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哲学 Φιλοσοφιαコミュのポバーはヒュームを乗り越えたか?

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 ポバーは科学に帰納はないと言う。科学的発見は創造的なインスピレーションであり、決してそれは実験や観測などからの帰納によるものではないというのだ。実験は単にその理論を検証する手立てであり帰納の源などではない。むしろ理論の側からの要請で実験方法は決定される。確かにそう言われればそういう気がする。おそらくそれは科学者の実感にも沿うものなのだろう。ほとんどの科学者がポバーに賛同するのも理解できる。その上で科学理論は絶対的なものではなくあくまで仮説であると付け加えて置けば、ヒュームの懐疑に対する備えは万全であるということなのだろう。

 しかし、科学理論は単なる数学理論ではない。その法則を現実に適用するわけであるから現実的な信頼性が必要である。たかだか可算回数の実験をしたとしても、それを実際に適用するにはある程度の信頼性が必要である。その信頼性というのは暫定的真理とされる仮説理論に対する信頼性というよりも、自然の秩序の安定性そのものへの信頼性である。自然の斉一性というのもがなければ、どうして実験室で確かめた法則が宇宙ロケットにおいても適用できると考えられるだろうか。

 ポバーは云う。「どのような科学理論も仮説であり、いずれ新たな科学理論によって乗り越えられる運命にある」と。ある科学理論に反する決定的な事象が発見された時、ポバーは決して自然の斉一性が破れたなどとは考えない。新たに見つかった事象をも含めて説明できるようなより高次の仮説を模索すべきであると考えるはずだ。そういう意味でポバーこそ紛れもない自然の斉一性の信仰者であると言える。ポバーの言う「反証可能性」は自然の斉一性の破れを想定したものではなく、あらゆる検証ケースを網羅することの不可能性に基づいているのである。

 自然の斉一性への信頼性の根拠は何か? どこを探しても論理的な根拠は見つからない。ただ実感としてそれはある。それを信じて生きて来られた。そういう実感である。それはあくまで経験を通じて言えることである。

コメント(135)

>>[91]
『どうもここでは私はとても独善的な人物で耳を傾けてもらう価値のない人間みたいなので』

こういう言葉が出てくるのは非常に残念です。
だれもそんな事を言ってませんよ。

哲学の徒なら、反論は十分に許すべきでしょう。
その中から、切磋琢磨してお互いに(私自身も)見識を広めていく事は決してムダなんかではありません。
そこで思考・議論を止めては、ご自身の言葉通り「独善的」になってしまいます。改めて一度冷静になって、クールダウンして、思い直してみてはいかがでしょうか?

反論があり、話しが中々進んでいかないのは苦しい事かもしれませんが、話しを進めていくために対話が成されているわけです。
相互理解を望むなら、何が論点になっているかを見定めて、何になら同意していけるかを積み重ねていかなければなりません。
どうにも腑に落ちない部分があるのですが、

>>[72]『単に前提にするというだけなら、それはただの理論に過ぎない』

と発言されているので、
>>[80]「(おっしゃる通り)「自然の斉一性」も理論だと思います」
と返答しましたら、この部分を指定して、

>>[85]『ほぼ暴言に近いと思います。「理論」というのは何らかの経験知識あるいは公理をもとに論理を連ねていくものです。』

と返ってきました。これってどういう意味なんでしょうか?
自然の斉一性は「理論ではない」と言いたいのでしょうか??
でも最初に「前提なら理論だ」と示したのは[72]でしたのに、それに対して自身で「ほぼ暴言」というのはおかしな事です。

#
それに「経験を介さない」のであれば「論理ではない」というのは正しいのでしょうか?
確かに、経験を通じて知識を得て、その知識から理論は構築されるものです。
しかし理論と呼ばれるものが経験を介されなければならないという決まりはないと私は思います。

[コトバンク > 理論 - 日本大百科全書(ニッポニカ)黒崎宏]より抜粋・要約。
https://kotobank.jp/word/%E7%90%86%E8%AB%96-659842
・諸法則を体系化したものをいう。普通には、理論は実際と対比される
・理論というものには一般になんらかの理想化が含まれており、したがってそのままでは実際には使えない
・よりたいせつなのは、経験と対比された理論である。

・たとえば気体については、のボイル法則やシャルル法則とかが発見された。これらの法則はいずれも、気体の圧力、体積、温度に関する法則である。そしてそれら三つの量は、それぞれ経験的に測定されうるものである。したがってそれらの法則は、経験的に測定されうる量の間の経験的に確立されうる法則であり、それゆえ経験法則といわれる。
・ところが分子というものは、われわれの経験できるものではない。それは、経験法則を説明するために、科学者によって考えられたものである。したがって、気体運動論という理論を構成している諸命題(諸法則)は、経験的に確立されうる法則ではない。
・すなわち、科学者は経験法則を説明するのに、その背後に隠れている非経験的法則でもってするのである。このような非経験的法則が「理論法則」といわれ、理論法則の体系が「理論」といわれるのである。

・(中略)そしてこれが経験法則についての理論的説明にほかならない。したがって経験と対比された意味での理論というものは、経験の背後にあって、経験を「実は理論的にはこうなのだ」として、説明するものなのである。
/抜粋終わり

辞典にあるように、「理論」は経験に基づいて説明していくものでもありますが、その本質は「経験(現象・表象)を体系的に説明する」というところにあると思います。

「経験的に証明され得る知識を根拠にしてなければ〈理論〉ではない」という見解であれば、それこそ暴論なんじゃないかと感じます。
ましてや、「自然の斉一性」に論理的根拠がないとするならば、「経験的(帰納的)に証明され得る知識」は全て「自然の斉一性」の原理により、「確証が得られない見識である。よって理論と呼べない」という大変な事になってしまいます。

改めて私の[80]コメントについて「ほぼ暴言」と称ばれる事に、全く腑に落ちません。
>>[100]、(横槍大歓迎です^^)
御坊哲さんの立場で言うと、『経験知識〈あるいは〉公理』と言っているので、「どちらにも該当しない」という事を言っているのだと思います。

公理の定義は色々ありそうですが、ザックリ言えば「自明である」いう事ですが、「自然の斉一性」は自明(確証がある)とは言えない。
だからもう片方の『経験知識を基に論理を重ねていくもの』でなければこれを〈理論〉とは言えない。
 しかし、斉一性というのはどれだけ試行を重ねても論証ができない。だから曖昧な規定であり、論理的な考察とは言えない(→信じるしかない)。という事を言っている様に見えますね。

#
「帰納的な順番」と「演繹的な順番」は異なる。というのは面白い見方だなと思いました^^
 帰納は概念化・一般化などの推論を示すもの、演繹は論理・論証などを示すものかもしれませんね。
そして帰納と演繹とのフェイズの移り変わりの中に繋がり・関係性がある。という事が見て取れますね。
そして恐らく御坊哲さんは「経験的事実→斉一性の概念」の是非のフェイズを話していると捉えられます。

演繹は「前提が正しければ、その結論も正しい」というものですが、「結論が正しい事が、前提も正しいという事を意味しない」という弱点(論理として必ずしも真ではない)があります。
 御坊哲さんが着目しているのは、正にそこなのでしょう。
批判的合理主義のトピックは後ほど新たに作ります。理論選択について説明する約束なんで。

わたしはポパー自身の本はほぼ読んだことがない。唯一読んだのが蔭山泰之『批判的合理主義の思想』です。ポパー哲学の概説でこれ以上良い本は無いだろうと思われます。お勧めできるのもこれだけ。読みやすいし。読んでもらったら説明不要だと思います。
「信じる」ことなしに行為できるか、という問題に明快な答えが書いてあります。

「理論を信頼してはならない」Sir Karl Raimund Popper
こちらからは少し離れていますが、皆様とご共有いたしたく思います。
ヒュームが問題とした概要と、その後どの様に改めて問題として挙がっていったのか。という事を広く読みやすくまとめられめています。

ヒュームの帰納の問題の再発見(iseda503)
http://blog.livedoor.jp/iseda503/archives/1938930.html
>>[106]、お返事遅くなりました。
おっしゃる通りだと思います。
個人的にも「信頼性がある・高い」という事と「信じる(しかない)」は、意味がだいぶ違うように感じますね。

実際に「自然の斉一性」が論理的根拠に基づいていないのだとしても、それを「仮定」として扱う事は可能ですね。
そしてそれは、きのこさんが>>[100]で取り上げたように、「斉一性を前提にする→科学が成り立つ」(演繹的)という手順・フェーズを踏んでも良い。と言う事ですね。

この「飛行機の例え」はそのまま別の例えに変えても同じ事が言えますね^^
例えば「太陽はまた登る」でも良い訳です。

信じてなくても、疑っていても、つまり「個別の信念」に関わらず、何らかの別の要因を考えない限りは「太陽はまた登る」わけですね。
ヒュームは別にこれを「信じている」とは言いませんでした。
ヒュームにとって、これは理性や論証に基づく「信念」ではなく、習慣的な慣れ(経験則)に基づく「期待」にすぎないという事です。

ヒュームは「未来が過去に類似する。という証明はあり得ない」つまり「[これまでとは異なった結果あるいは反対の結果]を伴いうるということは、何の矛盾も含まない」(事象の"結果"が真とは限らない)というのがヒュームの主張であり、事象の"原因"についての否定をした訳ではないですね。

これは「秩序(斉一性)が安定している(と信じている)から」そうなるのだ。と言っているのではなく「これまで(過去)が恒常的に成立してたから、今回(未来)もそうなるだろう」という期待を言っているだけです。

つまり、「仮定して使う」ことと「理性的に信じていること」はヒュームにとって別物であり、科学も、その期待の上に組み立てられた仮説体系であるという意味で、信念ではなく「使うもの」としての性質を持っていると言えると思います。
>>[110]
あれ、退会されたのかな。

いえ、[109]に準じるならば、「信じる」は「経験」によって構築されるものではない。という事になると思います。なぜなら経験されてない事柄を信じていると言っているわけですからね。

アプリオリ的な観点は合理主義的かもしれませんね。
「アプリオリである」という用法はカント的なものだと思いますが、カントは経験による感性を語性の形式として扱いはしましたが、理性・合理性のみを重視したという感じではないですね^^
最後のピースが埋まった。「信じない」「選ぶ」は「楽」なんだよ。
>>[116]

「杞憂」というのがありますが。もし杞人に対して「そんなこと有り得ないですよ」と反論したとすれば、「あなたは空が落ちてくることが絶対有り得ないと言えるのか」と反問されると思います。これは証明を求めてくるわけです。
なんらか真理主張をすると立証責任が回ってくるということです。

これは内的な信念とは異なって、「私・芹沢がとある理論を信頼している」という、社会的な表明なわけだから。
これはたいへんめんどくさいことを意味します。

「杞憂」は達成日時の限定がないから、テスト可能性がないので棄却できますが。「明日の朝太陽は西から昇るであろう」はテスト可能な言明でしょう。

「明日の朝太陽は東から昇るであろう」は人が揺るぎなく信頼していることだから信念と呼ばれ、そうでない主張をすることを「懐疑」と言います。この状況では自分の信念をいちいち根拠を挙げて証明しなきゃならない。
行為に当たって信念でやろうとすると常にめんどくさい。

しかし「西から」を新しい一つの理論と考えれば、
理論1「東から」
理論2「西から」
どっちを選択すべきか?と考えればよいことになる。
>>[120]BETAさん
日本語の妙ですが、(>>[118]にも通じる話しですが)
ヒュームが言っているビリーブは、動詞・能動的に「信じる」と言うよりは、状態としての名詞・用語としての「信念」「確信」に意を寄せたものだと思われますね。
なのでここは単純に「信じる」とは訳せない部分なのだと思います。

ここでいう(>>[119]芹沢さんへのレスにもなってしまいますが)「論理の確度」はまた別のステップには感じますね。
ヒュームはそれ以前の観念形成の話しではありますね。
>>[122]
漢字の由来(字源)ついての話しですね。

字源の成り立ちは言葉の意味・定義とは少し異なる話しで、意味として直接的な関連があるものではないと思います。

ここではヒュームが説いた”belief”(信念)について、ヒュームが意図した本意を読み解いていかなければならないと思います。
>>[124],>>[132]ヌーボさん
おっしゃる通り、私たちは蓋然性を根拠に物事の因果関係を見なしている。という事をヒュームは言っているわけですね。
なので、私たちは帰納による推論(自然の斉一性)を必然(確証)のものとして判断する事はできない。
つまり、論理形式的には何かしらの循環論法・論点先取を用いる構造になっており、純粋な理性によって導く事はできない。→ならこれは主観的(認知的)に信じているだけでは?
というのがトピ主の問題提起になる訳ですね。

 ここでの「明日太陽が西から昇る」というのは、論駁している人がいる。というよりは、蓋然性による確度として「東から昇る」と対比されて語られる仮定の話しですね。
芹沢さん(>>[119])は、対論をそれぞれの一つの理論(仮定)として考える事で、蓋然性(論理の確度)で考える事ができるよね。という事を言っているわけです。(もっともその選択的な消去法・背理法は、一方が偽ならばもう一方が真であるという事までは意味しない。という弱点はありますが)

「水槽の脳」「胡蝶の夢」についてもその通りですが、これらをヒュームの帰納問題が扱っているわけではないですね。
ヒュームは、「ある出来事(原因・過去)」によって「別の出来事(結果・未来)」が起きている事柄に関して、その関係性(因果)は必然的なものとして確証を得る事はできないよね。という事を指摘しているのですね。(しかしその非必然である事が「別の可能性」を補強するものではない。というのはその通りです。というか、その論理自体が因果関係を前提にしてしまってますからね)
一度整理したく思います。

ヒュームは経験論を担った哲学者として知られますが、その懐疑論の背景には「大陸合理論」との決別がありました。
大陸合理論は簡単に言うと「理性のみで物事の原理・法則などの真理を演繹的に解明する」という立場です。ヒュームはこの点を批判的に問い直したと言えます。

ヒュームが言っているのは、
「全ての認識は、経験(知覚・印象)に基づいて観念(習慣的な期待・反省)を作り出している」と言う事であり、
「"現実と一致しない(印象に源泉を見出せない)観念"は、個別の観念を連想的な結合によって作り出した、偽りの迷信(無意味な虚想)でしかない」という事を言っているわけです。
 例えば「黒猫が目の前を横切ったから、不幸が訪れる」というのは、実際には因果の根拠がない典型的な例になります。(論理学的には「前後即因果の誤謬」に該当しますね)

 そこでヒュームは「現実としての印象に根拠を持たない観念は退けねばならない」という立場を提示しました。
これはデカルトの方法論的懐疑と同様に「方法論としての懐疑」、つまり「先入観や迷信に惑わされずに観察・考察するために疑う」ための方法論であり、この姿勢は後の実証主義や科学的経験論へと繋がっていきます。

ここで重要なのは、「他の可能性を排除する(一つの見方を"必然的に信じる")」という事ではなく、先入観のない視点で、(人間の本性・本質を踏まえた上で)〈いかに〉観察・考察していくべきかが語られているわけです。

ヒュームの指摘は大変明快なものではありましたが、一方で、「自然の斉一性」における帰納推論の正当化や、「主観と客観の一致」という問題が残されました。
これらの問題が、カントによる純粋理性批判(コペルニクス的転回)によって整理され、さらに後世の構造主義やポパーの実践論理へと引き継がれていくわけです。

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