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哲学の森コミュの時間

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先日、時計の電池がきれて動かなくなったので、時計屋さんに行って電池交換をしてもらいました。交換をしてもらっている間に店内をフラフラしていたら、あることに気付きました。店内には多くの時計があるのですが、それぞれ微妙に時間がずれているのです。当然か(^▽^;) ん?当然か( ゚д゚)!?

それからというもの、時間とは何であるのか?と、わけの分からないことを考えています。今の時間が知りたければ時計を見れば分かります。でも、様々な固定概念を切り捨ててもう一度時計を見ると、ただ一定のリズムで針が回る機械に見えるのです。でも実際にそうなのです。

私たちは生活をする中で、つい基準になるものを探してしまうのです。その代表的なものとして時間があります。でも時間とは曖昧なもので、実は流動性のあるものだと最近知りました。例えるなら→鉄は硬い。ダイヤモンドに比べれば柔らかい。
つまり、基準になるものを変えるとがらりと見え方が違ってきてしまうものです。

地球が誕生してから地球環境は激変し続けています。現代にいたるまで46億年もの時間が経過していると考えると気が遠くなりますね。でも、その地球環境の激変は今私たちのいる場所で実際に起きた出来事なのです。ここで起きたことなのに、テレビや本などのメディア経由でしか見聞きしたことがないから、実感がわかない。それは時間が経過しているからなのでしょう。では時間とは何であるのでしょうか?

PS.最近大学の友達に指摘されました。「そんなことばっかり考えてっから、彼女できないんだよ(-ι_- ) 」 
ι(`ロ´)ノウルセー!!

コメント(13)

そもそも時間とは存在するのでしょうか・・・
時間とは、今も流れていて1秒、また1秒と過ぎていくもの・・・時間は確かに存在するのでしょう。
しかし、それは時計と同じく人間が作り出したものではないでしょうか? 時計は時間に合わせて動いているのではなく、時間が時計に合わせて動いているというのはどうでしょう?
なら時計が止まれば時間も止まるのか? と言われちゃどうにもなりませんが・・・w

例えば、重さの単位グラム。
身近に存在し、人は、特に女性は自分のグラム数を気にする。
しかし、グラムとはもともと存在したのだろうか?
単純に考えて「重さ(重い軽い)」は重力があるのだから昔から存在していたが「グラム」は人間が目安として作り出したののでしょう。

時間や他の単位も同じことが言えるのかもしれません。
人間が人間のために目安として作り出した・・・
さらに、そういった単位は互いを掛けることができません。
5g×2gは何でしょう? 2秒×4秒は何でしょう?
最後に、5m×2mは何でしょう?
他の2つと何が違うのでしょう?
なるほどなるほど。

とても熱い意見が聞けてとても嬉しいです(^▽^)

私は、「自然」と「人工」とは必ずしも"対"ではないと考えます。「人工」は「自然」の一部にしか過ぎないと思うのです。私たちはすぐ自惚れてしまう生き物ですから、「科学の発展が環境破壊を促したのだ」とか勘違いしてしまう。所詮、私たちは自然の摂理に従わざるを得ず、宇宙の流れに逆らえはしないのです(あまり極端にすると超自然主義者に成り下がるのでこの辺でストップ)
そう考えると、「俺って何てセカセカ生活してたんだろぅ?」ってくだらなくなってきちゃうもんです(^▽^;) だからこそ、小さな幸福を心から喜べる人間でありたいと思う今日この頃・・・。
>Mitsu
自分を確かめることはできないのかもしれない。
実際に、自分が生きているということは死なないとわからないとも言かもしれません。
私は、時々深夜にランニングや散歩をします。(通報された経験あり 笑)空は広くて月は明るい。 自分が生きているから空は広く、月は明るい。
自分を確かめることはできないけれど、自分以外を確かめることはできる。 たとえ自分が作られた自分であっても、その全ては自分であり、自分が全てを作ってきたとも考えられるのではないでしょうか?


>よはね
私も自然は人をも自分の一部として見ている気がします。
小さな幸福を喜べる・・・ですか・・・

幸福って何でしょうね?
日本は進歩し、生活は潤って、快適になった。
しかし、幸せになったのだろうか?
人間には欲があり、幸福とはその欲が満たされている状態とも考えられないでしょうか?
だとすると、便利で快適であればあるほど幸せには遠ざかっているのかもしれませんね。

「知らなければ幸せだった」のかもしれない。
たとえば、もしあなたがとても貧困な暮らしをしていて、「裕福」という存在を知らないのならば、一杯のラーメンで存分の幸せを感じることができるかもしれない。

もしあるとするならば、幸せの絶対量はいつの時代も変わっていないのかもしれませんね。
私は以前、人を鏡に例えた詩を書いたことがあります。出来栄えはさておき(゚ー゚; 内容は・・・

「私は鏡で、相手を映す
私自身が鏡でも、私自身は映らない
貴方も鏡、私と同じ」

みたいな感じでした(忘れた 笑)。

>Els
幸福を定義するのは難しいですよね(^▽^;) 
そこで、今まで生きてきて一番幸福を感じたのは何だろうと考えました。悩んだ結果↓
幼い頃怖い夢を見て、両親の寝室に泣きながら潜り込んで、間に挟まれて眠った時の安心感。





ん?時間と関係ないぞ? ま、いいか。ドンマイヽ( ´¬`)ノ
>Mitsu
なるほどなるほど。養老孟司の「唯脳論」に似ていますね。私も唯脳論についての話を先輩から聞いただけですが、私たちの世界は脳によって作られた世界である、といった内容でした。私は唯脳論について興味を持ったので近々目を通したいと思っています。

なるほど。「幸福」は定義してはならないのかもしれませんんね。
>Mitsu
過去の歴史についても同じことが言えますよね。
そして、それは確かめることすらできない。

「私たちは作られた世界の中で生きている」
こう考えることもできるのではないでしょうか?
「私の世界の中で人はあらゆるものを作っている」

例えば、世界は自分が生まれた瞬間に生まれ、自分が死ぬ瞬間に無くなる。 
>Mitsu
私が「世界の中心は自分」と考えるようになったきっかけです。
そもそも私が考えるようになったきっかけは「自分とは何だ? 世界とは何だ?」ということを思ったからです。
それを考えていくうちに、「全て」の根元には何も無いのかもしれないと考えるようになりました。

存在を確かめる方法が果たしてあるのでしょうか?
全てにおいての前提として「自分が存在している」と考え、そう考えるようになりました。

ヨハネさんの鏡の詩を借りますが
「私は鏡で、相手を映す
私自身が鏡でも、私自身は映らない
貴方も鏡、私と同じ」

私(鏡)にとって世界は映っているもの。 決して私は映さない。 私のいる場所は所詮私に映っているだけの場所であり、それが私のいる場所とは言いきれないか、あるいは言い切れるのか。 言い切るのなら世界は自分の中にあるのでは・・・言い切れないのなら・・・・?

仮に自分が中心と考えても、決してそれは排他的行為、思想に繋がるとは限らないと思っています(実は無意識の内に排他的になっているのかもしれませんが・・・)。 私あっての世界なのだから、私自身が世界なのだから、私の世界を受け入れよう。 私を世界に受け入れよう。
そんな風に考えていたいです。

排他的になるのは、感情ではないでしょうか? 信仰心や負けず嫌い。 どんな思想も、行為もそれ事体が排他的であるということは無いのではないでしょうか?

っと、長文書いててどこかおかしくなった気が・・・
しかし頭があまりまわっていない・・・orz
スイマセン、突っ込みお願いしますw
>Mitsu
なるほど。 やっとあなたの考えをある程度理解できたと思います。
なかなか理解できなくてスイマセン。
どんどんスレと違う方向へ進んでいるのでこのあたりにしておきましょう(笑)

私がなかなかあなたの言うことを理解できずに同じことを言わせて不快感を与えてしまったかもしれないので、もう一度謝っておきます。 本当にスイマセンでした。

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