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夜とスージーと文学とコミュの『やし酒飲み』

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やし酒飲み
(池澤夏樹・個人編集 世界文学全集)
エイモス・チュツオーラ/訳・土屋哲
河出書房新社








かれは才能にあふれていた、
イギリス人がかれを拉致し、
利用したくなるほど。








1

チュツオーラの『やし酒飲み』(1952)を賛美するのはたやすい。西欧近代が失ってしまった神話的想像力がゆたかに息づいている、ガルシア=マルケス、ラシュディに先駆けるマジックリアリズムのすばらしい達成がある。原題は"The Palm-wine Drinkard"、この "Drinkard"という異様な語は、ピジン、あるいはクレオール的語法であり、そこになんらかの積極的な可能性を見出すことも、文学観しだいでは可能かもしれない。本文も平易な構文で書かれ、どうやらイギリス人の版元編集者の手は相当入っているらしい、J.M.クッツェーの『エリザベス・コステロ』のなかで、そういう指摘がある。エディティングにおいては、ところどころピジンの痕跡を残しながら全体的には読みやすく調子を整え、それでいてナイジェリアの神話に見られる juju  とかれらが呼ぶフェティッシュのそなえたマジカルパワーへのエキゾティックな魅力を活かしているようだ。なるほど、賛辞はいくらでもつづけることができる、素敵な作品だもの。しかし、戦争と諜報の二十世紀の全容を見渡せるいま、おれは少し違った感想をもつ、チュツオーラさんって、もしかしてあまりにナイーヴで、あまりにお人よしだったのではないだろうか。はたしてかれは自分自身の人生を生きただろうか? 心ならずも、イギリス人に利用されてしまったのではなかったかしら? その可能性を考えはじめたときから、おれのそれまでのかれの作品への賞賛にかすかな憐憫が混じるようになった。とはいえ、いったいだれがかれを責めることなどできるだろうか、ましてや、ナイジェリア人でもない異国の読者のわれわれが。








2

『やし酒飲み』のさわりを紹介しよう。


わたしは十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。父は、八人の子供をもち、わたしは総領息子だった。他の兄弟は皆働き者だったが、わたしだけは大のやし酒飲みで、夜となくやし酒を飲んでいたので、なま水はのどを通らぬようになってしまっていた。父はわたしにやし酒を飲むことだけしか能のないのに気がついて、わたしのために専属のやし酒造りの名人を雇ってくれた。彼の仕事は、わたしのために毎日やし酒を造ってくれることであった。当時は、タカラ貝だけが貨幣として通用していたので、どんなものも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。父は、わたしに、九平方マイルのやし園をくれた。そしてそのやし園には五十六万本のやしの木がはえていた。このやし酒造りは、毎朝、一五〇タルのやし酒を採集してきてくれたが、わたしは、午後二時まえにそれをすっかり飲みほしてしまい、そこで、彼はまた出かけて夕方にさらに七十五タル造っておいてくれ、それをわたしは朝まで飲んでいたものだった。そのためわたしの友達は数え切れないほどにふくれあがり、朝から深夜おそくまでわたしと一緒に、やし酒を飲んでいたものでした。ところで、十五年かかさず、このようにやし酒造りは、わたしのためやし酒をつくってくれたのだが、十五年目に突然父が死んでしまった。



父が死んで六ヶ月たったある日曜の夕方、やし酒づくりは、やし酒を造りにやし園へ行った。やし園に着くと、彼は一番高いやしの木に登り、やし酒を採集していたが、その時ふとしたはずみに木から落ち、その怪我がもとでやしの木の根っこで死んでしまった。やし酒を運んでくれるのを待っていたわたしは、いつまで待っても彼が戻ってこないし、今までにこんな長くわたしを待たせたこともなかったので、友達二人を呼んでやし園までいっしょについていってもらうことにした。やし園に着いてからやしの木を一本一本見てまわり、そのうちに彼が倒れて死んでいるやしの木の根っこをみつけた。彼がそこに死んでいるのを見てまずわたしが最初にしたことは、もよりにやしの木に登り、自分でやし酒を採集し、現場に戻るまえにやし酒を心ゆくまで飲むことだった。それから、やし園までついてきてくれた友達の助けをかりて、やし酒造りが倒れていたやしの木の根っこに穴を掘って、彼を埋めてお墓をつくり、それからわたしたちは町へ帰った。




そして「わたし」は彼を呼び戻すために死者の町へと旅に出る。その途中でなんともふしぎな事件が次々に勃発。「〈ドラム〉が打ちはじめると、それは、まるで五十人の男が一斉に打っているような音をたて、〈ソング〉が歌いはじめると、まるで百人の人間が一緒に合唱しているようで、また〈ダンス〉がおどりはじめると、半体の赤ん坊もおどり出し、妻もわたしも精霊たちも、〈ダンス〉と一緒におどり出してしまった。つまりこの三人を見聞した者は誰でも、そのあとをどこまでもついて行かないではおられない気持に誘いこまれるのだった。わたしたちもみなその例にもれず三人のあとをついて、一緒におどっていった」。









3


それにしてもいったいなぜ、肌の黒いナイジェリア人のエイモス・チュツオーラ(1920- 1997)が、1952年という時期に『やし酒飲み』で、それも、あのピジン〜クレオール文体で、イギリス文壇から評価されるかたちでデビューしただろうか? しかも版元はイギリス、フェイヴァー&フェイヴァー社で、当時あの白人文学びいきの差別的伝統主義者TSエリオットが顧問を務めていたのである。




なるほど、第二次世界大戦後から現在までは、英文学が英語文学へと解体してゆく過程であり、逆にいえば、植民地主義とともにある女王陛下の国の肌の白い人たちが長く独占していた文学の座を放棄し、水平に広がる新たな地平のなかで文学の新しい可能性を新しい担い手とともに模索しはじめるダイナミックな変化のはじまりだった。変化はまず旧植民地出身の作家の登場の認知とともに生まれ、それは白人以外の作家の英語で書かれた小説の誕生と発見だった。それはたとえ白人であってももはやヨーロッパの白人とは異なった自意識をもって小説を書く第三世界の作家の台頭をうながした。(1) 



しかし、チュツオーラを、こうした流れの先駆者と呼ぶことには、ためらいが残る、なぜなら、チュツオーラはけっしてチヌア・アチェベやベン・オクリと(あるいはV.S.ナイポールと)"同じような意味で"、作家であるわけでは、ない。きょくたんにわかりやすく言うならば、チヌア・アチェベやベン・オクリを知性と自意識、表現の戦略をそなえた岡本太郎に喩えるならば、(そう、岡本太郎はマルセル・モース率いる宗教学〜社会学〜人類学とシュルレアリスムの蜜月のなかで近代芸術の脱構築を学んでいる)、対するチュツオーラはいわばジミー大西であるということだ、すなわち天然であり、自分のやっている表現が社会的にいかなる意味をそなえているかに対する考察も自意識などなにもない、ただひたすらあらかじめ爆発しているのである。むろんこtれはこれですばらしいことではあるけれど。もっとも、二十世紀イギリス詩をリードしたエリート的マイナー出版社ファイヴァー&ファイヴァー社をわれらが吉本興行に喩えるわけにはさすがにいかないが、いずれにせよ、チュツオーラはジミー大西のように、プロデューサーがこしらえた枠組に乗ったことで、がぜん無限に輝いたに違いない。逆にいえばもしもプロデューサーなしの素では、吉と出るか凶と出るかまったくわからない、危なっかしくてしかたない、しろものである。むろんここではふたつのタイプの才能の多寡を論じているわけではなく、表現に対する自意識のある/なしのはなしである。じっさいチュツオーラは(自力で発表の場を獲得したというよりも、むしろ)イギリス人によって素敵なフォークアートとして見出され、イギリス人によって商品価値を見出され、世界市場に売り出された。ここにチュツオーラの作家としての人生の悲喜劇がある。『やし酒飲み』はイギリスやフランスではエリート作家たちに絶賛をもって受け入れられ、他方ナイジェリアにおいてはブーイングと総スカンをもって迎えられたという、(アフリカの後進性というステレオタイプにつけ入る隙を与えたとして)。




しかもチュツオーラの登場の後、アフリカはそれまでの植民地を脱し、独立へ向けて雄雄しく立ち上がった、1960年はアフリカの年である。むろんその後の歴史および現在をもいささかなりとも知っているわれわれは、とうてい手放しではよろこべないこともまた知っているけれど。いずれにせよ、その後のチヌア・アチェベやベン・オクリや、あるいは肌の色こそ白いものの、そしてヨーロッパ文学の広い教養をもちながら、自らをアフリカーンスと規定するクッツエーの世代にとって、前世代のチュツオーラは、自分たちとは、おそらくきびしく峻別しなければならない存在であるに違いない。




だがしかし、だからといってチュツオーラの作品を斬り捨ててしまうとしたら、それもまたあまりに惜しい。ましてやナイジェリアの進歩主義者でもないわれわれが、チュツオーラを切り捨てる必要などありはしない。チュツオーラの作品には、楽天的な幸福があり、想像力の解放がある。すがすがしいまでの内面の欠如、陽気な楽天性、素敵なばかばかしさ、創造性に満ちた脈絡のなさ、それらを賞賛せずにはいられない。しかし、である。しかし、こうした賛美は、はたして「バカで、まぬけで、幼稚で、せいぜい想像力に富んだ、罪のないアフリカ人」というイメージづくりの強化に貢献することから、いかにして免れ得るだろうか?ここはやはり問題として残る。(ちなみにこうしたイメージづけは、歴史的に〈女〉が被ってきた運命と同じである、そう、「バカで、まぬけで、幼稚で、せいぜい想像力に富んだ、罪のない、かわいい娘」というようなイメージづけと。)しかもチュツオーラの側には、まったくそういう意思はないのだから、いっそう不憫である。チュツオーラ、才能にあふれ、なんともお人よしな人物、お気の毒である。



(繰り返すが)、それにしてもいったいなぜイギリス、フェイヴァー&フェイヴァー社は、なぜ、1952年にチュツオーラを売り込んだだろう? 大英博物館に象徴される異国趣味だろうか? いや、それもあるには違いないが、それだけではないだろう。時はまさに、第二次世界大戦後。イギリスはインドをしぶしぶ手放したとはいえ、まだ植民地政策を棄ててはいない。そして植民地政策は、諜報活動を必要とする。ちなみに文化学および文化人類学もまた、諜報活動の範囲である。たとえば日本のはなしに置き換えるならば、ドナルド・キーン(1922ー)やエドワード・サイデンステッカー(1921 - 2007)は、日本文学の国際的評価の獲得に貢献した人物であったと同時に、かれらの仕事は、ルース・ベネディクトが、第二次世界大戦におけるアメリカ軍の日本理解に貢献すべく、研究した(後に『菊と刀』として結実する)日本文化研究と同じカテゴリーにも属してもいただろう。ジャパノロジストをたんじゅんにお人よしの親日家たちと考えるのは間違っている。



イギリスの例をあげれば、サマセット・モーム(1874 - 1965)は、第一次世界大戦中にスパイにスカウトされて以来、三十余年にわたって、作家活動と平行して、イギリス政府のためにスパイ活動をおこなった。こうした二十世紀理解の立場に立ってみれば、チュツオーラの出版もまた、(作家本人の意思とは無関係に)出版元のイギリス側に、ナイジェリア支配のための文化戦略があっただろうことが察せられる。つまりチュツオーラは魅力にあふれていたということだ、イギリス人がかれを拉致し、利用したくなるほどに。





逆にいえば、チュツオーラは才能にあふれ、そしてその人生は、大きな名誉が与えられながらも、いささか不憫でもある。作家は書く事をつうじて、人の意識を、どう変えるのかについて、くれぐれも注意深くあらねばならない。そこが無意識ならば、作家とは呼べない、かれの作品はフォークアートであり、外国人のためのエキゾティックなおみやげものにすぎない。



とはいえ、こうした理解が、たかだか近代主義の枠のなかのはなしではあることもまた事実である。ときには戦争と諜報の二十世紀のことなどすべて忘れて、チュツオーラの能天気なホラ話に身をゆだねることもまた、なんともたのしい体験である。



いずれにせよ、チュツオーラは今後も二十世紀世界文学史において、悩ましい存在でありつづけるだろうし、文学史のなかのチュツオーラは、いまや反面教師にすぎないとさえいえるだろう。しかしながら物語を愛するすべての読者にとって、チュツオーラの魅力は、けっして失われはしないだろう。チュツオーラはこの両義性のなかで永遠に輝きつづけるだろう。











(1)もとよりアメリカには独自の文学が生まれていたとはいえ、アフリカ系アメリカ人作家の登場は、ボールドウィン(1924-1987)からであり、それは1953年のことである。イギリス領西インド諸島出身のインド人、ナイポール(1932-)のデビューは1957年の『神秘な指圧師』であり、その後"In a Free State"でブッカー賞を受賞するのが1971年である。(アメリカではすでにアフリカ系アメリカ人の公民権運動が勝利している。)その後のブッカー賞から、この話題に関連する作家を見てゆくならば、インドのボンベイ(ムンバイ)出身の元イスラム教徒のラシュディ(1947−)の『真夜中の子供たち』が 1981年。南アフリカ出身の白人クッツェー(1940−)の『マイケル・K』が1983年。長崎生まれで五歳でイギリスにわたったカズオ・イシグロ(1954年)の『日の名残』が1989年。ナイジェリア生まれのアフリカ人ベン・オクリ(1959年)の『満たされぬ道』が1991年。スリランカ生まれで十一歳で母親とイギリスに移住し、その後カナダに渡ったマイケル・オンダーチェ(1943年ー)の『イギリス人の患者』が1992年。インド生まれでインド在住のアルンダティ・ロイ(1961−)の『小さきものたちの神』が1997年。インドのデリー生まれで、インド、イギリス、アメリカで教育を受け、現在アメリカ在住のキラン・デサイ(1971年)の『喪失の響き』が2006年である。またブッカー賞こそ受賞していないが、インド、カルカッタ生まれでオックスフォードで社会人類学を学んだアミタヴ・ゴーシュ(1956年ー)の活躍もめざましい。








■エイモス・チュツオーラ Amos Tutuola  1929−1997


1929年、ナイジェリア西部、ラゴスから64マイルの年アベオクタで生まれる。
1952年、『やし酒飲み』が、ロンドンのフェイヴェー&フェイヴァー社から刊行される。三十二歳。
1954年、『ブッシュ・オヴ・ゴースト』
1955年、"Simbi and the Satyr of the Dark Jungle"
1958年、『アフリカの勇敢な女狩人』

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