ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

半蔵門かきもの倶楽部コミュの第21回 おたけさん作『セリヌンティウスは、メロスを救う夢を見るか』

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 メロスは激怒した。
 大金を積んだ結果が、これとは人を馬鹿にするのにも程があると、彼は憤りを感じずにはいられなかった。しかし、医事ロボットは何事も無かったかのように平静を保っており、
「先生は不在です。診察記録が無い方は、御伝言を承ることもできません。本当に申し訳ございません」
と、壊れた発声回路のように繰り返し述べるだけであった。
 メロスは、怒りのあまり、受付窓口の台を両手で叩きつけそうになったが、そこは何とか自制し、これ以上目立たないようにシェラード精神科医院を後にした。
 しかし、シェラード医師も中途半端な仕事をしてくれる。大通りに出たメロスは、寒さが増してきた初冬のニュー・ニューヨークの街を早足で歩きながら、あの狡猾な老医師の顔を思い出していた。
 あの医師は、メロスの指示通りに計画を実行することに同意して、金を受け取ったはずであり、そこにある種の“契約”が結ばれたことは明白だった。だが、医師は指示通りには実行せず、中途半端な事をやってのけたのだ。それは、信頼に対する裏切りというより、契約という神聖な事象全般に対する明らかな裏切り行為であり、そういう人間が企業体連合が統治する“完全なる資本主義社会”に存在することは、太平洋中に浮かぶ全蓮都市民への叛逆のように思われた。
 そう、シェラードは、本来処方すべきでない内容のXDRMをセリヌンティウスに渡すことは実行した。そこまでは良い。だが、XDRMの内容を自分の注文通りにしない意味が、メロスには理解しかねた。何にしても本来処方すべきでないものを処方しているのだから、医事法ならびに薬事法違反であるのは確実だ。にもかかわらず、シェラードはXDRMを飲んで見る夢の内容を指示通りのものにはせず、半端な内容で自分のリクエストに応えたのだ。それは、シェラード・メフィウスの様な社会的遺伝も生物学的遺伝もエリートな存在は、成り上がり者のメロスなんかに従わないという意思の現れなのだろうか?
 何にしても、メロスの気分は最悪であった。あのXDRMをセリヌンティウスが飲んだら最後、アイドロイド供給の契約更新がなされないことは間違いない。そして、それは己の身の破滅を破滅を意味していた。
 メロスは、賑やかなメモリア地区の路肩で立ち止まり、クリスマスムードに包まれた注文品〈オーダーメイド〉専門の洋服店『アリザリー』のショーウィンドーを眺めた。そこには、この北太平洋の真ん中に浮かぶ蓮都市にも冬がやって来ているというのに、春のように晴れやかな色合いをした洋服の数々が飾られており、それを着れば、まるで春が身の回りにやってくる様な印象を受けた。
 だが、そんなことは全くの嘘じゃないか、とメロスは思った。春めいた服を着たって春は来ないし、春めいた夢を見たって実際に春が来る訳じゃない。それは、自分の気の持ち様でしかないのだ。
 そうは言っても、現実問題としては、そうであると信じることが全てである、つまり、気持ちの問題が全てであることを、この“物語時代”と呼ばれる21世紀の80年代を生きているメロスは理解していた。だから、人々はXDRMを飲むのだし、自分もセリヌンティウスに、例の夢を見るXDRMを飲ませようとしたのである。
 そんなことを考えながら、メロスが目を凝らして綺麗に磨かれたショーウィンドーを見つめると、自分の視線と同じ高さの位置に、マスクをしてニット帽を被り、やつれた表情を浮かべた中年男性の蒼白い生首が、ぼんやりとガラスに映り込んでいるのが分かった。そして、メロスがその生首に微笑みかけると、当然ながら、向こうも全く同時にメロスの方へ微笑みかけてきた。メロスは、この“自分との意思疎通”を、疲れきった時にいつもやっていた。これをやると自分に自信が無くなった時、自分は自分でしかないのだと再確認でき、諦めがつくのである。彼はその妙な儀式を終了すると、暗くなってきた街を巡り続けている無人タクシーのうちの一台を止め、行き先を告げた。そうして無人タクシーに乗り込み、メロスが車窓の外を眺めると、再び蒼白い顔が映っており、それはメロスが車窓を見ている限り、常に追いかけ続けてくるのだった。まるで人生最大の危機じゃないか、とメロスは妙に客観的になって、窓の外を見るのを止めた。そして、目を瞑り、賑やかなメモリア地区を駆け抜けていくタクシーの中で、堪えきれずに一人で笑ってしまったのだった。

 ちょっとした芸能通なら誰でも知っていることだが、メロス・シラクサは、アイドロイド、つまり、アイドルのアンドロイドを製造するデザイア社の社長である。メロスは、自社の「欲望〈デザイア〉」という名前が気に入っていた。理想の女性に相手をされない男や、理想の男性に相手にされない女がこぞって自分好みのアイドルを象ったアンドロイドを購入する行為が、欲望という言葉以外に何と形容すべきかメロスには分からなかったし、メロス自身、欲望という言葉に込められた、一方向的で、強烈な感情が爆発する様子が、たまらなく好きだったのである。
 しかし、メロスは、そんな欲望に狩られた人々を、まるで少年が蟻やバッタを見下す様な、または、神が人間を見下す様な視点でみている訳では無いつもりだった。どちらかというとメロスは、そのような人々の先導者であり、世界に対する革命家だと自分をみなしてきた。それに実際、彼はアンドロイドを販売するために長年に渡って、アイドルたちの人権よりも経済的効果の方が大切なのだと政治家たちに説いてきたのだし、また、人権団体には、誰にでも好みの人と一緒にいる権利があるのだという平等の精神を説いてきたのである。その努力が規制緩和に繋がり、約10年前、ようやくアイドルを象ったアンドロイドというものを製造する権利をメロスは得たのだった。
 だが、環太平洋企業体連合の政治家たちは汚かった。彼らは、メロスからの献金を受け取るだけ受け取った後、許可制だった「実在人物模倣製造業」を、届出制に変えてしまったのである。それは、メロスの献金額よりも、このビジネスに目をつけた五大企業家のヴァーサフ・ミルズが動かすことができる金額や「協力体制」が桁違いだったためなのは疑いようが無かった。実際、ヴァーサフは、「自由競争」という抗うことのできない正義の言葉の下に、届出制に変更することを迫り続けて実現したし、そうすることで出現した弱小企業どもを蹴散らし、現在では、出荷数はデザイア社に迫っているのである。
 メロスは、この構図が、一部の魅力的な男性が、多くの女性を食い物にしてしまう環境と似ていると考えていた。自由競争とは最も不平等なのである。それは、人間そのものが平等でないのだから、低きところに水が流れるのと同じで、実に当たり前な議論なのだ。この事実は、メロスにとって歯がゆくて仕方なかった。
 こうして、メロスの打ち立てた経済の流れは、為す術も無く、まるで放射性物質が崩壊するかのように、徐々に崩壊しようとしていた。とはいえ、デザイア社には今までに培ってきたノウハウと技術が存在していたし、何より、既に作り上げている企業間での「信頼関係」というものが存在した。
 特に、五大企業家の1人で、ヴァーサフ・ミルズとは敵対関係にある物流王フィーリス・クライストは、メロスに協力的であった。しかし、それは「ヴァーサフが憎いから、メロスの方を選んでやる」という消極的なレベルのものであり、それを証明するかのようにデザイア社側の利潤は最小限に抑えられているのである。
 一方で、家電大手のカノシマ電影を営むセリヌンティウス・ミケーネは穏やかで、心優しい相手であった。彼は、メロスが如何に「実在人物模倣製造業」という分野を開拓するのに尽力したかを知っていたし、知っているだけでなく、そこに敬意を抱いている人物であった。そのため、セリヌンティウスは、デザイア社が儲かるように取引価格を設定してくれたし、特注品の注文を積極的に受けてくれたのであった。そのため、小売窓口でトラブルが生じることがしばしばあったようであるが、従業員たちは、セリヌンティウスがトラブル処理をした際に手当を支給してくれることから、デザイア社への反感には到らなかったのである。
 このように、カノシマ電影あってこそのデザイア社と化していたが、最近、セリヌンティウスの様子に不審な点が見られた。たとえば、以前は何よりも優先してくれた電話連絡も、現在では秘書が「不在にしております」と主張し、繋がらないことが多かったし、以前は立体映像〈ホロ〉付きだった会話が、現在は音声通信のみになってしまっている。
 一時は、「友」と呼び合った仲なのにと、メロスは思った。しかし、そんな堅い友情の関係など、物語の中だけの話なのだ。勝ち取った尊敬など、それに払った努力に比べれば幾ばくのものだろうか。そんな騎士道精神みたいなものは時代遅れだし、費用対効果が悪すぎる。そう考えると、メロスは幼い頃に視させられた友情ものの話が入ったDVDを無性に砕きたくなるのだった。
 だが、海千山千の経営者であり、鋭い嗅覚を持ったメロスは、次回のアイドロイド供給の契約更新手続きを行う場が設けられる前に、先手を打っていた。
 もちろん、その先手として幾つもの策が実行されたのだが、そのうちの一つが、セリヌンティウスに処方されている向精神薬に手を加えることであった。もちろん、セリヌンティウス自身は、自分が定期的に精神科を受診して、投薬と物語処方を受けているなんてことは誰にも言っていないのだが、行動を把握することなど、自分が命綱を括り付けている相手全てに“精霊〈シルフ〉”と呼ばれる超小型ドローンを付きまとわせているメロスにとっては簡単なことであった。
 そして、通院している精神科や主治医を割り出し、シェラード医師にたどり着き、医師との押したり引いたり脅したりの交渉の末、処方薬の一部を本人には分からないように変更させることに成功したのだった。
 だが、そこまでであることが、先ほど判明したのだ。シェラードは、医者としての魂を売ったくせに、メロスの言いなりにはならないという微妙な反撃を為したのだ。まあ、シェラードを社会的に抹殺することは、薬の成分を調べれば馬鹿でもできることだ。しかし、セリヌンティウスに対して、薬の内容が変えられていることを報せるという偽善的な振る舞いをしたところで、セリヌンティウスがこのような茶番劇に気付かないはずは無く、それは意味の無いことであった。
 メロスは、無人タクシーの中で地団駄を踏んだ。だが、シェラードへの手間のかかる復讐よりも先にやるべきことがあるのだ。何としても、契約更新は成さなければならない。メロスは、荒い息をしながら、無人タクシーの行き先を最初に伝えた愛人宅ではなく、歓楽街であるディアホットに変更した。そして、今日は一台くらいアイドロイドを壊してしまうかもしれないな、と自嘲しつつ、次は、どのようにセリヌンティウスを攻め落とすかを思案ながら、窓の外に広がる暗闇と遠くに見える歓楽街の不自然な光明を見つめていた。

***

「飲んでみたいか?」
 結局、アイドロイドではなく、生身の人間が相手をしてくれる店を選んだメロスは、全てが豊満な女性の裸体に向かって、XDRMを差し出した。
「なあに、これ? キュイジーヌ系では無いみたいね」
 店の主人がメアリーという名前だと教えてくれた、まだ18歳くらいのように思える娼婦は、裸でベッドの上に座り込み、その薬を掌の上で転がしながら、遊んでいた。
「それは、XDRMだよ。知らないのか? 病院に行ったら処方されるんだ。悩みが解消する様な夢を見るような睡眠薬入りの成夢剤さ」
「物語が処方されるんじゃないの? ほら、LVSで見るやつが」
 メロスは、そこでようやく気付いた。そうだ、彼女は時間を持て余している部類の人間なんだ。XDRMは、いわゆる幻覚剤の一種に指定されているため、社会的に忙しく時間が取れない人間にしか処方されないのである。そうでない人は、暇な時間を使い、仮想現実体験機であるLVSを使って治療用の物語を体験するのだ。たとえば、鬱を治すために処方されることが多い、気分を昂揚させる幻想冒険ものや宇宙開拓ものであったり、今、自分が信頼できなくなってきている人物への感情を改善するために処方される、その人が自分に良くしてくれる体験ができる物語であったりする。
「でも、薬は便利だよ。飲めば済むから。LVSは時間がかかるから面倒だ」
「薬は、何だか怖いわ」
「だが、君も毎日飲んでるだろ?」
 メアリーは、一瞬何の話か分かっていないようだったが、すぐに気付いたようで、
「そっか、私も飲んでるわね。IAMを」
「そうだ、飲んでるだろ。飲まないと、肺が腐っちゃうからな」
 こんなにも曇天が続くようになったのは、いつからだろうか、とメロスは思った。メロスも多くの都市民と同様、最初は、この曇天の原因が、今もどこかの星に隠れているガニメテ星人の陰謀だとばかり思っていた。しかし、5年前に国際企業体連合軍の宇宙艦隊が、太陽系に残っていた彼らの残党を一掃してからも地球規模で曇天続きなのである。もしかすると、ガニメテ星人が作り出した気象変動装置が、小惑星帯のどこかで今も起動しているのかもしれないが、それの可能性は政府報道によると、「皆無」であり、専門家たちは口を揃えて、地軸の変動により異常気象が生じているのだと、科学用語が詰まった呪(まじな)いの様な説明を繰り返すのであった。
 そうして、3年前から配給されるようになったのが、IAMであった。
「地球規模で湿気が多い環境になってしまったため、肺に菌が溜まり易くなっています。そのため、毎朝、この薬を服用することが必要です」
 各テレビ局は、一斉にそのように報道したし、それは現実に生じていた肺炎の多発や腐肺症と呼ばれる病気の出現とも噛み合っている報道内容であったので、人々は直ちにIAMの服用を生活に取り入れ、それは半年も経たないうちに日常の一部と化した。メロスも、普段はテレビ報道というものの内容を疑う質(たち)であったが、IAMが配給される前、彼は肺炎になって死にそうな思いをしたので、この報道の内容は何の疑いも無く、むしろ、「やっぱり、そうだったか」という思いで、賛同しながらテレビを視ていたのである。
「ねえ、この薬には、どんな夢が詰まっているの?」
 メロスは、相変わらず裸のままでベッドの上にうつぶせに転がりながら、両足を上にあげて擦り合わせている可愛らしいメアリーの質問に答えてあげようとしたが、そのXDRMをどこで手に入れたのか思い出せなかった。よく考えると、自分は精神科には通わないのである。とすると、手に入れた場所は、シェラード精神科医院しか無い。メロスは、マズいことをしてしまったと後悔したが、既に取り返しがつくことではなかった。
「そこに入ってるのは、つまらない夢だよ」
 動揺を隠しつつ、メロスは、メアリーに手を差し出した。それは、薬を返すようにというジェスチャーのつもりだったが、悪戯な若い娘には、こういう強制する行動は逆効果だったようであり、メアリーは、「いやよ」と言って、薬を胸の方に抱きかかえ、ベッドの上にうずくまってしまった。
「お願いだから返しなさい」
 メロスは、メアリーの裸体を抱きかかえながら言った。すると、悪戯な娘は、無邪気な笑みを浮かべ、
「本当の中身を教えて。じゃないと、飲み込んでしまうわ」
と意地の悪いことを言うので、メロスは諦めてベッドの脇に座り、夢のストーリーだけを説明することにした。
「古代ギリシャの時代。ある正義感の強い羊飼いの男が、悪逆非道の王様に逆らって処刑されそうになるんだが、男は身代わりに親友を預け、三日以内に必ず処刑されに帰ってくることを申し出るんだ。その間に、妹に結婚式をあげさせると言ってね。それから、男は走って、村に帰り…」
「それで最後はどうなるの?」
 メアリーは、物語を聞くのが好きではないのか、途中で遮った。
「そして、男はちゃんと処刑されに帰って来るんだ。それで、王様も人を信じられるようになるし、セリヌンティウスとメロスの信頼は深まったという訳さ」
 メアリーは、本当にそんなことが起こりうるのかという疑いの表情を浮かべ、首を傾げていた。その様子を見ると、メロスも、この物語が本当に効果があるのか疑わしくなってきた。しかし、この物語は、メロスの調べた限り、一般的にも処方されている「信頼心を回復する効果が充分見込まれる」物語なのであり、第一類治療用物語に指定され、医師に処方されたときにしか体験できないものなのだ。
「何の治療のために、処方されているの? あなたは、どこが悪いのかしら?」
 不思議そうにするメアリーに対して、メロスは何を言うべきか迷った。真実は簡単だ。これを、カノシマ電影のセリヌンティウスに飲ませるのだ。そして、ヴァーサフ・ミルズが演じる邪智暴虐の王から、メロスがセリヌンティウスの命を救出する夢を見させる予定だったんだ。だが、あのシェラード医師は、姑息なことに、悪逆の王を演じるのをメロス自身にしてしまったのだった。そして、ヴァーサフ・ミルズが走ってセリヌンティウスを助けるという友情が描かれるのだ。
 だが、そんなことは決して誰にも言えないし、メアリーに教えても仕方が無いことであったので、思いついた嘘を述べることにした。
「俺は、友人がいなくて孤独なんだ。命を懸けてまで助けたい友人が、もしくは、命を懸けて自分を助けてくれる友人が自分にはいるんだという体験を、夢の中ですることで孤独を紛らわせる効果があるんだよ」
 この説明は真っ赤な嘘であったが、それにしても自分が薬の効果について精神科医のように淀みなく喋れることに驚いてしまった。もしかすると、自分がこのような効果がある薬を欲しかったのかもしれないな、とメロスは思った。飲むだけで誰かを強く信じることができる薬を、自分の生みの親でもない誰かが自分のために命を投げ打ってくれる、もしくは、誰かのために自分の命や身体を投げ打つという体験を、自分は無意識的に欲していたのかもしれなかった。
 そう思うと、メロスは、自分がやろうとしていたことがことさら滑稽に思えて仕方なかった。それはセリヌンティウスではなく、自分に飲ませるべきだったのかもしれない。よく考えてみると、セリヌンティウスが次回の契約更新をしてくれるという確証もなければ、してくれないという確証もないのである。そこは、信じるべきだったのではないか。メロスは、自分で自分の首を絞めたのだということに気付いた。そして、後悔でうなだれてしまった。
「なあ、メアリー」
 メロスの呼びかけに、メアリーは胸をゆらしつつ、「なあに?」と甘えた声で言った。
「君には、友だちはいるのか?」
 小学生でもしない様なバカげた質問に、メアリーは笑いを堪えた様子を見せつつも、「友だちって、どういう友だち?」と聞き返してきた。
 友だちに種類があること自体、メロスには新鮮だったが、彼にとっての友だちとは、何でも気軽に話ができて、気軽に合うことができ、信用が置ける人間だと思っていたので、その通りに伝えると、メアリーは、「お店の友だちは信用できないからダメね。お金を貸して返ってきたことは一度も無いわ」と言うので、メロスは、料金を倍払ってあげようと思った。それは彼女の作戦なのかもしれないが、金だけは持っているメロスには、正直どうでもいいことであった。
「でもね、昔からの付き合いがあるシャルロッテという名前の子は仲良しだし、昔はよく2人で買い物に行ったわ。信用も置けるし、お金も返してくれる」
「話も聞いてくれる?」
「ええ、もちろん。彼女も話すし、私も話す。互いに話して、互いに聞いてるわ。そこまで真剣には聞かないけど、それはお互い様だし。それに、定期的に今どうしているのか心配しているわ。彼女、ニュー・イングランド蓮都市に住んでるから、なかなか会えないけど、少なくとも1週間に一度は連絡を取り合ってるの」
「それは友だちだね」
 そして、メロスは、そういう関係性の人が誰かいるだろうかと考えた。しかし、現在は確実にいなかったし、過去にもいたかどうかは自信が無かった。メロスから、ある種の企業家的なパワーやコネクションの欠片を得たくて近づいてくる人間は大勢いた。それは今でもいるし、大学時代にも、そういう奴はたくさんいて、よく何人かで集まって飲んだものだった。
 だが、2人で会って、話し合う関係など、自分の人生に存在しただろうか? それに近かったのは、間違いなくセリヌンティウスとの関係だった。彼は自分のことを心から尊敬してくれていたし、自分も彼のことを心から尊敬していた。良き理解者。その言葉が当てはまるし、自分もセリヌンティウスのことは理解しているつもりであった。彼は、20歳になるまで女性を抱いたことが無かったし、事業を始めた当初は、すぐ壊れるような製品を売って修理費用を稼ぐ様な真似もしていたらしい。そして、セリヌンティウスも、こちらの秘密を知っていた。それは、今思うと心地好い関係性であった。特に、社長という孤独な地位にある者にとっては代え難い関係性だった。
「俺もね、本当は、この薬を友だちに成って欲しい人、いや、友だちだったけど仲が悪くなってしまった人に飲ませようと思ったんだ。そうすれば、俺のことを、困ったときに必ず助けてくれる、ちゃんと信用できる人間なんだということを思い出してくれると思ってね」
 メロスは、まるで悪戯の弁解を母親にする少年のように勇気を振り絞って、恐る恐るメアリーに、そう、自分の半分に満たない年齢でしかない彼女にそう伝えると、メアリーは憐れんでいる様な眼差しをメロスに向けてから、
「でも、医師に処方されていない薬を飲ませるのは、犯罪よ」
 メロスは、ぽつりと、「ああ、そうだな」と呟くと、メアリーは思いとどまらせようと腐心しているのか、さらに言葉を続け、
「あなたも知っているとは思うけど、この都市の警察は優秀なのよ。犯罪者の名前を特定したら逃したことが一度も無いんですって。それは、コフェなんとかという名前の蛇みたいな刑事が優秀だからだって、この前お店に来た、何とか署のデブっちょの署長が言ってたわ。彼は、捕まえるまで追い続けるんですって。でも私、刑事ってみんな、当然そうするもんだと思ってたから、そんなことを自慢されて笑いそうになっちゃった」
 それは、コフェネクスのことだと、メロスは心の中で思った。蛇というよりも、あの男の見た目はキツネである。だが、メロスは彼にお世話になった人間であった。妻が、ひったくりにあった時、たまたまメロスが撮影した顔写真を提供するとすぐに、その男を逮捕してくれたのだ。その時も、にこやかで冷静で、しかし、本心は見せないという印象をメロスは受けた。
 きっと奴は、情報網を張り巡らしていて、そこら中にスパイを用意している男なのだろう。誰かの秘密を握り、その秘密をバラして欲しく無ければ他人の秘密を持ってくるように脅して、どんどん秘密を集めていくんだ。無目的に金を収集する貪欲な存在が銀行だとしたら、無目的に秘密を収集している貪欲な存在がコフィネクスなのだ。メロスは、コフィネクスの様な奴は商売相手にはしたくないし、絶対に雇いたく無い存在だと思っていた。あのような人間を雇ったら最後、どちらが雇われているのか分からなくなってしまうだろう。体内に致命的な寄生虫を飼う様な真似は誰にだってできない。おそらく、ニュー・ニューヨーク蓮都市警察も彼を持て余していることだろう。
 しかし、メロスは、コフェネクスのことを心底蔑むことができなかった。それは、彼に自分と似たものを見いだしてしまったからなのだろうと、メロスは感じていた。
 そうしてメロスは、蓮都市の中で最も治安の良い、このニュー・ニューヨークを作り出しているのに、最も嫌われ者であるコフィネクスを憐れに思った。だが、その憐れみは、全世界に住まう何百万人もの男女にアイドロイドを支給したのに、今は絶望の淵にいる自分自身に対する憐れみでもあるのだと、メロスは思うのだった。

コメント(14)

 そんな自慰的な考えに耽っていると、メロスは家に帰って、枕に顔を埋めて眠りたくなってきた。歳のせいか、自分の心も弱くなってきたのか、それとも、まだ若い少女に正直に話したのに、慰めてもらえなかったためか、彼は1人になって泣きたい気分だったのだ。彼は、世界中が敵になってしまった様な気分に陥っていた。そうだ、こういう時にこそ精神科に行って、XDRMを処方してもらうべきなのかもしれないな、とメロスは思ったが、それは下り坂を駆け下りることに等しいのだということを思い出し、ゆっくり休んで、側近のモルドニーと策を練ることに決め、帰り支度をすることにし、とりあえず店に言われた値段の倍をテレビの横に置いた。
「そんなに、友だちが欲しいのなら」
 メアリーは、メロスを引き止めることは何も言わず、相変わらず全裸で座り込んだまま、優しい目でメロスを見上げ、
「私が、友だちになってあげましょうか。もちろん、何も要らないわ」
 昨日から知っている人間に、これを言われていれば、メロスは激怒したかもしれないが、さっきまで知りもしないのに、こんなことを言えるメアリーの優しさに触れ、メロスは感動しながら、
「ありがとう」
と、何年かぶりの言葉を口にした。
 だが、すぐにメロスは首を左右に振り、
「でも、裸で交わるのは、友だちとは言わないな」
と付け加えた。それに対して、メアリーも、「それは、そうね」と言ってくれたが、メロスはその言葉を背中で聞いただけであった。そうして、派手な装飾がなされた真っ赤な扉から出た彼には、メアリーの言葉はもう聞こえなかった。それに気付かず、メアリーはベッドの上で小さく、「またね」と言ったのだが、それは真っ赤な部屋に、虚しく響いただけであった。

***

 メロスが目覚めたとき、彼の手足は自由に動かなかった。飲み過ぎたのだろうか? 彼は自問したが、何も思い出せなかった。しかし、部屋は見慣れた壁紙に覆われており、ここは明らかにメロスの自宅であった。だが、目の前にあるのは、見慣れないテーブルと車いすである。
 いや、それらは見覚えがあった。メロスは、手の震えを感じ、その手を見ると、それは小さく、嗄れており、どう考えても自分の手では無かった。
 それは、あんまりだ。
 メロスは、何かに赦しを請うようにして、口をぱくつかせると、どうにか起き上がり、車いすを引き寄せ、自力で部屋を出た。
「アンタたちは分かって無いの。分かってないのよ」
 やっとの思いでメロスが部屋を出ると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。見ると、玄関の踊り場のところで、毎朝、鏡を通して見ている自分自身が暴れており、運転手のケリーや執事のスミスが、それを取り押さえ、娘のエミリーや妻のエヴァが遠目で、その光景を眺めていた。
 すると、妻がメロスのことに気付き、駆けつけてきた。そして、妻は、車いすの目線になるようにかがむと、彼女の目は涙に溢れていた。
「お母さん、気にしないで。大事にはなりませんから。きっと、妙な薬を飲んでしまったのです」
 そうして彼女は、メロスを部屋に戻すために車いすを押してくれた。
「何でも無いんですよ。私たちが何とかしますから」
 優しく振る舞う妻に車いすを押してもらいながら、メロスは二重の悲しみを抱えていた。
 一つは、妻が、「きっと、妙な薬を飲んでしまったのです」と言ったことであり、そこには暗に、メロスが幻覚剤の類いに手を出すことを予期していたという意味が込められているように思えた。
 しかし、より悲しかったのは、妻が普段何もしない母に対して、こんなにも優しいということであった。メロスは、彼女たちを養うために、汚いことでも何でもやっているつもりであった。だが、優しさが向けられるのは、自分では無いのだという事実に、彼は打ちのめされてしまったのだ。
「ゆっくり寝ててください。鍵はかけておきますから」
 妻の語りかける言葉に、メロスは母の真似をして、「ええ。ええ。私は大丈夫ですから」と、ゆっくり喋って、ゆっくり頷いた。

 妻が部屋を去ってから、暫くして外の騒ぎは収まったのか、何も聞こえなくなった。
 メロスは、まだ悲しみに囚われていたが、いつまでも悲しみに暮れているわけにはいかなかった。早く元の身体に戻らないといけないし、なぜこうなったのか原因を突き止める必要がある。
 だが、手足は思うように動かず、動かそうとしてもジタバタするだけで何もかもがもどかしかった。そして、ジタバタしているうちに疲れてしまったのか、ベッドから起き上がることもできないまま、メロスは眠りに落ちてしまったのである。
 目覚めたメロスがやらなければならなかったのは、自分の身体に戻ったことの確認と、妻への弁明であった。
「これにサインして」
 妻が差し出した電子契約書には、十六項から成る契約内容が書かれており、端的に言うと、次にドラッグを服用した時には離婚するというものであった。
 メロスは、つい先ほど車いすを押してくれた妻の優しさを噛み締めながら、黙ってそれにサインをした。
 そして、部屋に戻ったメロスは、ベッドの横にあるゴミ箱の中から、錠剤のパッケージを見つけた。それは、IAMのパッケージだったが、メロスが毎朝飲んでいるものとはデザインが異なっていた。
 それを見て、ふと、メロスの頭の中に甦るものがあった。それは、昨晩、IAMを一度に何錠も飲んだ記憶だった。メロスは、自分が何故、そのようなことをしたのは分かっていた。彼は、IAMが単に腐肺症を防ぐだけでなく、飲むと活力が涌いて来る薬だと考えていた。何というか、IAMを飲むと、ぼんやりした輪郭しか無かった自分が、くっきりとした存在に成れるのだ。そういった感覚を取り戻してくれるのである。そんな効果や副作用を、政府側は認めてはいなかったが、確実にそのような効果があると、メロスは経験上思っており、だから昨晩、疲れきっていた彼は寝る前に、そのようなことを試したのだった。
 だが、彼は飲んだ薬を間違っていた。リビングにある母親のIAMが置かれている棚を調べて分かったことだが、彼が飲んだのは、自分のIAMではなく、自分の母のIAMだったのだ。
 これは、どういう解釈をすべきか? メロスは、一瞬悩んだが、単純に考えることにした。母のIAMを飲んで、彼は母自身になった。これは紛れも無い事実である。しかし、それが非常に重要であり、それ以上は、今はどうでもいいのだ。
 メロスは、スマートフォンを探し出し、モルドニーに電話し、至急、会社の社長室に来るように伝えた。
「了解しました。しかし、ボス。そんなものを持っていくんですか」
 忠実なモルドニーもメロスの依頼に不審がっていたが、それが重要であることを伝えると、彼は忘れずに携えることを約束し、電話を切った。

***

「そんなもの、どこで手に入れたんです。ボス」
 社長室にやって来たモルドニー・ケイジは、メロスが本物にしか見えない手錠で、自分と立派な革張りの椅子を繋いでいるのを見て、思わずそう言った。
「昔、ディアホットでな。それ以上、説明が要るか?」
 モルドニーは、首を横に振り、注文の品を社長に見せた。
「はい、私のIAMですよ。こんな肺を綺麗にする薬、何に使うんです?」
 首をかしげるモルドニーに、メロスは事情を説明した。しかし、メロスが思っていたよりもモルドニーは、科学的思考の持ち主らしく、笑いを堪えるのに必死という様子であった。
「ボス、私も実は、二日酔いの時に、せめてIAMは飲まないといけないと思って、間違って妻のを飲んだことがあるんですが、吐き気がしただけで他は何も起こりませんでした。吐き気も、他人のIAMを飲んだことによる副作用なのか、二日酔いによるものなのかは結局、分からずじまいでしたし。ただ、家庭問題の裁判官である妻に言わせてみれば原因は二日酔いなので、1ヶ月禁酒の判決が下りましたけどね」
「公平な判決だな」
 だが、言われてみると、モルドニーが言うことの方が正しいだろう。少なくとも、常識的だ。しかし、それでは今朝の体験は何だったのか。それは、もっと別な現象として、例えば、幽体離脱などの類いとして考えるべきなのだろうか。
「モルドニー。お前が言う通り、俺が言っているのが頭がどうかしている類いのことだとは分かっている。でもな、試してみたいんだ」
 モルドニーは、その言葉を聞いて、
「ボス、もちろんですとも。それで、気が済むのなら、ここにあるのは何錠でも飲んでください」
 メロスは、部下の誠実な言葉を聞いて、家庭よりも、やはり仕事の方が見返りが大きいな、と少し悲しい気持ちになりながら、渡されたIAMを1錠だけ口に含み、ペットボトルの水で一気に飲み込んだのだった。

「どうだ、特注品の椅子は、お前の秘書室の既製品〈レディメイド〉のとは違って、座り心地が良いだろう」
 メロスは、椅子に座り、半ば気を失っている自分自身を見下ろしながら、社長席の前で腕組みをして立っていた。そして、部屋の入り口の方へ振り返り、姿見を見ると、見事、メロスの身体はモルドニーのそれになっていた。
「おい、モルドニー。いい加減、起きろ」
 相変わらず反応の無い、自分自身の身体をメロスは揺さぶった。すると、自分自身が目覚めて、キョロキョロし始めた。その姿は、まるで鏡の中の自分が動き出したようで不気味だったが、さらに自分自身が、自分に向かって、
「ボス、何なんですか、これは」
と、間の抜けたことを言い始めたのは、より違和感があった。
「何って、さっき説明した通りだ。入れ替わったんだよ、俺とお前は」
「はあ」
 納得がいかなそうなモルドニーが立ち上がろうとすると、手錠が引っかかり、また椅子に引き戻されてしまった。
「ボス、これを外してくださいよ」
「いや、元に戻るまでは、このままにしよう。戻れなかったら、明日からお前に指揮命令されるのは、死んでも嫌だからな」
 モルドニーは、引きつった笑みを浮かべ、
「私も、ボスにその格好で死なれたら最悪ですよ」
 そして、モルドニーは、冷静になり、いつもの顎を擦る動作をしてから、
「で、どうします。これで、フーディーニみたいな奇術師になるんですか?」
「そんなことしても、誰も分からんよ。入れ替わりは、当人たち同士の問題でしかないからな」
「まあ、それもそうですね。なら、俳優のキース・バレットとでも入れ替わって、女優を食い荒らしますか? それとも、レオン・ウッズ・ジュニアと入れ替わって、お好きなゴルフで世界制覇?」
 モルドニーの格好で、メロスは、モルドニーがしなさそうなオーバーなリアクションをして、
「いや、それもしたくはあるが、そうではなくて問題は、アイドロイドの売り上げだ」
「それは、常に問題ですね。どうします。世界中のみんなと入れ替わって、クレジットカードで購入します?」
「草の根だな。意外に、良いアイディアかもしれんが、全員に俺を体験させる訳にはいかんだろ。しかも、IAMを手に入れるリスクがある。そうではなくて、1人のを手に入れれば、首は繋がる」
「そうですね。ですが、彼のをどうやって手に入れます?」
 メロスは、自分自身に微笑みかけた。
「だから、お前を呼んだんだ。今すぐ、“精霊〈シルフ〉”で集めた情報を持って来い」
 すると、メロスの姿をしたモルドニーは、嬉しそうな表情を浮かべ、左手首に付けられた鉄の輪っかをメロスに見せてきたのだった。

 モルドニーと検討した結果、攻め落とすポイントは簡単に見つかった。
「これは使えるな。あとは、コイツと会う段取りをつけてくれ」
 メロスの姿をしたモルドニーが頷き、ヘッドハンティングの呈で連絡を取ってみるとの提案をした。
「よし、それで決まりだな」
「ええ。久々に、充実した仕事になりそうですね」
 そして、2人で段取りを再確認している時、メロスを再び、例の鈍器で殴られた様な激痛が襲い、そのまま床に倒れ込んでしまったのであった。

「ボス、しっかりしてください」
 メロスが気がつくと、目の前にモルドニーの格好をしたモルドニーがいて、自分の左手を見ると、手錠がしっかりと繋がっていた。
「ちょうど、3時間か」
「不気味ですね。誰かが、薬効を調整して、調合しているみたいだ」
 モルドニーが言うことも、最もだとメロスも思った。個人差があって、入れ替わり効果を実現できる人間は限られているようであるが、1錠で3時間の入れ替わりという時間の区切りから考え、調剤している側であるリーヴィズ物語・宣伝株式会社、通称、LS&P社の子会社であるLS&Pファーマ社は何かを知っていることは間違いないだろうし、これを使って何かをしている人間がいることは間違い無さそうであった。
 だが、その誰かとやらの陰謀など、メロスにとっては今はどうでも良かった。こちらが、この不気味な力を利用させてもらう番なのだ。

***

 1週間後の日曜日、メロスは、ロック・フィル・ガーデンという環太平洋料理の店にいた。環太平洋料理とは、日本の和食の繊細さから、荒々しい中南米料理までを組み合わせた現代風な料理であり、太平洋に浮かぶ蓮都市のシンボルの一つであった。
 店の雰囲気は、店名の通り、庭園に迷い込んだ様な感じであり、快適な室温、太陽のように暖かな照明、至る所に配置された噴水が齎す適度な涼しさ、そして、樹々の清々(すがすが)しさが、くつろぎの空間を演出していた。
 しかし、メロスにとって何より喜ばしかったのは、生身の人間が働いていることであった。そこは、今のメロスの気持ちを慮ってモルドニーが店探しをしてくれたのだろう。メロスは、優秀な部下を持った喜びを噛み締めながら、食前酒を味わい、眼下に広がる英国式庭園と咲き誇る薔薇の数々を眺めていた。
「あら、有名な会社は違いますね。待ちながらシェリーを楽しめるなんて」
 現れたのは、流行りのフォニック&フォニックのコートを着た、柔らかく、清純そうな姿をした女性であった。しかし、メロスには“精霊〈シルフ〉”のご加護があったので、姿に惑わされることは無く、この魔女に席を示し、彼女は店員に丁寧にコートを渡してから席に着いた。
「やあ、初めまして」
 正面から見ると、その顔立ちの上品さが、よく分かった。どうも、セリヌンティウスは、穏やかな性格の割には、女性の基準は厳しいようだ。
「初めまして、ミランダ・シェルフィールです。光栄です。メロス・シラクサ社長に直接お話を聞けるなんて」
 お高く留まっているところが感じられたが、それも仕方ないと思われた。相手は、天下のリボルト・エンパイア・エレクトロニクスの企画担当者の1人なのだ。どう考えても、ここに来たのは物見遊山か、人生経験の類いだろう。だが、良い人生経験になるだろうと、メロスは確信していた。
 向こうも、ヘッドハンティングという流れで考えているのか、最初に気楽な話を重ねていくという流れには疑問を持たなかったようである。趣味は何か、何を習ってきたか、最近興味があるものは何か、好きな物語は何か。
 それを話しているうちに、次々と料理が運ばれてきて、次々にワインのボトルが空いていった。メロスは、思ったよりも事を運ぶのが簡単なため、気を緩めそうになったが、酒の杯を進めるペースだけは崩さないように平常心を保っていた。
 そして、遂に話題が仕事の話になったところで、セロスは、ミランダに現在の彼女の仕事について聞いてみた。
「カメラを売ってるの」
「カメラ? それは古風だな」
 調べた通りであるが、メロスは初めて聞いたように反応し、相手の出方を見た。
「もちろん、カメラだけじゃないわ。全てをセットにして売ってるのよ。写真の撮影スポット、旅行ガイド、撮影方法のマニュアルが詰まったスマホ用の情報片〈イフォ・ビト〉に、海外旅行のツアーまで組んでね。そのうち、写真好きのサークルの案内や、撮影スポット近辺のお店の紹介、結婚式場の案内までセットになって提供するかもしれないわね」
「私の様な老いぼれは、墓をセットにしてもらわないと困るな。眺めのいい、撮影スポットになるお墓をね」
「あら、素敵ね。桜やコスモスなんかが撮れるようにすれば、誰かが毎年来てくれるわ」
 ミランダは、微笑んでいたが、そこにはこちらの表情を窺う様子が見て取れた。誰か、か。きっと彼女は、メロスが寂しい初老の男性であり、彼女をモノにしようとしているのではないかと考えているのだろう。それはセリヌンティウスには当てはまったことではあるかもしれないが、メロスは仕事にそのような面倒事は持ち込まないという、誰にも明かしていないルールを密かに持っていた。
「そのうち、リボルト社は、全部を提供するようになるかもしれないわね。揺り籃から墓場まで、全て1セットの商品なんて滑稽だけど、それが商品の最終形態になるかもしれないわ。もちろん、中身は取り替え可能の“柔軟な”商品よ」
 メロスは、女の野心に感心した。彼女は、セリヌンティウスでは収まらないだろう。だから、しっかりとかぎ爪を食い込ませた獲物を保持しているのだ。そして、その獲物は誰にも気付かれないようにしているのが、メロスにしてみれば可愛らしいものだと思えた。
「せっかくだ。カメラを売ってる人に、私の写真を見てもらおう」
 メロスは、そう言って、写真の束を渡した。それらは実際にメロスが自宅で現像して、机に飾ったり、疲れた時に眺めている作品たちであった。
「エンジェル・フォール。サマルカンド。これは、地中海の…クロアチア辺りかしら。綺麗に撮れてるわね」
 仕事にしか興味が無さそうな初老男の意外な一面に興味を持ったのか、ミランダは次々に写真をめくって行き、そして、ある写真で止まった。
「ああ、私は、そういう写真を撮るのも好きなんだ」
「私もモデルにしてもらおうかしら」
 ミランダが写真をメロスの方を向けると、それはモノクロのヌード写真であった。
「止まっている瞬間は、何か被写体の意思が無くなって、肉体だけになり、それの意味しか無くなるのが好きなんだ」
 メロスは、自分でも何を言っているのか分からなかったが、ミランダは流石に慣れていて、熱心に頷きながら聞いてくれた。そして、「ジュフェスネの作品を、ご覧になったことは?」などと、話題を広げてくれ、メロスは少し楽しい気分になってしまったが、本来の目的を果たすために話は程々にして、写真を見る方に戻ってもらった。
「街角のスナップ写真も取るのね。いちゃついているカップルまで撮って。いいの?」
 メロスは、「いいんだよ。芸術には全てが許される」と適当なことを言いつつ、心の中で、カウントダウンを始めた。3、2、1。
 すると、少しズレはあったが、ミランダの手が止まった。メロスは、彼女が何かを言うまでひたすら無表情で待った。
「これ、LS&P社の専務よね」
 見せられた写真には、如何にも、LS&P社専務のグェッツェハイム氏が写っていたが、メロスは、「こそこそしている人は、つい撮りたくなってね。その緊張の瞬間が写真に表現されている気がして」と、あからさまな言い訳をし、それ以上は何も言わなかった。
 メロスは、自分が写真を見せられていたら、ここで止めて帰ることを選択するだろうと思った。しかし、好奇心旺盛な勝ち気な娘は、そうはいかないものなのだ。彼女は、どんどん写真をめくって行き、どんどん後戻りできなくなっていた。そして、遂に、目的地までたどり着いてしまった。
「良い写真ね」
 ミランダが投げ捨てるようにして、最後に運ばれてきたケーキの上に刺したのは、1枚の写真だった。それは、明らかにセリヌンティウスと彼女を写していた。
「本当だ。よく撮れている。ピントもいい位置で合っているし、人物の髪の色と背景の建物の色のコントラストが良いね」
 メロスが、ミランダの方を見て笑いかけると、彼女も笑って、
「でも、この2人の関係は、あまり新鮮味がある話じゃないし、リボルト社は何も驚かなくてよ」
「私は、割と驚いたけどね」
 そして、メロスは彼女の手から写真の束を取り上げてから、
「それに、この写真との対比が、また重要なんだ」
 ミランダは、その写真を一瞥すると、メロスの方に軽蔑の眼差しを向けた。
「売っている商品もあれなら、売ってる側も売ってる側ね」
「ああ、よく言われるさ」
 メロスは、そんなことを言ってしまったら、負けを認めている様なものだと、心の中で冷笑しつつ、話を進めた。
「日付も確認できる。セリヌンティウスの性格も理解しているつもりだ。さあ、キミの彼氏は喜ぶかな」
「あなたの世代は知らないけれど、私たちの世代はそんなことを気にする人間はいないわ」
「そうかな。彼は、そうでなくとも、ご両親はどうだろね」
 ミランダは、一瞬、動揺を隠せていなかった。目の辺りが動いていたのを、メロスは見逃さなかった。場数が違うな。表情を崩さない政治家たちや揚げ足足りの人権活動家たちと渡り歩いてきたメロスが、こんな大企業の肩書きを使ってしか仕事をしたことが無い小娘に時間を取っている暇はなかった。
「私に、何をして欲しいのですか?」
 先ほどまでの勝ち気な感じが一転し、従順さを見せてきたミランダには、メロスにとってもう女性としての魅力は無かった。しかし、彼女にはもっと別の魅力があった。
「あるものを用意して欲しい。それは、誰しもが持っているモノだ。そして、5錠につき、これを一つやる」
 そう言ってメロスが出したのは、金塊だった。モルドニーに調べさせたところ、ミランダは金のかかる女だった。自分の衣装や食費だけでなく、好きになった男には、アイドロイドが1台買えてしまうほどの金を貢ぐのだ。それも、写真に写っている本命とは別であることも調査済みである。
「対象は、君も知っている通りだ。請負契約だ、やり方は任せるよ」
 メロスが言い終わると、ミランダが帰ろうとするので、メロスはケーキの上からセリヌンティウスとの写真を除け、彼氏との写真を刺して、彼女の前に優しく置いた。
「せっかくだから、食べて行きなさい」
 ミランダは、葬儀の様な、もしくは、ミケランジェロの『最後の晩餐』に描かれたキリストの様な俯き加減で、ケーキを見つめつつ、黙ってそれを食べてから、写真をカバンにしまって、そそくさとテーブルから去って行った。

「うまくいったぞ」
 メロスは、店の屋上にある喫煙スペースからモルドニーに電話した。
「まあ、1パッケージは手に入るとして、10錠は堅いだろう。努力して欲しいがな」
 セリヌンティウスは、脇が甘そうであるが、彼女に盗みだけはやめるように念を押しておいた。それはバレれば、共犯である。あくまでメロスは欲しいものを、暗に示しただけであり、盗みを指示した訳ではないのだ。
 「さて」
 ミランダが無人タクシーに乗ったのを見送ってから、メロスは、自分の初手はまずまずだという感想を抱いた。だが、この行動はセリヌンティウスにはバレなくとも、ヴァーサフには分かるのではないかという予感があった。
 しかし、それはそうとして、次は、どこのポーンを動かすべきだろうか? メロスは自分の心の中にある白黒の盤を俯瞰しつつ、これからの対戦相手であるヴァーサフ・ミルズという男が自分に対して何を為すのか、もしくは、為さないのか。その一手を待ちつつ、セリヌンティウスのIAMが届くのを待つことにした。
ふと浮かんだ話が膨らみすぎて、また書ききれませんでした。。しかし、続きは書きたいと思っています。
一応、テーマは友情です。嫌な人しか出てきませんがw
薬 、灰色の近未来、読んでる途中でディックを読んでるような気がしました
蓮都市、はなんて読むのでしょう?
タイトルを見て、おっ、て思いました。笑「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」に似せたんですか?
内容がおたけさん得意のSFなので、イメージと合うタイトルですね。
私も、「夜は短し走れよメロス」ってタイトルで書こうと思ってたんですが、企画倒れで何も書けませんでした笑

メロスが人間らしかったです。セリヌンに飲ませるべき薬を自分でのむ言い訳に、そんな素直に、自分が友達がいないからなんて言える辺り親しみ持てます。走れメロスのストーリーをそのまま使っているのも面白いと思いました。
膨大な文字数にただただ感服です。
頭の中で起こっている事を文字で起こすのは、
なかなか大変だと思いますが、
それがスラスラ出来ている様で羨ましいです!
面白かったです!おたけさんらしく、壮大かつ膨大なストーリーながら、その中でもキャラが丁寧に描かれているので、物語に入り込みやすかったです。ハードボイルドな雰囲気が素敵ですね。
特に風俗嬢やミランダとメロスのやりとりがいいです。女性が上手に描かれていると、物語がいきいきとする気がします。
メロスの目論見がうまくいくのか、果たして今後どうなるのか、続きが読みたくなりました。
最初の「医事ロボット」のくだりから、他人事ではないとの思いで読ませていただきました。

これだけ物語を広げられる おたけさんの発想力に、今回も脱帽です。

アンドロイドや仮想世界など、近未来に起こりそうなことばかりで、大変興味深かったです。
>>[7]
ディック感を読み取って頂いて、ありがとうございます!
薬とか設定を意識してみました。

蓮都市は、「はすとし」か「ロータスシティ」かと思ってるのですが、音の感じは前者、字面は後者がいい気がして迷うところです。。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

半蔵門かきもの倶楽部 更新情報

半蔵門かきもの倶楽部のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。