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高遠城と高遠藩コミュの仁科五郎盛信

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皆様お待たせいたしました。
仁科五郎盛信について思いを語ってください。
このコミュニティのトップページにも書いてある通り、武田信玄の五男として生まれた盛信は、当初信玄が支配した安曇郡(今の大町市や白馬村のある地域)を治めていた豪族仁科氏の養子に入ります。そして1581年(天正9年)武田勝頼がそれまで高遠城主だった武田信廉を伊那の大島城主とし、盛信を織田軍を迎え撃つために高遠城主とします。
翌年1582年(天正10年)木曽義昌、穴山梅雪君信、小笠原信嶺らが相次いで寝返り、保科正直、小幡因幡、武田信廉らも織田軍の破竹の進撃を食い止めることはもはや不可能で、城を捨てて逃亡します。
そのような中、ただ一軍迫り来る織田軍に武田武士の魂を見せつけ抵抗したのが仁科五郎盛信です。
盛信は降伏を促してきた織田信忠方の使者である僧侶に対し、
「鼻と耳を剃り、血だらけにして」送り返したといいます。
これに激怒した信忠は、翌日1582年(天正10年)3月2日早暁(午前4時ごろ)、滝川右近一益、森長可、毛利秀頼、河尻与兵衛秀隆、団平八、織田に寝返った小笠原信嶺、水野和泉らの6万の軍が一手に押し寄せました。
これに対し、仁科勢は玉砕戦法で応戦しました。わずかに1千の手勢ではその不利は日を見るよりも明らかだったのでありましょう。しかし、最後のひとりまで奮戦しました。
「信長公記」にも女房衆までが「刀を抜き、切って廻し、比類なき、前代未聞の次第なり」とその目覚しい戦の様子を記述しています。
とうとうその日のお昼には落城してしまいました。6万と1千ではとても勝負にはなりませんでした。盛信も切腹して果てました。
織田方が取った首は400、盛信の首は信長の元に送られました。この1582年(天正10年)の織田軍対武田軍の戦は武田方の離反・逃亡が相次ぎました。しかしその中にあっても、盛信は武田武士の誇りを胸に最後まで信忠軍に奮戦しました。
仁科五郎盛信こそ高遠の誇りです。

写真左:仁科五郎盛信肖像
写真中央:高遠城の模型
写真右:高遠城の南郭側の空堀、滝川一益の軍がここを突破して、本郭に攻め寄せた。

コメント(9)

おれと盛信との出会いは、池波正太郎さんの「真田太平記」の1巻。物語の始まりは、折りしも信忠軍の包囲下にある高遠城が舞台でした。
落城までわずか数ページ。しかし盛信に惚れるには十分な内容です。実際、おれが魅了されてます。

NHKで放映された「真田太平記」がDVD化されているそうですが、この場面も収録されてるのかな?
もともと購入予定ではありますが、収録されているのなら
す  ぐ  買  い  に  い  き  ま  す  。
おお出ました「真田太平記」第1巻天魔の夏ですね。
高遠城の法憧院曲輪(郭)や搦手口で戦っていたのになぜか?北側の金坂山の崖に転落した向井左平次を女忍びお江が助け出すシーンは有名ですよね。まず最初に滝川一益、昼過ぎにはとどめに信忠自ら攻め込み、高遠城は落城してしまいます。仁科五郎も小山田備中守も壮絶な最期を遂げました。
本当にページ数にしてわずかに数十ページ。(私の持っている昭和59年版の古い真田太平記「第1巻岩櫃の城」だと50ページまで。)でも、仁科五郎にほれ込むには充分の内容です。
信忠軍5万強、真田太平記では仁科軍3千と書いてあります。
やはり多勢に無勢でした。しかしよく戦ったとほめてあげたい気持ちです。DVDも早く買いに行こう。
写真は法憧院郭と南郭を結ぶ橋、説明書きです。「真田太平記」をお読みになり、想像しながらご覧ください。
夢酔藤山様
コミュ作成おめでとうございます。くす球パカ〜ン!
早速参加しました。よろしくお願いします。
皆さん、初めまして。仁科盛信、私も大好きです。
昨年も高遠城へ行った際に五郎山にも登ってきました。これで2度目になります。この五郎山は首の無い盛信の遺骸を村の人々がこの山へ埋葬したとされています。それが本当がどうかは別にしても、この盛信像は今でも織田軍が攻め寄せてきた方角を睨んでいます。今でも盛信はしっかりと高遠の地を守っているんだなと思うと感激します。

ではまた。
 勝頼には、何かあやうい脆さを感じますが、盛信にはもっと力強さを感じますね。
潮風様
五郎山に行かれているのですね。写真アップありがとうございます。大軍を前にしても怯まずにわずかな手勢で、奮戦し、壮絶な死を遂げた武将であった仁科五郎盛信は、最後まで信念を貫く大切さ、人を裏切らない誠実な生き方を私たちに教えてくれていますね。

あっこちゃんぶた様
勝頼の母は諏訪御領人、盛信の母は油川夫人(武田信虎の叔父である油川信惠の孫娘、つまり信玄とははとこ同士になります。)でした。油川夫人は盛信のほかに菊姫(上杉景勝夫人)や松姫(のちの信松尼)を生んでいます。
仁科五郎盛信と保科正之2人の生涯は実は深い関係でつながっているんですね。
現在、上田市原町にある「池波正太郎真田太平記館」で特別展が6月18日(日)まで開催されています。
そこにも高遠城の写真パネルや、高遠軍に従事していた足軽、向井佐平次が織田信忠軍に襲撃されて、命からがら女忍びお江に助けられ、別所の湯で源次郎幸村と出会うシーンなどが、池波正太郎の文章と風間完のイラストでわかりやすく展示されています。よろしければ、足をお運びください。真田太平記という作品のはじめとラストで高遠という地名は登場します。

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