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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第八回 肉作 「お腹が空いたら」

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 冷房が効いているはずの車内は終電ぎりぎりの通勤客で溢れ非常に暑かった。座れる余裕はなく、ヒールを履いた私は爪先立ちでつり革に捕まっているようなものだった。おまけにショルダーバッグが肩に食い込んで痛い。仕事で疲れているというのに心休まる時がない。隣り合う親父は若干汗ばんでいて、それがブラウス越しに伝わってきて気色悪かった。今の私にマシンガンだか、チェーンソーだかが渡されると大量殺戮が行われる恐れがある。それくらいに苛立っていた。次の駅に止まれば降りる客よりも乗ってくる客の方が多いはずだ。私は押しつぶされる自分を想像した。そのまま圧死してもかまわない。自殺でも線路に飛び込む人がいるが、そういう人の心理状態が何となくわかる気がする。案の定、次の駅で大量に人が乗り込んできた。さらに悪いことにその状態でしばらく電車が動かない。停車待ちとかなんとかアナウンスしているが、スピーカーから聞こえるその音も大音声で割れていて本当に不愉快極まりなかった。隣にいた親父が離れたかと思うと私よりも十センチほど大きなサラリーマンの中年が今度は逆方向から私を圧迫してきた。何故だか私の方に顔を向けているので、その呼気がまともに私の顔に当たっている。アルコールと煙草の混じったその口臭に堪えながら私は電車が動き出すのを待った。今度は誰かが私の足を踏んでいる。ストレスは限界を超えて、私は怒り爆発寸前という状態だったが、もう犯人を探す元気を持ちあわせていなかった。私にできるのは、祈るようにつり革を両手で握り、目をつぶって、ひたすら自分の駅に到着するのを待つのみだった。
 家に帰ると、暗いリビングが私を待っている。自分が独り身であるこを痛感する瞬間だった。しかし、今日は少し趣が違った。暗い部屋にぼんやりと青白い光が浮かんでいる。蛍光灯ではない。パソコンのディスプレイ画面だ。丸テーブルの上に置かれたそれには、今朝、会社に行く前に見ていた画面がそのまま映っていた。
「ようこそ、ゲストさん。赤い印の付いた必須項目を入力してください」
 私が見ていたのは転職情報サイトだった。日々の仕事に嫌気が差しだしたのは昨日、今日の話ではないが、最近は堪りかねて転職を考えるようになっていた。そして今朝、朝食を食べながら何気なく登録し、そのままにして家を出たのだった。残り項目はわずかだった。お風呂に入る前に全て入力し終えようと思い、私は部屋着に着替えずにリビングの床に腰を下ろしパソコン画面に向かった。会社でパソコンに触る時よりも真剣にディスプレイを見つめ、キーボードの上を滑らかに指が動いていく。
 
 私には付き合っている年下の彼氏がいる。大学のゼミの後輩で私が四年生の時から付き合っていた。彼はもうとっくに卒業して社会人になってしかるべき年齢だったが依然として学生生活を謳歌していた。卒業する気が一向にないのは彼が就職活動をしていないのをみればよくわかった。アルバイトはしているようだったがお金が足りなくなると私のところにやってきた。私もなんだかんだ小言を言うものの出来る限り融通してやった。それが彼のためにも私のためにも良くないことだとは思っていても彼の体に包まれた後は言いなりだった。それが最近は彼が泊まりにくるペースが減っていた。学生なのだから平日も暇なはずである。ところが、土日の一方のみの逢瀬が多くなったいた。私自身、平日は仕事で疲れているため正直それには助かっているが、少し寂しさを感じていた。
「今度はいつくるの?」
 私は転職サイトに情報を登録し終え、風呂に入って寝る支度をしてからメッセージを送ってみた。すでにベッドに入り、寝る準備は万端だった。私が眠りにつくのが先か彼の返事が来るのが先か、私はかなりウトウトしながら彼の返事を待ったが、とうとう眠気に勝つことができなかった。
 朝目覚めると彼からのメッセージが来ていた。
「今日あたり行くかな。今日会社だよね? 昼はいないんだよね?」
「ごめんね。昼間は難しいな。今日は会社だけど頑張って早く帰るね」
 楽しくない仕事も通勤の満員電車も予定があれば堪えられた。昼休みはスマホで転職サイトを眺めながら過ごした。スマホでのチェックは操作性が悪く、機能も限られていたが、メッセージ欄は確認できた。すでにいくつか企業からの連絡が来ていたが、ほとんど自分には興味のない職種ばかりだった。唯一、転職エージェントからの連絡には気になるものがあった。彼らは転職サイトの求人情報とは違い、実際に私に面談し、適切な仕事の面接を用意してくれるという。それも非公開求人もあるなど、転職情報サイトだけでは得られない情報もあるらしい。活用しない手はないと私は思った。聞いたことのある大手の転職エージェントから連絡が来ていた。私はもうすでに転職できる気でいた。休憩時間の終わりが差し迫っていたので、どれに連絡するかは今夜家に帰ってから決めようと思って、私は仕事に戻った。
 定時からはすでに二時間ほど経過していたが、いつもより早い時間に会社を出ることができた。帰りの電車もさほど混まずに乗れ、私は最寄り駅からスーパーに寄ってマンションに帰ることにしていた。彼に連絡しても返事はなかったが、大体来るならもう少し遅い時間だった。彼はどうせ何も食べずに来るだろうし、私もお腹が空いていた。何か作って待っておこうと思い、カゴを片手にスーパー内をぐるぐると回った。マンションと逆方向にしかスーパーがないため、ビニール袋を提げて帰るのは普段なら苦になるはずだが今日は少し心躍るので足が早まった。信号待ちももどかしい。先に食事を拵えて待っているのが楽しみだった。
 家に着いた。鍵が開いたままになっていた。朝、鍵をかけ忘れたのだろうか。玄関で靴を脱ぎ、いつも通りの暗いリビングに入り、明かりをつけて私は驚くことになる。
 そこには本来あるはずの家具や電化製品がなかった。あるのは丸テーブルとベッドだけで、パソコンもなくなっていた。一瞬、泥棒に入られたのかと思ったが、すぐに私は犯人に気付いた。彼だ。彼に違いない。今日、私が昼間にいないことに妙にこだわっていた。こっそり忍び込んで私に会わないようにするために確認したのだ。合鍵は渡してあったから入ることはできる。私は彼の電話を鳴らす。しかし、電源が切れているというメッセージが虚しく耳に入ってくるだけだった。彼は私の家から価値のありそうなものだけをごっそりと持っていった。これは私への別れのメッセージなのだろうか。意思がわかりにくい彼にしてはずいぶんとはっきりとした意思表示の仕方だった。最近会う機会が少なくなっていたから、こうなることも何となく考えていた。ただ突然、このような形でフラれるとなると準備ができていない。私は買ってきた食材などをスーパーの袋ごと冷蔵庫に入れた。幸いにして冷蔵庫はなくなっていない。最後に彼が見せた優しさなのだろうか。重たくて運ぶのを断念しただけだろうか。悔しくて情けなくて、空腹も忘れて、私は横になったベッドの上でいつの間にか眠っていた。
 朝起きて、徐々に昨日のことを思い出した。私が着替えもせずに横になっていること、化粧が涙でぐずぐずになっていることの理由がきっちりと脳裏に蘇った。相変わらず彼から連絡はなく、電話をかけてもつながらなかった。こんな日は一日ぼうっとして過ごしたかった。しかし、習慣化された私の体は会社に向かうモードになっていた。食欲はなかったが無理やり朝食を口に入れ、コーヒーで流し込んだ。
 マンションの一階でレターボックスを見る。チラシばかりで辟易するがたまに公共のお知らせなども入っているのでこんな状況でも選別には気が抜けない。いらないものばかりなので横に備え付けられたゴミ箱にまとめて捨てようとした。そこで裏返しになって落ちている一枚のチラシに気がついた。ずぼらな住人が捨てる時に誤って一枚落としたのだろう。拾えばいいものをそれを面倒くさがり放置したに違いない。私はそれを拾ってゴミ箱に入れようとした。しかし、そのチラシの文面が私の目に大きく飛び込んできた。
「あなたの転職支援します。町の転職エージェント木村」
 記載された住所は近所だった。地図を見る限り、駅までの途中だ。ただ、こんなとこに転職をまかせて大丈夫なのかと心配になる。大手のサービスやエージェントでなければ何となく信用できない感じがするのだ。しかし、転職への気持ちに弾みがついている今を逃すべきではなかった。彼にフラれたショックをバネにせめて転職くらい成功させたい。それには今すぐにでも活動すべきだった。些細な情報でもいいから仕入れて、転職活動の火を絶やさずにおきたい。私はチラシを手に、会社に行く時間が遅れてもいいので、その転職エージェントの事務所を訪れることを決めた。
 チラシの住所に従ってエージェント木村を訪れたが、そこには看板などはなく、私が住んでるのと同じようなマンションがそびえ立っていた。エントランスに入ると各階のテナント一覧があった。住居用というよりも法人向けに部屋を貸し出しているマンションなのだろう。六階にエージェント木村はあった。築浅のマンションは私のよりも綺麗でエレベーターの中も広かった。会社を訪問しているのか、誰か知人の家を訪問しているのか自分でもわからなくなる。それくらい、エージェント木村は会社風ではなかった。部屋の前で私は恐る恐るインターフォンを押す。応答があり、お待ちくださいと言われた。年配の女性の落ち着いた声だった。
「お忙しい中、ようこそおいで下さいました。さあどうぞ」
 初老の女性に促されて私は室内に入った。玄関は個人の家のそれと何の変哲もない。老婆は私にスリッパを出してくれたのでそれを履く。こういうのも友達の家にいるかのような錯覚を覚えさせる。この老婆が木村というエージェントなのだろうか。怪しさはないが、どこか頼りない。情報収集だけして退散というのがいいかもしれない。
「ここにお掛けになってお待ちくださいな。木村を呼んで参りますから」
 老婆はそう言うと奥の部屋に引揚げていった。どうやらこの老婆はエージェントではなさそうだ。私は少しほっとした。部屋の壁には人材紹介事業の許認可証がかかっていた。奥から老婆ではない女性の声が聞こえる。ドアが開き、声の主が入ってきた。彼女はドアにストッパーをかけ、開けっ放しにした。
「おばあちゃん、お茶まだじゃない?」
 彼女は席についても私には目もくれず、机の上にお茶がないことを背後の部屋に控えているであろう老婆に向かって叫んだ。
「はいはい、ただいま持っていきますよ」
 彼女は若々しさの上に小生意気な感じを同居させ、やや高飛車な印象を人に与える。苦手なタイプだ。
「あの、はじめまして。私、金田っていいます。転職を考えてここにきました」
 私はチラシを机の上に出した。彼女はそれを初めて見るようだった。
「また、おばあちゃんがやったのかなあ。お客増えちゃうのにさ。で、あんたはこれを見て、転職できると思ってやってきたわけ?」
 少し馬鹿にされた気がして私もすかさず言い返す。
「別にここのエージェントで事足りるとは思っていません。まずは情報収集をかねて近所なので通勤がてら来ただけです」
「あんたさ、大手のエージェントなら安心だと思ってるの? それは完全に勘違いだよ。どこ行っても同じ求人がほとんどだよ。で、あんたをそそのかして面接させて、内定もらえると私達エージェントには紹介報酬がもらえるって仕組み。美辞麗句並べて、なんてことはないあんたのような若い子をその気にさせておだてるってのがエージェントの仕事よ。今日、履歴書ある?」
「すいません、持参してません」
「やる気あるの? じゃあ、これあげるから書いてみて。ねえ、おばあちゃん、お茶まだあ?」
 厳しいことを言われたが私の転職への心意気みたいなものを試したのだろう。奥の部屋から老婆がお盆に載せたお茶を運んできた。私は丁寧にお礼を言ったが、目の前の木村と思われる女性エージェントは何も言わず、一気に飲み干した。
「あ、自己紹介してなかったけど、私が木村ね」
 彼女は私に名刺を手渡すと向こうの部屋に切り上げていった。私はその間に、もらった白紙の履歴書を埋めていく。小さい頃、書道を習っていたので今でも字には自信があった。
「書けた?お、いい字してるわね」
「ありがとうございます。あのおばあさんって、木村さんの本当のおばあさん何ですか?」
「そうよ。家政婦か何かに見えた?」
「いえ、そういうわけじゃ」
「人の家庭を詮索する暇があったら、次はこれをやって」
 彼女はもう一枚、白紙の履歴書を出してきた。
「やるって何をやるんですか?」
「もっと綺麗に書く訓練が必要よ。次は私が言うことをそのまま履歴書に書いて」
 この流れからいくと、履歴書のハウツーでも教えてくれるのかもしれない。やっとエージェントらしい仕事をしてくれるのだ。彼女はさきほど見せたチラシを私の方に向けて、住所のところをその綺麗な人差し指で示した。
「住所のところはこれをそのまま書いて」
「私の住所ではないんですか?」
「いいから書きなさいよ」
 何だか解せない話だったが私は彼女の言う通りにした。番地まで書き終えると彼女は履歴書を手に取り、ほくそ笑んでいる。
「じゃあ次は、名前と年齡のところに木村まりえ、年齡は二十九って書いて。まりえは麻って字に理科の理、絵画の絵ね。性別はもちろん女ね」
「どうして木村さんの情報を書くんですか?」
「素人にはわからないかもしれないけど、木村って字にはね、文字に必要な情報が全部入ってるの。払い、はね、止めとかね。だから字がうまくなるのよ。いいから書きなさい」
 そんな話聞いたことなかったが、私は続けた。年上だと思っていた彼女は私と同い年だった。そんな女に転職の相談をするのは少し嫌だった。
「まあ上出来ね。次は学歴と職歴をお願い」
 この女、私に履歴書を代わりに書かせているとしか思えない。字がうまくなるというのは嘘だろう。
「あなた本当に転職エージェントですか?」
 彼女は舌打ちして私を睨む。なおも書き続けるように指示している高圧的な目線だった。
「どこの転職エージェント行っても、同じことやらせんのよ。いいから言うこと聞きなさいよ」
「そんなのにダマされるわけないでしょ。もう帰ります」
 木村は謝りもしなければ引き止めもしなかった。私はとんでもないところにやってきてしまったようだ。玄関に行き靴を履いていると、老婆が見送りに来てくれた。老婆は木村の代わりに律儀に私に謝ってくれた。この人は全く悪くない上、私はどうも自分の祖母と重なって、こんなにも丁寧にされると反対に恐縮してしまう。
「いえ、私も生半可な気持ちで、冷やかし半分で来ただけですから。お茶ごちそうさまでした」
「もし、よかったらまた今夜帰りにでも寄ってくださらないかしら? うちは小さくて、少し変わった転職支援をしていますが、お役に立てると思うから」
 あの木村というエージェントは正直信用できなかったがこの老婆に言われると断れなかった。それに夜、会社が終わってからなら私も暇だ。
「夜、遅くなるかもしれませんが、それでもよければ寄らせてもらいます」
「はい、お待ちしております」

 私はその後会社に出社した。夜の予定を意識して働いたせいか残業はそれほどでもなかった。まるで誰かがあの転職エージェントに私を連れていこうとしているかのように、その日は帰ることができた。しかし、油断は禁物だ。また何を要求されるかわかったものではなかった。
 マンションのエントランスに入るとエレベーター待ちをしている女性がいた。後ろ姿から察するに、OLか何かだろうか。横に並んで、それがあの木村だとわかった。
「あ、あんたもう来ないんじゃないの?」
 明らかに狼狽していた。私に見られたくない姿なのかもしれない。
「おばあさんが良かったら寄ってくれって」
 同い年とわかった上にエージェントとして胡散臭いので私はタメ口で話した。向こうは相変わらず高圧的だった。
「またおばあちゃんが勝手なことを。まあいいわ、何かおばあちゃんに策があるのかも。ああ見えて、すごいんだからね」
 私は再び、エージェント木村の室内に入った。朝来た時と何も変わっていない。老婆も笑顔で迎えてくれた。
「二人ともご飯はまだでしょ? 金田さんもいかがかしら?」
 私は固辞しようとしたが、奥から漂ってくるいい匂いに思わず隣の木村を確認してしまった。
「食べたきゃ食べたらいいじゃない。おばあちゃんの善意よ」
「じゃあ、お願いします。実はお腹ぺこぺこなんです」
 食事をするので、私は奥のダイニングに通された。あまり生活感のない部屋だった。ここは完全にオフィスで普段住まいは別のところにあるのかもしれない。
 老婆は私がしばらくご無沙汰にしていた家庭料理を振る舞ってくれた。肉じゃがに冷奴、ひじきご飯とまるで実家に帰ったかのような内容だった。そして美味しかった。
「私は洋食がよかったなあ、今日は」
 隣に座る木村は文句ばかりたれているが、見事に完食していた。
「麻理恵ちゃん、今日は緊張しなかった? 首尾よくいったのかしら?」
「え、今ここで言うの?」
 まだ箸を動かしている私をジロリと睨み、木村が不貞腐れながら話しだした。
「今日は三社回ったけど、全部ダメそう。やっぱり面接だと途端に緊張しちゃってうまく話せない」
 木村は私のせいだと言わんばかりにこちらを見てくる。
「あんたがちゃんと最後まで、履歴書を書いてくれたら良かったのに」
 緊張して話せないのと履歴書の出来は全くもって関係ないが、やはりこの女は私に履歴書を書かせていたのか。自分で書くのが嫌だから転職エージェント業などをやっているのだろうか。いや、普通はそんな回りくどいことしないはずだ。私の顔の疑問符を見て取り、老婆がとつとつと語りだした。
「もともとは私が人材紹介業をやってたんですけど、もう年でしょ? だから引退してたんですけどね、孫のこの娘が仕事を辞めてぶらぶらしてるから心配で試しにこの場所を借りて、紹介業をやらせてみたんだけど、てんでダメでねえ。早く仕事に戻って欲しいから、昔のつてで、いくつか紹介してもらっても面接で落ち続けてて、困ったものなんですよ。こんなに生意気で威勢のいい娘が、面接だと緊張して泡吹いちゃうんだもの」
「おばあちゃん、私だって頑張ってるんだからね。それに泡は吹かないよ」
「こちらの金田さんみたいにもっと落ち着いて、品よくできないかしらね」
 私は不意に褒められて照れてしまった。この老婆は私に対して物腰も柔らかで、優しくて私は好きだった。
「さきほども言ったように私には昔のつてでいくつか仕事はご紹介できるんですよ。この娘ならいざ知らず、金田さんならどこの企業でもきっと欲しいと言ってくれますよ」
「今日初めてお会いしただけなのに、それは買いかぶりですよ」
「いいえ。私は人を見る目だけは確かなものを持ってるんですよ。金田さんはとびきり上等なお人柄です。履歴書の字もあなたが帰ったあと拝見しました。実にいい字でした」
 そう言うと老婆は私に求人票を渡すと言い、別室から何かを抱えて戻ってきた。ただの求人票ではない。袱紗に包まれたそれを丁寧に広げると中からは書類ではなく、革張りの冊子のようなものがでてきた。それを一冊渡され、開いてみるとそこには顔写真があった。
「お見合い写真ですか、これは?」
 会社の説明が記載された求人票と思いきや、そこには人の顔写真しか載っていなかった。お見合い写真にしては老けすぎている。それに私の好みからもかけ離れていた。
「この写真はある会社の社長さんですよ。この顔を見て、何かインスピレーション働かないかしら」
 老婆はそう言うと私に次々と写真を見せていった。私は仕事の内容や企業の知名度ではなく、ただ経営者の顔を見て判断しなければならなかった。当てずっぽうで一枚選んでみた。精悍な五十代の男性に見えた。聞けば、大手上場企業の社長だった。会社名も知っていた。今の私の職場の規模から言えばかなり格上に当たる会社である。そんなところに転職が叶うものなのだろうか。私は半信半疑だったが、老婆は早速、面接のアポイントを取るという。
「こういうのはご縁ですから。その直感が大事なんですよ。じゃあ、早速面接の連絡を入れてみますね。いつが空いているの?」
 話が次々と進む中、木村は面白く無さそうにしていた。冷蔵庫からアイスを出し、一人食べている。私は少し、木村が可哀想になっていた。いくつも受けて、落ちるのはかつて私も学生時代の就職活動で経験している。それを社会人になって再び繰り返すのは辛いはずだった。老婆もそんな彼女のことが気になったのだろうか、突拍子もないことを言い出した。
「金田さんからがいたらあんたも緊張しないでしょ。いっしょに面接受けてらっしゃい。二人同じ時間にアポとっといたから」
 いっしょに受けるということに若干不満はあったが、そんなことを言える立場ではない。私は設定された面接の日時を確認し、エージェント木村を後にした。転職への弾みが付いた今、願ってもないスピード感だった。
 当日、仕事をどうにか終えて私は東京駅近くのオフィスビルに向かった。面接はそこの最上階で行われる。失恋のショックは徐々に癒えて、今は転職まっしぐらという心境だった。この会社のことも調べたし、志望動機などの問答も頭に入っている。
「遅かったわね。来ないのかと思ったわ」
 待合室には木村がすでに来ていた。相変わらずの憎まれ口だ。ただいつもより口数が少ないのは緊張しているせいだろう。
「中へどうぞ。二人とも」
 ほどなくして私達二人は中へと呼ばれた。そこには写真で見た男性がいた。企業の面接らしからぬ和やかな雰囲気を醸し出している。
「そう固くならないで。私は紹介者の木村さんを信用しているから、少しだけおしゃべりをして今日は終わりましょう」
 甘い言葉に誘惑されず、私はどんな難しい質問にも回答できるように身構えていた。すると相手は本当にどうでもいいことを聞いてくる。好きな音楽は何か、最近読んだ漫画は何か、朝は何チャンネルの番組を見るのか、などを私達に交互に聞いてくる。最初は緊張していたがそれもほぐれていった。言葉遣いのマナーを気にかける程度で後は正直に感じたこと、思ったことを口にした。隣の木村にしてもそれは同じだった。緊張など感じさせない、よどみない会話を続けていた。最後に聞かれたのは最近食べて一番美味しかったものについてだ。私はエージェント木村で食べた、老婆お手製の食事を思い出した。木村も同じ考えだったようで、そのことを話しだした。そのとき私のお腹がぎゅうっと鳴った。空腹の合図だ。その音は思いの外大きく鳴ってしまった。
「失礼しました。木村さんのを聞き、同じものを想像してしまって、ついお腹が鳴ってしまいました」
 非常に気まずい空気が流れると思いきや、社長も木村も二人とも笑い出した。それにつられて私も笑う。
「じゃあ、このくらいで今日はおしまい。この後、二人をご飯にでもと思ったんだけど、会議があるから、それは入社祝いの時にでも取っておこうか」
 入社という言葉を聞いて木村と私は顔を見合わせ、笑顔になった。そして、大きな声でお礼を言い、部屋を出た。ビルを出て、私達は互いを称えあい、抱き合った。木村にしては殊勝な態度だった。それが私には可笑しかった。
「あんた運がいいわね。私がついて来てやったおかげじゃない。感謝しなさいよ」
「木村さん、私にありがとうって言ってもいいのよ?」
「ふん」
 木村は電話が掛かってきたようでそれに対応しだした。どうやら老婆からのようだ。
「おばあちゃんがご飯作って待ってるって。あんたも食べるでしょ?」
 もちろんと私は笑顔で木村に返す。先ほどのお腹の音は嘘ではない。私はお腹が空いていた。
「じゃあ、おばあちゃん二人分よろしくね。はーい、電話切るね」
 すでに帰宅ラッシュは始まっていた。東京駅から自宅のある駅までは乗り継いで帰らなければならない。働く人を大勢乗せた電車はすでに超満員だったが、それを見ても今の私は帰り道が楽しみで仕方なかった。
(了)

コメント(12)

コメディをメインにして書きました。ダメ男要素も少し入れました。
涼しい夜にジャズを聴きながら快適に過ごすかのように、スーッと読み終えました。
面白かったです。

こういうダメ男っているんですね?
というか、家具を持っていくという犯罪行為が失恋というのは、なかなかなくて、斬新でした。
どんなに好きな相手でも、合鍵を渡してはいけませんね〜。(^_^;)

主人公の女性と孫娘?が同世代ということもあり、転職のくだりも興味深かったです。
自分もかつて転職経験がありますが、本当に「縁」なんですよね。
まるい「円」のような「縁」に巡り会えることがどれだけ幸せなことか、よく分かります。

個人的には、果たしてこの会社に2人とも無事採用されるのか、大変気になるところです。
>>[2]
感想ありがとうございます。
最後に、実は採用されているシーンがあるのですが、わかりにくかったですね、反省。
拝読させていただきました。

純粋におもしろかったです^^
おばあちゃんがすてきでした

経営者の顔写真で求職を決める部分は、なにか元ネタがあるのですか?
それとも肉さんのオリジナルですか? オリジナルであれば、なかなか斬新だと感じました。

うまく表現できなくてごめんなさい
>>[4]
感想ありがとうございます。
顔写真は、そんなのあり得ないよ!っていうのを入れたかったのでオリジナルです。
一度読んだときは、エージェント木村の怪しさがファンタジックで面白いと思いました(やはりお見合い写真は創作だったのですね!)が、こういうこともあるかもな〜みたいな感じで再読しても楽しかったです。
木村さん(孫)のツンデレっぷりがいい。
エージェント木村自体もオリジナルなのでしょうか?? 私も会いたいエージェント木村(連呼
木村(孫)のキャラ、好きです!
木村という字に、必要な要素が入ってるというのは、なるほど!と思いつつ、心の中で「って、おまえの履歴書書かせんじゃないっ!」と思わず、主人公の気持ちになってノリツッコミしてしまいました。この履歴書のくだり好きですし、笑いました(^^)
そして、木村(祖母)の、素敵な主人公とセットで孫を売り込もうというしたたかさが見え隠れするところが、さすが歴戦のエージェントだな、という印象を受け、面白かったです。
最後にハッピーエンドで終わるところも後味の良さがあっていいなと思いました。
家具を盗む男と付き合う主人公のダメ女小説でもあるんですかね。
非常に面白かったです!楽しい作品をありがとうございます。
エージェント木村のところは、そういうことだったのか、と思いました。

個人的には、最初に出てきたダメ彼氏は、最後に何か関わってくるのかな?という読み方をしてしまいました。
電車に乗っている状態から家に帰るへの移行が実感として与えられました。
仮説ですが、会話の中で視点を変えられるような効果は会話を続ける効果を上回る可能性が高いのではないかと考えました。
満員電車の中での心情描写がより遅めに出現するのが好みです。
読みやすく面白かったです。満員電車にうんざりした感じが良く出てました。が、転職をしたがってるのに、今の仕事のどこが嫌なのかはっきり書かれてないのに疑問を持ちました。

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