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夜とスージーと文学とコミュの実は、1990年代のニッポンが生んだ最高にチャーミングな小説は、これでしょ。

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野中さんが1992年に発表した『アンダーソン家のヨメ』はすごいすごい傑作でね。明るく元気な日本人の女の子が、アメリカ人と愛し合って結婚したものの、とうぜんのことながら夫とだけつきあうわけにはいかず、相手の家族とのつきあいも生まれ、そこで、ごくあたりまえの日常生活のなかに、さまざまな文化的 conflict (ぶつかりあい)が群がり起こる。その葛藤のなかに見え隠れするおたがいの愛と哀しみとムカつきを、著者は一見バラエティ番組のマシンガントークのような文体を擬態しながらも、ただし、ひそかに全体はていねいにコントロールされた、すばらしい文学作品として結実させたんだ。鴎外も荷風も墓場のなかからがばりと身を起こし、静かに拍手を送っただろう。いや、ほんとだってば。



「シカゴのオヘア国際空港に降り立つと、サトー・マドコとウィル・アンダーソンは、途方に暮れた。」ふたりはタイや香港など東南アジアの国々を三週間かけて蜜月旅行してきたばかりで、そっちで手間のかかった、うまい「文化の産物である」料理ばかりを食べてきたので、アメリカの空港で売っているジャンクな食べ物を、できるならば口にしたくないのである。しかしやはり背に腹はかえられず、不承不承ミドルサイズのバタつきポップコーンとキングサイズのm&m’s のプレーンを購入し、マドコはダイエットコークで、ウィルは薄くて香りのないコーヒーで、それらのジャンクを胃に流し込んだのだった。


不穏なはじまりかたでしょ、ハネムーン帰りの新婚さんだというのに。しかも空港にはウィルの弟のウォルターが迎えに来てくれるはずなのに、どういうわけだか、遅れてる。せっかく新居のワシントンDCへ行くまえに、夫の実家へ挨拶へ来たというのに。ウォルターにしても、これからアメリカ国務省でのお勤めがはじまるまえに時間をやりくりしてせっかくシカゴへ戻ってきたというのに。けっきょくウォルターはこ一時間遅れてやって来て、「遅れてごめんでも、結婚おめでとうでもなく、ただ無愛想にHi! とだけ言うと、マドコのことを上から下までじろりと眺めおろし、それから少し顎をしゃくった具合にして、ちょっとは日本人らしくなったじゃないの、とここで初めて笑顔ーーそれもとびきり皮肉なやつーーを浮かべて言った。」


怖いでしょ。さて、翌日はウィルとマドコのウェディングパーティがウィルの両親の家で開かれることになっている。季節は冬である。クルマは走る、空港からの道のりは広大な牧草地と畑、どこまでも続く白い草原である。日本人の若い娘がアメリカ人青年と愛し合って、結婚して、そしてアメリカ人の夫の実家に挨拶に行く物語。物語は冒頭から、ささやかな文化的conflict を次々とぶつけ、葛藤のテンションをじょじょにせり上げててゆく。とうぜんそこに登場人物全員の、愛と哀しみとムカつきも滲み出てくるわけ。



ヒロインのマドコは夫婦別姓にこだわっている、なぜって、両親に反対されながらも国際結婚にふみきった自分にとって、せめて結婚しても両親の姓を名のりつづけることが、自分のできる両親への誠意だとおもうから。そもそもアメリカには戸籍もなく、夫婦別姓がさしてめずらしいことでもないことを彼女は知っていたから。ところが、マドコはその意思をウィルがかれの両親や家族にも伝え、了解が得られているものとばかりおもっていたら、あにはからんや、かれの家族は寝耳に水。どうやら、かれの家族は、(とりわけウィルの母親)は、あくまでもマドコを「アンダーソン家のヨメとして」、迎えたい様子なのである。むろんマドコはそんなこと、まったく望んでいない。





さて、ウィルの家は百年以上もまえに建てられたヴィクトリア朝の木造の家である。ウィルの実家、すなわちアンダーソン家の父親は、巨漢で日本史の博士号をもった大学教授。日本史専攻のきっかけは朝鮮戦争にGIとして派遣され、軍医の助手として日本人の売春婦の性病調査にたずさわったことで、しかもそのおりにミッちゃんという日本人のガールフレンドまでできちゃって、帰国後は迷うことなく軍を除隊し、猛烈に勉強し、有名大学の大学院に進み、日本史の研究家になった人物である。母親は壁画画家、芸術は生活のなかにこそあるべきであるという固い信念の持ち主である。ウィルは最近まで大学院生だったもののマドコと結婚を決意し、マドコの良心に学生結婚を反対されて、院を中退して、これから国務省に就職することが決まっている。ウィルの弟ウォルターはマッチョな保守派で、頭のいいこれまた保守派のガールフレンド、ジュリアがいる。ウィルの妹ミュリエルは美少女で最近、学校の先生の影響でヴェジタリアンでフェミニストになった。どうです、おもしろそうでしょ。




物語は中盤から主題が不気味にせりあがってくる。そう、マドコの夫婦別姓の意思が、アンダーソン家の家族や関係者たちのそれぞれからのやんわりとした反対意見にさらされ、明るくファミリアスな社交のなかに、ひそかに〈夫婦別姓 対 夫婦同姓〉の思想的攻防戦が繰り広げられるような様相を呈してゆく。たとえば母親はマドコに手紙を書く、愛情あふれる文章のなかにやんわりと、家族同姓への希望を書き添えて。マドコは、そのかれの母親の意向についてウィルに苦情を言いつのるけれど、そのウィルにしたって、マドコとの結婚のために、大学院を中退する道を選んだのだ。そう、自分だって、犠牲を払っている、少しはマドコにも折れてほしいところだ。クールなジュリアに至っては、「あなたには姓を変えて都合の悪いキャリアも仕事もいまのところないんでしょ」と言い放つ。ここで、もうひとつの主題が前景化する、そう、マドコはキャリアガールでもなく、かと言って専業主婦としてがんばるでもない、doing nothing な女なのである。いかにも分が悪い、押され気味である。だって、マドコは、doing nothing な女なんだもの。もっとも、少々押されたくらいでは、決して負けないマドコではあるのだけれど・・・。



しかも物語が展開してゆくにつれ、ことは夫婦別姓ー夫婦同姓の問題に留まらず、〈フェミニズム 対 家族愛〉〈アメリカにおいてマイノリティが文化的アイデンティティを保つには・・・〉といった問題がぞおぞろと立ち現れてくるのである。いつのまにかマドコは、夫婦別姓にこだわるのみならず、「ジャパニーズガールは男にとって都合のいい女」という社会通念と(けなげにも独力で)闘ってゆくに至るのである、そう、明るいマシンガントークで。(そしてこの物語に奥行を与えているのが、アラブ系アメリカ人のデイヴィッドである)。クライマックスは結婚パーティで、やけのやんぱちになって、周囲のジャパニーズソングを聴かせろという期待にしぶしぶ応えマドコは『銀座カンカン娘』を熱唱する、そのマドコの姿は、胸がしめつけられるほどいじらしい。





著者はこの作品執筆当時26歳だか27歳、あの時は彼女の輝くばかりの才能に、おれは椅子から転げ落ちた。ちょっと文芸批評家みたいな言い草になっちゃうけれど、純文学ファンのなかには、多和田葉子さんやリービ秀雄さんをえらく高く評価する向きがあって、そりゃあもちろんあのふたりはいかにも玄人好み。でもね、文化と文化の「あいだ」に生まれる葛藤を未知の(かすかに異様な!)文体を創造して定着させるって意味では、この野中柊さんの『アンダーソン家のヨメ』もまったく負けてないし、文体が軽いからって中身は決して軽くない、むしろめちゃくちゃおもしろい。この作品は、1992年発表されたもので、芥川賞も、三島賞も、この作品を候補作に選びながら、しかし賞を授けはしなかった。そりゃ、ま、おそらく三島賞の選考委員の石原慎太郎や江藤淳は、この作品に国辱的なパッションを感じて、頭から湯気出して怒り狂っただろうけれど、しかし、ほんとうはこの「アンダーソン家のヨメ』こそが、1990年代でもっとも重要で、なおかつチャーミングな小説だったんだ。ま、おれの見るところね。




ま、そんな話はいいや。大事なことは野中さんが1992年『アンダーソン家のヨメ』という日本文学史に残る、すごいすごい傑作を発表したこと。そしていまでも心ある読者は、『アンダーソン家のヨメ』を抱きしめるように愛してること。(たとえば集英社文庫『ヨモギ・アイス』解説の柴田元幸氏もまた!) ほんとうに大事なことはそれだけだ。この作品は、こないだ2007年4月、集英社文庫から姉妹編の『ヨモギ・アイス』と併載し、(それは単行本版『アンダーソン家のヨメ』と同じながら)タイトルを『ヨモギ・アイス』に改め、改稿・再刊された。単行本ヴァージョンと文庫ヴァージョンを読み比べたところ、文庫本ヴァージョンでは、単行本ヴァージョンの、主人公のマシンガン・トークの魅力をたっぷり活かしながら、ただしそのなかの雑然とした部分をいくらか抑え、また小説のトーンを全体的にいくらか整え、小説としての完成度がますます高められていた。いずれにせよ、この『アンダーソン家のヨメ』、いいよぉ。








■野中 柊(のなか ひいらぎ、1964年 - )新潟県出身。立教大学法学部卒業後、渡米。ニューヨーク州イサカ在住中の、1991年に、海燕新人文学賞を受賞しデビュー。作品数はとても多い、おもなものは以下のとおり。(年は単行本刊行年)。


1992年『アンダーソン家のヨメ』(現在は『ヨモギ・アイス』として集英社文庫)
1992年『チョコレット・オーガズム』(集英社文庫)
1996年『ダリア』(集英社文庫)
2003年『ジャンピング・ベイビー』(新潮文庫)
2007年『プリズム』(新潮社)








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