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悪夢の書架コミュの黎明学園の吟遊詩人

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大変exclamation
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知識と力と采配──「ロイス・ベル」の乗客の密談

 詩音と由子は通称「お化け会館」と呼ばれる廃倉庫の前に佇んでいた。五時とはいえ季節柄、日は長い。
 壁にもたれて静謐な雰囲気にある詩音とは対照的に、由子はやたらと気ぜわしくちょこまか動き回る。口もそれに同期するように騒がしい。
「ん、もう五時七分じゃない、弁護士って時間に厳しいんじゃない? そういう仕事でしょ? なんでこんなに時間に遅れるのよ、もう!」
 ふくれっ面の由子はそれでも美しさに拍車をかける。「可愛らしい」という要素が盛り込まれるだけなのだが、白い百合に金のティアラを被せたような姿はより輝きを増す。
「時の刻みは由子だけのものじゃないぜ」
「詩音、あんた、背中が煤けてるぜ」
「……やめよう、お互いに恥ずかしくなる」
 その時、玉川上水沿いの道から野太い排気音が近づいてきた。塀の角から豪奢なフロントグリルが覗く。
「…『ロイス・ベル』か。あの大きな車体であの角を曲がれるのか?」
 詩音は顔を上げて左目で凝視すると、塀と「ロイス・ベル」の側面が一瞬ぼやけた。溶けた絵の具のように長大な車体が角を曲がってくる。
「なあに、あれ? なんかの魔術? トリック?」
「……『影』を極めて部分的に操作しているだけだよ」
 やがて詩音と由子の目の前に、全てのガラス部分にスモーク・シールドを施した漆黒の車体が滑るように止まる。ドアが六枚もあるリムジンだ。『影』を自在に行き来する全ての影で唯一の車体「ロイス・ベル」。片側三枚のガラス窓の一つが音もなく下に下がり、冷徹な狐目とポマードで固めた黒髪が覗く。まばらな口髭が動いた。
「…とりあえず乗れよ」
 開かれた真ん中のドアに二人は身体を滑り込ませた。なんと、運転性のベンチシートを除いて、向かい合わせになった革張りの座席の間にはウオールナットの細長いテーブルまである。ちょっとしたオフィスだ。冷蔵庫とおぼしきボックスやその上には古めかしいダイアル式の電話器まで備え付けてある。テーブルの上にはノートパソコン。
「うっわー、ごーかけんらんー!これって本当に車なの?」
「見ての通りだ」
 不敵な面構えが地なのか、どうも仕草がいちいち皮肉っぽい。
「ヘクトル、適当に『影』を走ってくれ。出来るだけ過疎の方がいいな、しばらくは」
「かしこまりました、沓水様」
 詩音は振り返るかたちでヘクトルを見る。精緻な三角定規の集合体がH型三段ギアを操り、「ロイス・ベル」は暗闇に溶け込み、どこか知れない森の木立の間を走り抜けて行く。
「で、街の風景を細かく説明してくれ」
 由子はテーブルに身体を乗り出して掌を組み、車の天井を見上げながら記憶をよみがえらせる。あの夜の、あの時間とその場所を。
「ロンドンによく似ていたわ。道は石畳で回りにはビルしかなかった。夜だったから様子がわからないけど……不思議なのは電気はあるのに、街の外側は瓦斯灯しか点いていないの。全体的に真っ暗で……人が住んでいるとか、そんな感じがしない。そう! 会場の偽装した所に吊り看板があったわ。アルファベットなんだけど、全然見たことのないスペルばっかり」
 沓水は闇の方を眺めながら、微かに頷いている。
「それから、コンサート会場は、地下一階だったんだけど、昔はクラブかキャバレーだったみたいな感じ。とにかく警備が厳重だったわ。街角やビルの中にまで外の動きを監視していた。それなのに……官憲が雪崩込んできた。最もガリーって男が持ち場から離れたせいもあるかも知れないけど、あの様子じゃバックアップもしてあると思うし」
 沓水の左の眉がピクンと跳ね上がる。
「今、『ガリー』って言ったな。それは人の名前か? どんな男だった? 他には誰か名前を聞かなかったか?」
「…『ガリー』っていうのは用心棒で雇われてたみたいだけど、シンパサイザーではあったみたい。事実わざわざ警備を抜けてまでコンサートを聞きに来たし。腕っ節が強そうな作業服を着た筋肉男。髭も濃いわ。それより、ライブに来ていた男はほとんど髭を伸ばしていたような…それから、そもそも私を助けてくれて、その上「ビリー・シアーズ・ショー」にまで案内をしてくれた男が私のターゲット『レイン』。この男は髭がなかった。かなりの美男子よ」
「………『幸運の鍵』だね」詩音が呟いた。
 由子が顔を赤らめて詩音を一瞬睨み、沓水に視線を戻す。
「その『レイン』ってのは黒い皮のコートを着て、黒いパンツに黒い靴。あ、ステージの時は白いシャツに黒いベストを着ていた。観客の男達は全員労働者っぽかったけど、レインだけ知的労働者っていうか、浮いてたわね」
「そもそもどうやってコンサートに潜り込んだ? それだけの警備だったのならシークレットでチケットかワードか何かを使うはずだ。その『レイン』って男の一存で入れるとは考えづらい」
「私の『パープル・ヘイズ』対策よ。ほら」
 由子はつま先をテーブルの上に乗せた。その足の指にはいくつか金の指輪が光っている。またもやショーツが丸見えだ。この子は一体何枚十二星宮のショーツを持って居るんだろう?
「ま、妥当だろうな。物々交換以外は詩音に金を『作って』貰う以外にないからな」
「頼まれても断るけどね」
「俺のメシュメントでそれをやったら、迷わずとっつかまえるがな。他になにか気が付いた事はなかったか?」
「入るときにお金の単位が…たしか600ガデス、とか。それからなだれ込んできた官憲だけど、制服は……群青に銀の線が並んでた。なにか持っていたけど…ピアノの音みたいな爆音がした。あれ、なんだったのかしら? そうだ、女が殆どいないの。二、三人は見かけたけど…あの空気なら女の子がきゃあきゃあ言うものなんだけど。そうね、ワンドリンク・サービスはあったわ。私はビールを選んだけど、後は多分ジンみたいな強いスピリッツだけ」
「それは『ビール』と呼ばれてたかな?」
 由子はぶんぶんと首を横に振った。金色とピンクとラベンダーが乱れる。
「イギリスのスタウトそっくりの味だったわ。ギネスみたいな黒ビール。とにかく爆音で言葉が聞こえなかったのよ」
「なんでもいい。他に単語は使われなかったか?」
 由子は俯いて考え込む。多分脳みそを引っかき回しているのだろう。
「……その店、なんて言うの?」詩音が事もなげに言った。
「あ」由子が固まった。
「サ、サ、サクラ・ファミリア! ガリーが言っていた!『サクラ・ファミリアの管財人だって危ない橋を渡っている』って言った!」
 沓水は舌を打ち、ノートパソコンのパッドを叩いて何かを呼び出した。単なるアドレス帳のようだ。そして冷蔵庫の上の受話器を取り、緩やかなダイアル音を鳴らす。「早く言えよ」忌々しそうに由子の顔に顎を振った。
「あー、私だ。沓水だ。寝ぼけるんじゃねえ、手前ぇの所の理事の沓水だよ。『ユニオン』のな。さっさと情報部へ回せ。なにい? そんな部署はないだぁ? 表立ってそんな名前にする訳ないだろうが。資料室二課だよ、目ぇ覚ませえ馬鹿野郎」
 沓水が受話器を耳から離して苦々しく睨む。「何が『お繋ぎいたします』だクソ売女」
「おう、ドゥー・ダッドか、沓水だ。ユニオンの常任理事にしてメシュメント最高の頭脳の持ち主である驚愕すべき天才弁護士様だ。だあれが本名など呼ぶかよ。『ドゥー・ダッド』ってお前を呼ぶときは本来のそこの部署の役割を思い出すんだな。リアルタイム二十四時間体制の絶対的な強制力と蟻の這い出る隙間もない情報網を持つ『情報部』としての責任者であるお前のことだよ。いいか、いくつか条件を出すからそれに符合する『影』を探し出せ。馬鹿野郎今だよ、今すぐだ。いいか、よく耳の穴かっぽじって聞けよ。一つ。灯火管制が引かれている。電気の使用を制限しているが表向きだ。主に瓦斯灯の使用を余儀なくされている。一つ。石畳の道路を持つビル街。一つ。女性が何らかの形で拘束あるいは自由を奪われている。一つ。体制側がこき使っているおまわりは群青に銀の線が並んだ制服を着用、武器はピアノの音を伴う。一つ。通貨の名称は『ガデス』。一つ。『サクラ・ファミリア』という閉店したバーかクラブの不動産が存在する。こんなところかな? 10分やるから俺にメールを送れ。グラフィックが手に入るのなら添付ファイルで送れ。拡張子はなんでもいい。念のために言っておくがな、『シェ・アレクサンドロス』なんて優男には用はないぞ。必要なのは冷血にして容赦ない『ドゥー・ダッド』だ、ちゃっちゃと仕事しろ。予算を気にするような部署にはしていないつもりなんだがな。くれぐれも遅れるな」
 沓水はロンパリな目をやや普通に戻して受話器を置いた。
「……沓水って、すごく偉いんだね、びっくりしちゃった」
「馬鹿野郎、俺の天才と力を見抜けない手前ぇらが阿呆なんだよ」
 明らかに有頂天になっている沓水を無表情で詩音は見つめた。
「その三分の一でも本来の『影』に割けば悲劇も起こらないだろうにね」
「俺を怒らせるなよ? 詩音ちゃん」
「僕を怒らせない方が賢明だよ、沓水君」
 二人の間に険悪な空気が流れるのを感じた由子は、慌てて仲裁に入る。
「今回は私のわがままなんだから、喧嘩しないで。詩音だけじゃなくて照井や沓水の分もチケットをあげるから! 沓水は出席が手に入って留年しなくていいし!」
 沓水がまばらな口髭を逆立てる。
「弱みを握られているからやってやるって訳じゃねえんだよ、こりゃ俺の善意だぜ? クラスメイトとしてのよ」
「わかった! 私がこんなに美人で愛らしくていろんな男が夢中になって胸焦がれるのはしょうがないんだけど、私と付き合いたいとか思ってるのは百も承知だけど、だからって私のために争わないで!私はまだ誰にも何も許す気はないから安心して! 希望が全く無い訳じゃないんだから。それに食事ぐらいなら付き合ってもいいわ!」
 詩音は無表情のまま凍り付き、沓水は口をあんぐりと開いた。
「「……自意識過剰…」」
 ノートパソコンから電子的な音が鳴り響いた。沓水は手早くパッドを叩いて腕時計で確認した。
「9分47秒。まあ、許してやるか」
 由子と詩音が見守る中、沓水はパッドをスライドさせて文字を読む。そしてにやりと笑ってノートパソコンの画面を由子と詩音に向けた。そこには限りなく暗い、瓦斯灯の灯るビル街が表示されていた。由子は思わず息を飲む。
「その街の名は『フィヨルド』。騒動の元で『ユニオン』でも調査中だ」

碧のカード──高橋昭八の孤独

 高橋昭八ことショッパチは実は料理が上手い。少なくとも平均的な主婦よりは数段上だ。買い物のチョイスも弁当作りも無駄が無く正確で、煮物一つとってもジャガイモとニンジンをいっぺんに煮込んだりしない。全ての材料が相応しく均等に煮え上がるように細心の注意を払う。早起きなのも加えて、料理と家族全員の弁当は全て自分で作る。
 料理が苦手な代わりに自分より収入が上の妻のためでもある。休日には愛する娘に料理を教えている。教師である前に家庭人なのだとショッパチは思う。
 それがなぜこんな事にまきこまれたのか。
 基本的に自分は断れない人間なのだと改めて思い知る。ましてや恩人の死を賭した願いであるのなら断れるはずもない。
 使い込まれた古い机の上の、碧い箱と一冊の薄汚れたB5版の灰色の大学ノートを見つめる。
 私立黎明学園は珍しく、教師一人一人に「教授室」が与えられる。これは生徒との交流を深めると共に、教師自身の研鑽への配慮でもある。和室にして六畳ぐらいのささやかな物だが、学内の一つのビルの半分を占有するだけに、かなり贅沢なものだろう。
 この箱の元の持ち主は数学担当で、選択科目の哲学の教師も兼ねていて、カントを教えていた。随分と古くさいが、「証明問題」を解き明かすには最適の選択だった。
 彼は不治の病に冒され、入院したら帰らぬ人となるターミナルケアに入る前日、ショッパチにこの碧い箱とノートをショッパチに託した。
 勿論、正直言って迷惑だった。彼から聞いた奇妙な世界観の話も眉唾物だった。
 しかし、流石に年季の入った教師に相応しく、例え話にした説明は見事と言う他はなかった。現代国語という理系には疎い彼にも理解は容易だった。
 曰く、世界をチェスの盤面に置き換えたのだ。
 まず、暗闇にチェスの盤面を置く。これが世界の容器だと言った。そしてその中心に蝋燭を一つだけ灯す。これを「ソラリス」と呼ぶ。彼はショッパチがSFのファンであることを見抜いていたのだろう。スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』から引用したのは明らかだ。それとも元からそのような名前だったのか、今は知る術もない。
 とにかく、この「ソラリス」の回りにランダムにポーンを無数に並べる。それが「宇宙」だと理解しろと。そしてそのポーンの駒一つ一つが独立した「世界」なのだと。
 そこからが問題だ、と彼は禿頭の舌の分厚いレンズを輝かせて笑った。つまり、「ソラリス」に近い「世界」ほど明るく、その代わりに深い影を落とす。遠いほど暗く、影の輪郭も滲む。そして、「影は必ず交差して交わる」と言った。つまり、影は全て繋がっていると。そしてその影を「歩く」事の出来る人間が居ると。そして彼は厳かに言った。
「残念なことに、創立以来この黎明学園にも存在するのだ」
 そして、カードの何枚かを見せた。そこには聞くまでもなく、新しく担任に就任した自分のクラスの生徒としか思えない姿が精緻かつ象徴的に描かれていたのだ。
「このカードの使い方というか、『管理』の方法はこのノートに書いてある。出来ればそれを開くことがないように祈るがな」
 改めてその碧い箱を見下ろす。分厚いボール紙で作られたその箱は擦り切れていながらも美しかった。まるで秋の夜空のような透明な碧。意を決して蓋を開け、カードを手に取り、一枚づつめくって行く。殆どのカードにはカードの下部に描かれた帯に名前は書かれていなかったし、古ぼけていた。数枚のカードを除いて。
 手にした一枚のカードは、薄い碧眼のこの世の物とは思えない妖精のような装いの少女が描かれている。アルカイック・スマイルを浮かべたその背中には大きく拡げられた天使の羽根。水色の薔薇にアールデコ風の装飾に彩られている。下部の翻る帯には「堕天使」と大正時代に描かれたような独特の書体が刻まれていた。
「……白石由子、か。確かに見たとおりだ」
 次のカードは黒と銀の幾何学的な模様の中に、個性的な吊り目をヒステリックに引き攣らせ、目の焦点が合っていないような微妙な表情を持つ口髭の男。ピンストライプのスーツの片手に重々しい小槌を持つ。帯には「裁者」。
「このままでは留年するぞ…成績は抜群なのだが、ここは学校だ。沓水洋」そしてもう一枚。
 森と白い柵に囲まれた牧場を背に佇む大男。髭の濃い顔は優しい微笑みに満ちている。朽ちたような箒を携え、今にも掃除を始めそうだ。帯に刻まれた名は「村長」。牧歌的な背景に相応しい農夫の服装をしている。
「ひょっとしたら、お前は三代目なのかな? 照井達也」
 ショッパチは悲しそうにもう一枚を手にする。他のカードは背が全て透明で深い碧一色なのに、このカードだけは何故か白銀に輝いていた。
 無数の燃えさかる岩壁に突き立てられた刃が鈍色に描かれたカードに浮かぶのは、下目使いに不敵に笑う猛々しい筋肉男。乱れた髪の毛に長い無精髭が一層その獰猛さを露出させている。「暴君」の二文字までどことなく凶暴だ。ショッパチはふっと苦笑いをする。
「なぜ、このカードセットに混ざっていて、何故三ヶ月で退学したのか。その理由はこれかも知れない。出来るなら仲良くやって行きたかったのだがね」ショッパチはそのカードを静かに伏せる。
 もう一枚はただひとつだけ金の細工がなされた限りなく碧い背景に、美しい少女のような桜色の口唇を持つ少年。貴族のような衣装を纏い、左目は漆黒に輝き何故か右目は渦を巻く虹に彩られている。背中には獰猛な印象を与える蝙蝠に似た羽根。巻かれた帯に浮かんでいる文字は「吟遊詩人」。
「はっきり言って、お前は俺の手に余る。何者なんだ、天羽詩音よ」
 最後に選んだカードをちらりと見て、ショッパチはすぐに伏せた。
「知らなくても良い。むしろその方がいいだろう」
 机の上に並べられた六枚のカードを見つめ、長く重たい吐息が漏れる。そしてあの数学教師の言葉を思い出した。
「生徒の可能性を信じるのは教師の義務だよ」

音楽兵器の幻想──喧噪の酒場にて

「こんな所だけど、このチキンはクリスピーでジューシィ。ワインは最悪だけどね」
 まるで洞窟にいくつも松明を灯したようなその店は人々でごった返し、声は1メートル先の杉野まで届きそうになかった。「七月のムスターファ」議長の杉野二郎は、噛む度に油が迸る肉の腸詰めを噛み切り、それを強そうなジンで喉に流し込む。
「いいから、厨房のそばに座った髭面のデブ周辺の話を聞かせろ」
「何人もいるから、大筋の所しかわからないわ。とにかく、なんか深刻な話みたいだけど」
 自分で不味いと言っていたワインを一気に飲み干しながら眼赤視は大声で喚く。そうでもしないとこの海底火山のような空気を破れない。
「なんか、集まっているのは『ユニオン』とかいう『影』を超えて繋がっている機関の組織員で、トラブルを抱えているみたいね」
 杉野は首を回さずに目だけをそのテーブルに向ける。そこにいるかつての同級生とそれを囲む三人の一目で役人らしきグループ。
「とにかく『村長』が出張って来て居るんだ。当然『後片付け』だろうが、その騒動の内容が問題だな」
「いまんとこ、なんだか音楽の話と強力な小火器? いや、もっと強力な重機関銃? それと鍵盤と何の関係があるのかわからないけど。『皇姫』っていう危ない女が関係している」
「誘導しよう。傀儡を呼び出して一番寡黙な奴を乗っ取り『村長』の動機を聞き出すんだ。どうせ傀儡は眠らないんだろう?」
「……いつでも眠っている、とも表現できるのよ、それ」眼赤視が気分を害したように言う。
「かまわん。呼び出してお前の透視聴覚能力『ステルス』と奴の『人形遣い』を同期させろ」
 杉野はそう言うと腰に巻き付けたバッグから折りたたみ式の二組のヘッドセットを取り出し、ひとつを眼赤視に渡し、もう一つを自分で装着する。
 眼赤視は赤毛の間から除く目を細めて杉野を睨み付けながら、諦めたようにヘッドセットを装備した。そして目を閉じる。
「……速い。リンク完了」そして眼赤視と傀儡は目に見えない腕を交差させる。
「オート・ドライブするわ」そして俯いたまま、呟き始める。
「ところで、『村長』。なんでこの件がそんなに気になるんだ?/ああ、それはな、その事件にどうも俺のダチが複数絡んでいるみたいでな。/どういうダチだ?/まあ、同級生なんだがな。お前たちの方で言う『メンバーズ』みたいなものだ。/じゃあ心配だな。いや、心配になったのはお前達『ユニオン』情報部の話を聞いたからなんだけどな。そんな物騒な兵器で制圧された世界に関わるとなると、事だ。/『スタッカート』の原理はわからないが、構造は簡単だという所まではアレクサンドロス部長も掴んでいる。お前、記録だろ?いくら何でも文字を意味なくカテゴライズしているのかよ」
「オート・ドライブ切り替えだ。乗っ取ったやつが詳細を知っているくさい。寡黙な奴ほど口が固かったという話だな。手前のハゲに切り替えろ」
 眼赤視は瞳を開けて、厨房そばのテーブルを見て頷き、再び瞳を閉じる。
「馬鹿言うな。あれは『フィヨルド』の議会を掌中に納めた『皇姫』が別の『影』から持ち出して来た物がオリジナルだ。ただ『フィヨルド』で研究所も無しに女達に量産させているって事は、それほど精緻な物ではないという証拠だ。ただ、打鍵した部分に「何か」がある。それもまた『フィヨルド』の物質らしいんだが、どうもそれを見つけた場所で完成させ、短絡して使ったらしい。……とにかくそのサンプルを手に入れるために情報部は知っての通り大騒ぎだ。/女達が作る、なるほどな。どうりで男ばっかりの街だと思った。/おいおい、『村長』、お前『フィヨルド』に行った事があるのか?/当然現場は見てくるさ、俺の『箒』は雲か霧があればどの『影』にも行けるからな」
 杉野は思わずそっちに目を移す。照井の傍らの壁には今にも朽ち果てそうな「箒」が一本立てかけられてあった。眼赤視は半ば目を開けてトランス状態になっている。杉野は眼赤視の頬を叩いた。ぶるっと身震いをして眼赤視は大きな紅い瞳を見開く。
「いってえじゃねえか、なにすんだよ同士杉野」
「あの『村長』の脳みそから『フィヨルド』の風景をかっぱらえ」
「んな、無茶だよ。あの『村長』を乗っ取って傀儡に私の意識を押し込ませるんだよ? やった事ないし、リスクが高すぎる」
「やれといったら、やれ」
 杉野が目を細めて酷薄な口唇を引き攣らせて笑う。この男が今、非常に危険な状態にあることを眼赤視は悟る。
「失敗しても文句言うな。それに見えたことを映像に出来ないよ? 言葉で言ったことに意味はないよ、お伽噺と同じになっちゃう」
「心配するな。俺の拳を何だと思っている」
「………それって、私の頭に突っ込むって事、に、なるのよね……百万人に強姦されるようなものじゃない」
「下卑た比喩はやめろ。大丈夫、前に一回やった事がある」
「その『悪ふざけ』で学校を放り出されたんじゃないの?」
「ま、それも含めてだがな」杉野はにやりと投げやりに笑う。
「……この、悪党」そう言うと、眼赤視はぎゅっと拳に力を込めて顔をしかめて黙り込んだ。
 暗闇の中に穴が開いたように『村長』と呼ばれる男の横顔が見える。それがどんどん拡大されて行く。拡散する血と灰色の蜘蛛の巣の模様の中に眼赤視は押し込まれる。傀儡の指が何十本もそこで蠢いていた。そのある意味物理的な空間を眼赤視は「視る」。学校の校庭や緑に溢れた道、老人の優しそうな微笑みと苔むしたつくばいに鹿威し。学生の喧噪と赤い眼鏡の軽薄そうな男。古ぼけて汚れた廊下、奇妙な暗灰色の髪の毛は後でひとつに編み込まれている。十二星宮の下着と天使の微笑み。赤い提灯と酒が入った杯からは甘く苦い味が眼赤視の喉を焼く。いけない、それは必要ない。眼赤視は味や感触を切り離す。そして雲。大きな積乱雲と疾走する霧。石畳の道と男達ばかりの雑踏、そして瓦斯灯と人気のないビル街。
 ふう、と眼赤視は涙に溢れた瞳を半眼にする。頭から水を浴びたようにびっしょり濡れた身体にうんざりする。
「見つけた、わ。多分ね……」
「よし、切り離してオート・ドライブを再開しろ。ターゲットはハゲでいい」
「……同士杉野、あんたは鬼か」眼赤視の声は擦れて、憔悴しきった表情は虚ろだ。右手の爪が割れて血が滴っている。
「他に誰が出来るって言うんだ。急げ」
 眼赤視は再び瞳を閉じる。オート・ドライブ。
「で、そのダチってのはなんて言うんだ。/ああ、由子って別嬪でな。女の子は守らなくちゃならないだろ、男として。/サンプル採取のための予定は見えているんだけどな。/いつ。どこでだよ。/『フィヨルド』という『影』にあるビル街の地下らしい。『皇姫』は異常に騒がしい音楽を嫌う。そりゃあ病的に嫌いなんだよ。そのくせ電気を使わない騒音は大好きだ。「バルトーク」とか「ホルスト」とか言う、ま、俺にしてみればどっちも騒音なんだけど、どうも電気を使う物は全部御法度らしい。ところが『フィヨルド』って街は電気を使った音楽が元々盛んなところでなあ。場所は『ツバキ・ファミリア』という名前までは解ったんだけど、何処にあるのか全く不明だ。/ああ、そこで今晩シークレットライブがあるらしいんだ。『ユニオン』は機能するパイプが『フィヨルド』には無いから間に合いそうにない。/そこだな、由子の行き先は。いや、由子がその電気を使った音楽をやる、ある男を探しに行くんだ。きっと由子は必ず『ツバキ・ファミリア』とやらに現れる。そうなるとその『スタッカート』を抱えてやってくる兵隊さんも来るだろう。ああ、知らせるよ。その葉っぱはとりわけ便利なんだ」
「充分だ。リンクを切って傀儡を眠らせろ」
「私の方がぶっ倒れそうなんだけど」
「お前の『ステルス』と傀儡の『人形遣い』無しに修羅場に行けるかよ。立て」
 眼赤視は青ざめた顔で震えながら立ち上がるが、たちまち貧血を起こして倒れた。その前に杉野が逞しい腕一本で眼赤視を担ぎ上げる。
「どうしたんだい、連れの具合でも悪いのか?」
 声をかけたウエイターに振り向き、杉野は無愛想に告げる。
「手前ぇのとこの悪い酒の飲み過ぎだ。豚じゃなくて人が飲める酒を用意するんだな」
 杉野は眼赤視を担いだまま、雑多な人混みをかき分ける。
「気を失っている間に『イメージ』を頂くぜ。運が良かったじゃないか、眼赤視」

夜のフィヨルド──夜の彷徨と由子の幸運の鍵

 「ロイス・ベル」は緩やかな坂道から、細かい振動が伝わる石畳へと滲むように走る。
 そこは夜の閑散としたビル街で、所々に哀愁を帯びるガス灯が灯っている。ヘクトルは道路の起伏の変化にタイヤが足を取られるのを繊細な三角定規の指で細かく調整しながら制御した。空は曇っているのか、星一つ見えない。
「ユニオンの推測が間違っていなければこのあたりなんだが。とにかく「ロイス・ベル」はこの街では目立ちすぎるな。ヘクトル、そこの横道の影に潜り込んで止めてくれ」沓水が頬杖を突いたままヘクトルに指示する。
 「ロイス・ベル」には狭すぎる角を、また『影』を歪めて右折する。そして右側ののっぺりとした壁に停車した。
「ヘクトルはここで待機してくれ。由子、「感じ」はどうだい?」
「間違いないわ。何よりも街が持っている『空気』ってあるじゃない。間違いなく一致する」
「じゃ、面倒だが夜の散歩と洒落込むか。行くぞ」
 沓水、由子、そして詩音が石畳の道に立つ。気温はやや肌寒いが風はない。向かいの貧相なビルを見上げた沓水が興味深げに呟く。
「古書店だな。「Rain's Books」と言うからには間違いない。開店している時に一度寄りたいものだ」
「ええええ、沓水、ここの文字が読めるの?」
 沓水はへっと笑い、由子を見下すように言う。
「あのな、俺はなにもメシュメントばかりで仕事している訳じゃないし、必要な言語は喋れるし、読める。俺が全世界最高の博覧強記の天才であることを忘れて貰いたくないな」
「沓水様、「ロイス・ベル」は広いと言っても限界がございます。いつぞやのように満杯になるまで買い込まないでくださいね。また新しい書庫を借りなくてはなりません」
「うるせえな、弁護士にとって「資料」は必要経費だ。メシュメントにいくら税金を納めているかはお前が一番良く知っているだろうに」沓水は車のドアを叩きつけるように閉める。
「とりあえず、そこの大通りを歩いてみるか」
 一行は石畳を踏みしめながら歩き始めた。何処もここも陰鬱で暗い。いくつかの横道や路地を覗きながら進む。いくら歩いても風景が変わらない。それほどランドマークになる物がない無表情な街なのだ。
「質の悪い『影』だな、こりゃ。きりがないぞ。由子、なんかないのか? 憶えてねえか?」
 由子は髪の毛を弄びながら眉をしかめる。
「解らないわよ。ここだって言われればここだと思うし、違うって言われたらその通りだと思うし。何しろ目立つ物が何もない所だったから」
 その時、ひとつの瓦斯灯の下に大柄な影が通り過ぎるのを詩音が見つけた。
「…聞いてみるだけでも、収穫になるんじゃない?」
「そうだな、ここでは人がランドマークになる。他に手はない」
 歩く影を先回りするようにして一行は立ちはだかった。それは作業着のような服を着た巨漢の男だ。髭面で、いかにも粗野な感じが伝わってくる。
「あ!」由子が思わず叫ぶ。男も目を見開いて由子を見つめた。
「よう、お嬢ちゃん。無事だったんだな。で、やっぱりあれかい? ツバキ・ファミリアがお目当てかい? それならちょうどいいんだがな……今回は忙しくてノルマが果たせなかった所だ。三人分だと2400ガデスになるけどな」サクラ・ファミリアのライブの警備にあたっていた「ガリー」と呼ばれる男だった。
「……これもまた『幸運の鍵』の発動かね」
「値上がりしてるじゃない」由子がふくれっ面をする。
「しょうがねえよ。この間みたいになっちまったら元も子もねえ。その分警備もさらに厳重になるし、管財人も同じ轍を踏みたくねえしな。どうすんだい?」
「詩音、お願いね」由子が詩音に振り返る。
 詩音はやれやれという風に両手を拡げると後を向く。そのまま少しじっとして、振り返ったときには右手が膨らんでいた。開いたその手には銀貨が二枚と銅貨が四枚。
 ガリーは微笑みを浮かべて、胸のポケットから三枚の茶色のチケットを出して詩音の手に握らせる。
「じゃあ、案内しようか」
 そう言うとガリーは「ロイス・ベル」が止まっていた方角に歩き始め、三人は慌てて男を追いかけた。
「だって、瓦斯灯も看板も見えなかったよ?」由子が怪訝な顔をする。
「倉庫に看板が必要かよ。そもそもサクラ・ファミリアの時はそれも失敗の一つだったんだ。この街で明かりを煌々と照らしているなんて、花火打ち上げて遊んでいるお祭りみたいな物だからな」
 そう言ってひとつの路地裏に踏みこんで行く。そして、壁としか思えなかった所をノックして声を落として言った。
「ブタっ腹のかあちゃん」と、くぐもった声が中から聞こえる。
「カモメの肥だめ」
 木が軋む音を立てて扉が開いた。僅かな電球の明かりが覗く。
「おう、ガリー。ノルマ達成だな」「おうよ」
 ガリーは三人に手招きして言った。
「ま、愉しんでくれ。お嬢ちゃんは様子を知っているよな」ガリーが手を振ると扉は閉ざされ、再び静寂に街が支配される。ガリーはそのまま元来た道を歩き始めた。今夜はどこかの店で一杯飲んで寝ようかどうしようかと考えを巡らせる。
 路地の出口で、ガリーは暗闇から出てきた強靱な腕に首にスリーパー・ホールドを極められた。力自慢のガリーが身動き一つ出来ない強力な拘束だ。
「夜の一人歩きは危ないよ、坊主」
 左腕は首に巻き付き気管を締め付けられ、交差した腕の先には光る物がガス灯の光を受けて反射する。頸動脈を走る血液の減少で意識が飛びそうになった。
「……手前ぇ、何のつもりだ…金か?」ガリーはその毛むくじゃらの手を絡みついた腕にかけて引き剥がそうとするが、まるで鋼鉄のようにビクともしない。それよりも、戦争に使うような長大なナイフが構わず喉に食い込んで行く。ガリーの右足に何者かの足が絡みつき、捻り込んでくる。骨が砕けそうな苦痛がガリーの全身を走り抜けた。思わず片足を折り、地面に叩きつけられた。
「別に手前ぇにとって悪い話じゃねえのさ…ただ、ちょっとしたパーティーの場所に案内してくれるだけでいい」
 数々の修羅場をくぐってきたガリーは、自分が本当の危機に晒されていることに気付く。
「…わかった、わかったから腕をほどいてくれ。ついでにその物騒な物も納めてくれ」
 腕が解かれ、間髪を入れずにガリーの横腹に重い蹴りが入る。ガリーはしばらくの間、呼吸が止まる。内臓が腫れ上がるような一撃だった。
 もう一度の衝撃が走る気配を感じ取ったガリーは、脂汗を流して立ち上がる。
「……う、くうううう…こ、こっちだ」
 ガリーは背中に鋭い切っ先を感じて震えながら先に立ってふらふらと歩く。
「ところで、何人か見かけない客が来なかったか? 教えてくれるとありがたいのだがなあ」
 今度は背中の方から正確に膵臓を狙った突きが入った。ガリーはまたもや呼吸を失ったが、なんとか意識を保つ。
「ああ、前に来たお嬢ちゃんと、スーツを着た男と、風来坊のような見かけのお坊ちゃんだった。いや、お嬢ちゃんかな? 男にしては綺麗すぎる」
「そりゃ嬉しい情報だ。で、どこなんだ?」
「その左側の壁に扉がある…壁にしか見えねえけど」
 回し蹴りが今度はガリーの腹に食い込む。
「ありがとうよ、いい子は早くお家に帰りな」
 ガリーは前屈みになりつつ、路地を這うようにして大通りに千鳥足で歩いて行った。
「……今日は厄日だったみてえだな…」
 振り返ると、闇の中に戦車のような男のシルエットと、華奢な女性のシルエットが蜻蛉のように浮かんで見えた。

三浦涼子の憤慨──「スタッカート」とフィヨルド議会

 しんと静まり返った二十畳はある和室で、机を挟んで白髪を後に纏め、白い髭を垂らした老人と清楚な佇まいの長く切りそろえられた美しい黒髪の少女が無言で向き合っていた。
 黒髪の下の端正な顔の口唇が開いて、透き通っているが、どこか責めるような声を上げた。
「…それでは、人事に問題があるのですか。それとも組織の運営に差し障りがあるのですか。あるいは野党や省庁の横やりでもあるのですか。マスコミは押さえてあるのでしょう」
 老人は茶碗に入った匂い立つコニャックをグビリと飲み込むと腕を組んだ。
「人事は全て更迭した。ついでに口を封じるために『眠って』もらったがな。それでも厳選した委員も議長も新しくしたというのに、何かというと混乱しておる。はっきり言って訳がわからん」
「洗脳された害虫が紛れ込んでいるのではありませんか?」
「薫にプロファイル・テストを受けさせた者ばかりじゃ。CTやMRIも『健康審査』という名目で受けさせたので機械の混在も考えられない。万に一つも手抜かりはないはず。順当に行けば三日もあれば法案は纏まり、国会に提出される。そっちの方は勿論万全を期しているが、法案の骨子が定まらない限り前に進まん」
「……意味が解りかねます」
「わしが一番意味が解らん。ボトルに入った酒がグラスに入らないようなものだ。ボトルの口に何かが詰まって居る訳でもない。不可解という他はない。ただ、レコーダーを薫に解析させたのじゃが、委員の言動が突然偏向する事は解っている。…薫が言うにはマインドコントロールの線が一番可能性があるという。薬物では、ないな」
 静謐な部屋に重苦しい空気が漂う。庭の鹿威しが遠く鳴り響いた。
「会議室に『虫』が隠されているのではないのですか。あるパターンの低周波発生装置やサブリミナル効果のある可聴域外の音声であるとか」
「もちろん『虫取り』は捻子の一本に至るまで調べてある。念のためビル周辺の建物までな。ただ、以前不審な人影が向かいのビルに認められたという報告は、ある。しかし蟻の這い出る隙間もないSSで固められ、包囲しておったのじゃが、該当するビルの何処を探しても見つけられなかったそうじゃ。無論空に逃げたとも考えられるので、空中探査も行った。何でも赤い髪と眼を持った女を確認したそうじゃが、まさかベニコンゴウインコがそうそう飛んでいる事は考えにくいしの」
「原因はまるで闇の中ですわね」
 三浦涼子は顎に手を添え、考え込む。外の熱気とはうらはらに部屋は涼しかった。
「……これは言いにくいのじゃが」
 三浦邪気は眉を曇らせて、恥ずかしそうに呟いた。
「儂の趣味のオカルトの方向でな、そこでは世には見えないあまたの世界があるという。仲間の話ではノルウェーかニュージーランドか、そこいらで真っ赤な髪と眼を持った女の話があった。まさかそんな所で何か、という訳ではないのじゃが」
「ノルウェー? ニュージーランド? それがどうかしたんですか」
「それはつまり、『幻視』する者が『フィヨルド』に女を見た、という馬鹿げた話でな。たまたまその女の風体がSSの目撃した女と符合するのじゃ。ま、世界で『フィヨルド』という氷河の副産物みたいな物はノルウェーかニュージーランド以外に考えられないしな」
 一瞬で涼子の顔色が変わる。氷が灼熱の炎になったかのような激変。
「お爺さま、わたくし、急用を思い出しましたので、失礼致します」
 普段の礼儀をかなぐり捨てたような涼子の立ち振る舞いに驚きながら、老人は白い清楚な絹のブラウスと紺のスカートを纏った孫の姿を見送った。

 これは暗号でも偶然でもない。私のことを嗅ぎ回っている下賤な輩の臭いだ。薄汚れた豚共が何かけしからん事を私の知らない所でやっている。急がなくては!
 涼子は人気のない庭を早足で歩きながら、両手の指先を瞬かせた。ピアノを弾くように。曲は「パッフェルベンのカノン」。軽快な明るい曲だが、タッチは荒々しい。竹林が収束したように幾本もの岩の塊になり、万里の城壁に変化する。晴れ渡った空は捻れた雲に覆い隠され、砂漠と荒野になり、太陽が恐ろしい速度で沈む。ピラミッドのような階段が豪奢な回廊になり、不可思議で醜悪な装飾に飾り立てられる。
 階段を上りきると円形の広間になり、取り囲むように六枚の扉がある。
 その一つを乱暴に押し開くと、幾何学的なシャンデリアの下に驚愕を露わにした12人の男達が円卓の前に座っていた。
「……これは。『皇姫』様。突然どのような」法衣を着た痩せた老人が立ち上がる。
「ちょうど良かったわ。ナイスタイミングね。定例議会なの?」
 痩せた老人の隣に座った太った裕福そうな商人風の男が口を歪めて立ち上がった。
「こちらも『皇姫』様に進言する相談を終えた所です」男は改めて背筋を伸ばした。
「それよりも、お席に着きませんか?」12人の中で一番若い端正な口髭の男が言った。円卓の一番奥に、背の高い明らかに他と異なる「玉座」とも呼ぶべき装飾が施された椅子が空いている。涼子は颯爽と歩き、玉座に座る。
「ただいま、『スタッカート』製造に関わる女達と共に、隔離され雑事をこなしている女達を解放して頂きたく、議事を進行し、全員一致でこれを認証して頂きたく決議致したものです。是非とも許諾願えませんでしょうか」
 涼子はふんと鼻で笑う。
「あなたの弟はなんて言うでしょうね。ニキ・スチュアート。もっとも縁はとっくに切られていますけどね、あれは私の「世界」に所属する私の側近の一人です。すなわち、この街の疫病から人々を救ったのは私という事です。そしてまた、この世界に侵入してきた悪しき者どもを追い払ったのも私の『スタッカート』です。異存はなくて?」
「無論、異存はありません、皇姫陛下。しかしながら疫病も侵略者もこの世から消え去り、時代は変わりました。もはや男女の交わりが厄災をもたらすこともなく、国境の警備もこの一年、ただの一度も問題はございません。この街は平和に戻り、安定しているのです」
「このままでは子供が出来ず、新しくこの世を統べる者が育ちません。厄災以前に国が滅びてしまいます」法衣を纏った老人が震える声で呟く。
 黙って聞いていた涼子が薄目を開けて12人の議会を見渡す。
「それについてはもう決めているのです。男女ともに知恵と体技を競い、優れたる者少数を選び、その者達に未来を託そうと。一時は人口も少なくなるでしょう。しかしやがて国はよりよい物となり、栄えることを約束します。これは勅命です」
 12人の議員達はざわめき、口々に賛否を口論する。
「それより、裁ち鋏を持ってきなさい。出来るだけ良く切れる物を」
 円卓の議員が一斉に沈黙する。
「聞こえなかったのですか?裁ち鋏を私に渡し、この間の馬鹿げた音楽をやらかした者で一番新しく検挙した一名を選んで私の私室に連れてきなさい。すぐにですよ? 良いですね」
「かしこまりました、皇姫様。しかし、先ほどの勅命については議会の審議にかけたいと希望しますが」ニキ・スチュアートと呼ばれた若い男が言った。
「服従を前提とした言葉。それを『勅命』と言うのです」
 涼子は立ち上がると、円卓の議会の部屋を出て行った。
 そのまま、ホールの左から二番目の扉を開く。そこには華やかな中にも落ち着いた気品が感じられる調度が揃っていた。
 涼子はその中の居心地の良い椅子に座り、頬杖を突く。
 やがて女性の家臣がやって来て、暖めた紅茶のポットとティーセット、そして新品の裁ち鋏を乗せたトレイを持って、うやうやしくテーブルに置いた。
 紅茶を味わいながら少し待つと、扉が開き、衛兵に挟まれる格好で、薄汚い作業服を着た男が引きずられるように涼子の前に連れてこられる。両手は後ろ手に枷を嵌められ、両足は鎖で一つに繋がれていた。
「ご苦労様、あなたたちは退いて。用があったらお呼びするわ」
 涼子はカーネーションのように華やかで清楚な微笑みを浮かべて二人の衛兵に言い渡した。
 二人の衛兵は敬礼をしてから胸に斜めの十字を切り、部屋から出て行く。
 静寂が皇姫である涼子の私室を満たす。
「ごきげんよう。貴方は音楽をやる人? それとも聴くだけの人? それとも両方かしら」
 男は涼子の神々しい美しさに見とれ、震えた言葉を漏らす。
「……聴く人っていうか、勿論聴くけど、主にその、警備に当たっていて…」
「そう。それは好都合だわ」
 涼子の回りの温度が10度ほど下がる。そして深い漆黒の瞳が、みるみる濁りきった鉛色に変化した。右手が裁ち鋏を掴む。
「あなたたち、諦めないわよねえ。諦めずに続けるんでしょ? あの不快な毒音波を撒き散らすんでしょ? 次は何処でするのかな〜、教えてくれない?」
「あ、あ、あれはビリー・シアーズが決めるもので、俺たちには解かんないっすよ」
「でも、出来る場所はある程度知っているわね? 何処でやる可能性が大きいか、ぐらいは解るわよね」
「ま、まるっきり解んないっす! 俺ら下っ端だから」
 涼子は裁ち鋏を持ち、立ち上がり、男に近寄る。そして鉛色の瞳を輝かせて、鋏を男の左耳に添えた。
「…ちょきん」
 男の耳の4分の1が断ち切られる。男は悲鳴を上げた。迸る血が床を汚す。
「あらあら、あの毒音波と変わらない声を出すのね。消音しなくっちゃ」
 涼子はティーポットに乗せてあったカバーを取り、男の口に無理矢理ねじ込む。そして今度は左の耳の同じ場所を切り取る。男の絶叫はくぐもって母音しか聞こえない。うめき声と鳴き声がないまぜになった所で、カバーを引っこ抜く。
「どう、思い出したかしら? 私は現代彫刻には疎くて、上手く作れないのよ」
「ししししし知らねえものは喋れないようっ、かかかかんべんしてくれえうっ」
 再びカバーが口に突っ込まれる。
「…ちょきんちょきん」
 男の残った両耳が残らず切り落とされた。男は白目を剥き、口から泡を吹く。涼子は黙ってティーポットを握ると、男の頭から熱湯を浴びせた。そしてまたカバーを引き抜く。
「思い出したかな〜?」
「……き…た……多分、サクラ…ファミリアの……姉妹店…た、すけて」
「ほ〜う。やれば出来るじゃない。でも、私の芸術のインスピレーションが湧いちゃって、もう大変なの。最後まで作らないとね〜」そう言うと、涼子は非情にも奥深く念入りにカバーを男の喉の奥にまで突っ込んだ。
 鼻の先を切断し、鼻の穴に沿って両側を揃えるように切り開いて行く。睫を引っ張って、右左交互に瞼を切り取って行く。下唇を引っ張り、右から左へと切断した。
 男の顔は殆ど血の塊になり、床には血と涙、涎と鼻汁が飛び散り、惨憺たる光景を呈する。
「う〜ん。どうかしら? ま、失敗作ね」
 涼子はそう言い捨てると喉に詰め込んだティーポットのカバーを引きずり出し、丁寧に男の顔全体を覆うように被せる。
「サインをしなくちゃね」
 止めのように男の顎を強烈な勢いで蹴り上げる。男はティーポットのカバーを被ったまま昏倒した。
 涼子は汚れた両手をテーブルクロスで神経質に拭き取って、居住まいを正して大きく手を叩いた。すぐに扉が開き、衛兵が入ってくるが、その惨状に凍り付く。
「ごめんなさいね、そのゴミ、燃えるゴミの日に捨てておいて下さい。それから、『スタッカートの部屋』に精鋭部隊「ピチカート」を集めて。大至急お願いね」
 そう言い捨てると、また華のような笑顔で衛兵に微笑み、「スタッカートの部屋」に向かって歩き始めた。

フィヨルドの夜の祭り──逃走と戦闘とその清掃

 ツバキ・ファミリアは倉庫用に不要なテーブルや椅子は全て撤去されていた。それでもステージの部分はしっかりした木材が組まれて一段高くなっており、由子から見るとかなり時代遅れの機材が並んでいる。PAもお粗末で「ボーカル・アンプ」と呼んだ方が適切だ。
 サクラ・ファミリアと違って、ツバキ・ファミリアは一階にあった。サクラ・ファミリアがまだ店舗としての体裁が保たれていたのは、エレベーターもない地下では使い道が限られているため、買い手が付かなかったのだろう。
 客はほぼ満員で、サクラ・ファミリアの時と集まっている客層は変わらない。殆どの客はリノリウムの床に腰を下ろしている。例によって、各種の酒が揃えられていた。ワン・ドリンクサービスは同じシステムのようで、沓水はいの一番にウォッカともジンとも解らない透明な強い酒を飲み始めている。
「飲み過ぎちゃ駄目だよ、沓水。あんた素面でも絡み酒喰らっているようなもんなんだから、どう考えても酒癖悪そうだし」
 由子が注意を促すが、沓水はコップ一杯の酒を殆ど一気に飲み干した。
「お、あれ? もう一杯だ。詩音! 金寄こせ」
「やだね。まだ始まっても居ないのに酔っ払われても迷惑だし」
「俺、『鉄の肝臓』って呼ばれてるんだよ? 普通の人のビール一本が俺にとってはラム酒ボトル一本なの。俺の場合。一杯で足りる訳がねえじゃねえか」
「沓水、酒は自分の金で買う物だよ」
「買えるんなら買うよ! ここの通貨を持ってないからお前ぇに頼んでんじゃねえか、察しろよ。さっさとその『右手』を出せ!」
「沓水法律事務所の一ヶ月分の家賃と一杯分が等価っていうのなら」
「暴利だろ! どう考えても!」
「やめてよ、始まりそうだわ」由子の目つきが鋭くなる。
 出来るのなら、レインの出番の前に捕まえたかったのだが、何処を探しても「楽屋」が見つからなかった。他の階か、別の建物なのかも知れない。
 会場が次第に静まりかえり、観客の瞳が期待に光を帯びて来る。
 そして、右手からタキシードとシルクハットを被った男が出てきた途端、爆発的な拍手がわき起こる。「ビリー!」「ビリー・シアーズ!」「ハイホー! ビリー!」観客の嬌声が響き渡る。当の本人が両手を挙げ、静かに下ろすのに合わせて、ツバキ・ファミリアは徐々に静まり返る。ビリー・シアーズは、シルクハットを深く被り、眼は影になって見えない。
「ようこそビリー・シアーズ・ショーへ。諸君、サクラ・ファミリアは大変な事になったが、それでも君達は懲りないようだ。それはつまり、このフィヨルド最悪の冗談という事なのだが、まあ、それも含めてのビリー・シアーズ・ショーだ。保証はしないからそのつもりで」
 観客が大きくどよめく。飛び上がって拳を振り回す者、絶叫する大男。全てがスタンディング・オベーションで割れんばかりの拍手をする。再びビリー・シアーズが手を上げ、観客を鎮める。まるで指揮者のようだな、と詩音は思う。
「それでは始めよう。毎度のことで恐縮だが、この街にはもうあまりロックバンドが生き残っていないのでね。改めて紹介させて貰おう。グレート・フール・レイルウェイ!」
 いきなりの大爆音。セミ・ソリッドのギターをかき鳴らし、圧倒的な声量で観客を吹き飛ばし、ベースは心臓の鼓動のように正確だ。
「まあ、前にも聴いたけど、典型的なアメリカン・ハードロックね」
「勢いがあっていいと思うけど」
「ぎゃはははは! 騒げ騒げぶっ壊せ!」
 ぶっ壊れているのは沓水本人だと詩音は心の底から思う。
 早くもダイブを始める奴が居る。この街ではよほどロックに飢えているのだろう。熱狂と興奮、そしてスリルと暴力。「グレート・フール・レイルウェイ」の演奏はまさにその象徴だと言えるかも知れない。半裸のシェイプアップした身体をうねらせ、真鍮色の長髪と髭を振り回している姿は人間の本能を揺り動かす。由子だけはあくびを堪えているが。
 「グレート・フール・レイルウェイ」はその後、数曲演奏し、もの凄く引っ張ったエンディングと同時にステージの照明が落ちた。会場が揺れるような拍手と歓声がツバキ・ファミリアを満たす。この間に沓水が支払ったのは法律事務所の家賃半年分だった。詩音が右手で銅貨を作るたびに、マントのポケットから出したノートにサインをさせる。
「……後で『忘れた』なんて言い出すからな。念のため拇印ももお願いしておくよ」詩音は朱肉を出して沓水に差し出す。ご機嫌になった沓水は迷いもせず盲印をノートに押しつけた。
「がはははは、今日は最高の夜だぜいっ! もっともっとぶっ飛ばせ!」
「……沓水がロックが好きだったなんて意外」
「違うな。酒が好きなだけだよ。それにお祭りとお仲間が居るからね」
 由子が回りを見回すと、かなりの人数が沓水と同じように杯を重ねている。
「…そんな客はお断りね、私的には」
「ま、由子のやっているプログレッシブ・ロックは酒よりはアシッドとかグラスだね」
「ば、馬鹿にしないでよ! 私たちのロックは音だけで酔えるんだから!」
「そりゃ安上がりで結構」
「ちょっと待って、それどころじゃないみたい。詩音、沓水、前に詰めるわよ」
「詰めるってたって、すでに人間のバームクーヘンになっているんだけど」
「もう! 裏技よ。PAの線を辿って潜り込むのよ。シールドは箱で守られているわ。トンネルをくぐる要領で行くわよ!」
「やれやれ、この酔っ払いを引きずるのは僕の役目と言うわけかい」
 詩音は先導する由子の後に付いて観客の僅かな隙間であるPAラインをくぐる。幸運なことに沓水は特に抵抗もせず千鳥足で付いてきた。
 まるで海中から浮上するようにぽっかりとステージ前に三人の頭が浮かぶ。ステージの暗がりでは明らかに三人の気配を感じた。音一つ立てないスマートなセッティングだ。ステージの右袖にスポットが当たり、ビリー・シアーズが浮かび上がる。
「さて、お待ちかね。我がフィヨルドでぶっちぎりのテクニックを誇る三人を紹介しよう。って、解っているよね。『モスキート』だ。カモン!」
 叩きつけるようなガッツのあるノンエフェクター・ギターのファットサウンドに、重低音と突き抜けるスネアドラムが天空まで届くように響き渡る。そして、大潮のうねりもかくやと思われるブーストしまくったベースが波のボトムから砕ける波頭まで、心をかき乱すように美しい輝きを持ってツバキ・ファミリアを振動させる。まるで世界をまるごと露出させたようなサウンド。由子の瞳が蕩けるようにぼやけ、祈るように両手を組み合わせる。
 確かに、ロックは門外漢の詩音でも、音の「凄み」が理解出来た。
「あのベースの男──黒いベストを着て灰色の長髪の奴──あいつを拉致っちゃうわけ?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ! スカウトするのよスカウト!」
「本人の確認無しにだろ? それってただの誘拐じゃないか」

 ピアノの打鍵音。
 それも飛びきり強大なやつだ。ツバキ・ファミリアの入り口付近の男達が吹き飛ばされる。音源部の電源がカットされ、ステージにドラムだけが響き、それも止まる。残っているのはシンバルの残響音だけだ。
「逃げ足早いからね! 行くわよ! 詩音、沓水!」
 言葉だけ飛ばすと、素早くステージを降りるベーシスト「レイン」を由子がステージに駆け上り、文字通りアンプの上を羽ばたくように跳躍してレインを追う。詩音はステージの上まで辿り着いたものの、いかんせん沓水が足枷になってしまった。
「沓水、やるときはやるのが約束だよ」
「何? 走りながら酒飲むのは中学校で卒業したからな、俺」
 詩音は一瞬考え込み、頭に閃いた言葉をそのまま口にした。
「沓水、早くしないとカミュのナポレオン飲み放題に間に合わなくなるよ」
 沓水は吊り目をくわっと開き、突然人が変わったかのように瞬速でアンプを飛び越え、由子の走った先に向かう。半端じゃない速度だ。詩音も必死にそれを追う。
「酒に意地汚いのは知っていたが…なんともはや…」
 ステージの袖は荷物で埋まっていた。なるほど、由子が楽屋探しを諦めたわけだ。しかし、その荷物の影に、僅かなピンストライプのスーツの裾が見えた。なるほど、そこか……詩音もその隙間をすり抜けると、外気の臭いが漂ってきた。急いでその「出入り口とは違う」扉を押し開けると、そこは夜の路上だった。
 しがみついた由子をどうしたものかと躊躇している灰色の髪の男、レイン。その手前でせわしなく周囲を見回している沓水。しかも左の出入り口外側に待機していた群青色に銀線が並んだ制服を身につけた兵士が二人駆け寄ってくる。
 詩音はその向かって左側の男に全速で向かっていった。相手は詩音に気付き、48鍵盤の奇妙なキーボードを構える。その瞬間、詩音が消える。兵士は立ち止まり、戸惑った瞬間、その背中に詩音の全身の体重を乗せた肘が突き刺さった。『影』を歩くことに精通した詩音にのみ可能な『影』への浸透と復帰。頭に思い描いた単純なイメージだけで、瞬間的に『影』を歩くやり方だ。
 兵士を倒した後、振り返れば沓水がまばらな口髭を逆立たせて唾を飛ばしている。
「ああん? 俺は旅行者だぞなあに他世界からの無許可侵入とはどういう法的拘束力があるか知らないがこれでも弁護士だ法廷に出るのなら俺の庭だ兄弟に会いに来たのに何が悪いお前らの所の統括議会議員の弟だぞニキ・スチュアート知らないなら教えてやろうかあ? 顔は違うさ腹違いだからなスチュアートの家の恥だから表立って動けないんだよなんなら兄貴に頼むかニキの兄ちゃんが貶められるのがそんなに嬉しいか棺桶に足突っ込んだ老人に未来を託したいならそうしやがれそうじゃなきゃお前んとこのアタマの皇姫とナシつけてもいいぞ手前ぇの将来をずたずたにしてやるから顔を洗って出直してこい!由子、詩音、レイン行こうニキ・スチュアート様の晩餐を共に愉しもうじゃないかあ」
 完全に混乱した兵士は48鍵盤の武器をだらりと下げて途方に暮れている。聞いていた詩音はいつものポーカーフェイスでさりげなく沓水と行動を共にして、Rain's Booksのある路地を曲がる。
「よっしゃあ! 逃げるぞ『ロイス・ベル』へ走れ!」沓水が叫び、由子と二人で挟み込むようにレインを抱えて「ロイス・ベル」へ走り、詩音はそれを追う。念のため後を振り返ると、兵士が一人路地の角に立ち止まり、48鍵盤を構えている。だが、詩音の桜色の口唇は既に言葉を発した後だった。

  天空の雲は大地に処女の口づけをする
  儚く脆い夢よ我が望みをひととき許せ
  諸手に抱くその幻の愛のために

 まるで月明かりが落下したように兵士と「ロイス・ベル」との間に真っ白な雲が現れる。雲に音が飲み込まれ、僅かなくぐもった音が響く。詩音は三人に続いて「ロイス・ベル」に飛び込み、ドアが閉まる前にヘクトルが神がかった操作を一瞬で終え「ロイス・ベル」のエンジンが咆哮してたちまち異なる『影』への転移を始めた。
「……三行詩で防げたか。結構危なかったね」
「お二人ともご苦労さん。見事な連係プレーだったわ」
「好きでやった訳じゃねえ、畜生、酔いがすっかり醒めたぜ」
 沓水は冷蔵庫から凍ったグラスとズブロッカを出すと、なみなみと注ぎ、喉の奥に放り込んだ。そしてレインに気付き、グラスをもう一つ出して、レインの前のテーブルに置き、グラスいっぱいにまで満たした。
「遠慮はいらねえぜ?」
 アイソトープ・レインは口を半開きにして茫然としていたが、語るべき言葉は喉を通ることはなく、諦めてグラスに口を着けた。

 白い絹の艶やかなブラウスはその漆黒の髪によく似合った。肩のストラップから下げられた48鍵盤の兵器「スタッカート」は白銀のカスタム。紺のプリーツスカートは一見地味だが、その際だったスタイルを強調する結果になっていっそ艶めかしい。リーガルの靴が両側の壁に反響し、前方の大捕物とはまるで無関係かのようだ。普段は決して身につけることのない白銀のティアラが喧噪の伴う光を反射した。
 そして、その前に仁王立ちする堂々たる影を見つめて足を止める。
 周囲に反射する照り返しの中に浮かび上がるその日焼けした肌、チェ・ゲバラがプリントされたTシャツとリーバイスのジーンズと履きこなれた登山靴の他は一切の丸腰だ。
 共通する直感に二人は対峙する。先に口を開いたのは男の方だった。
「その玩具を頂こうか。ついでに打鍵する部分に付いた材料の出所を教えて貰おうか、黎明学園自治会長の三浦涼子殿」
 女の眼が漆黒の輝く眼から邪悪な鉛色になるまでほとんど時間はいらなかった。
「ほう、私を知っているとは見上げたものだな」
「あそこで遊んでいる坊や達から頂くのは簡単なんだがね。それじゃ弱い者虐めみたいでね。まあ、突っかかってきたのは5、6人居たからそっちは始末したがね。残念なことにその玩具のピアノも殴り壊しちまった。大将から獲るのが筋ってもんだろう」
 涼子は僅かに首を傾げた。
「この世から消えてなくなる前に貴方の名前を聞いて置いた方がよさそうね」
「ふむ。貴様の首がもげる前にそうしておこうか。俺は『七月のムスターファ』議長の杉野二郎だ。黎明学園にも居たんだが、水が合わなくてなあ」
「その『七月のムスターファ』とやらの目的を聞いておこうかしら」
「簡単な事さ。『遺伝子保護法』をぶっ潰す。それだけだ」
 涼子はちらりと右前方を見る。夜目にも鮮やかな赤毛と紅い瞳の少女。
「……謎が解けた、という事ね。『遺伝子保護法案審議会』の牛歩も、混乱も。あなたたちの仕事だったって訳。『特例遺伝子解析チーム』の方は順調に進んでいるのに、たった三日もあれば仕上がる審議を成立させなかったという事ね」
 今度は杉野が首を傾げる番だった。
「……その『特例遺伝子解析チーム』とやらは、なんだ?」
 涼子は普段からは考えられないような邪悪な笑みを浮かべた。
「世界最高の頭脳の集積。表向きは多田製薬の第二種開発部門になっているけどね。モルガンもロックフェラーも、デュポンも協力してくれている。連中の大好きな差別という悪意の部分を増幅してね。地球にはドブネズミが増えすぎた。駆除して灰にして原子にまで分解して清浄な大地を取り戻す。その崇高な使命を邪魔するのは、ドブネズミに寄生する疫病以外の何物でもないわ」
「意見が合うな。俺はそういう神様気取りのダニを駆除する専門家でね」
 緊張が極限まで張り詰める。二人は共に五感を限界まで引き上げた。
「貴方が倒した連中は『ピチカート』。それでもバイエルしか弾けない無能な馬鹿共よ。捨て駒に過ぎない。そもそもこの『フィヨルド』自体がクズ。たまたまこの『スタッカート』に必要な物が手に入る唯一の『影』だったから、それを利用させて貰っただけ」
「それで女達がほとんど居なかったって訳か。大方材料を採取するのと製造に回したという訳だな。そして男は馬車馬のように働かせると。いくつか、『フィヨルド』を維持するのに必要な『議会』を機能させておくための施設と男達の最低限の娯楽を満たしてやる。それも極めて偏向した選択肢でね。よくわかった。貴様は正真正銘のダニだ」
「ペスト菌に言われたくないわよ」
「……さて、じゃあコンサートを始めようか。俺にとってはホルストとピンク・フロイドの違いが全く解らないのだがね」
 涼子のリーガルの左足がほんの少し上がる。杉野の登山靴がぎりっと石畳を噛む。
 どんな戦いでも、闘争である限り「間合い」は勝負の明暗を分ける。
 先に動いたのは涼子の白魚のような指だった。曲はヨハン・ゼバスティアン・バッハのクラヴィーアのフーガ。地を蹴った涼子の両手が空中の「スタッカート」の上で舞う。紫と緋色に彩られた音弾が杉野の足下と腕に直撃する。兵士の攻撃とは根本的に異なる、まさに音楽的な表情に満ちた攻撃だ。囁くようなピアニシモは弾幕となり、力強いフォルテは直撃する魚雷となって襲う。
 初弾を腕に受けた杉野はにやりと笑う。そこの部分はピアニシモだったが、皮が大きく捲れ上がり、肉から血が迸った。杉野は地を這うように跳躍し、涼子の着地地点に拳を叩きつける。パワーだけでは説明できない衝撃波が炸裂した。それは直径3メートルもの窪地になり、そこから舞い上がった原爆雲のような強力な気流が涼子の足を捕らえ、回転させる。
 その回転して逆転した涼子の眼はまったく瞬きをしない鉛色。その中心に向かって杉野は左の拳を回転させながら放ち穿つ。
 その砂塵の褐色を呈した衝撃波は涼子の連続するフーガと空中で激突した。その衝撃は眼に見えないニュートリノやタキオンになって両側のビルに突き刺さる。硝子と煉瓦が砕け壊れ崩れ両者の肌を切り裂いた。
「こんのぉぉぉ細菌めえ! 私の肌を傷つけたな! その罪を思い知れ」
 メンデルスゾーンの「ピアノ三重奏第三楽章スケルツォ」が野獣のような音弾を放つ。その野獣のような曲想が軽快に杉野の肩と首を切り裂いた。
「俺の肌は敏感肌なんだ。肌が荒れるような錆びた剃刀を使うんじゃねえ!」
 杉野は強力な握力と脚力に物を言わせてビルを歩くかのような速度で登り切り、左右の拳を交互に突き出しながら涼子に襲いかかる。物量の移動で大量に発生した真空刃が涼子に降り注いだ。
 涼子は歯を食いしばり右手のトリルで微細な音弾を半球状に展開すると杉野の真空刃は飛散した。低音部の巨大な黒い音弾が杉野の腹に直撃し、跳ね飛ばされた杉野はビルに身体を打ち付けて落下する。
 にやりとどす黒い笑いを浮かべた涼子に凄惨な笑みで応えた杉野は壁を蹴って水平に向きを変え、風を切るチョップにして光の刃を長く描いた。
 とっさに「スタッカート」を盾にした涼子が後に転倒する。光の刃を受けた「スタッカート」の裏側から薄く青い煙が立ち上った。
「……この…私の背に土を着けたな…このような屈辱は初めてのことだ、褒めてやろう」
「いや、そこ石畳だから。土は着いていないって」
 飄々と杉野は歩み寄るが、その上半身に布は殆ど残っていない。黒ずみ、紫色に腫れ上がり、出血は全身を覆い隠している。
 対する涼子は夜叉のような爛々と輝く鉛色の眼を杉野に向ける。まるで岩を穿つような気迫が充ち満ちている。頬は傷を受けて一筋の血を垂らし、シルクのブラウスは所々裂けていた。傷は軽微だが、プライドの傷はかつて無いほど深く心を抉り出す。
 杉野はこきんと首を折り、指の骨をバキバキと鳴り響かせた。
「礼儀を尽くしてやろう『ムスターファの銃弾』」
「メンデルスゾーン……幻想曲 ニ短調」
 次の一期で決まる。両者の暗黙の了解。
 仕掛けたのは涼子だった。「幻想曲 ニ短調」は連弾曲だ。攻撃の総量は倍化する。黒い音弾と白い音弾が矢のような高速で杉野に襲いかかる。
 杉野は両手の指を掴むように構えてため込んだ気を放出した。
 知らない人間が見たならば、暗闇の中の螢の乱舞のように見えたことだろう。
 杉野は高速の音弾をほとんど全身に受け、血しぶきの中に倒れた。それはまるで巨大なシルクロードの神像が崩れ落ちる様に似ていた。
 涼子は光の槍のほとんどを盾にした「スタッカート」で受けた。白銀の「スタッカート」は歪み、割れ、砕けて涼子はほぼ一回転して転倒した。
 立ち上がったのは、涼子だった。ただ、傍らに転がった「スタッカート」はもはや残骸となり、東京湾に浮かぶ最終処理場の物質と変わらなかった。
 初めは静かに、そして高らかに、やがて気が触れたように涼子は哄笑した。
 が、それも一瞬の事だった。涼子の頭部に「スタッカート」が叩きつけられた。
「???」後頭部に走る激痛を堪えて涼子は振り返る。そこには群青に銀色の線を飾る一人の兵士が居た。
「な、な、なにするのよ! 私は『皇姫』よ! 無礼者!」
 しかし、その怒りに歪んだ「スタッカート」を振り上げる兵士は一人ではなかった。

「同士杉野」眼赤視が杉野の倒れた傍らに座り込んでいた。
「今、時間を稼いでいる。逃げよう」
 杉野は穏やかな笑いを浮かべる。見たこともない満足した笑みだった。
「その、逃げる力がない。『影』を掴むだけの力が足りない」
「いや、ある。あるんだ、同士杉野」
 眼赤視は杉野の右手を掴んで自分の頭に貼り付けるように密着させた。
「傀儡の部屋がある。私の頭の中に。それを掴め! 後は私と傀儡がやる」
 杉野は不思議そうに眼赤視の紅い瞳を見つめた。
「怖くないのか? 100万人どころか一億人に強姦されるような物だぜ? それに、失敗したら三人とも死ぬ」
 眼赤視の表情は変わらず、いや、かつて無いほど真剣だった。
「あなたは『七月のムスターファ』を統べる者だ。そして『七月のムスターファ』は絶対に死なないのだ! 私の頭の中にある傀儡の手を掴め! 失敗しても後悔などしないと言ったのは他ならぬ同士杉野だ。共に生きると言うことは共に死ぬと言うことだ! 恐れるな同士杉野!」
 杉野は瞑った目から傀儡の部屋を幻視した。そしてそれを残った力を全て動員して拳を眼赤視の頭部に潜り込ませ、傀儡の幼く白い掌を掴んだ。そしてもう片手で眼赤視の手を強く握りしめる。
「っ………………!」
「お前だけここに残ろうと思いやがったな馬鹿め。俺を騙すのには百年早いんだよ」
 それは不思議な光景だった。燃えさかる戦闘の跡地をバックに、倒れた男の手のシルエットが女のシルエットの頭部に引きずり込まれて行く。そしてその少女の手も男の手に握られて頭部に引きずり込まれ、やがて男女の胴が、足が飲み込まれ、最後に頭部その物が飲み込まれていった。
 すなわち、全ては飲み込まれ、消えてしまったのだ。

 「七月のムスターファ」が消えた途端、涼子に襲いかかる兵士も正気を取り戻し、あっけにとられ、振り上げた「スタッカート」を振り仰いだ。目の前には兵士に殴られ昏倒した涼子がその象徴である白銀のティアラを血に染めて倒れている。
 たちまち兵士達が寄り添った。
「皇姫様、大丈夫でございますか!」
「皇姫様、一体何がおきたのでございますか?」
「おおい、担架だ、担架を持ってこい、いや、馬車か車を回せ!」
 喧噪の中で「皇姫」たる少女、三浦涼子は毒づいた。
(やってくれたわね、あの赤毛女………)

 ビルの影に隠れて、担架で運ばれる三浦涼子を確認した『村長』照井達也は、顔面を炎の緋色と暗闇の漆黒に寸断させて佇んでいた。
「あ〜あ、酷いことになっちまったなあ。まっさか杉野と先輩が絡んでいたなんて気が付かなかったよ、なあ、伊集院」
 片手に持った伊集院のMarc-areを持って、回りに振りかざし、再び液晶画面を見た。
 そこにはとぼけた顔をした男が眉を顰めている。
「しょうがねえだろうが。今回開発が遅れちゃったしよ。そもそも『ユニオン』に支部がねえんだもん。リアルタイムで今はリンクしているけどな」
「こんな騒ぎだ。他の『影』にも影響出るだろう」
「ま、地球の日本としては、せいぜい政治家の汚職か芸能人のスキャンダルぐらいにしかならねえんじゃねえの? 気にしすぎなんだよ照井の場合。じゃあ、さっさとお掃除してね」
「するけどさあ、ショッパチ、お前のこと気付いてないぞ」
「そっちの方が好都合なんだけどな。クラッカーは一回ばれたらお終いなんだから」
「今度から『電子技師』って呼ぶぞ。いいか」
 ディスプレイで伊集院はぶんぶん手を振った。
「それなら『歩く性犯罪』の方がいい」
「そうかい、じゃあ今度からはそうするよ。じゃ、見ていてくれ」
 照井は酒樽の上にMarc-areを乗せて向きを調節する。そして片手に持った「箒」を両手でしっかり持った。
「よっこらしょっと」
 二度、三度と「箒」を振り回す。砂埃が渦を巻き、変則的な風に包まれる。見る見る炎が消え、石畳の凹みが盛り上がり、散乱したガラス片や煉瓦、コンクリート、木材があるべき場所に戻って行く。それはまるでフィルムを逆回転させているかのようだった。
 五分も経たないうちに、「ツバキ・ファミリア」を含む全ての構造物は完全に復元され、夜独特の静謐さに満たされた。
「ふう、後片付けは大変じゃあ……」

森と清流と鳥の歌──天羽詩音の安息

 水色の空が好きだ。
 あまり暗いほどの青空はいたたまれなくなる。空は水色で、少し雲が浮かんでいる方がいい。出来ればトンビや雀が飛んでいて、群生する自然の花畑に蝶が飛んでいるのなら文句はない。詩音はいつでもそう思う。
 清流に触れると程良く冷たかったので、服を脱いで水に浸かった。さざ波がくすぐったい。
 それから、顔を洗う。顔を洗うついでに絆創膏も剥がして、新しいのに取り替えた。
 夏草の上に寝そべって、このまま死ねたらいい、なんて不埒なことを考えてみたりする。嫌なことがこれから待っているときは特にそう思う。死んで、土に返って、水を吸って、ただの名もない草になりたい。
 昨日は本当に大変だった。
 でも、ヘクトルと沓水は由子とレインを東京まで送ってやった後、メシュメントに帰った。僕はと言えば、約束通り沓水の出席を何とかしてやった。とはいっても、近い『影』の沓水もあまり勤勉ではなかったが。
 だけど、今よりはずっとずっといい。勿論、沓水にはしっかり酒代を払って貰った。でも、意味はない。だって僕が欲しい物は何一つメシュメントでは売っていないのだから。
 だから、木製人用の指輪を買ってヘクトルさんにプレゼントした。三角定規も恥ずかしい事ってあるんだね、知らなかったよ。でも、ヘクトルさんはそれだけのことをやったと思うし、これから実際に頼み事もある。それに出欠簿のコピーをヘクトルさんに渡したし、沓水の成績も渡した。
 沓水の逆上は見物だったけどね。もう二度とヘクトルさんに頭が上がらなくなるだろう。そっちの方が沓水のためになると思う。
 嫌なことが始まる。
 死んでしまいたいほど、嫌なことだ。
 でも人間は、いや、人間じゃなくても、安息のために代価を払わなくてはならない。
 生きるって事は、熱エントロピーの運動そのものだ。
 だったら、草でも同じ事じゃないだろうか。火山弾や昆虫、水や火もみんな同じ。本当に死ぬことはあり得ない。時間も関係がない。もしあるというのなら、それは宇宙や全ての『影』がなくなること。つまり、「ソラリス」の火が消えるとき。
 その時初めて、僕には安息が与えられる。その時までは、せめて生きよう。
 僕のために、それから誰かのために。

混乱と破綻、破滅のレジェンド──「七月のムスターファ」

 東京の郊外の広大な敷地は緑に溢れていた。森と清らかな水をたたえた池が美しく、木陰にはベンチや洒落たテラスがある。まるで軽井沢か清里高原のような風情なのだが、これがビルの中庭なのだからその途方もない規模に呆れ返る。
 多田製薬はバイエルやファイザーと並ぶ世界最大の製薬会社であり、化学工業の会社でもある。また、毎日のように生み出される技術を管理する専門の会社まで内包し、かなり大きな規模のアウトレットモールや会社が所有する住宅街まであるのだから、会社と言うよりは「国家」と言っても差し支えないほどだ。
 研究機関は恐ろしくチェックが厳しく、インターネットも専門のゲートがあるくらい徹底している。大きく門戸を開いているような部分もあるが、陽射しが強いだけ影も濃くなるように、黒い部分も存在する。外側からも、内側からも、それが見えることはない。まさに社会に於いて、その影は存在しないし、侵されることもない。そう、人間であれば。
 例えば、「第二種開発部門」というセクションへのアクセスは二重三重どころか十重二十重のセキュリティに守られている。それは物理的・電子的・電気的なだけではない。実はこの企業の風変わりな権力者のために、霊的にも守られている。
 ゆえに、近代的あるいは未来的と言って良い企業にも拘わらず、奇妙な場所に塩が盛られていたり、折り紙が置いてあったり、必要もないのに水が張られた盆が設置されている。
 しかし、そんな万全を期していても、守れない物はある。
 例えば「第二種開発部門」は中庭を囲む楕円形のビルの北側に面した二階に位置するが、一階はボイラーや消耗品の倉庫、液体酸素や液体窒素、純水などのタンクを繋いだめまぐるしい配管が設置されており、会社にとって一種の「死角」となっている。消耗品も多いので、業者の出入りにも特に気にする問題ではない。第一液体酸素など盗みようがないし、盗む方法も非常なリスクを伴う上、盗んだとしても買い手がないし保存して置くにもコストがかかる。
 しかし、いかなる「死角」とはいえ、社内に侵入するには数々のハードルがある。だが、磁気カードなどは簡単に偽造できるし、指紋認証もビットマップである限り突破できる。瞳孔確認もビットマップである。要するにほとんどのハードルは電子的に処理する限り二次元的にクラック可能なのだ。例を挙げれば、多田製薬に指紋認証システムがあったとしても、同一の本人が銀行の指紋認証システムを使用していたら銀行のサーバをクラックしてしまえば良いのだ。解像度に違いはあっても、現代のフラクタル解析はその問題を解決出来る。
 そんなものは専門的な一部の特殊な技術と思われがちだが、実際には最高の研究機関出身の技術者が全く事なる分野でその技術を商業的に転用しているのが現実で、電波の解析技術者が存在するほとんどの電波が反射による干渉を受けていると知ったことによって、音響に転用したのはよく知られている。フラクタル解析もグラフィックスの分野では当たり前に販売されている。その上、それとほとんど同じ物、場合によっては製品より優れた物を作ってしまうことさえあり、それらはインターネット越しに無料で配布されているのだ。
 では、最高のセキュリティとはなんだろうか。実はそれはとてもシンプルな解決方法で、「人間」なのだ。会って、挨拶をする、天気や仕事や就業時間の話をする。実物を三次元で、しかもビットマップではない──人間の皮膚は半透明なのだ──かたちで確認をする。このハードルを越えることはほとんど不可能だ。
 しかし、もし人間をクラックできるとなるとどうなるだろう? 本人が「そうであるに違いない」と確信してしまうとしたら────

 そんなわけで、眼赤視と杉野は液体窒素のタンクの脇のパイプの上にいた。
「リタイア組っていうのかしらね」
「いや、あの男はかつての戦士だ。誇りある日本のな」
 真っ赤な赤毛のショートカットを惜しげもなく晒した眼赤視はダメージド・ジーンズに顔を埋めて足を抱えていた。とにかく液体酸素のタンクのそばは寒い。
「おかげで『第二種開発部門』の場所も特定できたし。責任者も解ったわ」
 眼赤視は頭上の天井を見上げた。そこには灰色のコンクリートと剥き出しの配管がミミズの巣のようにくねっていたが、勿論眼赤視にはそれ以外の全てが視える。その多くは白衣のような無菌対応した服に身を包んだ男女だ。
「そのクソ野郎をたっぷりと愉しませてやろう」
 Tシャツのように見えるのは、実は身体中に巻いた包帯だった。しかし杉野はそんなことでベッドで休養を摂るような男ではない。
「傀儡は絶好調よ。生まれて初めて人に求められてそれに応えたのだから」
「傀儡の『指』は今はどのくらいあるんだ?」
 さあ? と眼赤視は肩をすくませる。
「とにかく勘定できるような数ではない事は確かね」
「お前はどうなんだ、同士眼赤視」
「強姦のショックからは立ち直っているわよ。女は強いって事」
 杉野が笑う。それは今までの酷薄な笑みとは違う、どこか無邪気な笑顔だった。
「実際、視え過ぎちゃって、その気になれば雲の上まで見渡せそうよ」
 眼赤視は楽しそうに心から笑う。深紅の瞳もどこか愛らしい。
「でも、今日はさらに万全を期したいからコンタクトは外すね」
「ああ、俺もむずむずしてしょうがねえ」
 眼赤視は今日は黒い瞳をしていた。俯くと瞳に指を当ててつまみ出すようにカラーコンタクトレンズを外した。その下から深紅の瞳が現れる。杉野も同じようにコンタクトレンズを外す。二人とも手にした目薬をさして瞳を瞬かせる。
「……指紋の方はいいだろう」
「しかし、どういうツテなの? 指紋や瞳孔を盗み出すなんて」
「前に頼んだことがあったろう。腕利きのクラッカーに頼んだんだ」
「ほとんど万能ね。ひょっとして『影』へもクラック出来るんじゃない?」
「今度聞いてみよう」
「名前はなんて言うの?」
「クラッカーは視えないからこそクラッカーなんだ。少なくともハンドルネームは『電気技師』と呼ばれている。俺とタメのようだがな、解っているのはそれだけだ。銀行の振込先も聞いたこともない「茜紡績」とかいうダミー会社だよ」
 杉野も寒くなってきたのか、包帯の上にいつものチェ・ゲバラのプリントされたTシャツを着た。これが彼の戦闘服だ。何枚も持っているらしい。少なくとも眼赤視はその一枚が台無しになったのを知っている。
「では、始めるか、同士眼赤視」
「マルチタスク・オート・ドライブ、リンクします」
 眼赤視の意識には今までに経験が無いほど明確に金色の産毛を持つ白い腕が視える。その手を掴んだ。冷たい掌の体温までが伝わって来るようだ。
「キ…キキキ…キキキキキキ」
 それは人間の声とはかけ離れた奇妙な声音だった。

 同時刻、多田製薬の第二種開発部門の奥にある無表示の無菌室、「特例遺伝子解析チーム」のモニターを観察していた男が立ち上がった。マウスの動きが明らかに規定の指数関数を逸脱する複雑な数値を示し始めたからだ。
 男は三重になったクリーンルームを抜けて、30メートル四方にも及ぶ巨大で精細な施設を見渡す。それはマウスが一匹通のがやっとの複雑な迷路だった。その迷路のあちこちから迷路を這い出そうとして藻掻く多数のマウスの白い頭部と前足が見える。
「なんなんだ、これは?」
 男は社内LANに繋がる携帯端末のスイッチを入れて待つ。やがてFaceatoFaceアプリが繋がり、金髪碧眼の若い男が画面に現れた。
「どうしました谷田君。何か異常及び劇的変化がありましたか」
「とにかく見て下さい」とFaceatoFaceの画面の裏面カメラをオンにする。
 少しの沈黙の後、金髪碧眼の男からの声が返って来た。
「すぐ急行いたします。現状を維持の方向で善処して下さるよう強制します」
 FaceatoFaceが沈黙した。
「どう『維持』しろと言うんですかねー」
 やがて無菌室の浄化ミストの放射音が聞こえ、年の頃20半ばの長髪の金髪と深い碧眼を持ち、金に光る十字架を胸に下げた男が現れた。無表情で無愛想な、他人との協調性を欠いたような不思議な印象に慣れることはない。
「いつ始まったんですかこの事象は。速やかに報告義務の遂行を命令します」
 谷田と呼ばれた男は携帯端末を確認する。
「三分と40秒ですね」
「あり得ないことが現実になっているようです。積極的かつ能動的に観察を続けましょう」
「正直、パニックですよー」
「とにかく、管制ルームに戻って頂きます。FaceatoFaceは起動したままの方が適正にして確実です。全帯域における誘導音源とマウスに接続したチューブの薬液注入バルブをカットする事を優先事項として実行して下さい」
「ウィ、チーフ」
 谷田は再びクリーンルームをくぐる。
 薫・スチュアートは眉を曇らせる。美麗な顔に本性である研究者としての渋面が浮かんだ。
「もう12段階を超えております。遺伝子操作でツリー形状で作り上げた100,000匹のマウスから100匹にまで絞り込む際に問題はありません。極めて僅かなミューティーションを除けばほぼ完璧なので完璧は条件で完全な必然なのです」
 外見とは異なるどこか壊れた日本語は、元々「薫・スチュアート」は地球という『影』出身の人間ではない事による。
 ごく幼少の頃に母親に連れられてこの『影』に逃げ込み、母は環境の異なる世界でごくありふれた病に倒れて死んだ。その後の薫の人生は駆け足だった。アメリカで飛び級を繰り返し、14歳でスタンフォード、16歳でMITに行き、18歳でグラスゴーで獣医の博士号をとり、ドイツのニュルンベルグのバイエル社に研究員として勤めた。22歳で多田製薬にヘッドハンティングされてからは長い。入社して部門長職に就くまで半年もかからなかった。
 何事も冷静沈着に予定通りこなす反面、律儀すぎる性格がそのストレスを増幅させている。特に最近は三浦家における予定範囲外の時間の浪費によってそれが加速している事には気付いていない。
 FaceatoFaceの振動が薫の胸を叩く。薫は無造作に手に取った。
「チーフ。えらいことです。知能指数関数曲線が予測不能の事態に突入しました」
「モニター・ルームにスタッフを全員招集。解析と対応協議に邁進する。可及的速やかな行動を期待する事を了承する結果を示して下さい」
 薫も谷田に続いてクリーンルームを抜けてモニター・ルームに急行した。ただ、あくまで走るようなことはしない。薫はあらゆる下品なことが苦手であった。
 モニター・ルームには「特例遺伝子解析チーム」のメンバーが既に席に着いていた。モニター・ルームは左の壁一面に16のディスプレイが並び、これがグループごとの知能指数関数曲線をリアルタイムで表示している。正面にはメイン・フレームがあり、莫大な計算を同時進行でこなしていた。右壁には体温や心拍数・呼吸数・消費酸素などの身体的データを表示するディスプレイがやはり16並んでいた。
 薫は席に着くなり発言する。
「現在、正確には6分35秒前にHundredsに異変が発生発覚確認された。その解析対処体制について逐次可能性を考慮しての意見を求めこれを実行する。谷田君、説明を」
 痩せた飄々とした男、谷田がアウトプットデータを手に眼鏡を直した。
「えーと、顕著なのは知能指数関数曲線のランダムな上下振動ですね。ま、秀才が天才になったり白痴になったり時間の推移と共に変化すると。こりゃ『アルジャーノン現象』と仮称します。他に例がありませんからね。それに同期するように身体的変化も顕著と。研究全体に関わる重大な問題と考えるほかありませんねー」
「ふん、『アルジャーノン現象』とは上手い思いつきだな」
「しかし、『アルジャーノンに花束を』は外科手術がトリガーになった失敗だろう?外的干渉はないぞ?」
「遺伝子操作は外科手術よりもっと重大な外的干渉だろうが」
「今回の遺伝子操作は、100,000匹に遺伝子操作に相当する薬剤投与による穏やかなものだ。効果のあったマウスを交配させての繰り返しによる絞り込みによるもので、『アルジャーノン』とは違うだろう」
「僕もそう思ったから『現象』と付けたんですねー。知能が上下する現象自体がないのですよー。老人性痴呆とかアルツハイマーはありますけど、それは経年劣化であって成長過程には存在しないんですねー、あるのは先天性なもので、だんだんおりこうさんになってゆくのが理由もなくですねーお馬鹿になるのはないのですよー。生活的ストレスとか環境的ストレスとか外的要因が必須ですからねー」
「ひょっとして、隔離のストレスが今になって暴発した?」
「俺は自然の中に実験場を作って餌の獲得難度を徐々に上げて行く方法を提案したんだが」
「その方法では進化になってしまうので千年はかかるのですねーメインフレームの計算結果は出ているのですよ」
「やはり隔離性によるものかな」
「世代交代を何度も繰り返している。起きるなら初代で発生する」
「いや、知能が発達したからストレスが発生したんじゃないか?」
 ずっと沈黙していた薫が初めて発言した。
「もし仮に知能発達によるストレスの発生だとしたなら優良遺伝子の生産研究実践自体が完璧に否定される。クライアントが望んでいるのはあの迷路のような完全に変化しない環境を構造を維持することが必須条件だからだ。知能向上に付随する確実な弊害なら研究自体が破綻する。すなわち、この実験は失敗した挫折断念遮断隠蔽で終了する」
 モニター・ルームは完全に沈黙した。ディスプレイの知能指数関数曲線の波はもはや短波のレベルにまで上下していた。いくつかのモニタに示された特定の知能指数関数曲線の数が減り、身体情報のディスプレイには「Dead」の文字列が並び始めた。

「一応、全部死ぬまでかき回すわ。この際、心臓を直に止めてもいいんじゃない?」
「……そうだな、徐々に心停止を混入させろ。成功している完全体もあるはずだ。その場合は心肺同時停止か脳の血管をぶった切れ」
「……………これが成功したら『七月のムスターファ』は解散するのカナ?」
「馬鹿を言え」
 杉野が底冷えするような不敵な笑みを浮かべる。
「ダニや蠅や蚊ってやつはそう簡単に滅亡しないんだよ」
「それもそっか」
 理由もなく眼赤視は心から嬉しそうに笑った。

奏でられる重低音──アイソトープ・レインの選択

 夕暮れが近づいて、陽が沈み始めている。その西日を受けながらアイソトープ・レインはベッドの上に座っていた。
 「フィヨルド」に比べてこの世界の太陽は心持ち小さいが、明るさは「フィヨルド」を上回る。それにこれ程までに劇的な雲の変化なない。オレンジ色から濁った紫に、さらに上には紺青の空が拡がる。
 朝起きて、由子が置いていったパンと缶詰、奇妙な野菜と果物、やはり飲んだことのない珍妙で派手なパッケージの飲料を摂りながら、レインはずっと飽きずに外の風景を見ていた。
 こんな巨大な都市は見たことがないし、あんなに巨大なビルも初めてのことで、夢にすら現れない現象には事欠かない。まして、暗くなるにつれて点灯する色とりどりの照明やネオンサイン、読めないが移動する文字列など、自分の持っている書店にあるどんな本にも記述されていない光景が現実に目の前に広がっているのだ。
 これだけ時間が経っても現実感がない。ベッドもこんなに寝心地の良い物は初めてだし、部屋に置いてある数々の操作方法の解らない機械にも触る勇気さえ出ない。
 由子に渡された「暇つぶし」の円盤も不可解だ。見たところレコードに似ているが表も裏も平滑で溝がない。
 だから、レインはただただ眼前に拡がる風景を愉しんでいた。

 足音が近づいて来る。そしてノックされ、鍵が開けられる音を聞いてからレインは後を振り返った。
 そこには「フィヨルド」で助け、そしてこの世界に強引に連れてきた少女が現れた、
 改めて見ると、天使のような、という形容する以外にはない少女が立っている。金色の髪の毛にピンクとラベンダーの筋の混ざった髪、華奢な細い身体。何よりもどんな美神にも劣らない顔の造形と碧眼。神が居るのなら、特別に注文されたような少女だった。
「ごめんなさい。むりくり引っ張って来ちゃったのに一人にさせちゃって。CDは楽しめた? どれか気に入ったのあった? 私的にはけっこう厳選したんだけど」
「そのCDってこれのことか?」
 レインは裏が銀色に光る円盤を手に取った。由子が慌てたように口を押さえた。
「あちゃ〜! 失敗した! レインの『影』にはCD無いんだった〜! そこまで気が回らなかったの。学校、休んじゃえばよかった」
 そう言って由子はCDを一枚レインの手から奪い、複雑な操作パネルのある隙間に円盤を差し込む。すると、左右と中央に配置されたスピーカーからとんでもなく美しい洗練された音が流れた。とにかく雑音が全く存在しない。
 曲自体もレインの心を鷲づかみにした。なんというスリルに満ちたロックだろう。そもそも、これが本物のロックなのだとレインは直感する。
「レッド・ツェッペリンの『ブラック・ドッグ』って曲なの。私はこれを聴いてロックを始めよう、自分でやろうって決めたのよ」
 由子は腕を組んでその可憐な口唇を悪戯っぽく笑みに変えた。レインが下を向いて音楽に集中しようとしたところで、曲が止まった。思わず由子を見上げる。
「聴くのはいつでも出来るけど、弾くのはこれから。さあ、みんな集まっている頃だわ。あなたに恋人を選んで貰うんだから!」
 由子に引っ張られてきたのは隣のマンションの一室だった。レインが居た部屋と違って、扉が二重になっている。特に二枚目は分厚く重い。
 そしてレインが見たのは、実に様々な機械の群だった。ドラムやギター、ベースは解るが、鍵盤が四つもある機械はどんな音が出る物なのか、想像も出来ない。それに、林檎が囓られたシルエットを持つ不思議な輝く窓の付いた機械。足下にも小さなペダルが並び、多分アンプなのだとは思うのだが、明らかにレインの知っている物とはコントロールパネルが複雑すぎた。そして二人の少年と美麗な少女。それらをバックに由子は両手を大きく拡げた、
「じゃ〜〜〜ん! 『廻天百眼』にようこそ! あなたが5人目のメンバー、欠けたピース。私たちの運命を決める鍵! 紹介するわ、オン・ドラムス&エンジニア&なんでもかんでも! 『小倉圭介』こと『ケイスケ』!」
「やめろよ、こっぱずかしい。そいつがお前ぇの見つけたってベースだろ。能書きはいいからよ、音で答えな」その小太りの少年は光り輝く画面を手元の煩雑な機械で操作しながらそう言った。
「オン・ギター! 『斉藤明』こと『アキラ』!」
「……………………………………………………………………。」
「表情が乏しい上にボキャブラリーもなし! 最低だけど最高のアレンジャーよ。そしてオン・キーボード! 天上天下、神をも恐れぬ美少年、『内藤あまね』こと『あまね』!」
「……僕をいじるのやめてよ……」
「男?冗談みたいだな……」レインが呆れてあまねを上から下まで舐めるように見つめる。あまねは胸を抱えて怯えていた。ショートパンツとオーバーニーハイソックスとの間の柔らかそうな「絶対領域」が犯罪的なほどなまめかしい。
「そして! 作曲とボーカルの歌姫!『白石由子』とは私のことよ!」人差し指を高く掲げて由子が宣言した。全員が凍る。
「な、な、なによ! みんなに紹介するわ! はるばる「フィヨルド」から降臨した我らの欠けた鍵。オン・ベース! アイソトープ・レインよ。みんな仲良く世界征服しましょう!」
「馬鹿な夢を見れるのは若い内だけだ。せえぜえ頑張ろうぜ」ケイスケが辛うじて纏めた。
「さあて、これからが問題よ。三択! アイソトープ・レイン、あなたの恋人はこの三人のうち誰かな〜?」
 レインの目の前には三本のベースが立てかけてあった。由子がアンプのスイッチを入れる。僅かなノイズが響きアンプ自体が輝いたように感じた。
 アンプについちゃ考えたんだけど、あなたの出している音から推理してこれにしたの。Ampeg SVT 300W。抜群のパワーとドライブ感は最高よ。さあ〜て、順番に弾いてみて! どれもいい女だからね。
 レインはおそるおそる、しかし灰色の瞳を輝かせて一本目を握り、灰色の髪の毛を避けてストラップを肩に掛けた。茶色のサンバーストの、かなり渋い色と形。短いパッセージを刻んでみる。ケイスケが驚いたように眼を見開いた。アキラでさえ年に一度見えれば奇跡と言われた瞳を露出させた。あまねは両手を口に当てて大きな目をさらに大きく見開いている。
「うん。これは熟れきった年増の色気ってやつかな。よく伸びる。アンニュイなやつには最高だな」残念ながら、レインの言葉は『影』を歩く物にしかわからない完全な外国語だ。レインは早くもFender USA 1965 Jazz Bassを肩から下ろすと、次のボディの薄い、角の飛び出たベースを肩に回す。同じパッセージを繰り返す。
「派手だが、ちょい深みに欠けるかな。ハイポジションは凄く楽だけどね」レインはRickenbacker Model 4001C64Sをもう一本の小振りなボディのベースに持ち替える。
 そして同じパッセージを弾いた途端、レインの顔色が変わった。そしてもの凄い勢いで指を弦に叩きつける。スタジオ全体が咆哮した。他のメンバーは夢中でベースを弾きまくるレインのサウンドに完全に圧倒された。
「………………………こりゃあ、驚いた。こんなのに巡り会えるとは思わなかったよ」レインの目元に光る物が浮かんだ。
「………お前を一生離さないからな」レインはその滑らかなセットネックを掌で包み込んだ。
 レインのその答えを聞いて由子はにっこりと笑った。
「最初からそれを選ぶとは解ってたんだけどね。でも、恋人は自分で選ぶものよ」
 レインが選んだ一本はGibson '65 EB-0のチェリーだった。

隠し部屋での工芸──禁断の工房

 その手にガラスのペンを持って、精巧かつ精緻な図柄を刻み込むと、輪郭は完成した。
 最初に選ばれた顔料は銀の粉末だった。
 アルコールランプで暖められた膠は頃合いに滾っている。二ヶ月の夜を徹して蜂の中で微細に砕かれた金属は、膠との出逢いで見事に滑らかな塗料に生まれ変わる。厚みは何ミクロンだろうか。一度、二度、三度と繰り返し斑無く塗られたその表面は削り出しの金属と外見上そう変わることはない。
 取りあえず膠が乾くまで専用の感想容器に入れる。
 万に一つも許されない品物だ。
 乾くまでの間は夜をいくつ潰そうと触れてはならない。
 その間に調合する様々な顔料は、宝石を砕いた者がほとんどという効果で貴重な物だ。紅玉も紫玉も、硬度は9。刻み砕く物は金剛石しかない。とある顔料を作るのに、世界で最も高価な石をさらに砕いて使わなくてはならないことに皮肉な物を感じる。
 擂り鉢の中で、飽くことなく地道に、辛抱強い研磨が続く。
 諦めないこと。続けること。それは歓びであり苦痛であり、目的は悲しい物だ。
 本当にそれが必要な事なのか、解らないからだ。
夏の終わりのサマーフェス──廻天百眼は降臨する

「あんた達はねえ、前座の中頃になる。贅沢は許さない」
 でっぷりと太ったプロモーターが業界人独特のサングラスに口髭という典型的なスタイルで、椅子を逆にして由子達に向かい合っていた。
「あらら、私たち、お金はある方だし、その世界を驚かせる話題にも事欠かないのよ」
 由子は毅然として言った。
「ま、PAは譲れないわ。どうしても私たち専属の人を使って貰う」
「馬鹿を言うな。そんなことをしたらスタッフが混乱する。オムニバスなんだから、宴会のパック料金とサービスみたいな物でね。こちらのスタッフに任せて貰おうか」
「さあて、どうかしら。トニー・富岡の下でなら、誰だって喜んで働くし、富岡以上のPAオペレータがこの日本に居るのかしらね」
 業界の叔父さんのサングラスが一センチはずり落ちた。
「T・Tはガガのサポートでアメリカのツアーの最中のはずだが」
「今日、昼には成田に来るわ。私たちの仕事が終わったら、私のパパの専用機で帰らせるわ。答えはイエスかノーでお願い。でも、あなたもこの業界でいい顔になりたいんじゃない?」
「……もし本当に富岡なら、結構。好きにやりたまえ」
「好きにさせて貰うわ」
 プロモーターが出て行くのを確認すると由子はメンバー全員に言った。
「これで今日の主役は決まりね」

 暗闇。オーディエンスの熱を感じる。それだけではなく、照明とアンプが吹き上げる熱で冷房もようやっと人間が生きて行ける温度を提供しているに過ぎない。また、気分的な熱もある。あまねだけは照明が落ちていてもその美しく愛らしい横顔が丸見えなのだ。
 カーツウエルPC3K8の二段重ねからのバックライトの強さと大きさはその華奢で王子様のような姿が丸見えなのだ。由子に着せられた服は男が身に纏う物ではあるが、実は全て女性用のブティックで揃えた物だ。11号の身体を持つあまねには似合わない服を探す方が難しい。
 すでにライブステージの前の方にはゴスロリックな女子が埋めている。これはさすがの由子も予想できなかったできなかった。
(でも、悪い事じゃないわよね)由子はほくそ笑む。
 レインは右袖に立ち、微動だにしない。彼は愛に満たされているのだ。
 ケイスケはステージのためにあつらえた、顔の半分が隠れるほどのミラーグラスをかけている。度が入っているのだが、そんなことに気が付く者が居るだろうか。
 アキラはオベーションの六弦を提げ、十二弦をスタンディング・スタンドに用意してある。
 今日は二曲だけだ。その二曲で全てはひっくり返る。由子は闇の中で羽織ったコートを脱いだ。セパレーツの水着に近いその衣装は、由子の神に近い姿態を惜しげもなく晒すことになる。構わない。ここが私の戦場だ!
 一曲目の"Nothing But The Trues"はカーツウエルPC3K8の上の鍵盤の右手から刻まれたアルペジオ。静かに静かに、囁くように細かいテクニカルかつ正確な透明なピアノの音が響く。そして。
 一発。レインのベースとケイスケのバスドラムとシンバルが鳴動する。二発。三発。「行くわよ!廻天百眼!」由子の叫びと四発目が響く。そして22フレットから雪崩のように襲いかかる意識を奪うほどのレインのベースが駆け降りてくる。カーツウエルPC3K8の二段の同時連打によるテーマの中をレインのベースが絡みつく。そこに訪れたのは煌々とした月夜と草原。疾走する野生の馬に私はまたがり、歌う。真実を言葉に乗せて。
 真実は絶対に死なない。
 それは滅びない。
 真実は絶対に死なない。
 それが全てだから。
 アキラの12弦がかき鳴らされ、土と大地と人の暮らしを歌う。何者にも侵されない当たり前の幸福を歌う。ケイスケのチャイナシンバルは朝日のようだ。歩との鼓動を、命をレインが奏でる。その素晴らしさを。ローランドVK88は発声する音がレスリースピーカーで風を巻き上げる。戦うための困難と悲劇を、人の生命を、生命に代えても守るものを。
 ああ、どれだけ探したんだろう
 ああ、どれだけ探したんだろう
 ああ、どれだけ探したんだろう
 遠く離れたあなたの髪飾りを届けるために。
 ラストを飾るイントロのテーマが繰り返される。今度はレインもあまねに好きなようにはさせない。蹂躙し、翻弄する。演奏しているときには神のように傲慢になるあまねが、恐怖に怯えている。ケイスケの舌打ちが聞こえてくるようなやけくそのロールが左から右へ、あらゆる音階をたたき落として纏めてゆく。
 最後のフェルマータの間、私は意識を失った。それの名は、エクスタシー。
 限界まで埋まった会場の見開かれた眼、眼、眼。
 拍手もなく、どよめきもなく、悲鳴も聞こえない。そう、こんな瞬間を私は待っていた。

 こんな時に、MCなんて必要なんだろうか。
 否。そんな予定調和は「廻天百眼」に必要は無い。
 必要なのはスリルと緊張、夢と願い。そして圧倒的な暴力だ。

 二曲目の"Song of Sio"はそのまんま。詩音の魂の歌だ。
 詩音の苦しみがどれほどの物か、思い知らせてやる。
 カウント無しのぶっちぎりの、ペースを無視した、成功率50%の世界で最も危険な曲へ突入した。レッド・ツェッペリンの「移民の歌」以上に風変わりで刹那的な曲は、事実上アイソトープ・レインの全ての鎖を断ち切った。

三浦涼子の灼熱のラプソディ──吟遊詩人と断罪の槌

「来るかな?」
 「ロイス・ベル」に背を預けていつものピンストライプのスーツに身を包んだ沓水がまばらな口髭を皮肉っぽく歪ませた。
「来るよ」
 朽ちた酒樽の上に腰掛けて足を組んだ詩音がはっきりと答える。
 砂埃が舞う荒野の向こう側に詩音が「褐色の街」と呼んでいる小さな街並みが遠望できる。荒野であっても、かつては街か住宅かがあったのだろう。割れた空き瓶や錆び付いた缶、僅かに屹立する塀の残骸などがあちこちから顔を出している。ただ、色彩は全て失われ、黄色っぽい褐色に覆われている。見上げれば太陽の位置も解らないほどのぼんやりと褐色に滲んだ空が拡がっていた。
「しっかし古くさいやり方だな『自治会長様宛』の手紙ときたもんだ。一体ここの写真を添付したって、お前携帯だって持ってないのに、どうしたんだよ」
「伊集院に借りたよ、良く解らないけど、むしろ進んでというか、用意してあったみたいにデジカメを貸してくれて、ついでにプリントアウトまでしてくれた」
 ふうむ、と沓水が首を傾げる。
「弁護士の勘としては引っかかるな……伊集院か。女遊びは偽装かも知れんな」
「極めて具体的に愉しんでいるようだけど? なにしろ『歩く性犯罪』だからね」
「…そこまで言われているか…憐れな奴」
 詩音は左手の方向を目を細めて伺う。
「………近い…『影』を歩いている」
 ほう、と沓水が怪訝な表情を浮かべる。
「お前、レーダーか何か入ってるんじゃねえ?『影』を長く歩くとそこまで極められるのかね? 人間から遠ざからないように注意するんだな。俺でも化け物の弁護は出来ないからな」
 街側の道を半透明な指がピアノを叩くようなアクションを演じている。サルバドール・ダリの絵画の動画版。近づくたびにそれは鮮明になり、やがて白い絹のブラウスに豊かに盛り上がった胸が、額に光る白銀のティアラが実体化した。黎明学園自治会長、三浦涼子。普段は美しく澄んだ黒い瞳はすでに鉛色に濁っていた。
 長身のしなやかな身体にはまるでハンディ・シンセサイザーのように白銀の「スタッカート」が提げられている。宙を舞うように動いていた指は動きを止めて、静かに膝に添えられた。紺色のプリーツスカートが風に翻る。一瞬見えた太腿の白さは鮮烈だった。
「はっ! 本当に来たじゃんか自治会長様よう! たま〜にしか学校に行かないから顔も忘れかけてたぜ。麗しい三浦先輩、お久しゅう。悪いけど、相変わらず高慢ちきな面ぁしてやがんな。最近のダッチワイフは良くできているって言うけど本当だな。その身体の中にはアブラ虫みたいなドロドロした物ではち切れんばかりってかあ? とにかく『影』まるごと一つ支配するってのは反則だぜ。俺みたいに小市民やっているのが限界だあな。悪いけどその『指』はもう使わせないからそう思え」
 沓水の合図で「ロイス・ベル」が滲むように消えた。
「私は三浦涼子ではない。もう、そんなちっぽけな物にしがみつく必要は無いのだ。『遺伝子保護法案』が潰えた時点で、私は改めて『フィヨルド』の支配者『皇姫』として、『影』の他国を我が物にしよう。私には『影』を動かす力があり、破壊する源泉を所有している。この『スタッカート』と同じ力の源泉をな。従う者は許し、抗う者は潰す。歴史はそうやって偉大な存在を許したのだ。違うか?」
「まるっきり違うな。最大で秦の始皇帝みてえに16年持てば上出来だぜ。民を愛さない王様の末路ってなそんなもんだ。っておい!話も聞けねえかぁ?」
 沓水の足下に紫色の音弾が炸裂した。沓水は飛び上がって避け、また飛び上がって避けた。
「俺は弁護士であって『裁者』だ。フラメンコのダンサーじゃねえんだって。恐怖政治のでっち上げ野郎! 手前ぇのおためごかしの茶番を許さねえってんだよ! 詩音、『影』最高の『影歩き』のお前の出番だってばよ!」沓水は崩れかけた塀の影に身体を貼り付かせる。
 涼子が攻撃を止めて詩音に視線を突き刺した。鉛色の瞳は沸点を超えて渦巻いている。
「……ほう、貴様が『吟遊詩人』と呼ばれる噂の『影歩き』か。影を歩かせたら右に出る者は居ないと聞くが、本当か?」
 詩音は帽子でまなざしを隠したまま、樽から足を降ろした。
「さあ、どうだかね。僕だって全ての『影』を歩いた訳じゃない。それより、その鍵盤で叩いている物はあまり長持ちはしない。僕の『念葉』と同じ臭いがするよ、ぷんぷんとね。それは『フィヨルド』にだけ変種となったとある植物の種だ。違うかい?」
 涼子の表情が邪悪な笑みにすり替えられた。「夜叉」というものがあるとするなら、この女がそれだと詩音は確信する。
「ただの風来坊だと思っていたのだがね。私の目はまだまだ甘いようだ。一層研鑽を積まなくてはならない。まず、邪魔な物は消すこと。それから始めようか」
 詩音は帽子を後にずらして顔をあげた。漆黒の左目と暗灰色の後ろ髪を一つに束ね、幼女のような白く滑らかな肌と桜色の口唇を露わにする。僅かに覗いた歯は真珠のように光り輝いた。涼子は思わず口笛を吹く。
「女の子の格好をさせれば、誰でも騙せそうだね。私は割とそういうショタは好みなんだがね。側室に迎えてやるがどうだ? おまけに『影』を操る達人と来れば言うことはない。我が軍門に下らんか? 可愛がってやるぞ」
「答えの解っている質問をするのは不埒というものだよ、『皇姫』。ましてやする事も決まっている場合は愚昧と言われても文句はないよね?」
 涼子は残念そうに笑い、そして白銀の「スタッカート」を構えた。
「チャイコフスキー、ピアノコンチェルト第一番」
 吹き出した音弾は大規模な両手のオクターブ奏法。段幕と言うよりは爆撃。詩音が一瞬で蒸発した。手を止めた涼子に涼やかな笑顔が宿るその時、涼子の右肩に手がかけられ、そのまま引き倒された。涼子が見上げたそこには塵一つ付いていない詩音の美しい顔が褐色に輝く空をバックに見下ろしていた。詩音はその右の掌を涼子の首に当てる。それだけで動けないことに涼子は驚愕する。
「世の中で一番下らない事は、勝てない喧嘩に挑むことだよ」
「く………そう簡単に行かないのが世の常ってものなのよ?」
 涼子は倒れたまま、鍵盤を連打した。一面に雨が降り注ぐように空から降り下りた音弾は詩音の背中を裂く。今度は詩音の動きが止まった。マントの背中がみるみる血に染まる。
 反転し、素早く起き上がった涼子が勝ち誇って笑う。
「そうすると思った! 私を傷つけられないあなたのその反吐が出るような『優しさ』ってやつが私が一番嫌う戯言の一つなのよ。今のショパンの「雨だれ」は、避ければ私に当たる。あなたの甘い瞬時の判断があなたの命取りになった!」
 詩音はゆっくりと身体を起こした。桜色の口唇から一筋の血が流れている。その口唇がすっと大気を吸い込む音が聞こえた。

  永久に祝福されよその黒い薔薇を
  失われた鉛に気付くこともなく
  時計の秒針に支配されたオルゴール
  春に膨らむ蕾に祝福を
  冬に枯れる全ての希望に涙を

 涼子はその韻律に本能的な恐怖を抱いた、その時。棘の鋭い巨大な茨が涼子の背後から襲いかかる。振り向きざまに鍵盤を連打した。バッハのインベンション。目の前の茨の攻撃は躱したが、右足首を切り裂かれた。
 その苦痛に一瞬止まったタイミングを計ったように涼子の耳元で囁く声が聞こえた。

  黒いインピーダンスと壊れた祭壇
  捧げられる物は自分の鼓動
  電解コンデンサと羽根ペンの十字架
  捧げられる物は自分の呼吸
  終わりは始まりの序曲としてその首を飾る

「きゃあああああああああ!!『ピチカート』!『アンダンテ』!『アレグロ』!全弾発射!」
 詩音と涼子を囲う三方向の砂の中から「スタッカート」を構えた全36人からなる群青に銀線の入った兵士達が砂に偽装した布を持ち上げて、人間業とは思えない高速な指捌きで鍵盤を連打した。
 集中爆撃のような轟音と粉砕された岩と瓦礫が舞い上がる。もはや音や爆風などに例えられる規模を超えた、認識不可能な混沌が空間を満たした。詩音と涼子を三方向からの同時無差別攻撃を巨大な水の壁が遮って飛沫となって周囲の混乱をまるごと飲み込むが、兵士達の表情は変わらない。
「……最初からバレバレなんだよ。それに、『スタッカート』の攻撃は音の伝わりにくい雲やとりわけ水に弱いのはもう実証済みだったからね」
 詩音は砂塵の中に倒れたまま意識を失った『皇姫』だった三浦涼子のそばに片膝を突いて耳元で言った。涼子は聞こえているのか居ないのか、微動だにしない。
「いくら命令されたとは言え、自分を率いる者に鍵盤を叩くことは人間には出来ない」
 詩音は立ち上がって悲しそうに言った。
「麻薬まで持ち出したとはね。残念だけど、『フィヨルド』の麻薬は致命的だ。君達には死んで貰う。そっちの方が君達は幸せになれる」
「……やめようとした人は沢山いたんだよ。でも、止められたのは死んだ人間だけだった」
 詩音は顔を俯けて額に指をかけて右目の絆創膏をゆっくりと引き剥がした。そして、人間をやめた兵士達を見回す。
 さりげなく暗灰色の前髪をかき分け、露わになった、その右目。
 その右目の瞳孔は虹色に光っていた。
 そして、それがゆっくりと回転し、大きな渦となって猛烈な速度に加速する。それは『影』をも歪めて巻き込んで行く。それは現象と言うよりは幻惑に近い想像を絶する恐怖を伴う光景だった。与える物は、絶対に回避不能の絶望だ。

「Perëndia e tokës」詩音は呟く。
 大地から突き出した尖った頂点を持つ巨大なドリルが「ピチカート」部隊の人間を溶けた飴のようにねじ切った。砂塵と群青と砕けた鍵盤が模様となって貼り付いてメリーゴーラウンドのように音曲を奏でながら再び土に沈んで消えた。

「Perëndia i atmosferës」詩音は叫ぶ。
 大気から現れた巨大な黒い鎌はゆっくりと後退し、振りかぶるかのようにその巨大な刃先で空中を引き裂いた。「アンダンテ」の兵士達は気が付くことなく切り裂かれると言うよりは瞬間的に吹き飛ばされ微塵となった。

「Perëndia e hënës」詩音は囁く。
 天空の遠く、遙かな月が褐色の雲を払い、穏やかな光となって「アレグロ」の兵士達を優しく照らした。兜が、服が、皮と肉と筋肉が、そして骨が溶けて流れて行く。流れ出した肉体は透明になって土の中に溶け込んでいった。

兎の瞳に映された蒼穹の螺鈿なる回転木馬
草になり岩となり海や川を愛でる水となれ
時の狭間に飾られた幼子の午睡に風となれ
獣に絡みついた戒めなる新たな午後を呼べ
祈りは救いまた呪う古き神を訪ねる朝まで

詩音はマントの奥から、首に提げた瑠璃のオカリナを取り出して吹いた。
楽しかった子供の鬼ごっこ、母親に怒られて泣いた夜。
学校で過ごした楽しい時間、初めての絶望。
成人して若者になった時に出会った娘。
生まれた子供の無邪気な瞳
最後に救われるメロディーが響き渡った。

 何もなくなった荒野に、背中を血に染めた詩音が佇み、倒れ伏した涼子を見下ろしている。褐色の砂塵が細かく得体の知れない塵となって二人に降り注いだ。
 詩音は辛うじて大地に残った崩れた塀に向かって歩き出した。
「最後は君の仕事だよ、沓水。いや、この場合『裁者』だね。よろしく」
 おそるおそる塀から顔を出した沓水はばつが悪そうな微妙な顔つきで詩音とすれ違った。
沓水は三浦涼子の前に立って心持ち足を開き、腰の後で手を組んだ。まるで訓示を始める群体の司令官のようだ。咳払いをひとつする。後で見ていた詩音は、これも『裁者』の儀式の一部なのかな、と思う。
「影を歩きいずれ名のある手札の一人たる三浦涼子、その手札の名『皇姫』に間違いはないか。それともその名が偽りであればその名を晒せ」
 ずっと動かなかった涼子は砂塵まみれの顔だけを回して片眼で沓水を見上げた。「スタッカート」は離れた場所に二つに折れて転がっている。
「………私は白銀のカードの『皇姫』。『影』である『フィヨルド』を統べる者なり」
「手札たる者『皇姫』。その者、『影』を歩きみだりに力を及ぼし害をなした。真の光たる『ソラリス』が統べる全ての影に於いて明暗の安定を乱し、他の影をも巻き込んだことを認めるか」
 涼子の眼は黒いまま、鉛色の光を失った。
「………そうか、『裁者』の能力……私は影を失うことになる」
 沓水は鷹揚に頷いて右手を高く上げた。その手の中に古色蒼然とした木槌が出現した。沓水はその木槌を確認して微笑んだ。木槌が出てきたと言うことは、何を意味するのか詩音にも理解出来た。理由はわからないが『裁者』は独断で裁くことは出来ない。それがなぜ沓水を選び、カードに刻み、どういった理由と根拠を持って出現するのかは誰にも解らない。ただ、その力を発動する義務が『裁者』に生じる。詩音でさえ、本物を見るのは初めての事だ。
「…って事は、つまりそういう事だ。悪いな、三浦先輩」
 沓水は木槌を大きく天に掲げ、振り下ろした。水晶が砕けるような音が雷のように響き渡った。それは聖なる鐘となって木霊し枯れきった大地から青い芽が一面に伸び上がった。
「これって、36本だよね数えたくはないけど」
 沓水は珍しく穏やかに笑った。「ああ、多分な。おれも数えたくはないよ」
 三浦涼子は歯を食いしばったまま倒れ伏していたが、やがて霧が晴れるように透明になり、消失した。そこにはただ、人が藻掻いたような痕だけが残っていた。
電脳のゴシップとその事情──廻天百眼と執事の復刻

「おい、今日も休みだけど、由子のこと聞いてる?」
「そういや、ネットでみかけたような…ちょっと見てみる」
 Marc-Areをスタンバイモードからブラウザで「廻天百眼」をキーワードにググった。

────────頭髪、諦めていませんか? 奇跡の感謝の声殺到!───────
【特報・音楽】
活動休止状態だった「廻天百眼」が始動!
圧倒的なパフォーマンスと空前のサウンドに観客が騒然

今、「廻天百眼」が渋谷カストロ、新宿ロストでライブが全て発売10分でソールド・アウトという異常な状態が続いている。これはオムニバスで行われたロストのサマーギグ#4で出演した廻天百眼のサウンドのインパクトが引き金となって評判を呼び、ソロライブが急遽カストロで開かれたところ、熱狂した観客が暴動状態になりライブが中止されるという前代未聞の事件となった。すでにレコーディングされていた"Nothing But The Trues/Song of Sio"は限定版がタウンレコードで入荷と同時に5分で売り切れ、現在Yahhowで10万円を超えるプレミアが付いた。早くもメジャーレーベルの引き抜き合戦が始まっているが、廻天百眼HPのリーダー/Yuquoのブログの発言を読む限りではベーシストの国籍取得などの問題をクリアする契約であれば考えても良いと明言している。またファーストアルバムは名称は不明だがレコーディングは今月中に終了するとのこと。問題のベーシストの演奏についてはすべての音楽雑誌で「世界歴代ランキングレベル」との絶賛の声が贈られている。
来月にも渋谷公会堂でソロライブという情報まで流れていて、関係者によるとCDが発売されるとウィークデイでも関係なくソールドアウトが可能という話だ。また一部のBLマニアの間でキーボードのAmaneに熱い視線が集まっているという話題も。

「廻天百眼」メンバー ----------------------------------
Yuquo/Vocal
Akira/Gutter
Isotope Rain/Bass
K'sk/Drums
Amane/Keyboard

────────痩せた娘と服がかぶった時の対処法/特報Queens───────

「おいおい、すっげえことになってんじゃんよ」
「ま、由子はいつかやると思ってたけど、そうか、あの『フィヨルド』のベーシスト、捕まえたんだ……と言うことは、俺ってチケット全部タダじゃんか! やりい!」
「え?『フィヨルド』関係してんなら俺にも資格はあるだろ!」
「お前みたいのが来たら確実に女喰うからダメ」
「俺、仕事してんじゃん! 俺の努力は誰に褒められるのよ。褒められるどころか責められてんじゃん。評価しろよ! 認めろって言って居るんだよ! チケット寄こせ!」
「だからね、伊集院。それはそれ、これはこれなんだな。殺人者が人助けをしたからって罪は消えないんだな、これが」
 伊集院はいきり立って唾を飛ばす。
「どういう比喩だよそれは。俺にだってプライベートってもんがあるんだよ! 放課後、部活やって帰る途中で遊んだら責められるのかよ! 少なくとも誰かさんみたいに伊勢屋で酒喰らって帰ったりしねえぞ俺は!」
 照井はふんふんとまるで気のない頷きを返す。
「評判って言葉を知っているか? 俺は一応この学園の創立者の後継者だ。学園の評判をだな、少なくとも自分のクラスからだけは避けたいの。コンサートなんて公の場でわいせつ物を陳列されたら困るの」
「じゃあ! もうばれなきゃいいんだろ! 人殺したってばれなきゃ犯罪じゃねえんだからな! わあかった。わかったよ。もう健全にはやらねえ! 影でこそこそやってやろうじゃん。それならいいだろ」
 照井は意地の悪い笑みを浮かべ、大声で言った。
「伊集院は最近実の妹にも『ひどいこと』したって中等部じゃ有名な話だぞ。家族を手込めにするようなやつは人間じゃないよ。ケダモノってんだよ! どうだ、申し開きが出来るのか?」
「あ〜あのガキ〜!!」伊集院は泣きそうな顔をして顔を覆い、身体を傾がせて絶望した。実際ちょっと泣いていた。
「いいよ俺、ネットで暮らすもん。ネットでバーチャルにエッチするもん」
 伊集院はべそを掻きながらMarc-Areのパームレストに顎を乗せてベソをかいた。ディスプレイにはブラウザがリロードされて、新着のニュースを流していた。

────────誰でもラノベ作家になれる!有名変態作家の脱税法───────
【ニュース・社会】

野党の反対に追い風 「遺伝子保護法案」破棄か
臨床実験が破綻───審議会の解散も

────────信じられない!ラノベ出版社の黒い編集者、ロリコン?───────

 執事には名前がない。必要なときに必要な事だけすればいい。それは充分に解っている。しかしこのままでは涼子様だけでなく、お舘様まで健康の危機に晒されると判断したからには、やるべき事をやらなくてはならない。
三浦家の孫娘、涼子の部屋の襖の前で、執事は静かなバリトンを響かせた。
「お嬢様、いらっしゃいますか」
 当然のことながら答えはない。それは解っている。
「今日で三日もお部屋からでておりませんので、当家使用人代表としてまいりました」
 ここで少し間を置くこと。必須である。
 10分ほど経ってから、もう一度静かに声を出す。
「お舘様もお嬢様がふさぎ込んでいらっしゃいますので、お酒のみお召しになっておりまして、このままでは大変遺憾な事態になりかねません」
 ひととき待つ。ここからは命を賭ける事になる。
「お嬢様にお手紙が届いております。しかしながら襖の隙間に差し込むような真似は出来ませんので、お嬢様の机に置かせて頂きます」
 充分覚悟した時間が経った。かすかな、かすかな声がくぐもって聞こえた。
「襖を開けたりしたら許しませんよ」
「当然でございます。そんなことをしたら万死に値します」
 執事は正確に涼子の机がある廊下の壁に回り込み、封筒を持ったまま「滲んだ」。
「それではお嬢様、失礼致します」
 執事は階段を登ってきたときと同じように静かに降りて行った。

 涼子は布団に身体を起こしていた。だから、執事の手が壁の中を浸透して封筒を置いていったのを「目撃」していた。
 それは、まるで実は父親と母親が生きていたというニュースに匹敵する戦慄にも似た大事件だ。本当なら執事を問い詰めて聞き出さなくてはならない。しかし、涼子は執事を「呼ぶ」事さえ出来ないのだ。自分で築き上げてしまった壁がどれだけ厚くなってしまったのか思い知ることになった。
 聞きたい。その秘密を。三浦家で忘れられてしまったその事実を。いや、「真実」を。
 その耐え難い焦燥と葛藤に挟み込まれた涼子は身震いする、駄目だ、身震いするなんて三浦のすることではない。誰よりも堅牢な意志と自制心に満ちていなくてはならない。
 涼子は起こったことを整理して考える。ひとつ。執事は『影』を歩くことが出来る。ひとつ。執事は「カード」の一人である。ひとつ。執事は涼子が「カード」の一人であることを知っている。以上のことを認めれば、答えは自ずと知れて行く。
 「執事は自分が知らないことを何か知っている」という事実だ。自分の目で見た以上、それは認めなくてはならない真実だ。
 涼子はついに意を決する。部屋着から普段着に着替え、執事に逢いに行くのだ。いや、多分執事は待っているはずだ。それが執事の仕事なのだから。必要なときに必要な場所にいる。それが執事の存在意義なのであるから。
 涼子はもはや制服のようになってしまった絹のブラウスに袖を通し、紺のプリーツスカートを身につけた。靴下はいらない。そもそも野蛮な物だ。
 部屋を出て、階段を降りた所に執事は立っていた。いつものタキシード姿で、何事もなかったかのように。
「お許しを頂ければご案内申し上げます」執事は腰を曲げ視線を合わさずに慇懃に言った。涼子は、ただ頷いた。それだけだ。
 執事は先に立って、時折涼子との距離を確認しながら歩いて行く。
 そこは涼子が一度も訪れたことのない古い倉だった。そもそも広すぎる家だ。むしろ知らない所の方が多いだろう。執事はポケットから鍵束を取り出すと、重い錠前を古い鍵で開けた。手入れはなされているようで、特に気になる軋む音は聞こえない。倉の上部には明かり取りがあり、想像していたよりは倉の中は明るかった。
 倉の突き当たりに、奇妙な扉があった。アール・デコ調の装飾が施され、手入れはなされているが、恐ろしく古い。しかし、考えてみれば嘘か誠か知らないが、三浦という性になる前に「古事記」に出てくるほどの旧家であるらしい。こんな物は「新しい」のだろう。
 ただ、扉には鍵のような物は見当たらず、四面体の窪みが付いている。よく見ると、何やら細かい文様のような物が刻まれていた。執事はポケットから鎖の付いた八面体の金属を取り出した。それにもまた、文様が刻まれている。それの向きを確かめるようにして、執事は扉の窪みに合わせた。まるで自動ドアのようにゆっくりと扉が開き、淡い午後の光に薄ぼんやりと照らされた部屋が現れる。
 隠し部屋だ。涼子は確信した。その部屋の中に、促されて涼子は入っていった。
 そこに見た物は信じられない机の上の様々な道具だった。筆や顔料、羽根ペンや彫刻刀、それに大小様々な鋏。
 そして涼子の目を疑わせる物がその作業机の上に乗っていた。
 それは粉砕されたかのように千切れた古いカードと、その隣に並んだ新しいカードだった。それは千切れたカードの複製が作られた現場だったのだ。黒髪の、白い衣を纏い、鉛色の瞳をした少女の像。カードの下の帯に書かれた文字の名は「皇姫」。

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