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ニサルガダッタ・マハラジコミュの無為は行為ではない

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「何も求めず・為さず・成ろうとせず」も、ただ起こる

ニサルガダッタ・マハラジは言う

「あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。
 だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。
 いったいどうして変わることを気にするのか?
 身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚
 しなさい。」 
                         『私は在る』(p540)

  


目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネル
 ギー、そして勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。
 それは神聖な質であって、私はそれらを否定してはいない。
 しかし、何の相違もなく、何も存在せず、それをつくり出したマインドもな
 いというのが私の立場だ。
 そこが私の居場所なのだ。
 何が起ころうと私には影響を与えない。
 ものごとがものごとに働きかける。
 ただそれだけだ。                 『私は在る』(p104)



夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。
 夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。
 いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
 これが絶対的な真理なのだ。
                          『私は在る』(p351)



人が意識しているかぎり、そこに苦痛と快楽はあるだろう。
 意識のレベルで快楽や苦痛と闘うことはできないのだ。
                          『私は在る』(p400)



それらを超えていくには、意識を超えなければならない。
 意識をあなたのなかにではなく、あなたに対して起こる何か外部の、異質な、
 あなたの上に押し重ねられたようなものとして見るときにだけ、それを超え
 ることが可能なのだ。
                          『私は在る』(p400)

また同じように上江洲義秀先生も言われる

自我(エゴ)に自我(エゴ)を消滅させることは出来ない 
                        上江洲義秀先生講話より   




「何をも求めない」ということは、思う事や行うことではないと信じる
「何かを求めず」とは単純に考えれば
何かを求めたり、求めなかったりすることが可能であり、自分にはそれが出来ると言うことを、その前提にしている、けれども
果たして、「何をも求めない」ことなどは出来るのであろうか

求めないと言うことは、“「その求めないこと」を求めている”ことであり、
求めたり、求めなかったりを出来る「主体」というものを前提にしているけれど
この求めている主体そのものが、単に起きていることなのであれば
「何も求めず」、と思う事自体が同じく起きていることでしかない

それは、丁度PCの中でヴァーチャルゲームソフトの登場人物が、「私は何も求めない」などと言っているのに似ている
そのPCのゲームの中での主人公は、PC上での意識を持っており、私は自由意志が有り、「何かを求めることはしないようにしよう」と思っているに過ぎない、と似ている

その登場人物の意志や行動はPCの基本設計に基づき、ある一定のゲームソフトの枠内で、行われているヴァーチャルな映像に過ぎないのだ、プログラムの範囲内でしか意志も思考も行動も出来ない

(勿論PCソフトの登場人物は、自分で意志しているのでもなく、行動しているのでもなく、自分の結果で出来事が起こっているのではない)

そのゲームソフトのプログラムで決まったように、意志し、行動し、結果があるに過ぎないのを、その登場人物は自分が思考し、意志し、行動し結果を起こしていると錯覚している

その「私は何も求めず、何もせず、何かになろうとしない」などと言っている、その登場人物は、

実際は「何も求めることや求めないことも出来ず、また何にも成ることもなく、何かにならないようにしようとしたり、何かを考えたり、考えなかったり、何か良いことや悪いことをしたり、競争心を抱いたり、同情心を抱いたり、優越感を抱いたり、劣等感を抱いたりすることもしていない」

その全てはPCゲームのプログラムで単にそれはPCという限定された時空間・次元の中で起きているヴァーチャルな映像に過ぎない。

実際とはこれに似ているのではないだろうか

だから
「何も求めず」ではなく
その「何も求めず」「何も為さず」「何にも成らず」と思っている主体である私も、
その内容である「何かを求めない、その何か」も、「何かを為さない、その何か」も、「何かに成らない、その何か」ということも、(いわゆる無貪欲という貪欲、無欲望という欲望も、無執着という執着も、無達成という達成も)一定のプログラムで、意識の座に現れている(起きている)こと、即ち聖なる催眠・映像であることに過ぎないのではないだろうか

これらのマインドも、意識も、それらの主体も、この“限りなく拡がっているといわれている「意識の座」”にやって来ては去っていく「願望」「欲求」「欲望」であり、同じようにわたしも「主体もどきの私」であり、その「主体もどき」が認識しているところの「願い」、「思い」、「欲求」であるに過ぎないと言うことではないだろうか

「私は何も求めず」ではなく、
即ち「私自体」も、「何かを求めたり、求めないようにしている」ことも本当は一切この意識の座である私とは関係なく無く、
その何かを求めたり求めなかったりすることも、その行為の主体である私すらも、ただただこの「限りなく拡がっていると言われている意識の座」に来ては去っていくマインドであり意識であるに過ぎない
ということであろう

この「主体」に関しては、
「求めたり、行為したり、成ろうとしているその対象の中身」と「その主体」は分離していないのではないだろうか、
その求めている願望が、行為しているその行為そのものが、何かに成ろうとしているその時間そのものが、その主体そのものではないのではないだろうか、
その見られている客体の中身そのものが主体の中身ではないだろうか
と言われているではないか
「見るものは見られるものである」と
見る主体と見られている客体は分離しておらず、一つであると、
そのとき見られている客体も見ている主体もなく
ただ「絶対なる愛」だけがあるとクリシュナムルティーによっていつも言われているではないか

だからこそクリシュナムルティーは「見るものは見られるものである」と、私たちに向かって教えられている

「何も求めない」ことはできない。
「求めること・求めないこと」は「意識の座」の前を去来していることであるからだ、去来しているものが「贋の主体」であり、その対象であり、マインドであるということだろうか

「何も為さず」ということも同様に出来ることではない、「何かを為したり、為さない」ということも、同様にして意識の座の前を去来している贋の主体と客体であるということだろう

「何かに成ろうとしない」ということも同様にできることではない。「何かに成ろうとしない」ということ、即ち時間や自我(エゴ)と同一化しないということは、同じく「意識の座」の前を去来しているマインドであり意識であるに過ぎないのではないか。

従って
今此処とは
“限りなく拡がっているといわれている「意識の座」”の前を去来している、時空間やマインドや意識ではなく

“限りなく拡がっているといわれている「意識の座」”そのものではないのか

それは

求めないこと、成らないこと、為さないことを超えて

今此処に、既に、“限りなく拡がっているといわれている「意識の座」”として「在る」!と上江洲義秀先生は力説されているではないかと思われる







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