ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

夜とスージーと文学とコミュのアゴタ・クリストフ『悪童日記』を読む。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
わたしたちは大きな街からたどり着きます。わたしたちは一晩中旅しました。わたしたちの母は、目を赤くします。彼女は大きなボール紙の箱を抱えていて、そしてわたしたちふたりは、衣類を詰めた小さな旅行鞄を一個づつさげ、さらには父の大きな辞典をかわるがわる抱え、腕がくたびれると交代します。


わたちたちは長いあいだ歩きます。祖母の家は駅から離れ、小さな町の、反対の先端にあります。ここ、ここには路面電車がありません、バスもありません、自動車も。道を行き交っているのは、何台かの軍用トラックだけです。


人はまばらで、町は静まり返っています。わたしたちの足音が聞くことができます、わたしたちは歩きます、母をまんなかに、わたしたち二人で。








祖母の家は〈小さな町〉の町はずれ、国境付近にある。川が流れ、向こう岸は森だ。彼女は自給自足の暮らしをしながら、わずかな食料を売って暮らしている。


わたしたちは祖母をおばあちゃんと呼ぶ。
人々は祖母を魔女と呼ぶ。
祖母はわたしたちを雌犬の仔と呼ぶ。









Agota Kritof "Le grand cahier" (アゴタ・クリストフ『悪童日記』ハヤカワepi 文庫)は、2〜3ページほどの短文が、物語の進行に沿って、62書かれている。章タイトルは以下のとおり。


「L'arrivée chez Grand-Mère 祖母の家への到着」
「La maison de Grand-Mère 祖母の家」
「Grand-Mère 祖母」
「Le travaux 仕事」
「La forêt et la rivière 森と川」
「La saleté 埃」
「Excercice d' endurcissement  身体訓練」
「L' ordonnance 従卒」
「Excercice d' endurcissement de l'esprit 精神訓練」
「L'école 学校」
「L'achat du papier,du cahier et des crayons 紙と鉛筆とノートの購入」
「Nos études わたしたちの研究」
「Notre voisine et sa fiile わたしたちの隣人と娘」
「Exercice de mendicité 乞食の練習」
「Bec-de-Lièvre 兎口(みつくち)」
「Excercise de cécité et de surdité 盲人と難聴者の訓練」
「Le déserteur 脱走兵」
「Exercice de Jeûne 断食訓練」
「La tombe de Grand Père 祖父の墓」
「Exercice de cruauté 虐待訓練」
「Les autres enfants ほかの子供たち」
「L'hiver 冬」
「Le facteur 原因」 
「Le cordonnier 靴屋」
「Le vol 窃盗」 
「Le chantage 恐喝」
「Accusations 告発」
「La servante de la cure 治療の召使」
「Le bain 浴室」
「Le Curé 牧師」 
「La servante et l'ordonnance 召使と命令」
「L'officier étranger 外国人の役人」
「La langue étrangère 外国語」
「L'ami de L'officier 将校の友人」
「Notre premier spectacle わたしたちの初舞台」
「Le développment de nos spectacles わたしたちのスペクタクルの発展」
「Théâtre 演劇」
「Les alertes 警報」
「Le troupeau humain 人間群像」
「Les pommes de Grand-Mère 祖母の林檎」
「Le Policier 刑事」
「L' interrogatoire 尋問」
「En prison 監獄にて」
「Le vieux monsieur 老紳士」
「Notre cousine わたしたちの従姉」
「Les bijoux 宝石」
「Notre cousine et son amoureux わたしたちの従姉と彼女の恋人」
「La bénédiction 祝福」
「La fuite 逃走」
「Le charnier 集団墓地」
「Notre Mère母」
「Le départ de notre cousine わたしたちの従姉の出発」
「L'arrivée des nouveaux étrangers 新しい外国人たちの到着」
「L'incendie 火」
「La fin de la guerre 終戦」
「L'école rocommence 学校再開」
「Grand-Mère vend sa vigne 祖母は葡萄畑を売却する」
「La maladie de Grand-Mère 祖母の病気」
「Le Trésor de Grand-Mère 祖母の宝物」
「Notre Père父」
「Notre Père revient 父の再訪」
「Le séparation 別離」









アゴタ・クリストフ Agota Kristof は、1935年、ハンガリー、Csikvand村生まれ。1945年、10歳で敗戦。ソヴィエト連邦に占領され、共産主義国ハンガリー人民共和国となる。しかし共産主義への反発も大きく、1956年に、反共産主義運動(ハンガリー動乱)が起こるが、しかしソ連に鎮圧された。この1956年、彼女は21歳のとき、彼女と彼女の夫(以前、学校の彼女の歴史の教師であった)、およびかれらの4カ月目の娘は、スイスのフランス語圏ヌーシャテル Neuchâtel に亡命し、時計組み立て工場などで仕事をした。



5年の孤独の日々の後に、彼女は、工場の仕事をやめて、夫を捨て、 彼女は、フランス語を勉強し始めた。
1972年以降、彼女は戯曲を発表し始めた。劇場と関係していたようだ。
そして1986年、51歳のとき(?)、最初の小説、
”Le Grand Cahier "『悪童日記』(ハヤカワepi 文庫)を発表。
そしてその後、
1988年"La Preuve "『ふたりの証拠』(ハヤカワepi 文庫)
1991年"Le Troisième Mensonge"『第三の嘘』』(ハヤカワepi 文庫)
を発表し、3部作を完成させたとき、彼女は56歳に(?)なっていた。


そのほかの作品に
"Hier"『昨日』(1995年)
C'est égal (2005年)

コメント(33)

簡潔な書き方、演劇のト書きみたいな。


冒頭にしても、一晩じゅう旅してきたというのに(!)、
母親がボール紙の箱を抱え、
「わたしたち」が衣類の入った鞄を一個づつ提げ、
父親の大きな辞書を代わる代わる抱えてきたこと。
そして母親の目が赤いことしか著者は書かない。


闇のなかに静まり返っている小さな町。
ときどき軍用トラックが行き交う夜のなかを、
母とコドモふたりがとぼとぼ歩いてゆく。


読んでいて、すんごい怖い。
コドモたちふたり母が彼女の母親を訪ねる、
戦時下に、ふたりのコドモを預けるために。
彼女が自分の母を訪ねるのは、10年ぶりのようだ。
どうやら、彼女は父親を愛していて、その父親の一件で、
自分の母と疎遠になっていたらしい。
すなわち、過去にその老婆は、彼女の夫とのあいだに、なにかがあったことが暗示される。

(文庫6p)
祖母の家は、村のはずれのそのまたはずれにある。
その先には柵があって、兵士が機関銃と双眼鏡を持って見張っている。
「わたしたちは知っている、柵の向こうには秘密の軍事基地があって、
その先には国境ともうひとつの国があることを。」


祖母の家のまわりには畑があって、その奥には川が流れ、向こう岸は森だ。
(文庫10p)
祖母の家の一室には、異国の軍人が住んでいる。士官だか少尉だか。(訳文では「将校」となっているけれど、原文は officier なので、将校とは限らない。)

(文庫11p)
祖母は、ほとんど話しません。
もっとも夜は別です。夕方になると、
祖母は棚の酒瓶を取って、直接飲みます。
やがて彼女はある言語を話しはじめます、
その言語を、わたしたちは理解できません。
それは、異国の兵士が話す言語でもなく、まったく別の言語です。
わたしたちにはわけのわからない言語で、
祖母は問い、答えます。
ときどき笑い、怒り、叫びます。
そしてたいてい最後には、祖母は泣きだし、
よろめいて、部屋に倒れこんで、すすり泣きます、
その泣き声がわたしたちに聞こえてきます、夜のなかで。
(文庫p14)
この小説の61の断章のなかには、Excercice が6回繰り返される。
すべては双子が独自に考えた、強くなるための、
生き延びるための、訓練である。


「Excercice d' endurcissement  身体訓練」
「Excercice d' endurcissement de l'esprit 精神訓練」
「Exercice de mendicité 乞食訓練」
「Excercise de cécité et de surdité 盲人と難聴者の訓練」
「Exercice de Jeûne 断食訓練」
「Exercice de cruauté 虐待訓練」
双子は、自分たちの採用した
記述について方針を書く。


「祖母は魔女に似ている」と書くことを禁じる、
そうではなく、「人々は祖母を魔女と呼ぶ」と書く。
「この小さな町は美しい」と書くことを禁じる、
なぜなら、美しいとおもわない人もいるだろうから。
「わたしたちたちは'わたしたちがクルミをたくさん食べる」と書く、
しかし「'わたしたちはクルミが好きだ」とは書かない、
なぜなら「好き」という語は客観性を欠いているから。
同じ「好き」でも、「母を」「クルミを」では意味が異なる。


(かれらは記述について考える)
感情を定義する語はとてもあいまいで、
その種の言葉は避けることに価値がある、
そもそも事物についての記述と、人間についての記述は
ひとしく把握のためのものであり、
(大事なことは)事実を忠実に記述することなのである。





そしてこの小説『悪童日記』の原題が、
"Le grand cahier"となっているのは、
この小説のすべてが、
読者が読むすべての文章が、
かれら双子が大きなノートのなかに書いた記述である
という設定を示している。
それはそうと著者クリストフさんの母語ハンガリー語と、
彼女が20代以降学習したフランス語は、
どのくらい隔たっているんだろう?



ウィキペディアに拠ると・・・



ハンガリー語は、主にハンガリーで話されている言語。原語呼称である「マジャル語」の転訛からマジャール語と呼ばれることもある。ウラル語族のフィン・ウゴル語派に分類され、フィンランド語やエストニア語と同系統の言語であるが、意思の疎通がまったくできないほどの大きな隔たりがある。



ヨーロッパで話される諸言語の多くが属するインド・ヨーロッパ語族とは系統が異なり(ただし歴史的経緯からスラヴ諸語やドイツ語の影響をある程度受けている)、姓名や日付などの語順もヨーロッパ式とは異なることから、「アジア系の言語」といわれることもある。

双子は、美少年。ここ、大事。


Bernard Faucon の世界なんだなぁ。
http://www.bernardfaucon.net/photos/index.htm
「Le facteur 原因」(訳題:郵便配達夫)の章で、
郵便配達夫が謎の一部を明かす。(訳書 p85)


祖母には、祖母の夫を毒殺したという噂があって、
その噂のゆえに、ちいさな町の人たちのみんなから
魔女と呼ばれ、疎んじられている。


ここでようやくわかる、どうやらその一件が、
祖母の娘(=双子の母)との不和の原因になっているようだ。
なぜなら、祖母の娘(=双子の母)は、父親が好きだったから。
(冒頭の章「L'arrivée chez Grand-Mère 祖母の家への到着」 )
そう、祖母の娘が戦時下に、10年ぶりに現れ、
祖母に双子を預けるところからこの物語は始まる。
ちなみに祖母にとって、双子を見るのは初めてなのである。


祖母は、ほんとうに祖母の夫を毒殺したんだろうか?
もしもそうだとしたら、なぜ?
スージーさん、久々。文章たくさん。 

今フランス映画の音楽担当で、監督とのやりとり会話、フランス語チャーミングなの勉強しなきゃです。

ゆっくり読ませてね。
おぉ、ピラミさん、フランス映画の音楽!
まさにピラミさんの超ジャンル的創造性がのびやかに発揮できそう。


映画音楽・・・秒数が決められたなかでの作曲は、
どこかしら、ストラヴィンスキーのバレエ曲の自在な構成を連想します。
ピラミさんの作曲の発展とクールな完成を愉しみにしています。





この作家アゴタ・クリストフは、ハンガリーからフランス語圏スイスに亡命した人です。ぼくはフランス語はほぼ読めませんから、ときどき参照して、辞書を引いたり、自動翻訳にかけたりするだけですが、それでもアゴタ・クリストフの、不穏に平明な文章は、凄みを感じます。


この小説は、あえて喩えるならば、バルトークの『ミクロコスモス』の、第1巻(!)のようなフランス語で書かれた小説です。そしてまた辺境ハンガリーにも興味しんしん。

あらためて冒頭から読んでみよう。


双子は母親に連れられ、夜じゅう旅して、
人気のない、ときたま軍用トラックが通るくらいの、
寂れた小さな町のはずれにある祖母の家に預けられる。
しかし母と祖母は10年ぶりの再会、
祖母は双子と会うのもはじめて。
どうやら祖母は自分の娘に憎しみを持っているようだ。
双子の母は、これまで祖母を疎んじてきた、
その理由は、母は言う、自分は父(=祖母の夫)を慕っていたから。
(謎めいたほのめかし)。
母は祖母に渡す、双子のための敷布と毛布、
真っ白いシャツに磨き上げられた靴を。
それを見て祖母はあざ笑う、
「敷布と毛布?
真っ白いシャツに磨き上げられた靴??
生きるってことはどういうことか教えてやろう、わたしがね。」
双子はそんな祖母にベロを出す。祖母はいっそう嗤う。


人々は祖母を魔女と呼ぶ。
祖母は双子を、雌犬の仔と呼ぶ。
祖母は、夜になると酔っ払い、
異国の言葉を叫び、泣く。


祖母は畑をたがやし、家畜を飼って、
野菜やなにかを町に売りに行って暮らしている。
祖母の家の向こうは、柵があって、
機関銃と双眼鏡を持った兵士が見張っている。


双子は、森のなかで死んだ兵士を発見し、弾丸と手榴弾を抜き取る。


やがて双子はこの逆境のなかで生き延びるための数かずのエクササイズを自分たちに課す。
殴り合いの練習をしたり、自分の皮膚にナイフをつきつけたりして体を鍛え、
また、町中でわざとののしられるようなことをして、それに堪える強い心を育てる。
物乞いの練習も。そして読み書きを覚えていく。


祖母の家の一部屋には、外国の将校が住んでいる。


隣の家の娘は少し年上、みつくちと呼ばれている。
みつくちは、物乞いしたり、盗みをしたりしながら、
(耳が聞こえず、目も見えない)母の面倒をみている。
みつくちは、犬と性的に戯れ、また性欲を隠さない。


双子は、耳が聞こえず、目も見えない人間を演じるエクササイズをする。
双子は、森のなかで倒れている脱走兵に、食料と毛布を与える。
双子は、断食のエクササイズをする。


祖母は彼女の夫を毒殺したのではないか、という噂がある。
双子は動物を殺すエクササイズをする。



★アゴタ・クリストフのこの小説は、「Gemelos」というタイトルで、(ローラ・ピザロ、ホアンカルロス・ザガル、およびハイメ・ロルカらスペイン人たちに拠って)、舞台作品として翻案され、ロンドンやニューヨークでも公演されたとか。


http://youtube.com/watch?v=sRLcDyEXblQ
http://youtube.com/watch?v=aFH7kqunKzU
どこで口を挟んでいいものやら
躊躇しておりましたが、エイ、と書き込み。
流れをさえぎってすみません。


恥ずかしながらこの作品を手に取ったのは
ほんとに最近、この夏のこと。
京都から神戸まで、約二時間の電車の中で
息もつかずに一気読み。
わたしもラストシーンに衝撃を受けました。

ところで、この作品は
いろんな読み方があるのでしょうが
わたしは双子は本当に双子なのか?
ということが途中から気になって
仕方がありませんでした。
つまり、一人の少年の圧倒的な孤独が生み出した幻影ではなく、
本当に少年は二人いたのかな?
最後の場面の、いっそ潔いほどの乾いた感じにぶつかって
この疑問はさらに強くなるのです。

スージーさんやみなさんは
そのあたり、どうお読みになりました?
ひーちさんへ、そしてみなさんへ


〉双子は本当に双子なのか?
〉一人の少年の圧倒的な孤独が生み出した幻影ではなく、
本当に少年は二人いたのかな?


あ。ここですね、実は、
この "Le grand cahier"『悪童日記』は、
続く、"La Preuve"『ふたりの証拠』
"Le Troisième Mensonge"『第三の嘘』
と、3作品シリーズと一般に呼ばれていて。


ぼくはまだ『悪童日記』しか読んでいませんが、
伝え聞くところに拠りますと、


〉双子は本当に双子なのか?
〉一人の少年の圧倒的な孤独が生み出した幻影ではなく、
本当に少年は二人いたのかな?


この件に関する、ある回答が(著者側から)与えられてはいるそうです。
興味しんしん。



もっとも、そこはたしかに興味しんしんなんですが、
(続きを早く読みたい・・・と言いつつ、まだ読まない。
しばらく『悪童日記』の世界に浸っていたいから。)


しかしね、ぼくが考えるには、
『悪童日記』は、
1)単独で読む読み方、
2)シリーズ3作品をひとつの全体として読む、
の、ふたつの読み方があるんじゃないかしら。


って言うか、この物語は、「ああもありえる、こうもありえる」ので、読み終わっても作品が「ほどけない」し、決定的なことを誰も言えない。そこが、良くて。そしてまたシリーズ3作を読み終わっても、同じ感想を言えたらいいなぁ。


〉双子は本当に双子なのか?
〉一人の少年の圧倒的な孤独が生み出した幻影ではなく、
本当に少年は二人いたのかな?


「いない」かもしれないけれど、でも、「いた」可能性も捨てきれない。




いいえ、それを言いはじめたら、極端な話、たとえば、
「すべては母親の妄想だった」とか、
そういう読み方もアリかもしれなくて。



そう言えば、あのばあさんにも謎がありますね。
2番目の章で、
夜になると、酒かっくらって、わけのわかんない言語でわめき、
泣きはじめる。しかもその言語は占領軍の言語ではなく、
まったく別の言語。
ばあさんが酔っ払ったときしゃべっているのは、どうやら
その後、小さな町に現れる〈解放軍〉側の言語らしい。


そうなると、ばあさんと娘(双子の母)の関係は、
どうなってるかしら?


そしてばあさんは、なぜ、夫を毒殺した(らしい)かしら?


ひーちさん、そしてみなさん、どうおもいますか?
かれらは自分たちのことを"Nous"と呼ぶ、英語の"We"に相当する人称。
物語は始まる、Nous arrivons de la Grand Ville.
わたしたちは、大きな町から到着しました。
あくまでも、Nous、わたしたち、だ。
しかも、物語のなかでかれらには名前がなく、
また、どちらがどちらかもわからない。


この小説はその全体が、
双子が大きなノートに書いた文章である、という設定なので、
すなわち、かれらは、〈他者から名づけられた名を拒否し、
むしろ自分たちには名前はない〉という態度表明であるらしい。
この姿勢が、〈絶対的な無垢〉という主題に結びついている、ようだ。
〈父なるもの〉の機能不全と、
逆境のなかでのコドモたちの開放感?



舞台となった国では、戦時下に異国の軍隊に占領され、
なおかつ異国のために従軍させられたり、
かつまた占領軍の差別政策に拠って、殺される者たちがいる。
国はもうむちゃくちゃな状態になっていて、機能不全に陥っている。

このような状況下では、
ほんらいならあるべき〈父なるもの〉がまったく機能していない、
したがってコドモは、エディプス・コンプレックスを持つこともない。

コドモたちは、自分で考え、自分で行動規範を作り、
生き延びてゆくほかない。
そう、真理も、倫理も、美も、自分たちで決める。
ものすごく過酷ないつ死んでもおかしくない状況でありながら、
その逆境は、コドモたちの楽園に反転する契機をも含んでいる。
世代の話。


アゴタ・クリストフは、1935年ハンガリー生まれのフランス語作家。
ほとんど無関係ながら、フランソワーズ・サガンも同年生まれ。
アメリカの小説家では、トニ・モリスンが、1931年生まれ。
トリニダード生まれのインド系英語作家VSナイポールが、1932年生まれ。
『芽むしり仔撃ち』 の大江健三郎が、1935年生まれである。
そう言えばサルコジ(1955年〜)の父もハンガリーの下級貴族でフランスへの亡命者、したがってサルコジは移民2世だそうな。



この物語は、戦時下に、他国の占領下にある小国の田舎町の、
魔女と呼ばれる老婆の家に預けられた双子の美少年が、
貧しさのなかで、ともすればさげすまれながらも、
労働を覚え、かけひきに習熟し、賢くタフに、生き延びてゆく
戦時下の少年成長物語である。


もっとも、成長譚といっても、状況が戦時下であるがゆえ(?)、
大人の世界ではモラルが崩壊している。
祖母は、偏屈な愛嬌をもって描かれてはいるものの、
ドケチで不潔で、殺人の過去さえあるらしく、
魔女と呼ばれ、町の人々から疎んじられている。
占領軍の将校は、ゲイであり、少年愛をも好み、おまけにマゾである。
神父は、みつくちの少女に性的おたのしみを要求している。
教会勤めの女中は、わがままな気分屋で、
美少年好きで、身勝手にエロく、また弱者に平然と残酷である。
靴屋は、不当に殺されてゆく運命を、なす術もなく受け入れている。


したがって、このような環境で成長してゆく少年たちの物語もまた、
つうじょうの成長譚からはおよびもつかない、
歪んだ成長譚になってゆく。
そこが不気味に悪魔的な魅力になっていて。


ざっと、そんな感想はいまも変わらない。
喩えて言えば、『ヘンゼルとグレーテル』のなかから、
大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』 が現れてくる、
それがこのアゴタ・クリストフの『悪童日記』である。





しかしそれと同時に、よく読んでゆくうちに、この小説には、
少年マンガやアニメに必須の萌え要素がいたるところに備えてあることもまたわかる。
ジャンルはもちろん「サバイバル・ゲーム」である。
そしてそこに、
「秘密の屋根裏部屋」
「森のなかの軍事基地」
「コドモが、弱い大人を助けたり、翻弄したりする」
このあたりはまさに少年マンガ〜アニメのツボである。
(もっとも、この『悪童日記』には、
性倒錯とかもあれこれ描かれていて、そこが
コドモ向けと言い切れないものにはしているけれど。)


いずれにせよ、著者の「この小説は子供時代の話を書いたもの、
戦争はあくまでも背景にすぎない」
という言葉はたしかに、なるほどな、とおもえてくる。
ただし、そうは言っても、同時に、
戦時下の荒廃、残虐、不安は、しっかり書かれていて、
まさに、第2次世界大戦のなかで、
ドイツに占領され、ドイツのために戦わされ、
戦後は、ソヴィエト「解放軍」に蹂躙された
ハンガリー出身作家ならではの、
戦後小説にもなっている。


衝撃のラストが、すばらしい。
ふがいなく情けない〈父〉を見捨て、
乗り越え、強くたくましいく生きてゆく〈子〉
という主題が鮮明に現れてくる。






しかしなぁ、こういうふうに読みほどいてなお、
決して蒸発しない魅力(謎)が、
この小説『悪童日記』にはある。
それは、いったいなんなんだろう?


それが結局、ひーちさんも指摘するところの、


〉双子は本当に双子なのか?
〉一人の少年の圧倒的な孤独が生み出した幻影ではなく、
本当に少年は二人いたのかな?


かもしれないなぁ。
ここはほんとに興味深い。
最初の段落。


Nous arrivons de la Grand Ville. Nous avons voyagé toute la nuit. Notre Mère a les yeux rouges. Elle porte un grand carton et nous deux chacun une petite valise avec ses vêtements, plus le grand dictionnaire de notre Père que nous nous passons quand nous avons les bras fatigués.


Notre Mère a les yeux rouges.  なんて書かれちゃうと、
つい、泣きはらしたマリアを連想しちゃう。
le grand dictionnaire de notre Père っていうのも、
どっかしら、父の辞典という意味に留まらない、
おもわせぶりな含みを感じる。


あくまでも、なんとなくで、
こまかい設定はことごとく無関係なんだけれど、
それでいて気分的には、
なんとなく出エジプト記を連想させる。
la Grand Ville はバビロンかよ。


おもえば、この小説は、
双子は聖書を読み、ただし信仰は持たず、
しかもかれらは十戒をことごとく破ってゆくんだっけなぁ。
このトピックに刺激されて
三部作といわれるうちの残り二作を読みました。


が。


なぞは深まるばかりで
わかったつもりが読み進むと
わかってなかったことになって。


なのでスージーさんの
解説を楽しみにまってます。


ところで三部作全部をお読みになった方、
「第三の嘘」の最後の一文、つまりこのシリーズの最後の最後の言葉。
すっごく怖くなかったですか?
訳もすごいですよね。
オリジナルで読めたらいいなあ・・・
エイミさんへ



>生きていくため。

>どんな状況に陥ろうとも生きていけるように、かれらは厳しい訓練を幾度となく繰り返す。なにがあったって生き抜いてやる、死んでたまるものか、この美しい双子の腹の奥に秘められたその思いが、この小説の魅力のひとつになっている


まさに、そうですね。すべてはその主題のために書かれていて、だからこそたとえば冒頭7pの祖母せりふも不気味に効いてくる、「牝犬は一度に四、五匹、産み落とすのがふつうだよ。一、二匹は生かしてやって、残りは水に溺れさせるもんじゃ。」そして祖母が双子を「牝犬の子」と呼ぶことも。さらには町の人たちが、かれらを、魔女の子、淫売の子、バカ者、与太者、鼻糞小僧、阿呆、豚っ子、道楽者、ヤクザ、ごろつき、糞ったれ、極悪人、殺人鬼の卵、と、呼ぶことも。(p30)


それに対して、双子はそれら勝手に周囲が貼ってくる自分たちの名を決して内面化させず、逆に、すべてを払いのけ、強く、たくましく、自分たちの無垢な魂を守りとおし、生き延びてゆく。


そこに生まれる周囲との葛藤、物語のダイナミックな運動が、すばらしいです。





うッ、ひーちさん、



そうなんですね? そっかぁ。そうなんだぁ。
こりゃ、しっかり読まなくちゃ、ですねぇ。

エイミさんへ


問いというものは、正解のない問いがエレガントですね。そう、作品には正解が書かれていないから、そこで、作品の外側まで考察範囲を広くとって、考えてみます。


クリストフさんのこの作品は、戦後41年もたってからの出版。一方で、作品に描かれているのは、戦時下のむちゃくちゃな状況下で生き延びるコドモたちでありながら、他方、その世界を描く著者は、スイスという異国で、作品を書きながら、育児をしたり、離婚したり、再婚し、出産し、育児をこなし、つまり母親としての仕事もまたしています。しかも確認していませんが、最初の夫とのあいだにもうけたコドモは、もしかしたら離別しているんじゃないかしら?


ぼくはこの作品のなかに、コドモとしての視点と同時に、ひそかに母親としての視点が「共存している」ようにおもえてなりません。なお、その共存といっても、著者は双子の男の子たちを超魅力的に描きますが、他方、大人の女たちを描くにあたってえらく冷淡かつ残酷です。そしてその冷淡と残酷は、母親に対してもまったく変わらず行使されています。(それを言うなら、ま、大人男だって残酷に描かれてはいるけれど。)


ぼくはこの女性の描かれ方についての残酷は、著者のクリストフさんの、厳しい自省の念ではないかという疑いを感じてやみません。そう、彼女は、最初の夫や、最初の娘から自分自身に向けられているだろう批評の視線を内面化させているのではないかしら。そう、ぼくは、あの母親の骸骨の場面に、著者からの最初の夫と最初の娘への、罪悪感の表明を感じてなりません。ただし、こういうことはほんとうは、しっかり著者の史実を調べてから言わなければならないのだけれど・・・。


色んな読み方があって、ほんと楽しいですね。
わたしもエイミさん同様、登場人物への同化タイプです。
なのでわたしは物語の内側にのみ目を据えて、それから
この作品だけに限定して考えてみます。

エイミさんの疑問、「なぜ骸骨と化した母と子を屋根裏部屋につるしたのか」
について。


わたしの印象は「双子は母親の存在をずっと求めてていた」です。
ずうっと母親が迎えにくるのを待っていたような気がしたんだけど
思い込みだったかしら?

あの行為に私は、母への愛情というよりは、うーん、そんな
甘いものではなく、ずっと喪失感を抱いていたものが
ようやく自分たちの手に入ったから、今度はなくさないように
身近においておく、という所有欲のようなものを感じました。
それも一種の愛情といえばそうなのかなあ。

同時に、丁寧に復元して、おまけに赤ん坊も一緒に
かざっているところに
母親を独り占めしていた対象への憎しみ、
自分たちを捨てて別の家庭をもった母親への憎しみ、
そんなようなものも感じました。
だから玩具にして復讐しているような。

ログインすると、残り5件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

夜とスージーと文学と 更新情報

夜とスージーと文学とのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング