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陰陽師@二次創作小説コミュの鍾馗について 1

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※注意※

・陰陽師主題なのにハイパー中国史お勉強タイムとはこれいかに。ツッコミは受け付ける。
・いちお、鍾馗にかかる部分は、大凡史料に基づいてます。詳しくはあとがき的ななにかで。


※説明回に充ててるお話をまだうpしてないので、主人公さんの紹介を少々。不親切設計ですみません。説明回うpしたらこの部分は消します^^;
 ・主人公は、立場は変わらんのですが、所謂プレイヤーの分身ではありません。
 ・主人公さんの前身は宋の官人、女の人。


……おk?

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 梅雨も明けた、ある晴れた日の事。

 書を紐解く気にもなれなくて、待春は自室でごろごろと暇を持て余していた。この時間は友人達も皆出仕しているので、遊びに行くあてが無い。かといって市を覗きに行くのは、陽脚が強くて躊躇われた。

 今でこそ大分慣れたものの、待春の長じた地はこれ程にじめじめとした暑さはなく、この季節になるとどことなく怠さを感じるのが常だった。元々、外で元気に走り回るよりも、屋内に引きこもる性質であったので、この頃は特に外に出るにしても日の出前か、暮れかけから夜にかけてか、兎に角陽脚を避ける傾向にある。

 外に出るという選択肢の無い待春は、ふらりと訪ねてきて、目下書物に夢中になっている鍾馗をぼうっと眺めていた。一応、府庫に充てている部屋もあるのだが、そちらは倭書が殆どで、鍾馗曰く興味が無いらしい。というか仮名文字を覚える気が無いらしく、専ら鍾馗が訪れるのは府庫ではなく待春の自室だった。

 以前はこの室の蔵書も府庫に置いていたのだが、漢籍は開く者が限られているので、自室に移したのだった。府庫を(自主的に)管理している(というか最早住み着いていると云ってもいい)文車妖妃が、読めないから分類出来ないと愚痴をこぼし、何とかしろと待春をせっついたのである。読めるんだったら手伝え、と度々拉致られていた鍾馗までもが待春に文句を言い、仕方がないと待春が重い腰を上げて今に至る。

 雪女に頼んでこしらえた氷嚢を抱え込みながら、じっとその様を見ていた待春だが、そろそろ本当に飽きてきた。

 ふと、傍に在った碁笥を引き寄せる。

 
「鍾ー」
「……」


 ひょい――ぽす。ころん。

 中に詰まっていた黒石を一つつまみ上げると、徐にそれを投げつけてみた。が、反応は無い。


「鍾ってばー」
「…………」

 
 ひょいひょい――ぽす、ぽす。ころころ。

 次は、二つ投げてみた。大した距離でもないし、全力で投げつけている訳でもないから、痛い筈はない。ただ、鬱陶しかろうとは思う。しかし、やはり反応が無い。こうなったら根競べだと、また待春は碁笥に手を突っ込んだ。


「正南ー!」
「………………」


 ひょい、ひょいひょい――――ぽす、ぽす、ぽす。ころころ、ころん。

 3つを投げてみたが、やはり反応が無い。根競べだとは思ったが、余りに反応が無くては詰まらない。

 面倒になった待春は、ざらっと碁笥に手を突っ込んで、今度はそのまま握れるだけ握り込んだ。此れで反応なしなら、次は碁笥毎投げつけてやろうかと思う。生粋の文人である待春とは違い、武の心得もある鍾馗のことだから大丈夫だろうと、文字通り他人事の様に考える。

 その不穏な空気を感じたのか、振りかぶった待春が石を投げつける前に、鍾馗がとうとう振り返った。待春はにやりと笑う。


「ええい、何だ!」
「詰まらん」
「ガキか!」
「ふふん。唐代から生きる鍾公に比べれば、若い事は認めるわ」


 悪びれた風でもなく答える待春に、鍾馗ははあと一つ溜息をついて手にしていた書を閉じた。正南、と字で呼ぶ位だから、大した理由ではないとは解っていたが、本当に下らない理由だとは。
 成行きで待春と式としての契約を結んではいるが、それ以前の、云わば友人関係であった頃の感覚が強すぎて、待春は今でも基本的には字で呼んでくるし、鍾馗もまた、待春を字で呼んでいる。逆に言えば、待春が鍾馗と自分を呼ばわる時には、何か真面目な用向きであると察することが出来る。まあその殆どが、安倍氏に押し付けられた何やかやであることは、可哀そうだから指摘しないが。


「強いて言うなら……若いというか、幼いだろう」
「うん?」


 待春を上から下までさっと眺めて、鍾馗は言った。
 はて、と待春は首を傾げた。流石に成人してから大分経つし、倭に逃れてくる前も含めて、出仕していた期間もそれなりに長い。外見もまあ年相応で、幼いと云われた事はない。鬼として人の理を外れた者からしてみれば、100も生きない唯人など皆子供の範疇に入るという事だろうか。先の行いが、という事については微塵も考えなかった。


「お前は確か、進士及第だろう。進士は50でも若い方らしいぞ」
「ああ、そういう……。でも、私の時は、進士科一本だったし」


 笑って言う鍾馗に、ぽん、と手を打って待春は頷いた。

 鍾馗の生きた唐代の科挙(※)は、待春が受験した頃と違って色々な科目があった。そもそも科挙という語は、「『科』目による選『挙』(※)」から来ている。複数ある科目によって合格率に大きな差があり、明経科では30歳でも遅い方、逆に進士科では50歳でも若い方、と当時は言ったらしい(※)。最も唐代とはいえ、そう揶揄されるようになったのは鍾馗が死んでから大分後に秀才科が廃止されてからの事なのだが、鍾馗は死後も長い事宮中に居たから知っているのだろう。

 なんにせよ、突破するには余りに狭き門であることは、宋代の今でも変わりはないのは確かである。


 でも、と何かを言いかけて、待春は言葉を引っ込める。



2へ続く⇒http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=70830990&comm_id=5786901


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【科挙】
 官人の登用試験。宋代だと3年に一度くらい。正確に言うと、郷試→会試→殿試という本試験3つが毎年一つづつ実施されて、それが3年で一サイクル回るので、最短で3年に一回ってこと。殿試まで突破して、漸く科挙に受かったと云える。武科挙は武官の登用試験。科挙よりはザル(笑)

【選挙】 
 今の私達が思う投票して云々の選挙じゃなくて、単に郷挙里選や九品官人法と云った科挙以前の制度も含めて、伝統的に官僚登用手続きをそう呼んでるに過ぎない。多分現代の選挙もそいうながれで選挙って呼んでるんじゃね? たぶん。

【50でも〜】
 唐代(秀才科が廃された後)では進士科の合格率は1%〜2%程度だったらしいよ。受験者1000人に対して合格者が20人程度とか。すごいね。

コメント(2)

50歳で合格…当時なら、合格から2、3年もしたら寿命で死んでしまいそうですね。(゚o゚)
いや、しかし
よく調べられていて凄いです。

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