やや余談ながら、水村美苗の『日本語が亡びるとき』は論争を巻き起こすことに成功したものの、その讃にも、否にも、おそらく著者は不満なのではないかしら。彼女が求める賛辞は、とっくに文のなかにその肉体を消滅させた漱石、一葉、幸田文にこそ求めるものであるだろうし、またもしもそれが否定的見解であるにせよ、坂口安吾のような調子でこそ否定してほしいだろう、そう、法隆寺なんか壊して駐車場にすればいい、というような安吾に。だが、水村美苗がイメージする最良の読者は、おそらく現世の日本語ユーザーにはおよそ見当たらない。とはいえ、それでもそんなことくらいで彼女がめげることなどないだろう、なぜなら、彼女は(彼女の『私小説 from left to right』にあきらかにされているように)、思春期に過ごしたアメリカで、四方八方真っ暗闇のような孤独のなかで、すがりつくように日本近代文学を愛し、日本語の読み書きの魅力にとりつかれたのだから。書くということは残酷なものだ、けっきょくのところ、自分の理想とする読者に対して書くこと、しか、できない。たとえ書き手の理想の読者がほぼすべてその肉体をとうに消滅させていたとしても。