ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本人はなぜ多重人格なのかコミュの日本人は教育段階で型にはまる

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
一昨日、BSフジのテレビ番組で、ノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈氏のインタビュー番組を見ておりましたところ、江崎氏が興味深いことを語っていました。

それは日本とアメリカの学校教育では、10代(特に13歳から19歳あたり)の人間に対する教育方針が非常に違っているというのです。

日本では、やはり生徒を型にはめる教育が基本となっているが、アメリカの場合は、自分が学ぼうとするのを助ける教育になっているというのです。そして江崎玲於奈氏は、この点ではアメリカの教育哲学のほうが優れていると考えているようです。

なぜ江崎氏が「自分が学ぼうとするのを助ける教育」が好ましいと考えているかというと、人間が10代、特に13歳から19歳あたりのライフステージにあるときに顕著な特徴はというと、やはり自我の目覚めがあるということです。このため、このライフステージにある人間は、自分で自分をどう学ばせるか、ということを考えるようになる。つまり、その人の心に、「学んでいる自分」と「学ばせている自分(学びの方針を批判的に検討している自分)」というものが形成されるのです。

そしてこのライフステージにある人間に対する好ましい教育の在り方は、「学ばせている自分(学びの方針を批判的に検討している自分)」に対するいろいろな判断の材料を提供するなど、支援や助言をすることが重要だというのが江崎氏の考え方のようです。

アメリカの大学生(ある程度レベルの高い大学での話しですが)は、学部の3,4年あたりから急速に学力を向上させるようですね。

日本の大学ですと、学部の1年ぐらいまでは、日本のほうが高度な教育をしているようです(最近はゆとり教育の弊害もありどうだかわかりませんが)。アメリカの大学の学部1年は日本の高校3年か予備校ぐらいのレベルのことを教えていると聞きます。ところが学部2年ぐらいから追いつきはじめ、学部の3,4年あたりから急速に学力を向上させるようです。

アメリカの大学生のほうが成長余力が蓄えられていると考えられますが、この理由は何でしょうか。日本の大学生は、高校までの「大学受験過程」で、型にはまった詰め込み教育で脳ミソが疲弊しているため、成長余力が残っていないのではないでしょうか。

逆にいうと、人間が13歳から19歳あたりの「自我の芽生え」のライフステージにあるときに、「学ばせている自分」に対して支援する教育をしたほうが、あとあとになって伸びるのではないでしょうか。

コメント(61)

>12番

>中国は日本以上に型にはめた教育で、丸暗記が主体になっている可能性がある。

これは根拠がありますか。たしかにその昔、中国には科挙という、いわば公務員登用試験があり、今の大学受験の比ではないほどの記憶力が試されていましたが、現在の中国は、むしろ日本よりも普遍性のある教育をしている可能性があります。

私が加入しているコミュニティに『研究者』というのがあり、そこで、あるメンバーさんが、外国の研究機関が研究員を採るときに、勤勉な日本人研究者よりも活発な中国人研究者を採用したがる傾向がある、という意味のことを言っている人がいます。

私の解釈では、この場合の「活発」という意味は、「自発的な行動力がある」という意味ではないかと考えていますが、そうだとすると、日本人よりは中国人のほうが「自発的行動力がある」ということになりますね。

そうだとすると、中国のほうが日本よりも、「自発的な行動力のある人」を養成することに成功しているということになると思います。
日本の教育は、生徒のための教育ではなく、先生や上の人に都合の良い人を作るための教育(洗脳)だと思います。

日本の学校の規則、体育会の行進→まるで戦争の時の兵士です。
詰め込み授業。

私の高校で、頭髪について、人権無視的な規則がありました。
天然パーマの私の髪はパーマだと疑われ、水に濡らされ、天パーだと証明させられました。
証明された後は、なんと、生徒手帳にN2という天パーの証明番号がはんこうで押され、疑われる度にそれを見せる、という事がありました。

私は抗議しましたが、負けました。

身体的な事までみんなと違うと差別されます。これが教育でしょうか?

行動、考え方、外見までみんなと一緒にしようとする日本の思想。

これは教育じゃなくて全体主義に導こうとする洗脳だと思うんですが。

ayuさん、ようこそいらっしゃいました。行動、考え方、外見までみんなと一緒にしようとする高校の現場の実例を紹介していただいたわけですね。
日本の小学校で変だと思った事があります。

日本の小学校では生徒に学校の掃除をさせる事はおかしいと思います。これは明らかに学校が清掃経費削減のために子供達を利用しているとしか思えません。

私の親が言っている事は、昔は生徒の教室には夏に冷房なかったのに、教員室には冷房がかかっていて、不公平だと言っています。
これを見ていると、日本の学校では先生にとって都合の良いシステムになっていて、生徒の事はあまり考えていないように思えます。これも上下関係だと思いますが。

給食についても、毎日一つのメニューしかなく、選択出来ません。ちなみにアメリカの学校では、自分でお弁当を持っていくか、学校で一つ以上のメニューがあり、自分で好きな物が選べます。
これも日本の問題の一つだと思います。選択出来る、状況が欧米と比べるととても少ないと思います。
選択する事においても自分で考える教育の一つになると思いますが、日本では上から与えられた物を文句を言わずにやる、という軍隊的、封建的な思想が学校にも浸透しています。
>給食についても、毎日一つのメニューしかなく、選択出来ません。(中略)選択する事に
>おいても自分で考える教育の一つになる

給食において児童生徒に選択肢を与えることと、児童生徒に自律的主体的に考えさせる教育をすることとの間にはそれほど強い因果関係はないんじゃないかと思います。

児童生徒に自律的主体的に考えさせる教育をすること自体は非常に良いことです。だが、そのための手段として給食に選択肢を与えてみても、たいして教育効果はないんじゃないでしょうか。

それよりも、授業の中で先生はどんどん質問を生徒に振るのが良い。その場合の質問の振り方は、単にその知識を知っているかどうかを試すような質問の仕方でするのではなく、「あなたはどう考えますか」という趣旨の質問をするようにするのです。

先生が常日頃そういうことを心がけているだけでも、だいぶ教育効果は違うと思う。
tomtomさん、

ご指摘ありがとうございます。

給食の件は、子供達の自律性には直接は関係しないかもしれませんね。
給食について私が述べたかった事は、日本の学校には生徒に広い選択権がないのではないか、と思ったのです。その中に給食もあると思いまして。

アメリカの学校では、生徒一人一人にいろんな質問をして生徒に考える癖をつけさせる事によって自分の考えを確立出来て、理論的な考えを持つ事が出来ます。アメリカの先生は学校においても生徒個人を尊重しますので、子供達は「自分は大切にされている」「自分は価値のある人間だ」と思える事が出来、自信がつくと思います。
>教育現場では知識を「教える」ことはしますが、「学び方」を教えることは無いのではないか、と思います。

ブランカさん、HPを拝見すると93歳となっています。93歳とは思えない若々しさですね。

日本の教育現場では「学び方」を教えることは無い、というご指摘ですが、私の考えでは、「学び方」を適切に教えることのできる教師が少ないということだと思います。

「学び方」を適切に教えるためには、教えるほうが、良い学び方を実体験し、それを同定できていることが必要です。つまり、教える側がいろいろな学び方を試し、なんらかの成果を上げた場合、自分が試したいろいろな学び方のうち、どれが効果的だったのかをちゃんと把握できていることが大事です。そういう実体験に基づいて、生徒にいろいろな学び方を指導できるためには、教師の力量が要るでしょうね。現状はそのあたりが不十分なのでしょう。
>しかし、その一方で、自分で試行錯誤する、という段階が重要であるとも思います。

そうですね。その教師が「この勉強のしかたが一番いい」とおもってそれを指導しても、それがその生徒にとって本当にいいかどうかは保証の限りではありません。自分に最も合った勉強のしかたというのを開拓する必要があるでしょう。
日本人の自我の確立の遅さには、学校教育もありますが、他に家庭教育も問題だと思います。

日本人の親は子供が生まれると赤ちゃんと一緒の部屋でずーっと過ごします。日本女性は専業主婦が多いので子供に過剰に世話をします。日本では母親が赤ちゃんの頃からべったりなので、子供も大きくなってから自立しにくいのでしょう。日本人の親は子供に依存しています。欧米では赤ちゃんは別の部屋に寝かせます。そして専業主婦は少なく、出産後も仕事に復帰します。

基本的に欧米では結婚後も女性は家庭にしばられず、子供の事と同様に自分の仕事や夫婦関係も大切にします。日本では結婚後、お互いをパパ、ママ、と呼び合いますが、そんな事は他の国では考えられません。日本における夫婦、結婚、子供を持つ事の意味が外国とはかなり違うように思えます。日本における親子の関係が依存的なのでお互いに大人になっても自立しにくいのだと思います。
>日本では結婚後、お互いをパパ、ママ、と呼び合いますが、そんな事は他の国では考えられません。

日本では結婚後、特に子供ができると、夫婦はにわかにお互いをパパ、ママとよぶようになりますね。これは考えてみると奇妙です。

それから、日本人夫婦は、子供は自分の所有物だという観念が強すぎるように思います。子供のいる夫婦が離婚するときの子供の養育権の帰属の問題も、日本人の場合は、実質子供の所有権はどっちに帰属するかという話になっていくように思います。

また、ちょっと飛躍する話ですが、よその国のことはよく知りませんが、日本では子供に対する虐待(児童虐待)が結構多いように思います。しかし奇妙なのは、せっかく「児童相談所」という公的救済機関があるのに、有効に行動していないように思います。

その理由として考えられるのは、日本では「子供は親の所有物だ」という観念が強いからではないでしょうか。このため、児童相談所の相談員は、児童虐待が疑われるケースに遭遇しても、相談員は「他人の所有物の話には首を突っ込みたくない」のようなパーセプションで対処しているのではないでしょうか。

だが、子供にも人権があるということを忘れてはいけません。子供はたとえ誰の子供として生まれてきても、愛情に包まれた健全な環境で育つ権利があります。
Tomtomさん、

私も日本では子供は「所有物」感覚があると思いますし、日本における子供の人権は非常に低いと思います。日本の親は子供を一人間として扱わないです。子供が何かについて意見を言うと「生意気」と言い、親に従順な子が「良い子」という思想を持っていますね。まるで会社の上司と部下みたいです。多くの日本の親は本当に子に対して「愛情」があるのか疑問です。
私は日常的に外で親が子供に対して暴言を吐いていたという光景をよく見かけます。日本の親は、子に対して「育ててあげている」という上から目線的な思想だと思います。子供は親に頼らなくては生きていけませんから、大人である親が子を守るのは当たり前だと思いますが、日本では子供が弱いのにつけこんで親がえばっているように思えます。
子供が親に甘えるのは普通ですが、日本では逆に親が子に甘えているように見えます。

日本人夫婦がお互いをパパ、ママ、と呼ぶ背景には、元々日本人の性に対する考え方のゆがみがあるのではないでしょうか。日本男性は結婚前から女性を女性と思いたくなく、母を求め、日本女性も男性を男性と思いたくなく、父親を求めているのではないかと思います。実際、特に日本人男性はセクシーな女性よりお母さん的な女性を好みますね。
>ティーチングの時代からコーチングの時代に移っているということでしようね。

なるほど。そういう見方もできますね。以前にエコロさんがスコラ的教育、マイスター的教育、ソクラテス的教育という概念を紹介してくれましたが、少なくとも中等教育(中学高校レベル)以降はソクラテス的教育でなければならないと思います。

>日本の教育界はほんと遅れている。

全くその通りですが、日本の教育界が遅れているのは、日本の教育界が基本的に閉鎖社会だからだと思います。

例えば最近になってようやく教員免許の更新制度が始まろうとしていますが、それまでは、教員免許は一旦取得すると永久的な既得権だったのです。私立学校はまだしも、公立学校の教職員の世界は、一種の閉鎖社会であり、競争原理は全く働かず、教育哲学や教育技術のイノベーションは停滞しきっていると思います。
25: ice さん

>選択する事においても自分で考える教育の一つになると思いますが、
>日本では上から与えられた物を文句を言わずにやる、という軍隊的、
>封建的な思想が学校にも浸透しています。

これで思い出しましたが、「上から与えられたものを文句言わずにやる」
というのはまさに朱子学の思想です。
そしてそれを正当化するのが「与えられたものはすべて有り難いものだから
感謝して受け取るべき」だという日本仏教的思想です。
こうした江戸時代の封建思想が未だに根付き、正当化されて崇められている
のが日本社会です。

ちなみにヨーロッパの中学・高校でも選択授業が大半で、ほとんど生徒が
自分で授業やコースを選択できます。

今、帰国子女を教えているのですが、日本と現地との教育の違いに戸惑う
ばかりで、あまりにもギャップが大きすぎると嘆いています。
試験も暗記型のテストはほとんどなく、自分で調べてレポートを書く、
面接を受ける、論述するものが大半だとか。


27:
>日本の学校には生徒に広い選択権がないのではないか、と思ったのです。

そのとおりです。
学校にもよると思いますが、選択権が与えられているところでも、
生徒の自主性ではなく、教師側の意図の下でつくられた選択権ですから、
生徒の個性、創造性や想像力は発揮できないような教育体系になっている
ものと考えられます。

それでいて文部科学省は「生徒が自立できる力の養成を重視」と唱えている
わけですから、呆れてものがいえません。
官僚主導の教育は戦後ろくな個性を生み出してきませんでした。
代わりに生まれたのはロボット同然の規格品としての個性や自主性なき
無人格の依存型人間です。
>日本の母親は世話をしすぎるというご意見がありましたが、その点に関してちがうと思います。
>まだ幼いうちから集団生活させて世話は保育園まかせ、自分は仕事
>母親の世話が必要なときに他人まかせ。思春期になってあれこれと口だしします。

32番のiceさんのご意見に対する反論ですね。

真野さんとiceさん、どちらのご意見が正しいかはよくわかりませんが、一つはっきりしているのは、子供にとってどういう養育の仕方や教育の仕方をするのが本当に子供のためになるのか、子供の立場に立って考える、ということが足りないと思います。
34番iceさん

ミクシィ・ニュースに興味深いニュースが配信されていました。

***********************************************************************************

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=20&id=1008796

「子供は親の私物ではない」――。同居していた男と共謀して長女に暴力を振るい、けがをさせたとして傷害罪に問われた静岡市駿河区寺田、無職増田安祐美被告(22)の論告求刑が2日、静岡地裁であり、長谷川憲一裁判長が増田被告を厳しくたしなめる場面があった。

 起訴状などでは、増田被告は今年7月中旬〜22日頃、自宅で長女の花恋(かれん)ちゃん(当時2歳)に数回暴行したほか、7月中旬〜23日には、同居していた水元隆博被告(32)と共謀して花恋ちゃんに暴行し、後腹膜出血などを引き起こした――としている。花恋ちゃんは7月23日に浴槽内で水死し、検察側は水元被告を傷害と重過失致死罪で起訴、懲役4年6月を求刑している。

 増田被告は初公判の罪状認否で、水元被告との共謀を否認したが、2日の公判での被告人質問では「2人で暴力を振るったこともある」と証言を翻した。これを聞いた長谷川裁判長は、「なぜうそをついたのか。この期に及んで男をかばいたいのか」と詰問。さらに増田被告が「(水元被告に)花恋を差し出した」と話すと、長谷川裁判長は「花恋ちゃんは君の私物じゃない」と、語気を強めて増田被告を叱責(しっせき)した。

 この後の論告で検察側は、「自分本位の危険な犯行で、行為や結果の重さを理解していない」などとして懲役3年を求刑した。弁護側は最終弁論で、「傷害と死亡には因果関係はない」などとして、執行猶予付きの判決を求めた。
Tomtomさん

日本ではこのような親による子供虐待は今に始まった事ではなく、昔の方がもっとありましたが、昔は今より封建的だったので家の中で起こる家族内の事件は警察も重く考えなかったし、昔の日本国民もこういう事は当たり前だと考えていたので、明るみに出なかっただけです。日本は「内」と「外」に分かれてます。なので「内」の事は「外」には出さないし、外の人は内には介入しません。

日本では家庭内でも上下関係が大切で、一番権力あるのががお父さん、次にお母さん、最後が子供。妻も旦那の所有物という考えがあります。愛情よりも上下関係なんです。子に対する暴力を教育だのと言って言い逃れするずる賢い親がたくさんいるんです。普通は愛情ある人に暴力なんて振るいません。子に暴力を振るう親は単に自分達のストレス発散のために弱い立場の子に暴力を振るっている。
でも、子はその事がわからないから、「愛情あるから暴力振るってるんだ」と洗脳されてしまって、その子が大人になってもそれを信じてるので自分の子にも暴力を振るいます。

日本人のよく言う「暴力は愛情があるから」とか「暴力は教育」などは傲慢でずるい大人の言い訳です。

日本の学校や家庭における体罰や暴力の美化は日本の戦時中の軍隊式教育からも来てると思います。
>日本人のよく言う「暴力は愛情があるから」とか「暴力は教育」などは傲慢でずるい大人の言い訳です。

ここには問題のすり替えも感じられますね。愛情があるかないかの問題が、暴力をふるうことの効用の問題にすり替えられています。学校(大学なども含む)の体育会系サークルの先輩学生の後輩学生に対する「しごき」の思想にも似たような思想があると思われます。スコラ哲学ベースの押し付け教育に、こういった問題のすり替えを加味した教育を「悪しき教育」と名づけることにしたいと思います。

ところで、日本の現状を見ていると、どうも「悪しき教育」の手法が伝承してしまうように思います。つまり、「悪しき教育」で育った大人は、自分の子どもや学校の児童生徒に対して「悪しき教育」をやってしまうわけです。それが世代単位で繰り返され、いつまでも「悪しき教育」の伝統が持続してしまうわけです。

「悪しき教育」の伝統を断ち切るためには、やはり「革命」しかないと思うのです。

私は、例えば中国の文化大革命は、内容的には間違いだらけだという気がしています。しかし、こと日本人に限っては、中国の文化大革命をけなす資格はないと思う。なぜなら、革命には、それがどんな革命であるにせよ、国民にこれまでの惰性を断ち切るという決断力と行動力が要求されるのであり、日本人には、どんな革命にせよ、革命を起こす自律的行動力は無いわけですからね。
よく、ニュースで子供を虐待して殺した事件の場合、必ず両親は「しつけのつもりでやった」と言います。子が死んだ後も言い訳をして自分の正当化して逃げてるずるい大人です。じゃあ、暴力はしつけだから、しつけなら殺してもいい、という解釈になりますよね。こんな価値観の大人は子を持つ資格ありません。

>「悪しき教育」の伝統を断ち切るためには、やはり「革命」しかないと思うのです。

私もそう思います。日本の学校教育は各個人の心の成熟と自律心の育成や幸福のためではなくて、権力者にとって都合の良い人間を作る行為だと思います。
だから日本人は大人の年齢になっても自立出来ずに自己中心的な幼児的欲求が強い愛情飢餓な大人のままです。
>日本の学校教育は各個人の心の成熟と自律心の育成や幸福のためではなくて、権力者にとって都合の良い人間を作る行為だと思います。

おっしゃるとおりですね。この点についてはウォルフレンも『なぜ日本人は日本を愛せないのか』の中で言及しています。その部分を引用してご紹介しましょう。

−−
目的と手段の混合が顕著な例を、もう一つ、挙げよう。教育問題である。子どもを学校に送る目的は何か、と普通の人に聞けば、若者の精神的発達のため、あるいは、有用な知識を獲得させるため、といった答えが返ってくるだろう。だが、日本の教育システムは、そうしたことを行なっていない。これは、代わりに別の役割を優先して果たしているシステムである―すなわち、高度に官僚主義化したビジネス社会に仕える従順な人間を生産する、という役割である。日本の教育システムは、子どもたちに最良の環境を願う親たちの、要求や知恵が結晶してできたものではない。それは、日本の管理者たち、政府省庁の官僚たち、経団連・日経連などの組織にいる経済官僚たちの要求と利害を体して設計された、仕組まれた制度なのである。(P125)
−−
>日本の管理者たち、政府省庁の官僚たち、経団連・日経連などの組織にいる経済官僚たちの要求と利害を体して設計された、仕組まれた制度なのである。

まさにその通りです。日本の義務教育は、こうしたコピーロポットを生産する場所です。あと、昔からある女子校なんて完璧に花嫁学校ですからね。男は国の経済を支えるロボットで、女はその男を世話する家事ロボット。こうした人間は国にとっては好都合ですよ。悪のからくりです。

あと、変だと思うのは、日本における権力者による悪い事は「きれいな言葉」で表現されて美化して逃げている。
例えば、子への虐待→教育、しつけ。
部活やプロスポーツ関係の上の人から下の人へのいじめや虐待→かわいがり、いじる。
政治家の不正な就職斡旋→天下り。
男尊女卑な男→亭主関白。

>日本における権力者による悪い事は「きれいな言葉」で表現されて美化して逃げている

これは戦争当時、「大本営発表」でも同じことが起こっていましたね。例えば太平洋戦争ではミッドウェー海戦というのがありました。日本軍はここでアメリカ軍に敗れて、戦争の潮目が変わり、以降、敗戦の一途をたどります。しかし大本営発表は、この敗走を「転戦」といいくるめていたようです。
従属の教育とは 軍国主義のようですな
権力者に都合のいい人間教育 帝国主義かしら
親の所有物、家計を助ける為に奉公に行かされるみたい
いつの時代の話やら時代錯誤、とても先進国の文化じゃないのね
野田総理が「TPP参加に向けて関係国との協議に入ることを決定した」ということを昨日の夜の記者会見で表明していました。日本も「開国」の新しいステージに向けて進もうとしてるのでしょうか。

ところで、私は、日本のTPP参加について懸念していることがあります。「懸念」というと、たいていの人は「日本の農業がつぶされる」というようなことを挙げると思いますが、私の場合は違います。

私の懸念は、日本でこれまで行われてきた教育は、小学校教育から大学院教育にいたるまで、「スコラ的教育」の域をいくらも出ない詰め込み教育であって、その詰め込み教育の所産として育ってきた日本人は、TPPの理念が日本の産業界にもたらしうるメリットを享受することができないのではないかということです。

TPP参加が日本の産業界にもたらしうる環境変化を、個々の日本人が肯定的な方向に生かしていくためには、個々の日本人が、自律的能動的創造的な思考力やコミュニケーション能力をもっと潤沢に持っている必要があるのではないかと思うのです。
27番:iceさん

>給食について私が述べたかった事は、日本の学校には生徒に広い選択権がないのではないか、
>と思ったのです。その中に給食もあると思いまして。

37番:エコロさん

>ちなみにヨーロッパの中学・高校でも選択授業が大半で、ほとんど生徒が自分で授業やコースを選択できます。

日本において「選択授業」というものが本当に効を奏しているかはやや疑問なのではないかと最近思うようになりました。

日本の場合、「選択授業」という制度を導入すると、かなり多くの生徒に「つらい科目、面倒くさい科目はやらなくともよい」という意味に曲解するようになるという側面があるのではないでしょうか。

私の甥に日大の電気工学科に進学したのがいます。この人は高校で物理を選択していないのです。文科系に進学したのならまだ分かりますが、理科系に進学したのです。しかも電気工学科の場合は、学問の基礎は電磁気学ですし、これは物理なわけです。だから、高校で物理を選択していないというのは大いに問題ありだと思います。

なぜこんなことが起こったのでしょう。理由は、高校で「選択授業」という制度が導入され、かなり多くの生徒が「安易で楽しい授業だけ選択してりゃいいんだ」、「つらい科目、面倒くさい科目はやらなくともいいんだ」という意味に曲解するようになったためだと見ています。そして物理という科目は、「つらい科目、面倒くさい科目」の筆頭なのです。
>37番エコロさん

>そしてそれを正当化するのが「与えられたものはすべて有り難いものだから感謝して受け取るべき」だという日本仏教的思想です。

いまから3年以上も前に出されたメッセージなのですが、ちょっと確認したいことがあります。「与えられたものはすべて有り難いものだから感謝して受け取るべき」だという思想は、日本仏教の思想なのですか。

私は最近、自分に仏教の教養がほとんど欠けているということがわかり、仏教についての勉強をしようと考えているところですが、オリジナルな仏教には「与えられたものはすべて有り難いものだから感謝して受け取るべき」だという思想はあるのでしょうか。それとも、ここでエコロさんが言う「日本仏教」というのは、オリジナルな仏教とは異なるデフォルメされた仏教なのでしょうか。
昨日、NHKの総合テレビで夜7時30分から放映された『特報首都圏』という番組、ご覧になった方いらっしゃいますか。この番組のHPはこちら(↓)。

***********************************************************************

http://www.nhk.or.jp/tokuho/

ホームレスや生活保護となる「若者」が今、増え続けている。
深刻なことに多くを20代が占めるようになっている。正社員を解雇されたり、あるいは非正規雇用で仕事が極度に不安定だったりする中で、住む家さえ失うケースが増えている。大きな背景の1つは、職場での凄まじいまでの『いじめや排除』だ。
過酷な労働を押しつけられ、体を壊したり、職場で責められ続け、心に強いPTSDを負ったり。
また仕事がうまくできない『ボーダー障害者』の若者も増える。
社会に出た当初から職場を追われて貧困に苦しみ、貧困を抜け出せない。
新たな段階に来た、若者の貧困。どんなことが起きているのか、どんな支えが必要なのか、考えていく。

出演:雨宮処凛さん(作家)

***********************************************************************

この番組で、ゲストコメンテイターの人が、「失業した若者に教育訓練をして就労支援をするにあたって、日本では教育訓練のメニューが極端に少ない。せいぜいパソコンの操作スキルをトレーニングするようなものぐらいしかない。ヨーロッパでは100種類ぐらいのメニューがある」ということを言っています。

このあたりにも、日本は人権擁護、個性尊重の思想の薄さが表れているような気がしてならないです。
みなさん、こんにちは。オリンピックの東京招致が決定しましたね。おめでとうございます。ところで、このコミュは最近めっきりメッセージ投稿が少なくなりました。ちょっと話の材料になるかもしれないニュースを発見しましたので、ご紹介します。

***********************************************************************
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2570043&media_id=125

 楽天やユニクロを展開するファーストリテイリングが英語を社内公用語とし、ソフトバンクがTOEIC900点を獲得した社員に100万円の報奨金を支給するなど、社員に高い英語力を求める企業が増えている。こうした状況を背景に拡大を続ける語学ビジネス市場。従来の英会話教室に加え、スカイプなどを使う“格安”オンライン英会話も数年前から注目を集めている。最近では、お酒を飲みながら気軽に英語を学ぶ教室も登場した。

 東京・恵比寿の英国風パブ「HUB」では、英会話教室を運営するワンナップ英会話と合同で、定期的に英会話教室を開いている。お酒を飲みながらではあるが、約2時間、参加者をレベルごとに分けてディスカッション形式でレッスンを行う。英会話教室の生徒でなくても通える敷居の低さが受け、毎回、ほぼ満席になるという。

 日頃は自宅でオンラインで英語を学び、折に触れて上記教室に参加するという40代女性はこう話す。「英会話カフェもいいのですが、ただ英語を話すだけではなく、レッスン形式なのがいいですね。自分の得意ではない話題についても話さなくちゃいけないので学びがある。それから、外国の雰囲気を感じられる場に身を置き、アルコールも入ると、気持ちが大きくなって、頭が英語脳に切り替わりやすいんです」

 英語を話したい人が集う英会話カフェでも、アルコールの提供を行っているところもある。横浜などで英会話スクールとカフェを展開する「G-FLEX CLUB」は、毎週土曜の夜をバータイムと位置付け、フリートークを楽しむ場を提供する。今年4月、東京・下北沢にオープンした英会話カフェバー「LanCul」は、飲みながらコミュニケーションを楽しみ学ぶ場として、本格カフェ&バーの提供を前面に打ち出した。会社帰りの一杯を兼ねて立ち寄れる場として30代男女を中心に人気を博し、利用者を増やしているという。

 矢野経済研究所の調べによると、2012年の語学ビジネス総市場規模は前年度比102.7%の7892億円だった。とりわけ外国語教室やe-learning分野の需要が活発化していると分析しており、2013年度は前年度比104.3%の8230億円と予測、さらなる拡大が見込まれている。お酒を片手にほろ酔いで学ぶ教室の増加も、英会話ビジネス拡大に一役買っているようだ。一方、学ぶ側にとっても酒の効用はあると語るのは、英会話セミナーを開催する英会話講師で『英語が2日でスラスラ話せる 1秒英会話』の著書もある大橋健太氏だ。

「英語を話せない日本人の一番の要因は、間違えたら恥ずかしいという“恥”の意識だと、生徒さんを見て感じています。英語において正解は一つではないのに、長年の学校教育で点数を付けられてきた結果、間違えたらどうしようと萎縮してしまうんですね。恥の意識を少しでも取り払う手助けとして、お酒はとてもいいと思います。ほろ酔いの状態だと、新しい語彙や知識の習得は難しいかもしれません。ただ、知識は十分にあるのに話せない人が多いんですね。そういう人の課題はコミュニケーション能力。お酒によってコミュニケーションが円滑になると期待できます」

 また、酒の場での何気ない会話は、ビジネスにおいても役立つと指摘する。

「会議やプレゼンは通訳を付けたり事前準備によって乗り切ることができる。問題は、その後の食事の席だ、というようなことを仰るビジネスマンが増えています。たとえば海外の学会に出席されるお医者さんは、学会発表は何とかなると言うんですね。専門用語は日頃から勉強しているから理解できるし話せると。けれど、その後食事に行ったとき、友好関係や信頼関係を築くような会話ができない。趣味や最近の社会情勢などに関する会話ができないと、取り残されていくと感じるそうです。それを身に着けるためにはやはりコミュニケーション能力を高めなくてはいけません」

 ただし、過ぎたるは及ばざるがごとし。「講師にもいろんな方がいます。英語の緊張感をほぐす程度のお酒はよいですが、健全なコミュニケーションが取れなくなるほど飲んでは本末転倒」と、大橋氏は飲みすぎには注意を促す。

 職場での飲みニケーションが廃れつつある昨今。グローバル化の進展とともに英語での飲みニケーションという新たなジャンルが定着するか。
で、私が上(↑)のニュースを読んで考えたことを申し上げます。

上のニュース記事の第6パラグラフに、英会話セミナーを開催する英会話講師のコメントとして、次のような発言が掲載されています。


「英語を話せない日本人の一番の要因は、間違えたら恥ずかしいという“恥”の意識だと、生徒さんを見て感じています。英語において正解は一つではないのに、長年の学校教育で点数を付けられてきた結果、間違えたらどうしようと萎縮してしまうんですね。恥の意識を少しでも取り払う手助けとして、お酒はとてもいいと思います。…」


たしかにこの講師の言うとおりだ。日本人に「間違えたらどうしよう」という委縮癖があることは悲しいことです。では、この委縮癖がなぜ生まれたかですが、私の分析では、日本人は他人のやることに対して「ダメだし」をしすぎると思います。「ダメだしをすることがすなわち教育だ」とおもいこんでいるような薄っぺらなところがあるのではないでしょうか。そして、その委縮癖はお酒によって解決していかざるを得ないとしたら、これも非常に悲しいですね。

ところで、この委縮癖を、安易な激励で解決しようとするのは禁物であるということを指摘したい。むしろ、学校教育全般において(そして家庭教育も)、児童生徒が「正しい解答は一つだけ」という思い込みを抱かないよう導いていく努力が必要だと思う。代わりに、「自分なりの解答を自分なりに作っていく」という思考力と行動力を涵養する教育が導入されていく必要があるのではないでしょうか。

また、この考え方は、なにも英語教育にだけ限ったことではなく、コミュニケーション全般に言えることで、「酒の勢いを借りなければ言いたいことが言えない」というのは悲しいことではないでしょうか。
日本人は細かく分析するといろいろ変わったところがありますが、その多くは、主として10代ごろの教育段階に形成されていると考えることも可能です。このことは、逆に言えば、10代ごろの教育を抜本改革すれば、日本人のキャラクターはもっと普遍的なものになっていく可能性がありますね。
日本人は失敗を極端に恐れる、保守的である、自己改革が苦手である、といった特徴があると思いますが、その源流は「ダメ出し教育」にあるかもしれないです。

つまり、10代の自己形成期から、周囲から「どこそこがまずい」、「そんなことをしちゃダメだ」的なダメ出しメッセージに馴らされて教育やしつけをされてきたため、「どう行動すれば周囲からダメ出しをされずに済むか」という考え方をするようになってきているのです。

しかし人間にとって本当に重要なことは「どう行動すれば周囲からダメ出しをされずに済むか」ということではなく、「自分はどう生きるのか」、「自分はその問題をどうとらえるのか」、「自分が出す解答は何なのか」そういうことなのです。
自己レスです。

>しかし人間にとって本当に重要なことは「どう行動すれば周囲からダメ出しをされずに済むか」
>ということではなく、「自分はどう生きるのか」、「自分はその問題をどうとらえるのか」、
>「自分が出す解答は何なのか」そういうことなのです。

個々の日本人が上に示した思想哲学で考え、行動していくと、人はそれぞれ考え方も違うし価値観も違うわけだから、生き方の異なる人間同士がぶつかりあうことは当然に発生しますね。

そういう、生き方の異なる人間同士がぶつかりあうことに起因する「戦い方」をだれも教えていないような気がします。

日本人は頭ごなしに「人と戦う」を「人と争う」にすり替えて、「人と争うことは悪だ」と非難し、「人と争うことを好む人間は協調性に欠ける人間だ」の烙印を押し、戦いを避けてきたと思います。

しかし、戦いには良い戦いと悪い戦いとがあると思う。人間は人生の中から、良い戦いとは何かを学ぶことも必要なのではないでしょうか。日本人は良い戦いすら避けようとし続けるため、戦いの行動文法を学ぶことができず、かえって陰湿ないじめなどを助長している可能性もあるように思います。
ミクシィに教育に関して興味深いニュースが配信されていることに気が付きましたので、ご紹介します。下村博文文部科学相が、静岡県の川勝平太知事が全国学力・学習状況調査での成績下位校の校長名公表を検討する意向を示したことについて、「好ましくない」との見解を表明したというニュースです(↓)。

******************************************************************
■校長名公表「好ましくない」=全国学力テストで下村文科相
(時事通信社 - 09月10日 20:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=2573242

下村博文文部科学相は10日の閣議後記者会見で、静岡県の川勝平太知事が全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)での成績下位校の校長名公表を検討する意向を示したことについて、「好ましくない。ペナルティー的なことがプラスに転じるのかどうかを慎重に考える必要がある」と述べた。

 文科省は現在、来年度以降の学校別の成績公表について自治体判断に委ねるかどうかを検討している。しかし、下村文科相は、現行の実施要領では学校の序列化や過度な競争を招かないよう自治体による公表を認めていないとして、「知事も理解をしていただく必要がある」と述べた。
で、上(↑)のニュースを読んで私が考えたことは、まず私はこの下村文科相の見解に賛同します。

しかしそれにしても私が不可解なのは、どうせ公表するのであれば、成績上位校こそ公表するべきなのではないのかということです。成績上位校を公表したら、これは成績上位校を顕彰(けんしょう)したことになります。私自身はそのことすら、必ずしも賛成ではありませんが、上位校を顕彰することは後回しにし、下位校に恥をかかせることを優先という方針は完全に間違っていると考えます。

日本の教育の世界(学校教育だけでなく、家庭教育を含め)では、「よいことをした子どもを褒める」ということに積極的でなさすぎる。代わりに、悪いことをした子どもやパーフォーマンスが振るわない子どもにペナルティを課す、といった方向性ばかりが強いと感じます。

ログインすると、残り28件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本人はなぜ多重人格なのか 更新情報

日本人はなぜ多重人格なのかのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。