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夜とスージーと文学とコミュの日本語の行方。(水村美苗の憂国と孤独)

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水村美苗(1951−)の『日本語が亡びるとき』(筑摩書房刊)が、激烈な賛否両論に迎えられ、えらい騒ぎである。まず最初にどんな本かというと・・・。現在おそるべき勢いで進行する英語一極化時代において、日本近代文学もまた過去のものになった、いま、日本は会話重視の英語教育に力を入れているが、これこそまさに亡国政策。エリート養成を考えるなら英語力といっても読むことにこそ重要であり、しかもそれは教養と表現力全般の問題、カネも手間もかかる。翻って、国力ぜんたいを考えるならば、まず教育は、あまねく広く日本の子息子女には、日本近代文学の古典をこそ読ませるべきだ、という主張のように見える、(そのように要約しても、けっしてまちがってはいないだろうが・・・)。





だが、もう少していねいに、著者の認識と主張を紹介しよう。かつて近代という時代には、英語、フランス語、ドイツ語とそれぞれ近代をリードする国は、国民国家をつくるべく、それぞれの言語を築き上げ、作家たちはおもいおもいに工夫を凝らし、近代のそなえたさまざまな主題を描き、それぞれの国のそれぞれの言語で、近代文学をつくりだしたものだった。なるほど、日本は近代のレイトスターターであったものの、明治中期には漱石を筆頭に、気高く魅力的な近代文学をつくりだしたものだ。しかも第二次世界大戦によって、アメリカが敵国調査の一環として日本研究に一流の人材があたったゆえに、サイエンスデッカーをはじめとするアメリカ人が日本近代文学の魅力を発見し、戦後、英語に翻訳出版することをつうじて、世界中の文学読者に、日本に近代文学が存在したことを知らしめることになった。





しかし、時は流れ幾星霜、現在、英語の世紀を迎え、英語以外のすべての言語は、すべて現地語の位置に滑り落ち、フランス語も、ドイツ語も、日本語も、「叡智を求める人の読み書きする言語」ではなくなりつつある(と、著者は考える)。たとえばいまなお日本語で多くの小説が書かれもし、今後も書かれるには違いないが、それらはもはや「叡智を求める人の読むもの」ではなくなっているおそれがあるし、今後ますますもってなくなってゆくに違いない、(と、著者は憂慮する)。つづけて著者は考える、近年、日本政府は、国民の英語教育(しかも会話重視の英語教育に)にたいそう熱心であり、ひるがえって日本語教育におろそかに見えるが、これはいかにもまずい政策である、なぜなら外国人のエリートと渡り合うだけの英語力を身につけさせるにはむしろ読む力こそが重要である、そしてそんな手間と時間とカネのかかる教育は一部のエリートだけにほどこせば良いし、そうなるしかないだろう、むしろ国民の多くには、「もっと日本近代文学の古典を読ませるべし! 漱石の『三四郎』すら読めないような国民をこれ以上増やしてどうするのか!??」というような主張である。





ふつうはこういうことは心中でおもってはいても口には出さないものだが、それがここではそれこそ憂国の情、耐え難く、もはや黙っておくわけにはいかぬ、とばかりに口角泡を飛ばすような主張になっているところが、文章の気迫につうじている。そして彼女の主張は賛否両論に迎えられた。讃の代表は梅田望夫さん、http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080823/trd0808230354002-n1.htm、そうそう、まさにそのとおり、「これからの日本の若い世代が、母語である日本語と「普遍語」たる英語といかにつきあっていくべきかを考える上で必読」と絶賛である。他方、否の代表は仲俣暁生さん、http://d.hatena.ne.jp/solar/20081111  http://d.hatena.ne.jp/solar/20081112/p1)、「くたばれ、鼻持ちならないエリート主義め」とでもいう激烈な調子に、文学業界という名の縁日の、気風のいいテキ屋めいた芸がある。さて、おれはといえば、讃でも、否でもなく、そもそもこうした大所高所から論じるような議論に自分のコメントなどないけれど、それでも、水村美苗さんが日本近代文学の魅力の精髄として例に出す、夏目漱石の『三四郎』、樋口一葉、あるいは幸田文の『父』そのほかの随筆は、それぞれ深みをそなえたゆたかな音色をつかいわけて演奏されるチェロ響きのような名調子をそなえていて、それはたしかに日本語のもっともゆたかな達成に違いないなぁ、とはおもう。もっともおれ自身は、現代の作家、村上春樹、川上弘美、岩井志麻子の書く文章だって、それぞれとてもすばらしい名文だとおもうけれど。





やや余談ながら、水村美苗の『日本語が亡びるとき』は論争を巻き起こすことに成功したものの、その讃にも、否にも、おそらく著者は不満なのではないかしら。彼女が求める賛辞は、とっくに文のなかにその肉体を消滅させた漱石、一葉、幸田文にこそ求めるものであるだろうし、またもしもそれが否定的見解であるにせよ、坂口安吾のような調子でこそ否定してほしいだろう、そう、法隆寺なんか壊して駐車場にすればいい、というような安吾に。だが、水村美苗がイメージする最良の読者は、おそらく現世の日本語ユーザーにはおよそ見当たらない。とはいえ、それでもそんなことくらいで彼女がめげることなどないだろう、なぜなら、彼女は(彼女の『私小説 from left to right』にあきらかにされているように)、思春期に過ごしたアメリカで、四方八方真っ暗闇のような孤独のなかで、すがりつくように日本近代文学を愛し、日本語の読み書きの魅力にとりつかれたのだから。書くということは残酷なものだ、けっきょくのところ、自分の理想とする読者に対して書くこと、しか、できない。たとえ書き手の理想の読者がほぼすべてその肉体をとうに消滅させていたとしても。




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