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太平記コミュコミュのリアル「太平記」の跡

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あの話のあの場面はココだexclamation ×2って事で、なかなか行けない「太平記」の跡を見てみたくありませんか。
「太平記」愛好者の方への物語中の挿絵感覚で史跡を紹介しあいましょうわーい(嬉しい顔)

丹波 篠村八幡宮
元弘三年四月二十七日にこの地に足利高氏が陣を張り二十九日にかけ諸方の有力武将に向けて軍勢催促状を出し倒幕挙兵をした地です。
鎌倉から送り込まれた増援部隊の名越高家と足利高氏が宮方で挙兵し六波羅を狼狽させた赤松軍と久我畷にて合戦におよびます。
その戦いで、北条一族の大手の大将名越軍を誘い込み大将の高家を赤松軍の佐用範家が一矢で討ってしまいます。大将が討たれて、六波羅軍は総崩れしました。

もし、この時点で赤松軍が名越勢に討たれていたら足利はどう動いたでしょうね。IFとしては面白いかと・・湯のみ

カメラ?篠村八幡宮の入り口 ?願文を納めた社殿と石碑 ?旗立楊(この楊の木に足利本陣の所在を示す「二引両」の入った源氏の白旗を掲げて駆けつけて来る武将に本陣の場所を示したと言われています。接木を続けて現在の木は6,7代目くらいだそうです)

コメント(181)

>さかき@シズイザ充 さん

私は、ずっと神戸っ子ですが祖父の代までは阿波人ですので血筋は四国人という
事になりましょうかウッシッシ

四国も、がっつり割れておりましたので面白いですよ。
まだ、私も少ししか知らないですけどあせあせ(飛び散る汗)

「太平記」で名前がちょくちょく出てくるのは、河野氏と庶家の土居氏・得能氏などや小笠原氏や細川氏などですが時の武家の当主は、さぞ難しい舵取りだったろうなと思いますねふらふら

私も視野が狭いので、知らない事ばかりなのでここで情報を教えてもらえて勉強させてもらおうと思ってますので今後ともここでよろしくお願いしますわーい(嬉しい顔)

>向@永遠の〇〇歳さん

確かに、寺社の由緒書にはそういう創作話パタ−ンもたまに見られますね。

私は、関東の地理を知りませんあせあせ(飛び散る汗)
ただ、何かしらの新田義貞さんとの接点はあった可能性も排除するにはなんか寂しいですねあせあせ
由緒書が、新田義貞との接点の時期を微妙に間違ってるとか、有名な寺社なら名代が願文納めか祈願に来たとかってパタ−ンも捨てられないですよね。
あっちこっちの由緒書でこういう「微妙」な時期やその他のズレに「?」と思う事ってありますしあせあせ
もし新田義貞との接点がまったく無いのに誰かが由緒書を、新田義貞との関連話を創作したのなら当地方においての新田義貞人気を物語る証拠ですねぴかぴか(新しい)
旧街道には興味があるので、調べてみました。
新田義貞が進軍したのは、鎌倉街道(上道)です。

現在の地図でいうと、入間市〜所沢市〜国分寺市〜町田市〜大和市〜藤沢市〜鎌倉
これが上道のルートです。

新田義貞の領地である太田市から上道へは、現在の国道407号線を使ったのではないかと予測しています。
そこまでは調べていないので、あくまで予測ということで。
時代は進みますが江戸時代になると国道407号線は日光街道とも呼ばれていたということですので、日光街道の前身となる道が存在していた可能性はかなりあると思います。

鎌倉から北上する街道は、上道・中道・下道の3つ。
埼玉県を通過しているのは、上道と中道。

徳川家康が江戸の町を整備するまでは、湿地帯になっていて人が住むような場所ではなかったのが現在の東京23区です。
それでも比較的地盤がしっかりしている場所に、太田道灌などが江戸城を建てたのではないかというのも私の予測です(;^_^A
同じ東京でも西の方へ行くと街道が通っていることもあり、地盤はしっかりしたものだったんでしょうね。



関東からは離れますが、静岡県の浜名湖。
南北朝時代当時は、歩いて通行出来ていました。
15世紀の大地震で、現在のように海と繋がったということです。

太平記 巻第十六

「楠正成が首故郷へ送らるる事」

楠木正成の首級が葬られた場所、河内長野市の観心寺です。
ここのお寺は弘法大師と縁の深いお寺でご本尊の如意輪観音像は「日本三大如意輪観音」として知られ実質日本一かと思います。

カメラ左 楠公学問所
ここで、同族の和田氏から出た滝覚坊なる僧からいろんな学問を学び天下比類無き名将の基礎ができたのでしょうかムード

カメラ中 後村上天皇の黒木御所が一時、置かれていた場所です。
お寺の背後の山には後村上天皇の陵が有ります。
新賢待門院(阿野廉子)の墓も楠公首塚と滝覚坊の墓の近くにあります。

カメラ右 楠公首塚
足利尊氏から家族に返された首級が菩提寺のこの場所に葬られた様です。
たまに見られる寺社の怪しい由緒書の件ですが面白い間違いだろうという例がありますあせあせ

カメラ左
NO72にカメラを載せました兵庫県たつの市御津町室津にある見性寺です。
http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?p=%E8%A6%8B%E6%80%A7%E5%AF%BA&lat=34.7665800&lon=134.5061247&ei=utf-8&datum=wgs&lnm=%E8%A6%8B%E6%80%A7%E5%AF%BA&idx=19&v=2&sc=3
カメラ右
この看板が怪しいというか間違いとしか思えない記述があります。
このお寺の説明板の中の「足利高氏と赤松則村が本堂の一室で北条統幕を議した」とあるのですが山崎に布陣して六波羅勢と対峙している赤松則村と六波羅の援軍として上洛して間も無い足利高氏に久我畷合戦までの僅かな間に六波羅に知られず播磨は室泊にて会談できる時間があったのかなぁ?と思います冷や汗
が、確かに足利尊氏はここで赤松則村と「議」した事はあると思います。
それは、三草山説と二説ありますが例の持明院統の光厳上皇から院宣をもらう策を練ったという室山(室津)説。
と、九州へ落ちて再起した足利尊氏が湊川で決戦を挑む前に白旗城と三石城で新田勢本隊を足止めさせた赤松則村がここで、赤松勢を攻めた武将の旗を拾い集め
足利尊氏に見せたそうで敵に付いた者を示すと足利尊氏は「仕方なく敵方に付いた者たちもいるので許してやって欲しい」という様な事を赤松に言って心服させたと伝わる場所の可能性も高いんです。

東京の、新田義貞のあしあとexclamation & questionにも
ひょっとすると、由緒書とは少し違う接点が本当にあったのかもしれませんねウインク
>のんきホーテさん

おもしろい由緒書きですね。
足利尊氏と赤松円心が会談したことは事実かもしれませんね。
ただ時期が違っていたんじゃないかというのは、考えられることだと思います。

東京の玉姫稲荷神社は、鎌倉街道 下道のすぐ近くにあります。
下道は、武蔵国から常陸国方面へ向かう道。
北条高時討伐の時ではなく、何かしら別の要因がある可能性が考えられそうですね。

気になるのは、神社の由緒書きが江戸時代に出版された「江戸砂子」に新田義貞に関することが書かれているということ。
江戸時代以前の社歴はどういったものだったのか、謎だなと思いました。
そのあたりのことが、調べてみても中々出てきません。

奈良時代に伏見稲荷大社より観請したことは、確かだと思います!

太平記

巻第三 
「六波羅北方皇居の事」
巻第六
「東国勢赤坂城を攻むる事」
「人見本間討死の事」

の舞台となった赤坂城址(下赤坂城)です。

今では、縄張りは本に載ってた縄張り図を見ればなんとなく分かるが確定できるほど遺構は無いですあせあせ(飛び散る汗)
地図で、赤坂村立赤坂中学校で探して見る事ができます。
カメラ左 
綺麗な棚田風景ですが伝 主郭跡から見たものです。
鎌倉幕府方の大軍が攻め上がった場所だろうと想像できました。
カメラ中
伝 主郭のすぐそばに城址説明板が有り、石垣で盛土された上には史跡 赤坂城址の石碑が建っております。この写真は伝 主郭方向から撮っており石碑の向こう側に周り下を見ると赤坂中学校が建っております。ここも廓か馬場などが縄張り図から見るとあった様ですね。

カメラ右
伝 主郭から別郭方面を望む。棚田方面から敵が来ればL字で矢を射れますね。

巻第三では、急造の城のうえに充分な武器兵糧の準備期間もなく大軍との合戦に突入したので兵糧も尽き自害を装い落ちましたが大軍が押し寄せてきても一度には掛かれそうにない立地にも思いますが方向によってはとても険阻な地とは思えないし楠公の軍略がさぞ凄まじかったのでしょうねるんるん

巻第六では、官軍の下赤坂城の守将平野将監も頑張りましたが幕府方の播磨国住人の吉川八郎による寄せ手大将 阿曾弾正少弼への「隠し樋」の件の進言により水手を断たれた上に、降伏条件も反故にされ結果、京は六条河原で斬首された全282名はさぞ無念だったでしょう。
しかし、これが楠木軍の結束を益々強くさせる結果の一因にもなったかなと・・とか樋があったとしたらこっちかな?とか想像して楽しんで観てきましたウッシッシ
>さかき@シズイザ充 さん

かなり旧街道に、お詳しい様ですね。
また、教えて下さいね。
この辺が判ると史跡巡りがし易いのでわーい(嬉しい顔)

すごい本まで、読めるトコにおられる様ですねムード
江戸・・・徳川・・・新田・・・。
自称、新田流を唱える徳川家ゆえにややこしいですねあせあせ
>のんきホーテさん

赤坂の棚田風景に、すごく和みました〜(*´∇`*)
のんびりするには、良い所に見えます!

こういうところを数万の大軍に取り囲まれていたのかと、物思いにふけってしまいます。



旧街道は、そんなに詳しくないですよ〜。
ただ好きというくらいです。
歴史上の地理も興味ありますが、現代の地理も興味あります。
基本的に地図を眺めるのが、好きなんです(;^_^A

軍が動くということは、そこに道があるということ。
そういうのって、歴史小説を読んでいても気になるんです。


「江戸砂子」って本は、読んでいません(笑)
玉姫稲荷神社の案内に書いてあるんです。
これも気になるので図書館で検索したんですが、全然引っかからないんですよ。
図書館にあれば、借りてみようと思ったので残念です。

史跡を訪れた話題ではないですが、特別拝観の情報です。
冬の特別拝観で、相国寺塔頭 大光明寺も含まれていました!

通常でも境内に入ることが出来るため、訪れたことはあります。
特別拝観だと、説明案内があるはずなので楽しみです。

広義門院 西園寺寧子が後伏見天皇の菩提を弔うために建てたお寺さん。
元々伏見離宮にあったものが、遍歴の末に現在は相国寺の塔頭になっています。

南北朝時代のお話を聞くことが出来れば嬉しいですね〜(*´∇`*)

さくじつ18切符を使って兵庫県加東市(旧滝野町)の光明寺へと行ってきました。寺への入り口にさっそく「太平記のふるさと」と書かれています。この辺り、1351年の「観応の擾乱」で足利尊氏が弟の直義に敗れたところだそうですね。
光明寺境内では「高家無文の白旗」の話も紹介されています。
もう1つ光明寺合戦本陣跡の手前では「山鳩の霊夢」の話も紹介されています。
今日は滋賀県守山市の小島神社に行ったのですが、由緒書きを見るとなんと1326年に児島高徳が社殿を造営と書いてありました。いかがなものなんでしょうね。なおここは中世小島城が置かれていて境内には土塁、周囲に堀跡と思われる水路もあり、また隣の民家にあった茅葺屋根は近江の中世在地武士の館によくある形態です。
のぶさん155のような情報は太平記の追っかけ?太平記フリーク?太平記オタク?太平記腐女子?には最適ですな。
>さかき@シズイザ充さん

相国寺塔頭 大光明寺の特別拝観にはもう行かれましたか?

>広義門院 西園寺寧子が後伏見天皇の菩提を弔うために建てたお寺さん。
元々伏見離宮にあったものが、遍歴の末に現在は相国寺の塔頭になっています。

そういえば、過去にそんな話を聞いたことあったのを思い出しましたわーい(嬉しい顔)
あそこは確かに普通に市民が抜け道としても往来する様を初めて見た時はビックリしました・・・「えっ、相国寺ですよね?」って思いましたねあせあせ(飛び散る汗)
もし、相国寺で南北朝時代のお話を聞くことができたなら・・・それが赤松円心と三男の権律師則祐の末裔にあたる有馬頼低館長からお聞きする事ができたなら最高なんですが・・・ぴかぴか(新しい)それは、有得ないでしょうね。
いつかチャンスがあれば行って観たいです。
>のぶさん

五峰山 光明寺に18切符で行かれたって・・・麓から登られたのですか?
私は駐車場からの見晴台への分岐までの急坂まででもきつかったですが・・あせあせ
三年ほど前に行きましたが、NHK大河ドラマ「太平記」が放映された時に造られた石堂頼房本陣の復元もボロボロで盾も一部倒れてましたが今はちゃんと立て直されていてほっとしましたわーい(嬉しい顔)
一時のブ−ムが去ってもちゃんとファンもいるので良い状態で保存していて欲しいですよね。
太平記 

巻第六
「東国勢赤坂城を攻むる事」
「人見本間討死の事」

上赤阪城址(楠木城址)へ行ってきました。
太平記で巻六で書かれている話はどの部分が下か上かどちらの赤阪城での話は分かりませんあせあせ(飛び散る汗)昨年、購入した「日本の篭城戦」という本ではここは楠木方の恩地左近という武将が守将を勤めたと書かれておりますね。

戦国期まで、使用されていたらしく楠公時代よりいくらか改修された形として現在の形を残す様です。
お城全体の形はザックリいうと「コ」の字になっておりました。
カメラ左 
上赤阪城の一の木戸口
ぽっかり空いた口が入り口で左手に説明板があります。
ここからは、いくら大軍で攻めても道は狭く更に侵入者の両側に高い壁(道が堀切)がそびえて一列縦隊で攻めるしかできない造りでした。
カメラ中
三の木戸口から観る城内部方面。
そろばん橋(土橋)と四の木戸口を経て最初の突き当たり二の丸と茶碗原(本丸と二の丸を繋ぐ廓)に行きつきます。
カメラ右
本丸の石碑です。
視界には広く大阪平野が広がってましてPLランドの塔もよく見えました。
そしてここから東条城(嶽山城・龍泉寺城)もよく見え、今は立ち木で視界が悪行く確認できませんでしたが下赤阪城も見えるのかもしれません。
二の丸から本丸を結ぶ廓の茶碗原から本丸へ入る寸前に金剛山方面への細い道がありました。
大軍は正面の平野部から攻め寄せて、もはや落城という時はこの道を退き金剛山越しに千早城に合流したのでしょうかexclamation & questionムード

楠公の枝城ネットワ−クも実感できて、遺構もGOODムード
太平記好きにはたまらない城址でしたウッシッシ
>甘味処Mがわさん

 たまたま行っただけだったのですが、由緒書きを見て思わずここ向けネタかなと撮影してきましたw。

 児島高徳が来たとしても小島地名の方が古いでしょうけど。東山道には近いところですね。

>のんきホーテさん

滝野駅から歩いて往復しました。駅から1.5キロでした。それから赤坂城の方の恩地氏ですがおそらく和歌山県の橋本辺りの武将だろうと思います。河内長野から山1つ越えただけのところですが楠木氏とは敵になったり味方になったり。この時期は味方だったか。


>のぶ さん

ひょぇ〜〜、やはり歩きでしたかあせあせ(飛び散る汗)
流石、城址をたくさん周られてるだけあって意気込みが凄いですね。
車で登ったからこそ訪れやすかったもののアプロ−チ手段が歩きだけならまだまだ行ってなかったですよふらふら
敵になったり味方になったりは、この時代の常ですねあせあせ
ある意味、そう言うところがこの時代・・大変革期中に見える人間像が面白味だと思ってますムード
今日は和歌山県田辺市の熊野古道近露王子へと行きました。ここには護良親王に協力した野長瀬一族の墓があります。

>のんきホーテさん
 上赤坂城に遺構、圧倒されますよね。ただあれは畠山氏の家督争いの時期に畠山義就側があそこを使ってるので改修もされてるそうなんです。だから南北朝期の城郭遺構ってどうなんだろう?ってまだ議論のあるところのようです。

千早赤坂の城跡に行った時にはそこからPLランドがどう見えるか、金剛山頂がどう見えるかなど確かながら立ってみると当時の楠木軍のことがより偲ばれていいですね。


楠木正成という人物の人格が伺える有名な史跡
身方塚と寄手塚も行ってきましたので写真を載せておきます。
聴いていた通り、楠公配下の戦没者供養塔より敵であった鎌倉幕府方の戦没者供養塔の方が少し大きかったですね。
ただ、今は地元の方々の墓地の中に二基とも立っていて探すのにちょっと苦労しました。
できれば、こういう史跡と普通の墓地とは別にして欲しいと思いましたが・・あせあせ(飛び散る汗)

カメラ左 千早赤阪村のマンホ−ルの柄です。

カメラ中 身方塚

カメラ右 寄手塚

>のぶさん

上赤坂城は良かったですねぇ〜。
まぁ、赤松氏系の城址も則村(円心)時代のままってのは無いし仕方の無い事ですがあの立地になるほど・・・って感動しますね。
確かに、あの畠山義就も戦の天才ですからね。
嶽山城長期篭城戦は、あまり知られてないが幕府軍に対し楠公に次ぐほどの抵抗戦を展開してますしねムード
嶽山城も元は東条城で楠公の城だしこの上赤阪も義就が利用したのは不思議じゃない立地ですよね。
追討の綸旨が出されても誅されなかった漢ですから、嶽山城落ちて金剛山抜けて南へ出れば古今問わず隠れるには最高の地にもってこいの入り口ですからねムード
吉野川を東に逃げ川上村辺りにでも山名持豊と結ぶまでは潜伏してたんでしょうね。

あの地へ行くと、まさに「太平記」には記載の無い仔細な戦略のほんの一部でも垣間見れた様な想像が膨らみ感動がありましたね。
訪れやすさも保存具合も申し分無しでしたわーい(嬉しい顔)
>のんきホ−テさん

御無沙汰しています。

大光明寺の特別拝観は今月から始まったので、まだ行ってないんですよ。
18年ぶりの特別公開ということなので、次はいつになるのかを考えると是非行っておきたいですね!

境内だけは通常時でも入れるので、特別拝観でどれくらいのものが見られるのかが楽しみです(*´∇`*)

>さかき@シズイザ充さん

今月からだったんですね。そんなにめったに拝観出来ないのなら見ておきたいですよね。太平記好きにとって「これはぴかぴか(新しい)」てのがありましたらまた教えていただけると幸いですわーい(嬉しい顔)

カメラ千早赤阪村 楠公誕生地
赤穂市坂越の妙見寺に児島高徳の墓がありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E5%B3%B6%E9%AB%98%E5%BE%B3
また、赤穂市坂越のハイキングコースに児島高徳の義父。和田範長の墓があります。
京都府亀岡市の篠村八幡宮は1071年に河内国誉田八幡宮をここに勧請したものだそうですが、足利高氏が1333年にここで祈願した後に鎌倉幕府を滅ぼし、また後醍醐天皇と対立し、敗走したときもここで逗留した後、室町幕府を成立させる運びとなった足利尊氏には縁起のいい神社でした。
金谷首塚様

岡山県備前市金谷町

変り種ですが「太平記」史跡です。
ここは、霊験あらたかで遠方からもお参りに来られる方が多いそうです。
延元三年(1338)四月に新田義貞将軍率いる足利尊氏追討軍が白旗城や三石城を主城とする足利方の赤松軍の支城を落とす為に吉永より金剛川に沿い侵攻する際に民家や寺を焼き討ちしてからこの地の近くの馬転山城を攻め落城させた際に金剛川原において首実験の儀式をして恩賞を定めこの地に首を埋葬して三石城攻めに向かったと伝わっており村民が憐れみ厚く弔って今日に至るそうです。
ですから、馬転山城の守兵の首塚という事になりますが
首から上の、病気平癒に霊験あらたかで現在は信仰を集めているそうです。
「太平記」にこの様な細かい支城の攻防戦の様子までは書かれていませんが
確実なリアル「太平記」の現場ですねムード
赤松円心が挙兵し、歴史の表舞台に登場した苔縄城へ。赤松小学校裏に登山口があり、中腹の展望台までは道も整備されています。しかし、山頂の城跡(愛宕社)までの道は険しくなり、登山装備が無難です。中腹の展望台には白旗城の説明はあるのですが、残念ながら苔縄城の説明はありません。
千葉県東金の願成就寺
赤橋守時公のお墓と言われているみたいです
そんな訳ないとは思うのですが、まさかね
鎌倉源氏山の日野俊基卿のお墓

他にも大楠公像、日野俊基卿終焉の地、湊川合戦での楠木勢が布陣した会下山など行きましたが写真を複数投稿出来ないため連投し過ぎになるので自重します( ´・ω・`)
久々にこちらへも投稿します。昨日奈良県五條市を訪問しました。最初の目的地は牧野城跡。「太平記巻五 大塔宮熊野落事」に、「槇野上野房聖賢ガ拵タル槇野ノ城ヘ御入アリケルガ」とある、この地がそうなのだろうかと思ったりしています。金剛山から熊野、吉野方面への交通路でしょうし。

 またさらに北上すると山岳寺院の大沢寺(だいたくじ)があり、後村上天皇の行在所だったそうです。賀名生から観心寺や天野山金剛寺。住吉の行宮へ移動するならここを通っていたでしょうね。
京都五条の六波羅密寺にて六波羅探題跡の石碑です。探すのにかなり苦労しました。最初近くの学校の周囲をぐるりと一周し、諦めかけて六波羅密寺に入って訊ねてみたらそこにありました。此附近 平氏六波羅第 六波羅探題府 と書かれています。
>ADHDおじさん さん

広い範囲に渡っての史跡を回ってられるとは羨ましいですムード
赤橋守時公は、私は太平記の中でもかなり好きな人物ですんで行って見たいものです。
楠公のお墓は瑠璃光寺にあると聞いた事があります。私もまだ、見た事はないですが。
皆さんも連投、歓迎だと思いますよ。
また、見せて下さい。私も時間ができましたらまたカキコさせてもらいますウッシッシ

>のぶさん

また、奥地の史跡を見せていただき嬉しいですムード
今は、まだ余裕がない環境で体力もない自分ですので羨ましいですよ。

>房総至上主義 さん

そうですよね、こういう石柱で史跡をを探すのはほんと難しいもんです。
私も、本で見て探しに行きましたらその写真は古く背景が戸建ての民家からマンションに変わってまして発見するのにかなりの時間を費やしてしまいました。
北条仲時・時益の両探題と北朝の光厳天皇と花園・伏見上皇様の壮絶な脱出譚はここから始まったんですねexclamation
>>[179]
返信遅くなりました
最近はどこにも行けてないですが、また太平記巡りできたらアップしたいと思います
あけましておめでとうございます。久々の投稿ですが、今年の初詣。1人でぶらっと岡山県津山市院庄の作楽神社を訪れました。ここは美作国守護館跡で、後鳥羽上皇や後醍醐天皇など要人が隠岐へ配流される途中に宿泊したところです。

 神社には児島高徳像も。この院庄の館の門の外で、天皇の救出叶わず桜の樹に詩を刻んだというのは名場面の1つですね。

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