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<吉本隆明・戦後最大の思想家>コミュの吉本隆明の老いと死

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現在人口の4分の1が60才以上であるという高齢化社会になりました。吉本さんも1996年に海でおぼれるという経験をしてから、かなり積極的に老いと死について考えてこられたように思います。

「新・死の位相学」(春秋社)
「老いの流儀」(NHK出版)
「老いの現在進行形」共著(春秋社)
「老いの幸福論」(青春出版社)
「老いの越え方」(朝日新聞社)

吉本さんが自分自身に引き寄せて考えた老いと死について、私たちも考えてみるのはいかがでしょうか?

コメント(6)

 糖尿病、糖尿病性網膜症、糖尿病性神経障害、前立腺肥大、肺気腫が私の持病です。 糖尿病は39才から発症して、72才の時に海に泳ぎに行ったとき、低血糖を起こしておぼれ死にかかってからがっくりと体力が落ちました。目の手術や風邪などで2,3日寝込んでも、そのたびに衰えてくるのが分かります。老いというのは連続的にくるものでなくて、段階的にくるようです。糖尿病で足の指に力が入らなくなって、でも意識して足の指に力を入れようと我流のリハビリをしてます。杖をつきながらなんとか100メートル先までと目標を決めて、何とか300メートルは歩けるようになりました。
 昼はいいんですが、夜になるとトイレに間に合わなくなるようになってから、夜は紙パンツをはいてます。これは助かる。そのかわりカビでかゆくなって、かゆみ止めが必要です。一度夜中に誰かが来たと思い込んで家中ウロウロして障子を破ったことがあります。そうなったのはその時一回ですね。医者からは拘禁性ノイローゼだと言われました。足が弱って行動範囲が狭くなってそうなったようです。そのときは我ながらこりゃひどいと思いました(そんなことがあっても、周りがそんなに騒がなかったのがよかったようです:長女)。白内障の状態はちょっと生きたこことがしないぐらいショックです(目がほとんど見えなくなって、拡大鏡で原稿を書くんですが、なんか斜めの線が書いてある。読めなくて本人に訊いても何を書いたか覚えてない:長女)。

 動物は反射で動く。人間は反省してから動きます。老人というのは運動系も衰えてきて精神の働きと行動の分離が働いて、想像力や妄想は激しくなる「超人間」というべきです。老人っていうものは敏感なものです。ベッドから落ちた枕を「リハビリだ」なんて言われてとれせるなんてよせやいと言いたいです。
 入院していて僕が真っ先にけんかしたのは、簡易トイレと机を自分の都合のいいように移動する。そうすると看護師さんがそれではいけないと直す。それの繰り返しでした。「僕が居ながらにして一番いいように配置したい。それは一般論で決められたようにされたら困る」と説明しても通じないわけです。

 もう先はないんだ。どうせ長くたって大したことないし、短ければ明日どうかなってるかもしれない。だから長いスパンで考えることはないのです。短く区切って考えた方がいいと思います。

 年をとればとるほど孤独もわびしさも深まっていきます。あとこの先何があるのか。もう死ぬしか考えられないのではないか。そんな気分にもなります。死ぬのはやっぱり怖い。
 死がなぜ怖いのかと言えば、産まれて生きてきたこと事態が恐怖なのです。産まれてきたことのは何の責任はないんです。自分で産んでくれと言って訳ではないのに。だけど大人になってしまった。それを自分の責任のように思って、それが病気とかに合併して、融合したときにその人の認識できる死と言えるんじゃないでしょうか。
 死は私だけのものなのでしょうか?死は自分のものではないです。いつ死ぬかなんて自分の責任ではない。歴史上の人物でそのことを分かっていたのは親鸞だけです。親鸞は弟子から、浄土は良いところというが自分はちっとも浄土にいく気がしないのはなぜだといわれたんです。親鸞はこう答えた。この世は煩悩の故郷だからこの世に執着するのももっともである。誰が何時、どこでどういう死に方をするのかは分かるはずはないし、本人にも分かるわけがない。だから死についてどうこう言うことは無駄であって、死ぬときが来たら死ぬのです。
 死はあるとき突然に死ぬのではなく、時間をおいて死んでいくといいます。フーコーは粘膜から死んでいくと言ってます。いつ死んだのかを決めるのは、本人に分かるはずもなく、家族が死を受容したときが死なのです。その意味で死は家族のものです。キリスト教の人は牧師さんなんかにいくのだと思うけれども、日本では親子三代同居して、その中で死んでいくのがいいんじゃないでしょうか。
一刻一刻と、一日一日と、私たちは時を過ごし、物質としての体を老化衰滅させる方向に進んでいる。
心も体もよく管理していなければ、いつさまざまな病気が私たちを襲うかわからない。

ぼくは基本的に仏教的な人生観で生きているから、死のその時までにいかに自分が怠惰に流されず、少しでもこの人生で与えられた課題を解いていけるかということに関心を向けようとしています。
毎日の出来事からたくさん学びながら、心の先生方の声にもたくさん学びながら、
尊い日々を過ごしてゆきたいと考えています。
年をとると寂しい。死ぬのは怖い。率直に言ってることに感嘆しました。私は看護師ですが、「超人間」などは考えさせられます。医療・介護の現場でどれだけ老人を傷つけたか反省させられます。
 「老いの現在進行形」の共著者である三好春樹さんは老人介護の専門家ですが、この人はフーコーの牧人権力論にヒントを得て、よい介護すなわちその人の困っているところ、不便をしているところにすぐに見つけてケアをすること自体が暴力であると言ってます。つまりよい介護とは権力であり、同時にその人の自立性を奪っているというのです。これはなかなか難しい問題で、じゃあどうするかと言えば、ケアを受けている方から何かを得ればいいのではないかと三好さんは言ってます。具体的には元芸者の認知症の老人の元ヘルパーに入る人が、ヘルパーとして家事手伝いをした後に、認知症の芸者さんから小唄を習うという成功例を、別な本であげてます。

 吉本さんは「新・死の位相学」P141『餓死老人の希望』で77才の母親と41才の寝たきりの息子が、収入をたたれ貯金も使い果たし、餓死したという事件に対し、「見事な生き方を貫いた生涯として、わが老齢世代の模範として、心静かに学びたい気がする」と書いてます。生前、母親は日記に「区役所と福祉事務所に来るようにと教えて書いてあるが、私共はここが最後と言ってあるし、自分で家探しもできないし、家に入らないと言ってあるので、それによい人が世話されるとよいが、悪い人に当たったら大変と聞いてあるので、今は、最後まで、ガマンする」と書きました。
 私はこの事件は、吉本さんは牧人に管理される羊となることを拒否して、自律を選んだと解釈しました。

 吉本さんは理想の形は老齢者が経済的に充実し、介護者を雇って不便さを補ってもらえばいいと書いてます。実際の吉本さんは「老齢者の世代にも子どもの世代にも、様々な感情的なしこりがあるままに」独身の長女に世話を受けてました。その有様、葛藤は「開店休業」でハルノ宵子さんが書かれてます。
>この事件は吉本さんは、牧人に管理される羊となることを拒否して、自律を選んだと解釈しました。


なるほど〜。便利だからいい、世話してもらえるからいいとばかりは言いきれないのですね。
生きている以上、自律性とか自分の気分というものを大事にしたいですもんね。
ただただやってもらうばっかりで最期の日々を浪費するなら、生きてる甲斐がないとも言えますね。
苦しくて、厄介で、大変だとしても、「生き抜いたな〜」という実感にこそ重きを置く主体性、そういう人生があったっていい。
>>[5] 現場ではよいケアを提供したいと思いつつ、それが介護される人にとって決して快適なものとなるとは限りません。

>>1 で入院中の吉本さんがトイレと机の位置はここが良い、といっても直されてしまうということは、看護の目から見て不都合だったのでしょう。それぞれ言い分はありますし、患者のためを思いながら、患者に権力を行使するという二律背反にさらされているのが看護・介護の難しさでしょう。

現に私は週に1件、高齢の精神障害者の方のヘルパーに入ってますが、よく「お給料はいくらなのですか?払います」と言われます。ケアを受ける方にも負担感があるのです。私はお金を払ってもらって、元の封筒に返していますが、そういうやりとりをしています。

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