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ニサルガダッタ・マハラジコミュの拡大の道も凝集の道も結局は一つ

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拡大の道と凝集の道


真我の道は大きく分けて二つの道があるという

ニサルガダッタ・マハラジは、真我の道には大きく分けて二つの道があることを説いている
上江洲義秀先生もおなじく、この真我の道は二つの大きな道があることを指摘されている

それは

一つは拡大の道といわれ、慈悲と愛を中心に真我から現象界に流れ来たる道

もう一つは真我の中へと凝集している道であり智慧の傾向が強く働く道

キリストはどちらかと言えば拡大の、浸透していく真我から流れくる道
仏陀はどちらかと言えば、真我の中核にとどまり凝集している道

拡大は真我からの現象界を支え生かす愛の道であり
凝集は現象界を支えている真我そのものの道

どちらも真我の働きであり、遠心と求心という二つに見える一つの流れであり

マクドナルドベインに於いては「キリストのヨーガ」では真我に凝集している求心の傾向が強く
同じマクドナルドベインの「心身の神癒」では真我からの愛の流れが強く働いてる


クリシュナムルティーやラマナ・マハリシ、ニサルガダッタ・マハラジ、ガンガジなどは
どちらかと言えば真我の凝集の道であり

ラーマナクリシュナやクリヤヨガの系統の覚者の方々、そして上江洲義秀先生や聖サンフランチェスコは
どちらかと言えば愛の道、真我からの拡大の道である

私は今まで40年近くクリシュナムルティーを学んできた関係上、
どちらかと言えば智慧を中心にした真我の求心の道の方々が馴染み深く、
理解することがより容易であるが、

これはどちらが良いとか悪いとか、より優れているとかそういう問題ではなく、
あくまで、自分の魂の傾向であるので、両方を理解するようにしたいと思っている。


この二つの道に於いては、同じ真我の道であり、同じ境位であっても、
その傾向の違いにより、同じことを指し示していても微妙に表現が違うが、
これはあくまでどこに力点を置いているか、
どこの観点に力点を置いているかの差であって、根本的な違いは存在しない。


しかし、どちらかと言えば拡大の道は、私達の此処にいる、現象界レベルにまで
降りてきて下さって救済の手をさしのべて下さり、
私達の理解しやすいように、いろいろと私達が上昇の道に入れるように優しく導いて下さるのに比較して

求心の道は、そのレベルの高さを下げることなく、絶対の究極から語りかけるため、
何か冷たいような感じがしたり、
私達のレベルに合わせて降りてきて、方便を説いたりすることがほとんど無いので、解りづらく、
自力での超努力を求められる事が当然であるという前提から出発しているのでより厳しい道である。

クリシュナムルティーがあの究極の絶対の見地から、決して妥協することなく説き続けて、
ほとんどの人が(私も含めて)理解できないのを見れば如何に難しいかが解るというものである。
方便を説かず、
利益や第二義的な夾雑物をすべて廃して、あるがままの自己を凝視し
究極の「見ること」のみを厳しく私達に求めているからである。


具体的には拡大の道は愛を中心に、私達を引き上げることに力点が置かれているために
自由意志の問題でも、いきなり自由意志は存在しない、等とは説かずに、
私達は舞台で演技している俳優であり、その筋書きを演じているのだと言うような言い方をするのに対して

求心・凝集の道の傾向の覚者は、
私達の行動は観念に基づいており、条件付けられているので自由はなく、
それはロボットのようにある決まった行動しか出来ず、
自由に基づいている行為というものは為されておらないと説いたり、

この世界は上映されている映画であり、
私達の自我(エゴ)とは、そのスクリーンという意識の座に映像として投影されているに過ぎず、
それを見ている観客という観察者もそのスクリーンの映像が分離したものであるに過ぎない、などといわれたりする

また
努力や行い、ということに関しても
拡大の道の覚者は、私達に真我として正しく行うことを勧めるが

凝集の道の覚者は正しく行うということよりも、むしろ見ることに又は在ることに力点が置かれており
虚偽を虚偽と見ることの「行」に集中している
そして行為は無為ということに席を譲っている

がしかし

より深い観点から見れば
一見すると全く異なるアプローチのように見えているこのことも

真我からの愛の道は私達に、直接的に「ただ一つなるもの」へと働きかけ
同じ真我からの智慧の道は私達に、無為を通じて沈黙から「ただ一つなるもの」へと働きかける

それは共に同じ「ただ一つなるもの」である真我へと導かんとするものである


けれども実際の教えとして、二つの道があるのは
どちらかの傾向がより強い魂に働きかける為に、その傾向に合わせての道であり
それは私達の魂の傾向が大きく分けて、二つの流れが在ると言うことである
魂の光線が若干どちらかがより優勢なのである

俗世間的に砕けた言い方をすれば理科系と文化系の違いであり、その傾向である

そういうことで
一見しただけでは異なるように見えているが、
実は「ただ一つであるもの」の二つの働きであることが看取できるのである。


しかし、此処で間違っていけないのは、
求心の道がより高く、拡大の道がその点、方便を説いているから、
レベルが低いなどと言うことは、一切無いと言うことである。

これは同じ真我という絶対なる領域からの二つの流れの違いであり、
仏教で言えば小乗と大乗の別、禅宗と真宗の違い、といえばより解りやすいのかもしれない。


いずれにせよ、この二つの傾向、二つの道があり、人々はそれぞれの魂の特色に従って進んでいくことであろう

けれど、頂上は全く同じただ一つであり

それは

「すべては一つ」ということであり

完全に完璧に何も分離しておらないと言うことである


上江洲義秀先生をはじめとする覚者の方々が言うように

「ただ一つなるすべてがすべてであり」、「一命一体」「ただ一つなるもの」がその頂上であり

そこに至ればこの二つの登り口もここに至るための道であったことが判明する

すべては真我の愛と智慧が一つになって私達をそこへ導いて下さっていることを、私達は心から感謝したい










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