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哲学 Φιλοσοφιαコミュのポバーはヒュームを乗り越えたか?

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 ポバーは科学に帰納はないと言う。科学的発見は創造的なインスピレーションであり、決してそれは実験や観測などからの帰納によるものではないというのだ。実験は単にその理論を検証する手立てであり帰納の源などではない。むしろ理論の側からの要請で実験方法は決定される。確かにそう言われればそういう気がする。おそらくそれは科学者の実感にも沿うものなのだろう。ほとんどの科学者がポバーに賛同するのも理解できる。その上で科学理論は絶対的なものではなくあくまで仮説であると付け加えて置けば、ヒュームの懐疑に対する備えは万全であるということなのだろう。

 しかし、科学理論は単なる数学理論ではない。その法則を現実に適用するわけであるから現実的な信頼性が必要である。たかだか可算回数の実験をしたとしても、それを実際に適用するにはある程度の信頼性が必要である。その信頼性というのは暫定的真理とされる仮説理論に対する信頼性というよりも、自然の秩序の安定性そのものへの信頼性である。自然の斉一性というのもがなければ、どうして実験室で確かめた法則が宇宙ロケットにおいても適用できると考えられるだろうか。

 ポバーは云う。「どのような科学理論も仮説であり、いずれ新たな科学理論によって乗り越えられる運命にある」と。ある科学理論に反する決定的な事象が発見された時、ポバーは決して自然の斉一性が破れたなどとは考えない。新たに見つかった事象をも含めて説明できるようなより高次の仮説を模索すべきであると考えるはずだ。そういう意味でポバーこそ紛れもない自然の斉一性の信仰者であると言える。ポバーの言う「反証可能性」は自然の斉一性の破れを想定したものではなく、あらゆる検証ケースを網羅することの不可能性に基づいているのである。

 自然の斉一性への信頼性の根拠は何か? どこを探しても論理的な根拠は見つからない。ただ実感としてそれはある。それを信じて生きて来られた。そういう実感である。それはあくまで経験を通じて言えることである。

コメント(109)

>>[64]
>だからこそ科学の信頼性について、(盲目的な)信仰ではなく、その妥当性について考えるべきだと思うし、それが科学なり哲学なりの態度だと思う。

もうこの件については言いたくないのだけれど、最後に一つ言わせてください。「信じる」というとどうしても「(盲目的な)信仰」というニュアンスに受け取ってしまうようですが、疑う余地のないものに対して「信じる」とは言いません。

我々の思索活動の端緒はすべて経験することから始まっています。経験がなければ考える足場さえありません。言語だって同じようなやり取りを繰り返して初めて獲得されるものです。もし斉一性ということがなければ経験を整理することさえできず言語だって成立しないでしょう。ここで行われている議論さえ成り立たないでしょう。

>だからこそ科学の信頼性について、(盲目的な)信仰ではなく、その妥当性について考えるべきだと思うし、それが科学なり哲学なりの態度だと思う。

それはその通りだと思いますよ。私はそれに反したことを述べたつもりは全くありません。「斉一性がある」ということは「宇宙に秩序がある」と同義です。その秩序=法則を探るのが科学でしょう。しかし限られた経験では絶対的な法則に到達することは出来ない、だからこそ科学へのアプローチは永遠に続く、ただそれだけのことと思います。

論理的には「斉一性を信じない」そういう態度もありだと思います。ただそれだと人類は生き残れないでしょう。
 斉一性が成り立つことを前提にするか仮定しないと科学の描像を作ることに意味がなくなるので、科学上の理論を元に話している時には自動的に斉一性は成り立つものとされてますでしょう。成り立たない観測事実が出たら斉一性が崩れたとするのではなく斉一性は生かして理論を書き換えること、これは既出です。そこに「信じる」という情緒や信念は絡まない、また実在も問うていない、単に“科学のルール”と言った方がいいかもしれません。

 例として挙げますが、理工系で信仰を持っている人もたくさんいますが、彼等は日頃使っている科学理論の枠外のことが(例外的に)起こり得ると“信じて”いるのではないでしょうか。つまり「斉一性が(厳密には)成り立たないと信じる」人々もいて人類の存続に貢献してます。その人達も日頃は斉一性を前提に生活し仕事してるわけですが。

 斉一性を信じなくても“実務上斉一性を仮定した科学”やそれをもとにした技術で人類は生存できていて、滅亡はしてません。それと「斉一性が実際に成り立っているか」は別の話ではないでしょうか。
>>[71]

>成り立たない観測事実が出たら斉一性が崩れたとするのではなく斉一性は生かして理論を書き換えること、これは既出です。そこに「信じる」という情緒や信念は絡まない、また実在も問うていない、単に“科学のルール”と言った方がいいかもしれません。

単に前提にするというだけなら、それはただの理論に過ぎません。実験した通りに機械が動いてくれると信じているからこそ飛行機に乗れるわけです。自然の斉一性は証明されることはないでしょう。それでも飛行機に乗れるということは自然の斉一性を信じているからではないですか。

大森荘蔵なら「私たちは自然の斉一性に人生を賭けている」というでしょう。たぶんあなたは既に自然の斉一性を頭から信じているので、自分が信じていることにさえ気づいていないのだと思います。
>>[70]、レスありがとうございます。
いや、個人的には面白い話題なので、これで最後なのは勿体無いと思いますよ^^

>『疑う余地のないものに対して「信じる」とは言いません』
#意図するところがわかりにくいのですが、その発言は「斉一性は疑う余地があるから"信じる"」と言う事を言ってますか??

「疑う余地がある(論理的に証明されてない)」なら「信じるしかない。私たちは信じ込んでいるのだ」で話しを結んで終わってしまうのは性急なんじゃないか。という事を言っているわけです。

別に「個人が信じる」のは結構だけど、主観の域を超えてない。だからそうした主観的な独断を「乗り越えられるか?」がこのトピックのテーマなわけでしょう?

>『もし斉一性ということがなければ経験を整理することさえできず言語だって成立しない』
#その通りだと思います。私も別に「斉一性は成立しない」と言っているわけではないです。

>『「斉一性がある」ということは「宇宙に秩序がある」と同義』
#それはその通りだと思いますよ^^
なので「単に信じている」と結ぶのではなくて、「その妥当性について考えるべきだ[64]」と私は言っているのです。

>『論理的には「斉一性を信じない」そういう態度もありだと思います』
#論理的に証明できない事が「信じる/信じない」の話しではなく、「妥当性があるか/ないか」の話しではないか?と>[64]では言っているわけです。

>『それだと人類は生き残れない』
#おっしゃる事はその通りだと思います。
ただそれは「信じているから生き残っている」ではないと思いますよ。命題の逆が真とは限らないと思います。

「信じている」というのは個人(人間)の都合でしかないわけです。「言語の獲得」と言うのも人間の都合でしかありません。
ただ、「人間の都合」でどうなっているか。ではなくて、「自然を客観的に解明」していく事が科学であるわけです。
「人間に都合が良いかどうか」は問題ではないですし、論点ではないわけです。

「妥当性」というのは「主観的に信じている」という事から生じるのではなく、「客観的な見識」などから導くものだと思います。
それも「経験によるもの」といえばその通りです。
しかし重要なのは、経験を単に"思い込みで信じる"という事ではなく、"客観的・普遍的な視点"で「なぜそうだと言えるのか?」を考えるのが、科学なり哲学なりの態度なんじゃないですか。と[64]では言っているわけです。

このトピックは主観的・個人的なドクサを暴いて終わりなのでしょうか?
御坊哲さんの言う通り「信じるしかない」がもしかすると究極の真理かもしれません。
でも結論付けるにはまだ早いんじゃないですか?

「斉一性を信じない」という態度もあるかもしれません。
「斉一性は破れ得る・成立しない」それを検証するのも良いのではないでしょうか。
「自然の斉一性」も、>>[28]のように"グルー"かもしれませんよ?:)
その時人類は生き残れないのでしょうか?果たしてそれも正しいのでしょうか?
それらも考えていく事はできると私は思いますよ。
>>[73]
おもしろい話題だと言ってくれたので、もう一度だけ。

>「斉一性は破れ得る・成立しない」それを検証するのも良いのではないでしょうか。

それは検証できないと思います。斉一性を決定的に証明するかまたは否定するのは(演繹)論理でしかありえません。しかし、論理というのは前提となるものが何も無ければなんの情報も生み出さないのですよ。あくまで有用な知識の出発点は経験しかないのです。帰納論理は斉一性を前提としていますが斉一性は我々の経験から帰納されているという循環になっています。根本的な照明の土台というものはないのですよ。だから信じるしかない、というより既に信じているでしょう。


>「自然の斉一性」も、>>[28]のように"グルー"かもしれませんよ?:)
その時人類は生き残れないのでしょうか?

設問の仕方が不適切です。自然の斉一性は「同じ条件なら同じことが起こる」ということです。グルーの問題というのは、この「同じ」という類別の仕方を我々はどのように考えるかという問題です。帰納推理の「AならB」のAやBをどのように適切に類別すべきかということが問題視されているのです。

ある野球チームの監督は、「昨日はあの路を通って球場へ行ったら試合に勝てた。今日もそこを歩通って来たから勝てるだろう。」なんて言うのはグルー推論と近いかも知れないですね。
「斉一性」に最初に言及したのは私です。真っ先にです。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=929559&id=86254822&comment_count=49
ま、要らない議論の一例としてです。
あまり強調してこなかったですが、要らない理由の肝は「理論選択」です。
あと、常に忘れられているのは「正当化」です。帰納は普通にできるだろうけど、それで正当化できるのか?という問題です。昨日もそうだったから今日もそうだろう、は正当化していいんですかね?
>>[74]
「自然の斉一性」そのもののの検証は確かにできないでしょうね。
私が言う「成立するかの検証」は「自然の斉一性」が基づく論理の部分、つまり「帰納」についての検証をさしてます^^

>『設問の仕方が不適切』
まあ、「斉一性を想定しなければ、人間は生き残れない」は重要ではない。と言う事です^^
よって『我々の思索活動の端緒』についても『設問の仕方が不適切』である事が帰結されたわけです(少し意地悪いですが、そこを指摘しているわけです)
>>[75]芹沢さん
もしよろしければ「理論選択」についての説明と、それによって何が言えるのかをいただいても良いですか?
>>[72]
自然の斉一性も、「ただの理論に過ぎない」とは思います。

『飛行機に乗れるということは、自然の斉一性を信じているから』
それが論理飛躍だと言ってます。
 (個人が)斉一性を信じてなくても、乗れば飛行機は飛びますし、実際、墜落が怖いという理由で乗りたがらない人だっていると思いますよ。

ここで重要なのは、「機械は正しく動くと信じて乗るか?」と言う事ではないと思います。
ここで斉一性を想定している人物は、せいぜいエンジニア・クルー・保険会社くらいでしょう。
そしてそれは「信じているから」ではなくて、「理論」として、飛行能力・事故率(その原因)を想定しているだけです。

「信じる」はその後の話しなんですよ。「理論がどの程度、妥当性・確実性・信頼性を持っているか」という事が先にあります。

演繹だけを根拠にするなら、私たちは何も生み出せないし、ほとんどの事柄を合理的に判断する事ができなくなってしまいます。だから「理論」なんじゃないですか?ただ「信じる」なんですか?
という話しになるわけです。

重要なのは「帰納」が機能するか?何を以て機能していると信じるか?という事になります。
(あえて「信じるか?」と言ってますが、この循環が帰納の目の上のタンコブなわけではありますね。同じ議論を繰り返す必要はありませんよ^^)

([78]訂正しました。失礼いたします^^;)
>>[79]

今すぐ説明してもよいのですが、議論全体を俯瞰した上で段取をどうするかは考えています。ここでのよい議論は生かしたいですから。
あと文献を読み直しています。しばしお待ちを。

自分の疑問としては、「斉一性」に遡って信じるくらいなら、具体的な命題を信じればいいのではないか、と思います。生物は進化するとか地球は丸いとか。なんでそうせんの?ということです。
あと、御坊哲さん的には、「斉一性」は科学を成立させるアプリオリになっているようですね。カント的な。
>>[76]
>あと、常に忘れられているのは「正当化」です。

あなたにとって正当化とは何ですか? 私は「正当化」について忘れているどころかずっと正当化の話をしていたのですよ。私の言っていることを頭から拒否してはいませんか?

グルー推論とグリーン推論のどちらが正しいか?

たぶん大抵の人はグリーン推論の方が正しいと感じるでしょう。私もそう思います。しかし、それでもどちらが正しいかということはあくまで結果でしか判定できない、ということを理解していないとこの問題を捉えそこないます。

しかし、グルー推論は『推論としては間違っている』ということは言えると思います。そう言えるのはアプリオリにではなく、私たちの社会と私の今までの経験知識からそう判断できるわけです。病気になったら、シャーマンではなく近代医学を学んだ医者を頼るのと同じことです。

シャーマンだって病気を治せます。経験的にいろんな薬草やまじないが病気に効くことを知っています。未開の人たちがシャーマンを頼ることには正当性があります。しかし、教養のある現代人がシャーマンを頼ることには正当性がないと言っても良いと思います。シャーマニズムと近代医学とは何が違うか? 少なくとも経験に基づいて治療を施すという基本は似通っています。違うのはその経験に基づく体系の信憑構造でしょう。
シャーマンは腹痛の人にあの薬草を飲ませたら治ったとか、この症状にはこんなまじないが効いたいう経験から、それなりの治療法を編み出します。決して根拠がないわけではない。しかし、近代医学の方が根拠となる信憑構造がより堅牢だということです。
「Aという症状にはBという処置が有効である」という処方のAとBについて、シャーマンはAとBの要素分析あるいは概念分析をあまりやらない。近代医学では、膨大な経験(症例や実験)をもとにAとBを分析し、より確率の高い処置法を確立しようとする。言うなれば、経験とそれを分析することによって、推論方法を洗練していくということが科学の進歩だと言っても過言ではないと思います。
 
 なんだ当たり前のことじゃないかと仰るかもしれません。言いたいのは、科学というのはどこまで行っても信憑体系だということです。

グルー推論とグリーン推論のどちらが正しいということは結果がでるまでは絶対に言えません。しかし、どちらが正当かと言えば、それはグリーン推論でしょう。それは素朴な言葉で言えば、「エメラルドはグルーではなくグリーンである」と信じているということでしょう。
>>[82]

グルーに興味ないんで。
そもそも正当化は必要ですか?
>>[72]

 「信じる」という言葉の定義のズレがあるのでしょうか。信じてはおりません。

 一種ハイデッガー的でもあるのか、議論じゃなくて投げ出された現実の中で命を懸ける...その意味はわかるのですが.......せいぜいこの地球上で人類が存在している間という限られた時間と空間の範囲内では斉一性が成り立っているのだろうな、とは思っています。しかし、哲学的思考ですから際限はなく、宇宙論的な時空のスケールでも成り立っているのかは保証の限りではない、むしろ成り立っていなくてもおかしくはない、と考えています。なので、信じているのか? と問われたらお返事はNOになります。

 ではなぜ飛行機に乗れるのか? そもそも斉一性云々以前に飛行機が落ちて事故死する確率がゼロではなことを承知で乗っているわけですが(ここのところ重要)、

■■私が直接経験できる範囲内では斉一性が成り立っていると「みなして差し支えない」■■

 とは思っています。これを「信じる」と言うのかは言葉の定義の問題や、合理主義的矢印左右ロマン主義的 な表現をするのか、といった話で、本質ではないと思います。
>>[80]

>自然の斉一性も、「ただの理論に過ぎない」とは思います。

ほぼ暴言に近いと思います。あらためて私がこれまで述べてきたことは一顧だにされていないのだなと感じました。「理論」というのは何らかの経験知識あるいは公理をもとに論理を連ねていくものです。論理学や数学以外の経験科学は自然の斉一性を前提としなければそもそも推論を使うことが出来ないのでどんな理論も成立しません。

「同じ状況なら同じことが起こる」という前提があってはじめて、「AならばB」式のことが言えるのではありませんか。

>『飛行機に乗れるということは、自然の斉一性を信じているから』
>それが論理飛躍だと言ってます。

斉一性を信じていなければ、飛行機の部品の一つ一つが同じ状況で同じ働きをしないではないですか。スイッチを入れても電源が入らないような飛行機に乗る勇気がある人がどこにいますか。

>(個人が)斉一性を信じてなくても、乗れば飛行機は飛びますし、実際、墜落が怖いという理由で乗りたがらない人だっていると思いますよ。

こういうのを論理の飛躍というのですよ。私は斉一性を信頼していますが実際に飛行機に乗るのはちょっと怖いです。飛行機が安全に飛ぶための条件は膨大なものです。その危険性を予知できるのもあくまで斉一性を前提としての話です。斉一性はあらゆる推論に関わっています。たとえ斉一性を意識しなくとも、飛行機に乗る人は斉一性を信じていると言っても良いと思います。
世界中で多くの人が飛行機を安全に使用している実績を知識として知っています。だが「自分も飛行機に乗っても大丈夫だろう」と推論しているのです。

斉一性というものがなければ世界に秩序というものがなくなってしまいます、カオスです。飛行機に乗ろうと飛行場にいこうとしても、恐ろしくて一歩も歩けなくなってしまいそうです。

>>[82]

>科学というのはどこまで行っても信憑体系だ

なら創造科学やフラットアースに拝跪するんですね? わたしはそれは御免ですし、そうする必然も無いと思います。
>>[86]

>なら創造科学やフラットアースに拝跪するんですね?

だれがそんなことを言っているんですか? 創造科学やフラットアースは信憑構造が貧弱だからこそ信頼するわけにはいかないのでしょうが。



>>[81]

>あと、御坊哲さん的には、「斉一性」は科学を成立させるアプリオリになっているようですね。カント的な。

カント的アプリオリについて誤解があるように思います。

斉一性はアプリオリだとは思っておりません。生まれたままではカオスだと思います。世界と交渉をも持ちその手ごたえを感じるようになって初めて斉一性を受け入れるのでしょう。その「斉一性を受け入れる」性質そのものは人間にアプリオリに備わっているように思います。カント的ではなくあくまで生物学的なアプリオリという意味でです。
>>[89]

じゃあそれは撤回します。

ですから宗教同士で「おめえんとこは貧弱」ってどうすれば言えますか?
そこに応えてください。
>>[88]

私のいうこと聞く気ありますか?

>>[82] をもう一度読んでください。

より堅牢な信憑構造に基づいた推論が正当な推論だということを述べているつもりです。

そもそもグルー推論はよって立つ信憑体系などないわけです。
シャーマンは信憑体系としては貧弱で、近代医学の方がより強力な信憑性があるということを述べたつもりです。

もう同じことを何度も繰り返すのには疲れました。

どうもここでは私はとても独善的な人物で耳を傾けてもらう価値のない人間みたいなので、このコミュからは脱退させて頂きます。


>>[91]

「推論方法の洗練」とは何ですか? 信憑ならそんなもん要らないでしょう。「御言葉」こそ最高になるんだから、最高の推論は最高の前提から生まれるはずではないですか。
堂々巡りで中々意図が伝わらないみたいなので、悩ましいところですが(故に同じ様な説明をつどつど返す様でクドイとは思いますが)。

>>[74]『根本的な〈証明〉となる土台はない。だから信じるしかない・既に信じている』

#まず上記の『信じるしかない・既に信じている』について、この部分を否定する。というのではありません。
 私個人・あるいは我々(人々)が「暗黙の了解として前提にしている」=「一種の思い込みを、成立していると"みなして"運用している」という解釈であれば「信じている」という事はできるでしょうし、それについては同意はできます。
「個人」の話しをするのであればそこで終わって良いのだと思います。

ただ私が思うのは、「科学」の話しをするならば科学は客観性をもって語られる必要がありますし、それは「主観の話し」ではなく「客観性に基づくもの」として捉え直さなければならない必要があるとわけです。
(「個人的・主観的な視点・根拠(信じる)」は科学を語る上で重視されてはいない。という事ですね。>>[42]で芹沢さんも言ってますが)

だから仮に「自然の斉一性」の根拠が主観的な仮説形成によるものだとしても、「客観的に信頼度のある共有できるものとして」模索するべきで、その事を『「前提(暗黙の了解)にするしかない」という事が、「自然の斉一性を信じるしかない」とはやっぱり違う[69]』と言っているわけです。

まず、その論点(問題・イシュー)の共有ができないと話しは進みません。

#
>>[80]では「飛躍している」と言いましたが、これは『〈証明〉できない⇒(ならば)B』(A⇒B)の導出部分についての指摘しています。
こちらの一文は「A⇒B」の形式を取っているので、待遇論証が可能です。

命題『根本的な〈証明〉となる土台はない。だから信じるしかない・既に信じている』を、
「証明できない(A)」⇒(ならば)「信じるしかない(B)」として成立させる時、

「信じ得られない(Bの否定)」⇒「証明できる(Aの否定)」
が真として成立します。

 ではこれは果たして真だと言えるでしょうか?
上の考え方だと、「証明できるかどうか」は「信じ得るか/得ないか」にかかっている(十分条件)。という事になります。
 「客観的に証明"できる"」の根拠として 「主観的に信じ"得られない"」事と関係が無いなのは明らかです。(個人が信じ得られない事が、客観的に証明できる理由にはならないですからね^^)

よって『根本的な〈証明〉となる土台はない。だから信じるしかない・既に信じている[74]』は、論理的には成立しないことになります。

#また「〈主観的な見解〉であるか/〈客観的の見解〉であるか」ということをこれまでに何度もお話ししてきました。
〈経験〉は確かに主観的なものです。そして私たちは〈経験〉を頼りに理論を構築します。それも否定しません。十分に同意できます^^
(直近で芹沢さんもおっしゃってますが、これはカントの認識論で改めて考えていく事ができますね)

「主観」と「客観」の違いは、前者が「個人・主体者」の中、主観の中でしか成立しない・できてないのに対して、後者は「主体者の感性に限らず、誰にとっても」普遍・客観的に成立していくものと"みなせる"事です。

その客観性も『土台は〈経験〉に基づく』のはその通りです。それも否定するわけではありません。
なので、カントが言うところの「感性・直観」をどのように「認識」として受け取り、「概念」として他者と共有されるか(主客一致)が論じられるわけです。

だから「帰納」について、「単に論証できないから」と却下するのではなく、その"論理性"について改めて考えるべきだ。と言う事を示しているのです。

帰納の導出が「論理的に証明できない(真とは限らない)」のは事実ですが、「証明できないから"論理的ではない"」わけではありません。(推論としては一応機能してますからね)
これも以前から気になってはいましたが、帰納の導出は単に「真であるとは限らない」というものです。なので「帰納"単体で"証明する事はできない」というのは確かですが、法則性を「仮説形成」として導出し(ヌーボさんが言ってましたね^^)、それを基に演繹を行うことは可能です。

話しが長くなるので一旦割愛しますが、単体では証明できないものの、論理的な推論として帰納は認められているわけです。
ではその推論が実際に正しいか(破れてないか)を検証するのが科学であるわけです。
>>[85]
一顧だにされてないと感じられるのも分からなくないですが、それは論点共有ができてないからですかね^^;
私からしても同じ気持ちがなくはないです^^;

『同じ状況なら同じことが起こる』
これが「なぜそうだと言えるのか?」が検討されてない。と言う事を言っているわけです。
それが検討されれば「AならばB」の形式も言える様になる。とは考えられませんか?

>>『斉一性を信じていなければ、(中略)飛行機に乗る勇気がある人がどこにいるのか?』
#「個人的に信じているかということ」は飛行機が実際に飛ぶのとは無関係だ。という事をいってます。

>>『危険性を予知できるのも斉一性を前提としての話。斉一性はあらゆる推論に関わっている』
#それはその通りです。そうして推論を行なっているのもその通りです。

それで、「個人が信じてようが/信じてなかろうが、飛行機は飛ぶ」という事が、どの様に論理飛躍しているかを説明できますか?(Q1)


>>『斉一性というものがなければ世界に秩序というものがなくなってしまう』
#「個人が持つ理念」として秩序を捉えられるなくなる。解釈できなくなる。といえばそれもそうかもしれませんが、それは飽くまでも個人の中の話しです。
個人が世界をどの様に感じ取っていても(わからないのだとしても)、「世界の秩序が存在しない」の根拠にはならないと思いますよ。

そこの論点共有ができてないから「主観」に留まってしまうのだと思います。(そしてそれは学問に対しての態度ではないと口を酸っぱくして言ってます)
 だからその「不確かさ」に対して客観的な折り合いを付けなければ、(科学として)他者と共有はできない。
単なる個人的な「信じている事(信仰)」で終わってしまう。その事を申し上げているのです。
>>[91]
『どうもここでは私はとても独善的な人物で耳を傾けてもらう価値のない人間みたいなので』

こういう言葉が出てくるのは非常に残念です。
だれもそんな事を言ってませんよ。

哲学の徒なら、反論は十分に許すべきでしょう。
その中から、切磋琢磨してお互いに(私自身も)見識を広めていく事は決してムダなんかではありません。
そこで思考・議論を止めては、ご自身の言葉通り「独善的」になってしまいます。改めて一度冷静になって、クールダウンして、思い直してみてはいかがでしょうか?

反論があり、話しが中々進んでいかないのは苦しい事かもしれませんが、話しを進めていくために対話が成されているわけです。
相互理解を望むなら、何が論点になっているかを見定めて、何になら同意していけるかを積み重ねていかなければなりません。
どうにも腑に落ちない部分があるのですが、

>>[72]『単に前提にするというだけなら、それはただの理論に過ぎない』

と発言されているので、
>>[80]「(おっしゃる通り)「自然の斉一性」も理論だと思います」
と返答しましたら、この部分を指定して、

>>[85]『ほぼ暴言に近いと思います。「理論」というのは何らかの経験知識あるいは公理をもとに論理を連ねていくものです。』

と返ってきました。これってどういう意味なんでしょうか?
自然の斉一性は「理論ではない」と言いたいのでしょうか??
でも最初に「前提なら理論だ」と示したのは[72]でしたのに、それに対して自身で「ほぼ暴言」というのはおかしな事です。

#
それに「経験を介さない」のであれば「論理ではない」というのは正しいのでしょうか?
確かに、経験を通じて知識を得て、その知識から理論は構築されるものです。
しかし理論と呼ばれるものが経験を介されなければならないという決まりはないと私は思います。

[コトバンク > 理論 - 日本大百科全書(ニッポニカ)黒崎宏]より抜粋・要約。
https://kotobank.jp/word/%E7%90%86%E8%AB%96-659842
・諸法則を体系化したものをいう。普通には、理論は実際と対比される
・理論というものには一般になんらかの理想化が含まれており、したがってそのままでは実際には使えない
・よりたいせつなのは、経験と対比された理論である。

・たとえば気体については、のボイル法則やシャルル法則とかが発見された。これらの法則はいずれも、気体の圧力、体積、温度に関する法則である。そしてそれら三つの量は、それぞれ経験的に測定されうるものである。したがってそれらの法則は、経験的に測定されうる量の間の経験的に確立されうる法則であり、それゆえ経験法則といわれる。
・ところが分子というものは、われわれの経験できるものではない。それは、経験法則を説明するために、科学者によって考えられたものである。したがって、気体運動論という理論を構成している諸命題(諸法則)は、経験的に確立されうる法則ではない。
・すなわち、科学者は経験法則を説明するのに、その背後に隠れている非経験的法則でもってするのである。このような非経験的法則が「理論法則」といわれ、理論法則の体系が「理論」といわれるのである。

・(中略)そしてこれが経験法則についての理論的説明にほかならない。したがって経験と対比された意味での理論というものは、経験の背後にあって、経験を「実は理論的にはこうなのだ」として、説明するものなのである。
/抜粋終わり

辞典にあるように、「理論」は経験に基づいて説明していくものでもありますが、その本質は「経験(現象・表象)を体系的に説明する」というところにあると思います。

「経験的に証明され得る知識を根拠にしてなければ〈理論〉ではない」という見解であれば、それこそ暴論なんじゃないかと感じます。
ましてや、「自然の斉一性」に論理的根拠がないとするならば、「経験的(帰納的)に証明され得る知識」は全て「自然の斉一性」の原理により、「確証が得られない見識である。よって理論と呼べない」という大変な事になってしまいます。

改めて私の[80]コメントについて「ほぼ暴言」と称ばれる事に、全く腑に落ちません。
横から失礼しますが、

〇「理論」というのは何らかの経験知識あるいは公理をもとに論理を連ねていくものです。

の「公理」とは純粋に論理的前提ですよね。つまり論理の起点は経験に基づかないこともあるとお認めになっているのだと読めますが.... ぶっちゃけ、

■斉一性を公理として物理学(などの科学)は成り立っている。

と言ってもいいくらいです。その斉一性とはもともとは我々の祖先の経験則から出てきたのでしょうけど、今に生きる個人としては斉一性を前提に施行することが"自動化"されている。ポイントは

■時間的な順番と論理的な順番はちかう

ということではないでしょうか。つまり、時間的には「経験的事実→斉一性の概念」(帰納的)ですが論理的には「斉一性を前提にする→科学が成り立つ」(演繹的)となる。どのフェイズの話をしているのかにズレがあるように思います。(何の話なのかについてまず合意がきないと後の話がキツくなります)


それでは、私はROMに戻ります。
>>[100]、(横槍大歓迎です^^)
御坊哲さんの立場で言うと、『経験知識〈あるいは〉公理』と言っているので、「どちらにも該当しない」という事を言っているのだと思います。

公理の定義は色々ありそうですが、ザックリ言えば「自明である」いう事ですが、「自然の斉一性」は自明(確証がある)とは言えない。
だからもう片方の『経験知識を基に論理を重ねていくもの』でなければこれを〈理論〉とは言えない。
 しかし、斉一性というのはどれだけ試行を重ねても論証ができない。だから曖昧な規定であり、論理的な考察とは言えない(→信じるしかない)。という事を言っている様に見えますね。

#
「帰納的な順番」と「演繹的な順番」は異なる。というのは面白い見方だなと思いました^^
 帰納は概念化・一般化などの推論を示すもの、演繹は論理・論証などを示すものかもしれませんね。
そして帰納と演繹とのフェイズの移り変わりの中に繋がり・関係性がある。という事が見て取れますね。
そして恐らく御坊哲さんは「経験的事実→斉一性の概念」の是非のフェイズを話していると捉えられます。

演繹は「前提が正しければ、その結論も正しい」というものですが、「結論が正しい事が、前提も正しいという事を意味しない」という弱点(論理として必ずしも真ではない)があります。
 御坊哲さんが着目しているのは、正にそこなのでしょう。
批判的合理主義のトピックは後ほど新たに作ります。理論選択について説明する約束なんで。

わたしはポパー自身の本はほぼ読んだことがない。唯一読んだのが蔭山泰之『批判的合理主義の思想』です。ポパー哲学の概説でこれ以上良い本は無いだろうと思われます。お勧めできるのもこれだけ。読みやすいし。読んでもらったら説明不要だと思います。
「信じる」ことなしに行為できるか、という問題に明快な答えが書いてあります。

「理論を信頼してはならない」Sir Karl Raimund Popper
>>[101]

“順番”の切り口は生まれてから今までの間のどこかで読んだものの受け売りです。ただ、いつ何を読んだか覚えておらずもう血肉になっていて出典も示せないのですが、受け売りだという記憶だけはある。そういうことは多いですけど、この切り口で御坊哲問題はだいたい掌握できてると思います。ただ私は

>曖昧で論理的な考察とは言えないならば信じるしかない。

とは考えません。これは個別の信念(又は信じずにはおれないというお気持ち)の話でしょう。信じてはいなくて単に仮定するだけ、疑いながらも使うだけ、ということはないのか? という疑問が生じます。だいたい科学というのがそういう仮説の集積だし、飛行機が絶対落ちないなんて信じちゃいないが乗るわけですし。



こちらからは少し離れていますが、皆様とご共有いたしたく思います。
ヒュームが問題とした概要と、その後どの様に改めて問題として挙がっていったのか。という事を広く読みやすくまとめられめています。

ヒュームの帰納の問題の再発見(iseda503)
http://blog.livedoor.jp/iseda503/archives/1938930.html
>>[106]、お返事遅くなりました。
おっしゃる通りだと思います。
個人的にも「信頼性がある・高い」という事と「信じる(しかない)」は、意味がだいぶ違うように感じますね。

実際に「自然の斉一性」が論理的根拠に基づいていないのだとしても、それを「仮定」として扱う事は可能ですね。
そしてそれは、きのこさんが>>[100]で取り上げたように、「斉一性を前提にする→科学が成り立つ」(演繹的)という手順・フェーズを踏んでも良い。と言う事ですね。

この「飛行機の例え」はそのまま別の例えに変えても同じ事が言えますね^^
例えば「太陽はまた登る」でも良い訳です。

信じてなくても、疑っていても、つまり「個別の信念」に関わらず、何らかの別の要因を考えない限りは「太陽はまた登る」わけですね。
ヒュームは別にこれを「信じている」とは言いませんでした。
ヒュームにとって、これは理性や論証に基づく「信念」ではなく、習慣的な慣れ(経験則)に基づく「期待」にすぎないという事です。

ヒュームは「未来が過去に類似する。という証明はあり得ない」つまり「[これまでとは異なった結果あるいは反対の結果]を伴いうるということは、何の矛盾も含まない」(事象の"結果"が真とは限らない)というのがヒュームの主張であり、事象の"原因"についての否定をした訳ではないですね。

これは「秩序(斉一性)が安定している(と信じている)から」そうなるのだ。と言っているのではなく「これまで(過去)が恒常的に成立してたから、今回(未来)もそうなるだろう」という期待を言っているだけです。

つまり、「仮定して使う」ことと「理性的に信じていること」はヒュームにとって別物であり、科学も、その期待の上に組み立てられた仮説体系であるという意味で、信念ではなく「使うもの」としての性質を持っていると言えると思います。

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