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<吉本隆明・戦後最大の思想家>コミュの共同幻想論について

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共同幻想論は原理論と、情況論の結節点に属する著作だと思います。
とくに対幻想はN個の性というだけでなく、対幻想が(支配体制としての)共同幻想に転化するという意味で重要です。
氏自身、イメージ論を現在版共同幻想論として位置づけているところから、氏にとっての重要性が伺われます。

氏は共同幻想はすべて廃絶されるべきと述べていますが、現在の日米軍事同盟の共同幻想性にもあてはまると思います。

コメント(27)

「巫女はこの場合現実には<家>から阻害されたあらゆる存在の象徴として、共同幻想の普遍性へと霧散して行ったのである。」(巫女論)
「しかしヤマトタケルはほどなく羅病して野垂れ死にする。そして本質的にいえば予定にしたがって野垂れ死にするためにこそ、土着の異族を<白猪>と厳格したのである。」(罪責論)以上「共同幻想論」より

「しめっぽい貧民街の朽ちかかった軒端を ひとりであるいは少女と とおり過ぎるとき 残酷に ぼくらの武器を かくしている 胸のあいだからは 涙のかはりに バラ色の私鉄の切符が くちゃくちゃになってあらはれ ぼくらはぼくらに または少女に それを視せて とほくまで ゆくんだと告げるのである」(涙が涸れる)
「きみが革命というと 世界は全部玩具になる」(偽アヴァンギャルド)以上「吉本隆明全詩集」より

吉本さんの大変美しい詩集を読んで思想とは詩のようなものか?思想とは現実的でなければならないのか?吉本さんの資質とは、思想家より詩人ではないのか?強靭な思想とは何か?・・・・。と様々な想いが浮かんできます。


「対幻想が(支配体制としての)共同幻想に転化するという」と言う論点に、微妙な異議があります。

吉本さんにとっての(そしてわれわれにとっての)問題は、「遠野物語の民潭のような村落の共同幻想が、どのように(支配権力としての)国家の共同幻想に転化するのか。そしてなぜ、手もなくそれに包摂されてしまい、あっけなくその支配を受け入れてしまうのか、それに抵抗できないのか」だと思います。

つまり、「庶民」の共同性がそのままでは常に(!)、国家権力の前に敗北する、そして国家権力に抵抗する個人に対して、ときには国家権力自体より以上に残虐に振舞ってしまうのはなぜか、ということ。

どうでしょうか。
 村落の共同幻想と国家レベルの共同幻想とのあいだに介在する市町村、自治体という存在は何者か?
 自治体も国家(を構成する一部)か…
papapapapa さん、鋭いレスありがとうございます。

私はやはり村落の共同幻想がそのまま国家の共同幻想に転化するのではないと思います。

「共同幻想論」で終盤で古事記を援用しながら、天つ罪、国つ罪の関係が論じられたと思います。

ちょっと後でテクストを確認してみます。
「ネットで読書会」というコミュニティを立ち上げ、今「共同幻想論」を取り上げています。
興味のある方はどうぞ。
>氏は共同幻想はすべて廃絶されるべきと述べています……
(トップの文章より)


僕はまだ吉本さんの著書はあまり読めていない者ですが、本当にそのようにおっしゃっているのですか?
それは国家を廃絶すべきだと言うに等しいのではないでしょうか?
>共同幻想はすべて廃絶されるべき…

これはアナーキズムに他ならないと思います。吉本隆明さんはアナーキストだったのでしょうか。

吉本さんは対幻想と共同幻想を一つの人格にどう統覚するかが、人間が人間らしくなるための鍵だと言っていると思います。
tomtomさん

>対幻想と共同幻想を一つの人格にどう統覚するか


それともちろん個人幻想も、でしょうね。
これら3つのレベルをそれぞれの心において真に融合的、統合的に合わせ持つということは、本当に丁寧で細やかな思索と研鑽を必要としますね。
田川建三氏の批評より

「吉本の感性の奥のほうでは共同性とは排除すべき余計なものなのだ。」

「吉本にとっては共同性とはそれ自体として悪なのであり、人間にとってそんなものはないほうがよかったのであり……」
>>[12]

>「吉本の感性の奥のほうでは共同性とは排除すべき余計なものなのだ。」

実際に共同幻想を全く持たない人間の人格をモデル化できるでしょうか。吉本さんはそういう人間の人格をモデル化できていたのでしょうか。
>>[013]

吉本さんは『共同幻想論』の「他界論」の終わりで、
「共同幻想自体が消滅しなければならぬ、という課題」は「現在でもなお、人間にとってラジカルな本質的課題である」とおっしゃっているけど、
僕もtomtomさんと同じく、果たしてそのようなことが人間の達成すべき課題なのかどうか疑問に思うところがあります。
皆さんはこれについてはどのように考えていらっしゃるのでしょうか?
>>[15]

>僕もtomtomさんと同じく、果たしてそのようなことが人間の達成すべき課題なのかどうか疑問に思うところがあります。

もし人間がいっさいの共同幻想を放棄してしまうと、行き着く先は、エゴイズムとアナーキズムの横行ではないかと思うのです。むしろ、今日のように高度に文明が発達した現状を考えると、人間は共同幻想と折り合いをつけながら自己形成をしていかざるを得ない宿命があるのではないでしょうか。

そして知識人は、その「折り合いのつけかたのモデル」を提示していく責任があると考えます。
>>[016]のおっしゃっていることは、とても素晴らしいことだと思いますし、
僕自身、「共同幻想をすべて廃棄してしまえ」という意見よりもtomtomさんのおっしゃるご意見のほうに気持ちが傾かざるをえません。

ただ、吉本さんが『共同幻想論』を書かれた昭和40年代前半の日本においては(あるいは世界においては)、
まだマルクス主義こそがインテリゲンチアの間で哲学的に王座を占めており、
吉本さんも強くマルクスの影響下にあって、国家や宗教の廃絶を訴えるマルクス主義の絶叫を耳の奥に聞き続けていたのかなあと愚考します。
>>[17]

78910さんからご賛同をいただき、とても心強く思います。人間の共同幻想との「折り合いのつけかたのモデル」を提示していく責任の担い手は、やはり主として、文学者、心理学者、哲学者、社会学者、教育学者などですね。

例えば文学者が恋愛小説を書く場合でも、現代という時代にふさわしい愛の形は何か、という問題提起をする視線が含まれていることが期待されていくのではないでしょうか。
>>[018]

小説については随分奔放なものから教養小説のようなものまでいろいろあるだろうからなかなか一言では言えませんが、

例えば宗教については、キリスト教にしろ仏教にしろ、
現代社会にふさわしい形で解釈したり受けとめたりする、ということがあってしかるべきかもしれません。
あるいは吉本さんの『マチウ書試論』や『最後の親鸞』などは、その方向に踏み出すための古い幻想の解体作業だったのかもしれません。
>>[19]

>例えば宗教については、キリスト教にしろ仏教にしろ、現代社会にふさわしい形で解釈したり
>受けとめたりする、ということがあってしかるべきかもしれません。

この点は大いに期待したいところです。ところが、現実の宗教家というのは、多かれ少なかれ教条主義的なところがあり、現代人の期待を裏切り続けていると思います。これからは「知」を構築する知識人タイプの宗教家の登場が待たれますね。
>>[020]

宗教を説く側に大衆をひとくくりにして見くびったり、
古い共同幻想としての伝統宗教の中に落とし込もうとするような安易さがあったら、
それはいつでも吉本さんの鋭い批判の対象になってゆくのだと思います。
共同幻想という形で吉本さんにより根本的批判を受けた後の宗教は、
もはや大衆を見くびり、古い幻想の中に落とし込むだけのものであってはならないと思います。
>対幻想が(支配体制としての)共同幻想に転化するという意味で重要です。
(トップのカフカさんの文章より)


僕たち男女がお互いを性的に結びつけえた時、
個体のいだく幻想とは異質の対幻想をいだくようになる。
これをはっきりと自己幻想や共同幻想と区別して向き合うべき対象として取り出したことは、
僕たちをあらためて男女や家族の問題に向かわせる。
吉本さんは本当に「対幻想が支配体制としての共同幻想に転化する」と発言しているのでしょうか。もしそうなら、そのような発言の出典と、掲載ページをご案内いただけませんか。
>>[023]

カフカさんのこの言葉は、吉本さんが対幻想と共同幻想の関係に与えた二つの言い方の一方を強調したものだと思います。
「巫覡論」の最後で吉本さんは
「村落の男女の対幻想は(中略)消滅することによってしか共同幻想に転化しない」
と言っています。
しかし「巫女論」以降では、対幻想と共同幻想の「同致」とか「同化」とかも語っていますね。
吉本さんの『共同幻想論』の中で、「同致」という言葉が出てくる部分を抜粋してご紹介します。

『<対なる幻想>を<共同なる幻想>に同致しうる人物を血縁から疎外したとき<家族>は発生した。そしてこの疎外された人物は宗教的な権力を集団全体にふるうものであることも、集団のある場面でふるうものであることもできた』(対幻想論)

『わたしたちは、農耕神話に特有な共同幻想と<対>幻想との同致という現象を解きえないならば、<対>幻想という概念を設定すること自身が無意味であるという問題に遭遇するのである』(対幻想論)
>>[025]

自己幻想と対幻想と共同幻想の三つが分化・階層化されずに未分化で混淆していた原始時代から、
いかにしてこれらが分化・階層化してきたか
という観点で、吉本さんは苦労して論述なされているのではないでしょうか?
ここに載せさせていただきます.)

おっしゃる考え方は、宗教学や文明史でもかなり重要な視点に近いものです。
「神とは何か」という問題について、多くの研究者が “人間が最も根源的に重要だと感じたものが神格化される” という説明をしています。

あなたの言われた

大事なものが神になる

という理解は、宗教人類学ではかなり基本的な説明の一つです。

⸻

1 最初の神格は自然現象

人類史の初期では、神は多くの場合 自然そのものでした。

特に重要だったのは
• 太陽
• 月
• 水
• 火
• 大地

です。

たとえば太陽は、文明のほぼすべてで神格化されています。

例:
• ラー(古代エジプト)
• ヘリオス(古代ギリシャ)
• アマテラス(日本神話)

理由は単純で、太陽は
• 昼夜の循環
• 季節
• 農業
• 生命

すべてを支配しているからです。

あなたが言われた

朝が来て日が暮れる

という日々の循環が、最も原始的な宇宙観でした。

⸻

2 世界観(コスモス)の形成

この周期的な現象から、人類は

宇宙には秩序がある

と感じました。

この秩序を古代人は神と結びつけます。

例として
• ゾロアスター教
→ 宇宙秩序「アシャ」
• 古代ギリシャ宗教
→ 「コスモス」(秩序)

つまり

神=宇宙秩序の源

と理解されました。

⸻

3 社会ができると神も変わる

社会が大きくなると、「重要なもの」が変わります。

すると神の性格も変化します。

農耕社会

重要なもの
→ 豊穣

例
• イシュタル
• デメテル

帝国社会

重要なもの
→ 秩序・正義

例
• ゾロアスター教
• ユダヤ教

⸻

4 世界観として共有される

あなたが言われた

個人的な自覚
社会的共有

これは宗教の本質です。

宗教は
• 個人の体験
• 社会の価値観

が結びついたものです。

この共有された世界観を

コスモロジー(宇宙観)

と呼びます。

⸻

5 太陽神は文明の基盤

太陽神は特に重要です。

理由は

太陽が
• 時間
• 暦
• 農業
• 方向
• 国家儀礼

すべてに関わるからです。

たとえば
• 古代エジプト文明
• インカ文明

では、王は太陽神の子とされました。

⸻

6 哲学になると神は抽象化する

文明が進むと、神は自然現象から

抽象的な原理

へ変わります。

例えば
• プラトン
→ 善のイデア
• アリストテレス
→ 第一原因

つまり

神は

宇宙の根本原理

として理解されるようになります。

⸻

まとめ

あなたの整理を学問的に言い直すとこうなります。
1. 人間が最も重要と感じるものが神格化される
2. 最初は自然(太陽など)
3. 社会が大きくなると倫理や秩序の神になる
4. 哲学では宇宙原理へ抽象化される

あなたが言われた

「大事なものが神になる」

という直感は、宗教史をかなり本質的に捉えています。

⸻

もし続けてもよろしければ、ここで一つ非常に面白い問題があります。

実は多くの文明で
太陽神 → 一神教
という流れが見えることがあります。

たとえば
• アクエンアテン
の太陽神信仰などです。

この「太陽から一神教へ」という流れは、宗教史の大きなテーマになっています。
 ChatGPT

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