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我流哲学者コミュの 「私」という存在について、考えてみてください。

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 すみません、今日、もう一つのトピを立てたのですが、 そちらのほうが3つ表示されてしまいました。  ネット音痴老人ですので、その原因も その解除の仕方もわかりません。

アナログ(古い)デジタル(新しい)という通念からは 古〜〜〜い人間なのでしょう。

ところで、そんな人間の「私」も、  71年前に、 私の母から生まれて おギャーと泣いてこの世にて 「意識」を持つ、仲間となったわけですが、

そのおギャーと泣く意識の 命として、動物としてのこの宇宙での共通存在の内にあることは、私にもよくわかるつもりなのです。

ですが、 この「私」がここにいるという事態の意味は、やはり不思議です。


水という物質が これも不思議にも ものすごいバランスの中で、太陽の元、定着した不思議な星に やがて生物が生まれ、  その生物が進化して 人間という「ものを見つめる」脳、俯瞰することのできる脳をもった生物が生まれ、  そうして やがて、 71年前に「私が」生まれたという現象があったわけですが、

「わたし」ではなくて、同じ形をした意識体が 私の母親からその地点に生れ落ちていたとしたら、やはり 「私」という存在は 存在しなかったわけです。

そう思う認識の仕方が何か間違っているというのでしょうか?

「わたし」という存在は、 そのようにして、いまここにある存在です。

あなたもまた そのはずです。

そこまで考えたことないかもしれませんが、そこまで考えれば あくまで、このことは あまりにも不思議です。

「私」という存在にとっては、その事態は、あまりにもリアルな事実であるはずです。

 
「わたし」という感覚や認識も、五感があって、その記憶によって、その記憶の統一体として私の脳の中に認識されてはいますが、

そんなふうに この宇宙の全体の流れの中の生物の機能を使って 認識してはいるのですけど、 それだからといって  別な「私」が「ここ」にいれば、「私」は過去にも未来永劫にも存在していないかもしれないという 存在の不思議には変わりはないはずだと思えるのです。

つまり、人間にとっては解りえないもの、クオリアと同じで 考えても解りえない認識しえない事実というものが この世界には存在してしまっているということです。

クオリアは文字通り 考えても無意味^^(と思うのですが)。

「わたし」の存在についての この思索は、 あまりにもリアルで そして深く心のひっかかるもの。

そこを 人類は想像力の翼を自由自在に使って、 これが神の創造、神の愛の技とかけっこう究極なものも想像しましたが ありとあらゆる理由をつけてその因果を 自分は解っているときめつける、不可解な論理を展開してきてしまったわけです。

もし この意味で仏陀が不可知論を唱えたのであれば(私は忙しい肉体労働者としていきてきましたのでくわしいことは知らないのですが)、 私たちは もう一度 正直なその不可知論の立場に戻るべき時ではないでしょうか?

ただし、 これは、そうした想像力を働かせてきてしまった宗教の世界を批判するためではなく、 あくまで それが発展して解消するものが内包されていれば応援し、 そうでなくても、包み込んであげる心を ここには求めます。

「私」と同じように あまりにも不思議な存在として 今ここに生きているのが 200か国近い国に分かれていても その中の村や町に暮らしている  この大地に同じように生まれてきた 不思議な命 であり、 すべての人は 命の仲間だからです。

◎ こんな仲間どうしに なぜ争いはうまれてしまうのか?

◎ この仲間意識からの 平和運動は可能か?

論議は発展してつきないところでしょう。

ですが、まずは、この論議の前提 「私」という存在自体の神秘についてのこの思索が 哲学としての厳密性に欠けていると思われる方がおられましたら、 そのへんを煮詰めておきたいと思いました。

ご意見がいただけると幸いです。

よろしくお願いします。



コメント(7)

謎だらけの後方地帯さん、 コメントありがとうございます。 ミクシィでの議論は始めてですが、 いざこうして質問をたててみると、 どうやら その在り方は自由自在な創造性を解き放っていいようですね。

謎だらけの後方地帯さんの 書いてくださったことも、自己認識の感覚というものは(これをアイディンティティというのでしょうか? 私のようなただの労働者にはそうした哲学愛好家の方々の共通言語は使えないのですが、逆に 一般の生活用語で話すことでのメリットはあるかと思います)、また社会と自己とのバランスの認識というものは、 重要なファクターだなと あらためて思います。

私の立てた質問から派生した重要問題として、論議を煮詰めていってみたいと思います。

ただ、私が まずは 私という意識が存在してしまっていることの不思議さを、あるいは不可解さをどのようにとらえたらいいのか?  それは神を持ち出すべきとことなのか? 輪廻を想像すべきことなのか? それとも不可知論に落ち着くことができるものなのか?

という問題を、最初にはしっかり考えておこうというトピだてでもあるので、

そこを、もう一度 ここに整理して、再質問させておかせてください。


私は、 この意識存在の謎について、 記憶ということも、心に引っ掛かります。

3歳の頃 重い肺炎で 一度死にかかったことがあるのですが、なんとペニシリンが外国から到着するのが5分遅れていたら 私はその時に死んでいたそうです。

そして 3歳では その頃や それ以前の記憶が無くても当然なのですが、 まるで それを機にそれ以前の記憶を失ったかのように  全く憶えていないところ、

両親は 都合でよく引っ越ししていたもので、 その3歳以前に住んでいた地に、 学生の頃訪ねたことがあるのです。

すると となりのおばさんが^^、「ああ ひろしちゃんね(私の本名は中村浩です^^)。おおきくなったのね。  あの頃は ほんとうにかわいかった。   こんなこともあったのよ。  私の娘の事なんか憶えていないかもしれないけど、  家に上がる時 娘の手にキスをして、  キスをしてあげたから家に上がっていい と   いつも そんなふうに言ってキスをして うちへ入り込んできたのよね。 おぼえてないでしょ」


憶えてない、おぼえてない、おぼえてなんかない^^^^^。

その時感じたのは、おぼえていない意識の世界は、 別人と同じだと思えたことです。

なので、記憶の中に 自己意識があることはたしかなんです。

でも、たとえ、そのキスの達人の卵らしき人物が^^、  まったく別の人生を送ったとして 、

さらに言えばなのですが、 その人が (その人自身が 3歳で死んだので、だれかが捨て子を身代わりにしたのが、この「わたし」だったりして) 本当に別人だったとしても、

つまり、 どんな誰にとっても、 記憶のトータル体として自己を認識する自己は、 その別人のまったっく別な人生においても、やはり同じように それを意識してみれば、 不可思議な不可解な謎の存在なのです。

今ここでは、記憶以外の世界は 自己あるいは自己認識の課題とは無縁なので、自己ではないとしていいのか、あるいは考えてもしょうがない問題、無価値な問題とするのかどうかの あたりは、おいておくとして( このへんは 別のトピだてをしてみたい)

そして、この人生では、そのへん、こんな問題が起こります。

苦しいことが長く続くとき、誰も助けてくれないとき、孤独の中、 そのふきすさぶ地獄のような人生の中で、 なんで自分は 生まれてきたんだ、 自分なんていなければいい、いなくなればいい

と思う時 

あるいは 医療に希望をもって取り組んでいたのに さまざまな人が 辛い苦しい死を迎えてしまう結果をどうすることもできない体験を多く積むことで、

この老病生死の 辛さ、不条理を いやというほど知らされる中、

「人には輪廻があるんだよ。 辛い苦しい人生も 次の命のための修行なんだよ。そうしてね。人間はやがて 輪廻を繰り返して、すぐれた幸せな人生へのたどりつく長い長い旅をしているんだよ」とどこかの宗教家が語ったとすれば、

本当はそれが解りえないことであったとしても、 その悩んでいる深い深い闇がその一言で救われるかもしれないわけです。

不可知論に落ち着けるのであれば、それが一番安定できる地点なのでしょうけど、 それを 哲学ではしっかりさぐりつつも、 宗教を否定するということではない、というのは そのような人生での見聞きした経験上からの、私たちのあるべき姿として トピではその主張をしているのです。

宗教も含めて、では私たちはどうあるべきなのか、もう一度 論議を詰めてみませんか。
すみません、 謎だらけの後方地帯さんの発言についてのコメントを書く紙数がなくなってしまいました。

私の立てたトピの最初の課題としての質問を再質問させていただいたためです。


謎だらけの後方地帯さんの掲げてくださった問題、 なるほど、めちゃくちゃ重要な私たちの思索課題ですよね。

物事をちゃんと考えながら生きているつもりでも 視点としては、忙しい生活の中でふと忘れていることや整理できないでいる事があったりするということを  知らされた感じです。

その視点から派生する現今の世界の問題として いくつか整理してみました。

1)個人の幸せへの希求と、「絶対多数の幸福」の概念との 実際における矛盾をどう考えたらいいのか?  大きくそうとらえると、ここには「優生主義」の問題も絡んできそうです。

2)個人の幸せの中でも 最も切実と思われる、謎だらけの後方地帯さんの書いてくださった「疲労や空腹」などの問題を個人の側から考えると 私にはお金の問題をさけてとおれない問題 経済の問題がここに浮かび上がる問題だと思えますが、 そのへんの在り方も哲学課題でありえるなら 論議を進めていきたい。

3)個人の幸せの問題としては、また 感性の問題は必ずあると思う。 感性が豊かである程度健康であれば そうでない人が大きな庭を持っていてもさびしいだけかもしれないところを、 道端の草の少しのそよ風にさへ安らぎを感じれば、はるかにそのお金持ちより幸せだろうことから  お金だけの問題ではない世界があると思う。  たぶん、これが 何か、この社会と個人の問題を解決するカギになるかとも思いますが、  これもやはり重要な哲学課題に思えます。

4)過労死の問題は、企業への忠誠心の是非の問題と、もう一つ企業側のあるべき良心の問題とがあると思います。  考えておくべき課題かと思われます。

5)そこから派生して、 戦争の問題があります。 第二の国歌といわれている「海ゆかば」の歌はなんとも荘重な歌で、 国を愛する歌としては「君が代」をはるかに超えているかとおもいます。
でももちろん、国のためにいのちを捨てる歌なのですから、現代においては、それを国歌として認める人は、ほぼいないのではとも思います。   社会と個人の命の問題の究極。 どのように考えたらいいのでしょうね。

》したがいまして自己の存在の定義問題としましては、この2つの要素の比重や役割分担の問題をどのように考えるかと言う定義の問題であるように思うところです。    《

謎だらけ後方地帯さんさんの掲げてくださった視点からは、 さまざまな社会問題とか歴史問題が浮かび上がってくるかと思います。

上記5点でも、興味のある課題がありましたら コメントしてください。

その他にも ここからは、さまざまな観点からの問題が浮かび上がって来そうです。

対話、論議 発展させていきましょう。
謎だらけの後方地帯さんのコメントを、》〜〜〜・・、〜〜・。《というふうに、》 《 でくくって表示することで、 その部分に回答(解答ではない^^)の私の方からのコメントを入れていってみたいと思います。

ですが、 私は 昼間は 生業の設備業があり、仕事後はアメブロのブログと、ミクシィの「日記」を書いたのち、そのほか 掃除洗濯、食事の用意などの 隙間をくぐってこちらに向かうことがやっとできる、、という感じなので、 いまもこれを朝方書いていて、あと数分でこちらを、一度閉じなければならない状態です。

この続きは、 分けて書かせていただくことになるかと思います。



(自己紹介かねて、急ぎ書きますが、 踊り(心の面)を一筋に追求してきたもので、 ほうぼうを転々としてきた関係から、年金が、最低額なのです。 生業なしには目標を達成できる生活は無理なのです)

よろしくお願いします。
》個人的な感覚としましては、脳の機能の観点から見ますと、生物はまず他を見る能力を流用して自らを見ているように思います。《

謎の後方地帯さんの、(4)のコメントの、最初の部分です

まず、この部分に関してなのですが、  自己認識に関しても 私は人間という生物と 他の生物とは、「見る能力」において決定的違いがあるように思えています。

というのは、 猿が木から降りてきて、その脳で極度の苦労をしたことがその原因なのか? それとも何かのミッシングリンクにての突然変異なのかとかは、 そのあたりの考古学を調べたわけでもないので解らないのですが、   

その猿という高等生物が、物事や自分は他人を「見つめる」脳を宿して、 がゆえに 本能にしばられた目(見え方)を脱却す脳が その生物に宿った時に、 人間と呼べる状態の生物になったのだというふうに、   人間誕生の世界を推理しているからなのです。

「見つめ」俯瞰する能力があるからこそ、 物事を比較し、どっちが得かよ〜〜く考え^^始めることが可能となったのが 人間となった生物の一大特徴だと思うのです。

比較されたものを、そのために分析することで 言葉も、各地に生まれたわけですが、 ここから 進歩、科学的な進歩の世界が誕生していったのだと思う。

この観点から考えると、 

人間以外の「生物」(この場合、脳を問題としているので以後「動物」と言い換えますが)は、集団社会行動のように見える行動も、 実は 》他を見る能力《 あってのこととは思われません。

アリの大群が 庭から縁側を伝い 食堂の食器棚の中にある砂糖入れの蓋があいているのを発見してそれが伝達されて 巨大な長い長い列を作ってその砂糖を目指していたとしても それは、ただただ本能のなせる業。

私は、 大きなゴザを庭掃除のためにどけた時に なんとそのゴザ全体の中に アリの大群が隠れていたため、 どわわあああっと そのアリの大群に襲われそうになったことがあります。

長靴を履いていましたが ざざざざぁと すごい勢いでその長靴をアリたちが這い上がってきたからです。

映画みたいなことが^^起こったわけです。

でも、 これは 誰かが 隠れる穴と見つけたらしく それが一気になぜか全体に伝わったようで、すべてのアリたちが次の瞬間、その穴の方へ移動していったんです。

一見アリの脳には 他のアリたちを「見る」脳が たった砂粒ほどの中に^^隠されているかのように思えますが、もちろん たぶんアリたちは無いも「見つめていないし」考えてなどいないわけです。

ただただ すべては本能の力、生き延びるための本能の定めに従ってしまっているだけだと思うのです。

その本能の連綿とした進化がやがて人間の脳へとたどり着いたのだとしても、  私は人間の脳の本質的価値の大きさやその可能性には着目したい者なのです。



》ですから個人の幸せの問題につきましても、他人を見る能力を流用して自らを見る。つまりあの人があれだけ幸せになるなら自分も同じくらい幸せになる権利があると言うことですね。

ただしそこでその認識に誤差を生む2つのファクターがあります。
1つは他人の認識と言いましても他人の全てを認識しているわけではなく、その価値判断に誤りが生じることです。
たとえば単純に言えば、あいつは俺と同じクラスなのにあいつは俺より良い学校にした、何故だとなった時に、それは学校以外の勉強量の差の問題だとしても、主観としてそれを認識可能であるかどうかは別問題と言うことです。

もうひとつは前述の純主観的な自分のコンディションの問題で、相手に認識されていない自分のコンディションや能力を自分は評価のファクターに組み込んで判断するわけです。 《



しかし、幸せに関しては、 そこには、もう一つの思索が必要に思えています。

この苦しみの世界からの脱却という、一番切実な問題を一度おいておけば、 この他の人との比較による不幸という感覚には、 ◎自我の問題と、◎もうひとつ「幸福感の度合い」の問題 があると私は思っているのです。

ただ、

この紙数で、私の「幸福感の度合い」論を書くことは困難です。

なので、このことについても、 別にトピを立てさせていただきます。
自我の問題があるからこそ  認識差の問題が大きくなるのだと思えていて、その問題を解決する唯一の方法が「幸福感の度合い」の世界にあるという図式です。

「幸福感の度合い」は「感性の深さの度合い」と重なる部分が大きく、 人間の脳が誕生した時m
指が疲れているようで、 どこかを押してしまったらしく、 書き途中でコメントが発行されてしまったようです。  つづきを書きます。あと少しです^^。

人間の脳が誕生した時には、 つまり 物事を俯瞰できる脳がその生物の脳に宿った時には、 本能から解放されたその生物には、  ちょうど 素朴な大自然の中の子供たちのように新鮮な、感性も同時に生まれたのだと私は考えているのです。    知性がそれを忘れてしまった物語が「アダムとエバ」の本来の物語の意味だと思っています。


その新鮮な「幸福」に至らない限り それを忘れている限り、 自我は 2つのファクターどころかありとあらゆる誤差誤認の繰り返しを生み続けていってしまう気がします。

》この相互の認識の違いが利害の違いや目標の違い、あるいは目標達成の可能性の違いを作るわけです。《

この点も、同じくです。

なので このへんについては、その「幸福論」についてのトピだてを、待ってみてください。

以上です。

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