夜とスージーと文学とコミュの追うものと追われるもののフーガ。久世光彦『一九三四年冬－乱歩』

不思議な切迫感のその濃密な気配を漂わせるこのドラマを読み終えて気づくことには、この物語が、追うものと追われるものをめぐって書かれていることです。まずたやすく気づくことは、追うものとは編集者であり、追われるものとは（小説を書けなくなって失踪した）乱歩ではあるでしょう。ただし、それは物語の表層に過ぎず、しかも乱歩を追いかける編集者の姿は物語の表層には現れず、もっぱら乱歩の意識に現れかれを切迫させるのみです。では、追うものは妻の隆子で、追われるものが乱歩でしょうか。いいえ、その線はそれほどには作品の内部に食い込んでいなくて。むしろ追うものとは、乱歩の最盛期の作品の輝きであり、追われるものとは（心ならずも！）最盛期を過ぎつつあるやもしれぬとの自覚に怖れおののく乱歩なんです。あるいは追うものは乱歩であり、追われるものはエドガー･アラン･ポー。それとも追うものとは中年の入口に立った乱歩であり、追われるものはかれにとって運命の女、梔子姫か。いや、それを言うなら追うものは小説家乱歩で、追われるものはかれの書きつつある進行形の小説『梔子姫』である。いや、追うものは著者の久世光彦で、追われるものは、過去の薄暗がりのなかに幻燈のように映し出される戦前の昭和か。そしてそれらすべての追跡劇の深層にひっそりと息づいているのは、「追うものは死、終われるものは乱歩」である昏い昏い劇なんです。そう、久世光彦『１９３４年冬－乱歩』は、追うものと追われつものの多声フーガ。なんと技巧的な、美しくも鬼気迫る、哀しいフーガでしょう。

物語の冒頭で乱歩は風呂に入っています。バスタブのなかで乱歩は、西に面した浴室の高窓にはめこまれたステンドグラスの模様が湯に映って、今朝はその形がトナカイに見えたかとおもったものだが、いまは羽を広げた鴉に見えるとおもったりします。浴槽のほうろうはところどころ剥げかかり、床のタイルも黒ずんだり黄ばんだりしていて、（中年乱歩のように？）。風呂好きの乱歩は湯のなかで満足そうです。けれども、むろん乱歩は知っています、ほんとうはのんびり風呂に使っている場合などではなく。しばらく浴槽に腰かけたまま俯いて乱歩は目をつぶっています。網膜の裏を黄色い鴉が何羽も飛んで、やがて消えた。そのとき乱歩は自分の股間に銀色のものが光っているのを知るんです、幾筋かの白髪ではないか、まだ四十歳になったばかりだというのに。

乱歩が入っているのは、家の風呂ではなく、ホテルの風呂です。１９３４年、すなわち昭和９年、冬、乱歩は雑誌『新青年』に連載中の『悪霊』の続きをどうにも書き進めることができず、麻布箪笥町、いまで言えば溜池のあたりの小道にひっそりと佇む、ひなびたホテル、張（ちゃん）ホテルに身を隠しています。張ホテルはなだらかな坂の中腹にある木造２階建ての青い洋館、アールデコまがいの玄関があり、オレンジ色のチューリップの形をした軒燈が昼間から点いていて。乱歩は宿帳には素知らぬ顔で、水谷準と署名しました。（後に明らかにされることには、かれの編集者の名前なんです！）　ここまで来るのには、市電で銀座まで出て、そこからわざわざタクシーに乗り換え、もったいぶってやって来ました。かれが行方をくらますのはいつものことだったけれど、今回ばかりはしたしい編集者にも行き先を告げずに。乱歩は心配しています、もしかしたらあしたの夕刊あたりで新聞沙汰になるやもしれぬ。

ホテルには、中国人のボーイ翁華栄（オウ･ファーロン）がいます。美青年です。いつのまにか乱歩は、ホテルの部屋で眠ってしまい、夢を見ます。翁青年がぶよぶよ太った大男に追われてこっちへ走ってくる。美青年の裸足の指先は血まみれである。夢のなかで乱歩はおもういます、そうだ、かれを追いかける男は、経営者の張という男に違いない。追う男と追われる男。（ここで心ある読者はおもいます、おそらくは乱歩もまた追われる男であることを。なにものかに追われ、必死で逃げています。）読者はおもう、この物語『１９３４年冬－乱歩』は、どこへ行くんだろう？

乱歩は四十歳。『悪霊』の続きをどうにも書き進めることができず、ここまで逃げてきました、さんざん期待されたあげく、にっちもさっちもいかなくなって。かれはこれまでの自身の作家人生を振り返ります、「おだてられ、乗せられて、愛嬌たっぷり振り撒いていたら、ある日、拍手喝采のほんのちょっとの合間から、あのドロドロ、ドロドロという陰気でやりきれない音が聞こえてきた。」　かれはかつて自身に宿っていた創造の女神がもしかして去ってしまったのではないか、と怖れています。

苦悩する乱歩、（いまここで死んでしまえば、おれの絶筆は『悪霊』になってしまう、それは堪えられない！　乱歩は自分自身の死亡記事を想像します、「大正１２年、『二銭銅貨』で衝撃のデビュー、代表作は『パノラマ島奇談』『陰獣』、絶筆は未完のまま中断の『悪霊』！　堪えられない！　そんなことなら５年まえ『押絵と旅する男』を書き終えて、死ねば良かったのだ！）　乱歩は、そもそも推理小説とはなんなんだろうと思索します。いいえ、そもそも小説とは・・・。そんななか乱歩は、推理小説マニアのアメリカ人の人妻メイベル･リーに惹かれます。（リー、なんということだろう、ポーが生涯の終わりに書き上げた少女へのファンタズムを謳いあげた詩、アナベル・リーをおもわせるではないか。海のほとりの王国に、愛し愛されるためだけに暮らしていた少女、アナベル･リーを。）乱歩は、推理小説に関して博覧強記のリー夫人と推理小説談義に花を咲かせます。

乱歩は張ホテルの部屋で、震える手で万年筆を握り締め、深呼吸をし、小説『梔子姫』を書き始めます。鞠のように柔らかな体の中国人娼婦。梔子の匂いのする、言葉をしゃべれない娘。彼女に虜になったわたしは、彼女の悲しい生い立ちに共感し、彼女を妖しい館から彼女を連れ出そうとする・・・。

この小説『１９３４年冬－乱歩』のなかの小説内現実に現れるのは、怪しいムードを漂わせるホテル、中国人の美青年ボーイ、そして推理小説好きのアメリカ人の人妻。けれども主眼となるドラマはむしろ乱歩の意識下のドラマであって。いいえ、正確に言えば、この小説の中心となる劇は、乱歩の内面の煩悶と、乱歩が書きつつある小説『梔子姫』の相互関係です。主人公乱歩の意識のドラマ、内面の劇、そう、それこそまるで純文学の、ヴァージニア・ウルフの如き設定で、このエンターテインメントは書き進められてゆきます。このテの小説は、どこまで読者の緊張を持続させ、関心をひっぱり続けることができるかに命運がかかっていて。

作中に多く引用される『梔子姫』は、著者久世光彦のフィクションながら、その妖しい世界は、まるで乱歩自身が執筆していたのかとおもうほどの巧みさ。また作中登場する乱歩が持参した創作メモに題名のみ記されていた「書かれざる物語」もおそらくは著者の創作でしょう、「三人道成寺」、「人間蝋燭」、「逃げ水女郎」、「厭人倶楽部」、「侏儒祭」、「消えた葬列」、「庄野笙子」、「過去帳の女」・・・しかしもしかしたらじっさいに乱歩の創作メモが存在し、それらの名前が記されていたかもしれないとおもわせるあたりが、小憎らしい。もはや虚実は、杳として知れません。いいえ、虚が実を孕んでいるのか、実が虚をはらんでいるのか、それさえも。

舞台は１９３４年、すなわち昭和九年の東京、当時の東京は、いったいどんなだったでしょう？　われわれはすでに知っています、1923年9月1日、関東大震災で、凌雲閣（浅草十二階）が大破し、建設中だった丸の内の内外ビルディングが崩壊。東京の広範囲が灰燼に帰した、その１１年後であることを。震災復興事業として、すでに「同潤会アパート」「聖橋」「震災復興橋（隅田川）」「九段下ビル」などが作られ、私鉄は郊外へ伸びていったでしょう。すでにラジオ放送は定着し、放送はひそかな大日本帝国の戦争への歩みを伝えもしたでしょう。もっともこの小説じたいはそれらの風俗について多くを語りはしません。ただ、些細なディティル（たとえば、麻布箪笥町、あるいは芝車町と言う町名や、石炭ストーブ、市電、博文館、丸善、常盤座と背中合わせの喫茶店、神田の万葱というフルーツパーラー、震災前のガス灯が一部残っている光景、ゴールデンバット七銭、金春湯三銭・・・）が時代の匂いを連れてくるのです。また本文に嵌め込まれた『梔子姫』にしても、時代を考えればほんらいならば旧かなで書かれるべきものでしょうが、戦後の新かな使いで、いかにも当時の感じを出しています。

著者久世光彦は、この作品を56歳から58歳にかけて書きました。著者の理解において、乱歩は４０歳にしてすでに最盛期を過ぎ、往時の輝きが衰えつつあるという認識があるのではないかしら。他方、そう認識する著者ももはや５０代後半、どこかで来るべき死を意識しているに違いなく。それゆえ、乱歩がなんとか自分自身を奮い立たせようとしたであろう姿がいやましていとおしいのではなかったでしょうか。そう、著者は輝きを失いつつあるなかで奮闘する中年初期の乱歩を慈しんでいます、いじらしくていじらしくてたまらないというように。自分自身の影を見出すように。

初出集英社『青春と読書』1991年2月号～1993年5月号「乱歩は散歩」を改題。
単行本 1993年12月号
新潮文庫、1997年

久世光彦(くぜ・てるひこ)1935年ー2006年。
1935年生、東京大学文学部美術史学科卒。テレビドラマの演出家としての代表作に、1970年～1974年「時間ですよ」、1974年「寺内貫太郎一家」。作家としての仕事に、『１９３４年冬－乱歩』、『聖なる春』、『謎の母』以上新潮文庫、『蕭々館日録』（中公文庫）、『へのへの夢二』筑摩書房。『百閒先生月を踏む』（遺作・未完。朝日新聞社）

江戸川乱歩（えどがわ・らんぽ）、明治27年（1894年） - 昭和40年（1965年）。大正12年（1923年）に『二銭銅貨』でデビュー。それはまさに関東大震災の年である。作品多数。少年向けに、明智小五郎と小林少年をはじめとする少年探偵団が活躍する作品『怪人二十面相』などを多数発表した。ユートピア、探偵、窃視症、人形愛、ＳＭ、フェティシズム、少年、コスチューム・プレイ、洋館、暗号、洞窟・迷宮、群衆、蜃気楼などのモティーフを好んだ。