ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

半蔵門かきもの倶楽部コミュの第29回 ハルト作 『向き合う背中』

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「君には、苦労を掛けたと思う」
 食卓の向かい側で項垂れる男は、何人もの人が使い古した言葉を口にした。私はそれを黙って聞き、現実だとまだ受け入れられないこの状況を無理に呑み込んだ。
「苦労なんて……」
 気にしていない、と言いかけたけれど、彼の足元にあった荷物を見て止めた。どう言い繕っても、この人は出て行くのだ。そう思うと急激に気持ちが冷めて行った。
「じゃあ、元気でね」
 私はそれだけ言い残して自宅を後にした。離婚届は、すでに判を押して渡してある。渡したのは二年も前だったけれど、今日までよく持ったものだ。
 歩きながら携帯電話を取り出して、いつも家の修繕などを頼んでいる業者の番号を呼び出した。玄関の鍵を変えてもらうためだ。合鍵を置いていくように言うのを忘れたので、鍵ごと変えてしまおうと思った。もともと、あれは私の祖父母が建てた家だ。追い出すようだけど、あの人にも異論はないだろう。
 自宅から県道に続く緩い坂道を小走りで駆け下りたところで、傘を忘れたのに気が付いた。天気が変わりやすいこの地域は、バッグに入る小さな傘がお守りだった。
 長い冬が終わり、駆け足で春が過ぎて行って、短い梅雨が終わればそろそろ夏の足音が聞こえてくる。つい数日前は硬貨程の大きさだった葉が、手のひら大までに成長していた。
 十分ほど歩くといつもの光景が見えてくる。
 観光地と化した商店街のなかにある喫茶店は、今住んでいる家と一緒に、祖母から受け継いだ。ログハウス風の店構えは年を重ねるごとに風合いが増し、常連客からは渋く味わい深いと評判だが、最近は雨漏りする箇所が多くなってきたのが悩みの種だ。 
 営業は午後五時まで。週末の金曜日と土曜日だけ夜も営業しているが、他の店よりは早く閉めてしまうし、日曜日と月曜日は定休日にしている。
 裏口のドアに鍵を差し込むと、空回りした。気の早いアルバイトの子が先に来ている様だった。
「おはよう」
 挨拶をしながら店の中に入ると、薬缶をコンロに掛けて点火する音がした。黒いエプロンをした茉莉(まり)がカウンターの中から「おはようございます」と挨拶を返した。
 朝、私が飲む最初の珈琲は、茉莉が淹れてくれる。それを飲みながら、日替わりのランチメニューを相談し、在庫や注文品の確認をする。
 繁忙期は臨時のアルバイトを雇う時もあるが、それ以外は私と茉莉で切り盛りしている。初めはどうなる事かと思ったが、今では私より先に出勤して仕込みや開店の準備をしてくれたり、何かと楽をさせてもらっている。

 数年前、茉莉はふらりとやってきた。
 アルバイト募集の掲示を、近くの市民センターで見たと言う。なかなか応募者が来なかったので、募集した私も忘れていた頃だった。
 彼女の履歴書に書いてあった住所は東京で、大学の三年に在学中となっていた。だが、見た目は手足が細く華奢な顔付きで、猫の飾りが付いた髪留めをしていたり、年齢よりだいぶ幼く見えた。
 応募してくれたのはありがたかったが、長期で働ける人を探していたので最初はあまり深く考えず断るつもりだった。
「ごめんなさいね。夏休みだけのアルバイトは募集していないの」
 私が履歴書を一瞥しただけで返そうとしたら、茉莉は心細いのか痩せた細い指を何度も組み直しながら、言いにくそうに言葉を選んだ。
「あの、実は……大学は休学……というか、辞めるつもり、というか、前提?」
 今時の若い娘と同じ話し方が気になった。言い切らず変に尻上がりで疑問形にする話し方は、この辺りでは好まれないだろう。
 黙って聞いていると茉莉は余計に焦り、組んでいた指を解いて膝に置き前のめりになった。そして一言「長期で働けます」と言った。
 それを聞いてもやはり気乗りはしなかった。成人してはいるが、家出人に関わると後が面倒だ。
 私が渋い顔をしていたのに気付いたのか、彼女は聞いていない事まで事細かく話し出した。履歴書はここに来る前に書いたので実家の住所になっているが、この近くにもうアパートは借りてあるし、親も了解している。迷惑はかけない、と畳みかける様に言ったが、彼女の言葉を事実だと証明するものは何一つなかった。
 なかなか首を縦に振らない私にしびれを切らしたのか、茉莉は急に立ち上がって店のカウンターの中に入って行った。
「ちょっと失礼します」
 それだけ言うと、彼女は勝手にお湯を沸かし、豆を挽いて珈琲を淹れ始めた。呆気に取られたまま彼女の行動を見守っていると、初めて来た場所だと言うのに無駄なく動き、カップとミルクを温めて用意した。その上、数種類の豆を自分でブレンドしていたのにも驚いた。
「飲んでみて下さい」
 出来上がった珈琲をカップに注ぎ、私の前に置いた。
 茉莉の淹れた珈琲は、香りからして素人が淹れたものとは違っていた。ブレンドしたからか、複雑に絡み合った産地ごとの香りが、一枚の織り布となっている。一口飲んでみると、苦みに諄さがなくとてもまろやかで、鼻に抜ける香りが心地良かった。
「美味しいわ。どこかで勉強したの?」
 茉莉は下を向いて「独学です」と言った。珈琲は徐々に冷めていくが、美味しさはさほど変わらなかった。これならカフェオレにしたり、ゼリーにしても美味しいだろう。
「分かりました。じゃあ明日から来てください」
 茉莉は顔を上げ、ぱっと笑顔になった。形の良い目が少し細くなって、とても可愛くなる。私はそれを見て大事なことを忘れそうになったが、条件を一つだけ提示した。
「でも一つだけ。あとでご実家に電話しても良いかしら」
 茉莉は動揺する様子もなく「はい、構いません」と言い残し、深々とお辞儀をすると店を出て行った。まだ時給の話や勤務時間の話もしていなかった。
 その日の夕刻、履歴書の電話番号に掛けてみた。
電話に出たのは低い声の男性で、「はい、東山珈琲専門店です」と名乗った。普通の家庭を想像していた私は、戸惑って二の句が継げず、暫く無言になってしまった。電話の向こうで訝しげに「もしもし?」と言われ慌てて場所と店の名前を告げ、今回の顛末を話した。
 男性は茉莉の父親だった。燻し銀の様な深みのある声を、どこかで聞いた事があるような気がしたのは、その時期に活躍していた俳優に似ていたからだろうか。私が話した茉莉の様子に驚きつつも、終始穏やかで乱れることはなかった。
「男手一つで育てたので、変わったところのある娘ですが、ご迷惑をかけるようなことはないと思いますので、どうかお願いします」
 私は寮母にでもなった気持ちで「はい、承知しました」と答えた。
 あくる日、開店の一時間前に顔を見せた茉莉に昨日実家に電話したことを告げた。「素敵なお父様ね」というと、茉莉は照れ臭そうに鼻を掻いた。
「家が喫茶店で、母親が家にいなかったので、お店で過ごす時間が多かったんです」
 そう言って自分の生い立ちを少し話してくれた。
 茉莉の淹れる珈琲はたちまち常連の間で評判となり、私が珈琲を淹れる機会はぐんと減った。茉莉がその日の気分でブレンドを変えるので、彼女の為に「本日の珈琲」というメニューを増やした。
 一つだけ難点だったのは、茉莉が持って来たエプロンが白とピンクの派手なデザインが施されたものだったという事だった。自分の名前と同じだというキャラクターの猫が書いてあり、その周りにキラキラとラインストーンが入っていた。出来れば店の雰囲気に合わせて紺色か黒、もしくは茶色にしてほしかったが、言えないでいるうちに数カ月過ぎた。だが、珈琲を淹れればたまに滴が飛び、ケーキを焼けばチョコレートで汚れる。彼女はそれに自分で気づき、あるときから黒いエプロンをするようになった。同じ猫のキャラクターが付いた髪留めは変わらず愛用していたが。

 珈琲を飲み終わると、二人でランチとケーキの準備に取り掛かった。ランチはいつもサンドイッチかキッシュ、それにサラダとフルーツを添える。ケーキは定番のチーズケーキに、日替わりでもう一種類作る。昨日、契約している農家から人参を沢山仕入れたのでキャロットケーキにすることにした。
 人参を刻んでいる間、昨晩からの出来事を思い出していた。
 夫は夜遅くなって帰宅した。いつもの事だったが、昨日だけは酒を飲んでいなかった。
 食事の世話をするのは、もう数年前から止めていた。店を閉めてから自宅に戻り、家のことをやっていると、深夜に近い時間になる事も多かったので、すれ違いに「おやすみ」と言って自室に引き上げるのが常だった。
 大酒を喰らう夫はいつもすぐ寝入ってしまう様だったが、昨日は明け方頃までガタガタと何かの作業をしていた。多分、荷物の整理でもしていたのだろう。そして、今朝の話に繋がる。
 今思えば、向う脛の一つも蹴飛ばせば良かった。私が働いているのを良い事に、ヒモ生活を満喫し、外に女まで作っていた。二年前に私が突き付けた三行半はいつの間にか有耶無耶になったけれど、今回は夫の方が本気だった。
 私は作業の手を止めないまま、なるべく普通の会話の延長として、茉莉に伝えた。
「茉莉ちゃん、私離婚することになったんだけど、お客さんにはとりあえず伏せておいてくれる?」
「ええっ?」
 大袈裟に驚いた茉莉は、もともと丸い目をさらに丸くして私を見た。サンドイッチに入れるゆで卵をみじん切りにしていた手も止まる。
「そんな……急に」
 情緒豊かな茉莉は何故か自分のことのように動揺していた。私は努めて冷静に話をした。
「それが急でもないのよ。今までも何度かあったの。でも、今度は本当に終わり。出て行っちゃったからね」
 私は卵に混ぜ合わせるマヨネーズを冷蔵庫から出すと、ボウルと一緒に茉莉の近くに置いた。茉莉は思い出したように、細かくなった卵をボウルに移した。
 マヨネーズを落とし、ゴムへらでよく混ぜる。彩りにドライパセリを加え、隠し味に砂糖を少しだけ入れる。
「蓉子(ようこ)さん、お願いします」
「はいはい」
 砂糖の量を一度失敗したことのある茉莉は、いつも私に仕上げを任せる。私は茉莉が差し出したスプーンと砂糖の瓶を受け取り、少量を掬って卵の中に振り入れた。
「こんなもんかな」
 茉莉は頷いて、またかき混ぜる。味見をして「美味しいです」と言うと、ボウルを持ったまま悲しげに私を見た。私は何故か沈む彼女を慰める様に、わざと明るく振る舞った。
「結婚もね、こんなもんかな、って感じだったわ」
「蓉子さん」
「あ、ごめんね。茉莉ちゃんはこれからだもんね」
「いえ、私なんて。すみません、気が利いたことも言えなくて」
「いいのよ。とりあえず、内緒にしておいて。みんなが気付いた時に、それとなく話すから」
「わかりました」
「ほら、そんな顔してるとバレちゃうわ。いつもの様に、お願いね」
「はい」
 鼻を啜っている茉莉を尻目に、出入り口へ行ってプレートを「OPEN」にひっくり返した。しばらくすると朝ご飯を食べに地元客が数名やってきて、茉莉にも笑顔が戻った。私は安心して、ケーキを入れたオーブンを見に行った。
 客入りはまずまずだった。昼時になると黒い雲が押し寄せ、ポツポツと降り出した。途端に気温が下がり、氷の入った飲み物を頼む客はいなくなる。ポットでサービスする紅茶を頼む客は、必然的に長居になった。
 ランチは作った分だけ捌けてしまい、ティータイムのケーキも、二種類のうち一つずつ残っただけだった。
 閉店時間の五時がやってきたが、まだ小雨が降っている。残ったケーキを茉莉と分け、店に置いてあったビニール傘を持って帰宅した。
「ただいま」
 そう言って家の中に入ったが、当然ながら部屋は真っ暗だった。玄関の明かりをつけると、なぜかもういないはずの夫の靴が、ぽつんと一足だけ残されていた。まだ家にいるのかと思い「いるのー?」と声を掛けても返事はなかった。確認の為に下駄箱を開けると、そこには私の靴だけが残っていた。うっかり忘れて行ったのだろう。
 私は夫の靴を足でぞんざいに端に寄せた。
 留守電に業者から、鍵の交換は来週になると連絡が入っていた。

 翌朝、いつものように店に着くと、前庭に植えてあるオリーブの木が立ち枯れているのに気付いた。やはり寒い土地では根付かなかった。オリーブの木に申し訳なく思いながら、次は何の木を植えようかと考え、近くの園芸店に相談しようと電話を掛けた。
 町に一つしかない園芸店の女主人とは、同級生でよく話をする。店に飾る切り花などの配達も任せていた。
 相談すると、次は無難にコニファーなどはどうかと提案されたが、私は出来れば実が成る木が良いと依頼した。店の裏の土地で、数種類のベリーの木を育てたかったのを思い出したので、それも一緒にお願いすると、今日の午後までには揃えておくと返事があった。
 私はいつも苗木だけを持って歩きでやってくる女主人の為に、スコップや園芸の道具を用意しておこうと裏の倉庫に廻った。
 裏庭の一角に置いてある倉庫には、園芸用品やもう使わなくなったカセットコンロなどが入っているが、この数週間は手を入れていない。だが、いつもおいてある場所に、スコップがなかった。外に出したままで、仕舞うのを忘れていたのだろうかと思い、あちこち見て回ったが、見付からなかった。
 裏口から店に入ると、茉莉が湯を沸かしながらぼんやりしていた。少し目が充血しているようだ。「おはよう」と声を掛けると、無意識に反応してこちらを見たが動きは緩慢だった。
 若い女には、眠れない夜もある。私は茉莉の変化に気付くことがあっても、彼女から言い出すこと以外は無理に聞かない様にしていた。
「茉莉ちゃん、裏に置いてあったスコップを知らない?」
 私は茉莉の赤い目を見なかった事にして、いつもの様に振る舞った。
「ああ、すみません。お借りしてます」
 彼女はすぐに、しまった、という顔をして胸の前で合掌をした。だんだんといつもの茉莉に戻って行く。
「そう。悪いんだけど午後までに戻しておいてくれるかしら」
「わかりました」
「スコップ、お家で使ったの?」
「あ、はい、そうなんです。大家さんが前の庭を使って良いと許可をくれて。家庭菜園を始めたんです」
「そうなの」
 茉莉の住んでいる部屋はアパートの一階で、それぞれの部屋に二畳ほどの前庭がついている。夏になると草が多くなり、虫も寄ってきて辟易していると聞いたことがあるが、今年はその庭を有効活用することにしたらしい。
「苗はもう仕入れた?」
「はい、いつもの園芸店で」
「そう。店の裏でもブルーベリーとかを育てようと思うの」
「じゃあ、ベリーのタルトとかに使えますね」
 私はメニューに、自家製と言う文字が躍るのを想像して、これからはハーブなども育ててみようかと考えた。本当はランチのサイドに添えるオリーブや、紅茶に付けるレモンなども欲しかったが、寒い地域で育てるのは難しい。試しに植えたオリーブも冬を越せたと思っていたが、実際には厳しかったようだ。
 お湯が沸き、茉莉が珈琲を淹れ始める。
「今日お天気はどうかしら」
 いつもの会話をして、メニューを決める。茉莉の手元にはアボカドがいくつか転がっていて、シンクにはエビが出してあった。ランチのサンドはベーグルにした。
 数日前にブランデーに漬けたドライフルーツが良い味になってきたので、今日はこれでケーキを焼こう。
 茉莉は店が開店する前に、自宅にスコップを取りに行った。歩いて五分程度の距離なので、それ程時間も掛からずに戻ってくるだろうと思ったが、なかなか戻ってこなかった。
 三十分たった頃に、茉莉が肩で息をしながら店に戻ってきた。走ってきたらしいが、何故かエプロンの裾に泥水が飛び散っていた。
「あら、雨が降ってきた?」
「いえ、スコップが汚れちゃってて、洗っていたんです」
「すぐ使うからいいのに。もしかして忘れて帰っちゃったのかと思って心配したわ」
「すみません」
 茉莉は口数少なく謝ると、手を洗い仕込みに戻った。靴にも泥が付いていて、私は仕方なくモップで床を拭き、茉莉のエプロンも替えさせた。
 茉莉は何も言わなかった。

 お茶の時間もそろそろ終わる頃に、園芸店の紗代(さよ)が顔を出した。「蓉子ちゃん」と呼ばれ店の外に出て行くと、一メートルほど育った苗木が置いてあった。
「ユスラウメの木にしたんだけれど、これなら寒さにも強いし、良かったかな」
 桜に似た葉を茂らせている苗木には、小さな赤い実が成っていた。
 自宅の裏にも祖父が植えたユスラウメの木がある。子供のころは年に一度実が熟すのが待ち遠しく、面白がって赤い実を取って食べていた。
「ありがとう。お願いします」
 紗代は枯れたオリーブの木を掘り起し、空いた所に肥料を入れ苗木を植えた。枯れた木をどうしようか迷っていると、紗代が持ち帰ると言ってくれた。
「ベリー系の苗木なんだけど、今日は揃わなかったから、入ったら連絡するね」
「わかった。それでね、ついでにハーブとか野菜の畑も作りたいの。相談したいから、ちょっと店に寄ってくれない?」
「わかった」
 紗代が手を洗いに水場へ行ったので、私は先に店に戻った。
 四時半を過ぎていたので、客の入りはまばらだったが、その中の二人組の女性客に茉莉が困り顔で応対していた。苦情だろうかと思い、静かに近づいて「何かございましたか」と聞いた。
「ああ、蓉子ちゃん。このケーキ、洋酒がきつすぎない?」
 茉莉に絡んでいたのはたまに来る年配の女性だった。自宅が近所なので、お互い名前は知っているが常連ではなかった。
「すみません、ブランデーが入っているんです」
 メニューにはドライフルーツのブランデーケーキと記載してある。洋酒が入っているのは明確だが、その量まで正確に記すことは出来ない。いつものレシピで作ったのだが、彼女の口には合わなかった様だった。
「酔っぱらいそうよ、これじゃ」
「すみません、いつもこれ位なんですけどね……」
 私は笑顔で応対した。苦情を言う女性の向かいに座っている、もう一人の女性客は、私たちのやり取りを苦笑いで見ていた。
 難癖をつけて代金を踏み倒す客は、少数だがこの辺りにも存在した。
 女性は「そうなの?」と引き下がる素振りを見せたが、顔は不満気だった。
 そこに丁度紗代が店に入ってきたので、私と茉莉は新規の客の対応をする振りをして、その場を離れた。
 紗代はちらりとこちらを見て、少し離れた奥の席に座った。茉莉に珈琲を二人分お願いして、私は紗代の分だけブランデーケーキを切り分けた。
 トレイに乗せて奥の席まで運ぶと、紗代はチラシの裏に簡単な図面を描いていた。気が早いなと思って見ていると「面白そうだから手伝うわ」と言った。だがすぐに思い直したようで「あ、ご主人に任せるの?」と聞いた。
「ううん、私が」
「そう言えば蓉子ちゃんのご主人、ここ何日か見ないわね」
「ああ、出て行ったのよ。私離婚するの」
「あら、ついに?」
「うん」
 気心知れた紗代に隠す必要はなかった。
「じゃあ、きちんと手間賃を決めない?」
 知識のある紗代に手伝ってもらうのは有り難いが、無料と言う訳にはいかないだろう。切り花を届けてもらう時も、だいぶサービスしてもらっていた。
「美味しい珈琲で十分よ」
 そう言ってカップを目の高さまで上げ笑った。週末、園芸店を閉めた後によく来店する紗代は、茉莉が淹れる珈琲を気に入っていた。二杯目からはブランデーを加えるのが彼女の定番で、閉店時間まで自分の時間を楽しんでいた。
「それにしても、あの子のアパート前、相変わらず草が伸び放題ね」
「え?」
「大家さんも無頓着だから、毎年ジャングルみたいになってる」
「そうなの……」
 私は頭の片隅で、何か引っかかるものを感じた。茉莉の方を見たが、今の会話が聞こえた様子はなかった。
「ゆっくりして行きたいんだけど、まだ配達が残ってるから、また後で来るね」
 紗代が珈琲を飲み干し立ち上がったところで、今日が土曜日だったのを思い出した。彼女はしっかり「これも後で食べるから」と言って、手を付けなかったケーキを残しておくように私に頼んだ。
紗代を見送り、カウンターに戻る。ケーキにラップをしていると、茉莉から話しかけてきた。
「今夜も紗代さん、いらっしゃるんですよね」
「うん、そう言ってた」
「私、紗代さんの珈琲を淹れたら、早めに上がらせてもらっても良いですか」
「それは構わないけど」
「実家の父が、具合悪いみたいで。少し様子を見てこようと思うんです」
 私は一度だけ話したことのある、渋い声の主を思い出していた。
「そうだったの。ぜひ、そうしてあげて」
「すみません」
 茉莉の目が充血していたのは、このせいだったのかと思い、彼女に聞かなかった事を後悔した。今にも涙が零れ落ちそうなほど、父親の状態は深刻なのだろうか。心配だったが、今の彼女に容体を聞くのは気が引けて、休み明けにしておこうと思った。
 目尻をハンカチで拭った茉莉は、もう一度「すみません」と言って頭を下げる。その頭に、いつものトレードマークが無かった。
「あら、今日は猫の髪留め、してないのね」
 茉莉ははっとして、いつも髪留めが付いている辺りを手で押さえた。
「お客さんに、おかしいって言われて」
「おかしい?」
 彼女は口籠りながら、髪留めのことを説明した。
「お客さんに年を聞かれて、正直に答えたら、その年でその髪留めはおかしいって」
「そんな事言った人がいたの」
 お節介な人がいるものだと、私は飽きれた。きっと地元の人間だろうと当たりをつけ、どんな人だったかを尋ねてみた。
「あの、さっきの人です。ケーキのお酒がきつすぎるって言った人」
 私はそれを聞いて、あの人なら言いそうだなと思った。たまにしか来ないのに、道端で会うと珈琲の銘柄の薀蓄をたれ、ケーキのレシピに口を出す人だ。
 私は律儀に髪留めを外した茉莉を慰めた。
「気にしないで。いつも通りで大丈夫だからね」
 彼女は「はい」と頷いたが、どこかに仕舞った髪留めを付け直すことはなかった。

 茉莉は紗代の為に珈琲を淹れると言って待っていたが、私は早めに彼女を帰した。少しでも早く列車に乗れた方が、夜遅くに帰ってくる娘を迎える父親の心配も減るだろう。
 いつもより遅い時間にやってきた紗代は、茉莉がいない事に少しがっかりしていたが、私は先程から気がかりだった事を尋ねてみた。
「今日、茉莉ちゃんがアパートで家庭菜園を始めて、苗を紗代ちゃんのお店で買ったって言ってたんだけど」
 紗代はきょとんとした顔で否定した。
「うちには来ていないと思うけど。あの石と草だらけの庭じゃ、難しいんじゃないのかなぁ」
「紗代ちゃん、アパートへ行ったの?」
「大家さんに切り花を届けたのよ」
「そう。何故そんな事言ったのかしら」
 嘘を吐いていると思いたくはなかったが、何故か腑に落ちなかった。
 カウンターに座った紗代に珈琲を淹れ、取ってあったケーキと一緒にテーブルに置く。一口飲んだところで、紗代は私の目を見て、改まった様子で言った。
「言おうか迷ったんだけど、さっきご主人を見掛けたの」
「そう。どこで?」
「駅の近くに配達に行った帰りに。車に乗ってたわ」
「うち、車は持ってないわよ」
「レンタカーかも知れないでしょ。そこにね、茉莉ちゃんみたいな子が乗り込んで行ったの」
「え?」
 幸い店内には他に客がおらず、大きな声で話しても差し障りがなかったが、予想外の組み合わせに驚いてしまった。
 固まっている私を見て、紗代は自信なさそうに付け加えた。
「遠目だったから、確信は持てなかったんだ。茉莉ちゃんはまだ働いてるはずの時間帯だったしね。でもここに来てみたら、いなかったから……」
 夫と茉莉は面識があった。夫はたまに店に顔を出していたし、茉莉に初めて会った時は紹介もした。私が知る以上に親しくしているなんて、予想したこともなかったけれど、店を留守にする時間もあったので、その間に二人が距離を縮めた可能性も、まったく在りえないとは言い難かった。

コメント(12)

「まぁ、そんなこともあるのかしらね」
 私は精一杯強がって言ったが、紗代が見たことが本当なら、もう茉莉は戻ってこない様な気がしていた。駅の近くなら、そこから電車を使った方が早く東京に着くし、たまたま会って乗せて行ったとは考えにくい。
「それだけなら良いんだけど、念のため気を付けてよ」
「気を付けてって……?」
「あの子、なんだか嘘を言っていたみたいだし」
「嘘って、さっきの家庭菜園のこと?」
 それが嘘だったとして夫とどう関係があるのだろうと不思議に思った。紗代は私をじっと見て、私に何かを気付かせようとした様だが、途中で諦めて視線を落とした。

 紗代に「夕飯を食べにこない?」と誘われたけれど、今日はまっすぐ帰ることにした。片付けをしている私を待ち、一緒に店を出る。紗代と別れる十字路まで、ぶらぶらと歩いた。避暑地などと呼ばれ持て囃された時期もあったが、繁華街を一歩出れば街灯の少ない田舎の暗い道が山に続いているだけだった。
 何かあったらすぐ電話する様にと紗代に念を押され、私は頷いたものの、何かって何が起こるのだろうと考えていた。
 自宅には、やはり明かりが点いていなかった。誰もいない家に帰るのは今までも多々あったが、夫と茉莉が一緒にいたということを聞いたせいか、急に孤独が押し寄せてきた。
 数年前から夫婦仲はぎくしゃくしていた。今思えば、私は夫の背中しか見ていなかったし、彼も私の背中しか見ていなかったのだろう。それでも家に戻ってくる夫に安心して、いつか夫に対するあらゆる感情が消え、平坦な日々が戻ってくるのだと思っていた。
これからはずっと、この感情とうまく付き合わなければならないのだ。
 玄関のドアを開け、壁を手探りして明かりのスイッチを押す。ぱっと明るくなった玄関で靴を脱ぎ、部屋に入ろうとした時、ふと思い出して三和土を振り返る。
 昨日は夫が忘れて行った靴があった。
 だが、今はない。
 振り返った三和土には私の靴だけがある。
 私がいない間に、夫が取りに戻ったのだろうか。
 他は全部持ち出したのに、一足だけ忘れた靴を? それ程思い入れもなさそうな普通の、それもかなり草臥れた靴だ。
 考え込む私の耳に、風が通り抜ける音が届く。
 音のした方を見ると、そこにはぽっかりと口を開けた闇があった。

 目が覚めた時、隣で心配そうに見ていたのは、元の夫でもなく、茉莉でもなく、見知らぬ男性だった。
 白い天井に、弧を描くカーテンレール。そこから下がる薄いグリーンの仕切りカーテン。ぼやけた視界に映る、複数の管が自分の口元や腕から伸びているのを見て、何か面倒なことに巻き込まれたのだと思った。
見知らぬ男性なのに、彼は何故か私の名前を知っていて、低い燻し銀の声で「蓉子さん」と呼んだ。
 焦点の定まらない目で見ていると、男性は握っていた私の手を離し、ナースコールを押した。
 数名の看護師と医師が騒がしい足音と共に押し寄せ、私が寝ているベッドを取り囲む。私の体をあちこち触って安心した様に一息つくと、数歩離れた場所で様子を伺っていた男性に、もう大丈夫ですよと伝えていた。
 医師たちが引き揚げると、男性が乱れた掛け布団を直してくれた。「どなたでしたでしょうか」と聞こうとして、口の中がじゃりじゃりと嫌な音を立てた。途端に自分が受けた理不尽な仕打ちと、暗闇の中で感じた恐怖を思い出し、涙が流れた。呼吸が乱れ、酸素吸入のマスクの内側が曇った。
「蓉子さん、私は茉莉の父です」
 燻し銀の声は、いつか電話で聞いた声と同じだった。
 呼吸が落ち着くまで、私は彼をじっと見ていた。茉莉には似ていない。何故か顔の輪郭や背格好が、ぼんやり祖父と重なった。
「この度は、大変申し訳ない事をしました」
 彼は立ったまま深く腰を折り、私に頭を下げた。なかなか顔を上げない彼に、わたしは掠れた声で「顔を上げてください」と言った。謝るより先に、事の顛末を話して欲しかった。
「記憶が曖昧で、何がどうなったんでしょうか」
 顔を上げた茉莉の父は、苦渋の表情を浮かべながら近くにあった丸椅子に腰かけた。私は起き上がろうとしたが彼に止められ、代わりに枕を背もたれにして少しだけ上体を起こした。
「今回の事は、茉莉とご主人が共謀して起こしました」
 茉莉の父は、目覚めて間もない私が理解出来るようにゆっくりと話し始めた。
「茉莉がご主人に近付き、二人であなたの財産を奪おうと企んだらしいのです。失踪後数年たてば、保険金が入ることも考えていたようです」
 彼の瞼はぴくぴくと痙攣し、大それた計画を立てた娘の行動に、ストレスを感じている様だった。
「ずっと連絡がなかった娘から、電話がありました。お父さんたちが欲しがっていた大金が手に入ったから、遠くに行くという知らせでした」
 ただの大金とは言わず、欲しがっていた大金と言った事に、茉莉の父は違和感を覚えたと言う。
「嫌な予感がしました。いてもたってもいられず、東京から車を飛ばしたのですが、途中で大雨に振られ、こちらに着いたのが明け方でした。ご自宅は鍵が掛かっていましたが、裏で何か動く音がして、駆けつけると泥だらけの貴女が倒れていたんです」
 私が自宅に戻ると、玄関から一番近い部屋のドアが開いていた。窓がなく、家の中では一番暗い部屋で、以前から夫が一人で使っていた。
朝出かける時は、ドアは閉まっていた記憶がある。何故なら、私はその部屋を長らく覗いていない。ドアはいつも閉じられている。それが日常だったからだ。
その部屋から風が入る事はないはずだ。
 それでも風の音がしたので、部屋を覗き込んだ時、足元に白い何かが落ちているのを見つけた。拾い上げたものが、猫の髪留めだと分かった瞬間、後ろを何かが通った気配がした。それが何かを確かめる時間もなく、後頭部を激しい痛みが襲った。
 私はよろけて、そのまま倒れ込む。床だと思っていた場所はぽっかりと穴が開いていて、そこに顔から転げ落ちた。鼻の奥がつんと痛み、鉄の味がして、頬に土の感触が伝わった。意識はあったものの、体を上手く起こせず、もがいている上から誰かが土をかぶせた。外してあった床板を嵌めると、光は完全に遮られた。
 二人分の声と、足音が去って行く。
 私は暗闇の恐怖に耐えながら、手足をバタつかせた。幸い、土の量が少なかったせいで這い出すことは出来たが、床板は釘を打ち直したのか、何か上に乗っているのか、持ち上げることは出来なかった。
 何度か試みても、体力が消耗していくだけで、床板はぴくりともしない。足に力を入れて、肩で持ち上げようとした時、支えにしていた足元で何かが割れる音がした。
 そちらを見ると、片方の足が壁板を踏み抜いて向こうの空間に突き出し、そこから薄明かりが漏れていた。
 私はそこである物の存在を思い出す。
 祖父が遊び半分で作った地下室。家の下の土を掘って、周りに木枠を入れただけの、祖父の遊び場。
 崩れる恐れがあったので、埋められたとばかり思っていたが、それは残っていたのだ。
 私は湿って腐った木枠を足で蹴り、穴を開けてそこから地下室へと滑り落ちた。
 どさりと音を立てて落ちた空間は、サイコロのように真四角で、足元に古い懐中電灯が転がっていた。懐中電灯は何故かスイッチが入ったままで辺りを照らし、私がそこに落ちてくるのを待ち構えていたようだった。
 地下室には何も残っていなかったが、壁に一つだけ忘れられた額縁が掛けられていた。私がそれを手に取った時、頭の上からぼろぼろと土くれが落ちてき始めた。地上へ続く通路は細く狭まっており、既に崩壊が始まっている。無意識に額縁だけを持って這い出した。
明け方の青白い光が見えた時、赤い実を沢山つけた、ユスラウメの木が目の前にあった。
額縁の中の絵が何だったのか、見る余裕もなく、記憶はそこで途切れていた。
「丁度雨が止んだ時でした。あれでもし土砂降りだったら、音が聞こえずに発見が遅れたかも知れません」
 地下室の狭い出入り口から這い出し、半身を乗り出した形で私は発見された様だった。案の定地下室は崩れ落ち、膝から下は土に埋まっていた所を、茉莉の父が引き上げてくれた。
 病院に運ばれ、低体温と後頭部の裂傷を診た医師は、事件性を認め警察に通報した。茉莉の父も事情聴取を受け、娘の話をしたという。
 逃亡した彼らは国道の入口で呆気なく拘束された。逃亡先が、茉莉の母親が住む土地だろうという予想が当たったからだった。
 それにしても、疑問が一つ残った。
「何故、茉莉ちゃんは私に財産があることを知っていたんでしょうね」
 それはヒモ状態だった夫にさえ、隠していたことだった。
茉莉の父はそれを聞くと伏し目がちになり、実は、と話を次いだ。
「実は、蓉子さんのお母さんと私が、従兄妹同士なんです」
「……え?」
「今までお会いした事はないですが、蓉子さんと私は遠い親戚なんですよ」
 私はそれを聞いて、合点が行った。背格好が父や祖父に似ていたのは、血縁があったからだ。
「噂では聞いていたんです。あなたのお祖父さんが事業で成功して莫大な財産を築いたと」
「そうでしたか」
「以前は親戚同士、近所に住んでいましたから。それが突然お祖父さんは隠居して、道楽で喫茶店がやりたいからと、この土地に引っ込んでしまった。他の親戚どもは、財産を取られるのが嫌で逃げたのだと揶揄していました」
 私は事業をしていた時の祖父を知らない。物静かに珈琲を淹れていた姿や、時々祖母に窘められながら、子供の様な遊びをしていた姿しか、私の記憶にはなかった。
「多分茉莉は、親戚連中が財産の話をしているのを、聞いていたんでしょうね。私もあなたから茉莉をアルバイトで雇うと電話をもらった時は驚きましたが、まさかと思いました」
 茉莉が最初から、祖父の財産を目当てに私の前に現れたのかは分からない。それでも彼女は、私という存在も、財産があるという事実も知っていて、アルバイトの面接に来たという事だ。私はそれを見抜けなかった。
「私、とんと人を見る目がないんですね」
 私は笑おうとしたが、上手には笑えなかった。頬の擦り傷がひりひりと痛んだ。
 少しの沈黙が流れた後、病室に二人の男性が現れた。黒い手帳を見せられ、これから長い闘いが始まるのだと悟った。
 刑事の後ろには先程の医師が立っていて「今日は短い時間でお願いしますよ」と言って牽制していたが、席を外すように言われ、茉莉の父を伴って病室から出て行った。
 刑事の一人が形だけのお見舞いの言葉を口にして、それからすぐに二枚の写真を提示した。
「あなたのご主人と、アルバイトとして喫茶店で働いていた女性に間違いないですか」
 私は引きつった顔で写っている二人の写真を見て、ゆっくりと頷いた。
 それからは短い時間に、たくさんの情報を詰め込まれた。薄々感じていたものもあったし、まったく知らない事実もあった。
 凶器としてスコップが使われたこと。
 茉莉は連れ子で、茉莉の父とも、私とも血縁関係がないこと。
 店の中の珈琲に、胃薬が入っていたこと。
 胃薬の入っていたピルケースから、微量の遅行性睡眠薬が検出されたこと。
 夫は離婚届を提出しておらず、未だ夫婦であること。
 抜け道となった地下室の壁に、細工がしてあったこと。
 私はそれらの事実を組み立てて考えるのを、今はまだ出来なかった。どちらにしても、これから嫌と言う程、向き合わなければならない。その瞬間が来た時、私は夫の行動を非情と感じるか、それとも憐れみと感じるのか、それも分からなかった。
 私が考えるのを止めて強く目を瞑った時、医師が病室のドアを開け「今日はここまでにしてください」と言ったのが聞こえた。
 慌ただしく刑事が出て行き、医師に指示された看護師が、私の腕に繋がっていた点滴の袋に、何かの薬剤を追加していた。次第に緊張していた体中の筋肉が緩み、また眠りに落ちて行った。

 数日後、退院を許され、私は自宅ではなく喫茶店の二階に寝泊まりすることになった。自宅はまだ立ち入り禁止になっており、荷物も最低限の必需品しか持ち出せなかったが、紗代や茉莉の父が色々と世話をしてくれ、不自由さはなかった。
 地下室に滑り落ちた時の衝撃で、踝にヒビが入っていた。家の中を歩くだけならそれ程苦労はないが、まだ店の営業は再開出来ていない。
 ただ、この小さな町で大きな事件を起こし、様々な噂が飛び交う中、以前と同じように喫茶店の経営が出来るのかどうか。すでに私の精神は疲弊していて、これ以上のストレスに耐える自信はなかった。
 刑事も弁護士も、毎日のように通ってきては事情を聞かれ、それだけで一日の大半が過ぎて行った。
 真実だけを話し、夫や茉莉が、私の証言でどんな処遇になるかは、想像しなかった。
 きっと彼らは彼らなりに理由があって、調書には沢山の言い訳が並ぶのだろうけれど、それが純粋な本心であるのかは確かめようがない。
 紙の上に並ぶ言葉だけが、動機のすべてだとは限らない。特に夫については私にも責任があり、お互い面倒を避けて真剣に向き合わなかった事に、最大の原因があるような気がしていた。
 一つだけ、思い出したけれど、誰にも話していない事があった。
 それは、地下室の中を照らしていた古い懐中電灯の存在だ。
 普通に考えれば、壁に細工をした誰かが置いて行ったものだと思うだろう。
だが、あれは違う。
私は子供の時、あの懐中電灯を持って祖父と地下室への入り、その明かりを頼りに中にあったランタンを点した。
 はっきりと覚えている。懐中電灯は何度か使った後に電球が切れ、その時点ですでに明かりは点かなくなっていたのだ。

 やっとギブスが外れた日に、歩いて紗代の園芸店まで行った。切り花を数本ブーケにしてもらい、自宅へ向かう。心配した紗代は私に付き添って、ちょうど地下室のあった場所までやってきた。
「嫌ね、死んだわけでもないのに花を供えるなんて」
 紗代はそう言って顔を顰めたが、私は構わず花を供え、手を合わせた。
 亡くなったのは人ではなく、祖父との思い出の場所だ。
「でも、ここも取り壊しか……」
 紗代は眩しそうに家を見上げた。この辺りも古い家が次々と取り壊され、少しずつ町の様相が変化している。
 現場検証の為に地下室を掘り起こしたが、その時に家の土台がだいぶ傷んでいる事が分かった。昔に建てた家なのでベタ基礎がなく、斜面に打った柱は腐って傾き始めていた。
 地下室を埋めないでいたことも、湿気が溜まる要因となっていた。
「残しておいても、危険みたいだから」
「そう。最後に蓉子ちゃんを守って、お役目を終えたんだね」
 土を掘り起こしても、懐中電灯は見付からなかった。壁板が割れやすいように細工したのも、夫は自分ではないと供述しているそうだ。
 あの時、咄嗟に持って逃げた額縁には、まだ祖父母と両親が生きていた頃に五人で撮った写真が入っていた。五人の後ろにはこの家も写っている。
 紗代の言った言葉が、慰めではなく本当なら良いのに。
 祈るような気持ちで家を見上げたが、答えが返ってくるはずもなく、ただ静かに、写真と同じセピア色の姿が佇んでいるだけだった。
 
長くなってしまったので、早めに上げさせて頂きます。

とは言っても、本当は五月の課題として書いたものでしたが、ぼーっとしていたら締切が過ぎてしまっていました。

色々中途半端に盛り込んで文字数オーバー。

寛大な心で暇つぶしにでも、お読み頂ければと思います、いえ、お願いします。
なんか哀しい
茉莉ちゃん、良い子だと思ったのに
>>[6]

いつも素敵な感想をありがとうございます。
短編ならば、省くべきシーンですが、
自分自身がこんな暮らしに憧れているせいか
描写が事細かになるのかも知れませんね。
>>[7]

感想ありがとうございます。
あ。すみません(笑)
最後まで迷ったんですけどね。
>>[8]

感想ありがとうございます。
茉莉ちゃんは、良い子か悪い子か…
迷いながら書いていました。
喫茶店が好きで、ついつい憧れの暮らしを
盛り込んでしまいます。
そうすると、長くなってしまうんですよね(笑)
読ませていただきました。
まだ通読しただけで、熟読までは出来ていないので上手く言えないですが、相当しっかり練られていて、小説として完成されているように思えます。すごいです。
文章量に全く関係なく、飽きずに最後まで読めました。

内容は重めですが、とても素敵な作品だと思いました。
文芸部の時までにはちゃんと感想を整えておきます。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

半蔵門かきもの倶楽部 更新情報

半蔵門かきもの倶楽部のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。