その心は常に他者に向かって開かれたアンテナを持っており、
他者たちの話、意見が常に自己の形成に関わってくる、ということなのでしょうか。


>自らの行動に対する他者からの評価・反応は自身の道徳の質を映す鏡のようなものであり、人は他者から受けた評価に基づいてよき行動(good conduct)とは何であるかということを学習していく(道徳律を内部化していく)と。人間は孤立化した状況においては道徳律を体化することはできず、具体的な人と人との付き合いを通じて徐々によき行動とは何であるかが理解されていく。


善悪というのはまさに、自分がその中にいる所の、他者たちとともに形成しているこの社会で、
他者たちが何をどう考え語り合っているかということによって形作られてくるものなのでしょうか。


>しかしながら、経済が発展し、社会が流動化するにつれ、人間関係が希薄になるにつれ、他者と接触する機会=他者によって行動の是非(あるいは道徳の質)を評価される機会=よき行動を内部化する機会、が減少してしまう。


こういうことは今日でも、さまざまな機会に旧い世代から指摘されていることですね。

ログインすると、残り15件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

経済学史 更新情報

経済学史のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング