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西田幾多郎コミュの純粋経験

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具体的なものは抽象的なもので、さらにそのもっとも具体的なものが「純粋経験」。

どういうことか知っている方いましたら解釈お願いします。

コメント(49)

>>ぎょくさん
私たちが普段具体的といっているものは抽象的だっていうのは分かりますが、反省も分析もされていない経験(純粋経験)っていうものはナニモノなんですかね?
>>なべorまっきーさん
僕が言いたかったのはまさに?の意味における「真実在」です。舌足らずですいませんでした。

ようするに、解釈も分析も反省もされいないものとはどういうものを言うのかというのが知りたいのです。

答えは出そうにないですよね^^;
>下村寅太郎の解説とは、岩波文庫版の「解題」のことでしょうか。

いま話題となっているのはその中の「「具体的なものから抽象的なるものへ」は西田哲学の本来的な志向であるが、本書はその最も具体的なるものを「純粋経験」としている」(p251)という部分についてだと思います。


まさにその部分からの引用です。


>全ての思惟のような抽象判断に先立って生きられている具体的で現実的生が『善の研究』では純粋経験と語られているということだと僕は読みました。

その具体的で現実的生な純粋経験は具体的には(本来の用語)どういうことを言うのでしょうか。
>>なべorまっきーさん

<<具体的なものは抽象的なもので、さらにそのもっとも具体的なものが「純粋経験」。
→具体的なものは抽象的なもので、さらにそのもっとも具体的なものが「純粋概念」。>>

についてですが、「具体的なものは抽象的なもの」で言われている「具体的なもの」と、「さらにもっとも具体的なもの」で言われている「具体的なもの」とでは、同じ「具体的なもの」と言われていますが、全く違った「具体的なもの」だと思うんです。

先ほど、経験を言い表す例を書かせていただきましたが、経験を言い表そうとする時には、経験を反省すると思うんですが、そうすると、経験は分析の「対象」になってしまいます。

おおよそ、何かについて語る時には、その何かを対象として捉えて分析することで語っていると思います。「目の前の机は大きい」と言う場合には、目の前の机を対象化しているわけです。

しさし、現実に経験している経験そのものは、対象化されていません。経験の真っ只中いいるとでも言えばいいのかなと思います。

反省によって「対象化された経験」は、経験そのものでは既にないと思うんです。そして、それを分析して、言葉を多く用いて具体的に言い表す。その時の「具体的」は、抽象的。

それに対して、その真っ只中にいるような、現実の経験そのものは、対象化したら違うものになってしまう以上、言い表すこともできないと思うんですが、しかし、全てが具わっているままの経験そのものだから、これを具体的と言うことができる。

(ただ、「その真っ只中にいる」とい言い回しは、すでに反省して分析して、「経験のなかにいる経験している自分」を導きだしていることになってしまいます。比喩的な言い回しとしてつかいました。)

そういうふうに思います。



長くなってしまいすみません。
>>リザさん

>私たちが普段具体的といっているものは抽象的だっていうのは分かりますが、反省も分析もされていない経験(純粋経験)っていうものはナニモノなんですかね?

実際につねに経験しているものでありながら、言い表すことのできない、経験そのものだと思います。
>>ぎょくさん

言い表すことができない経験そのもの。

納得しました。
そうか。

『即今、此処、自己』という禅の言葉が、「純粋経験」と同じ、あるいは、かなり近いことを指しているのかもしれません。

でも、これじゃ「善の研究」じゃなくて、" 禅 "の研究ですね。
>>なべorまっきーさん

それです!!

文章自体意味をなさないということが西田哲学ではないでしょうか。

西田の文章をあれこれ解釈している時点でもはや純粋経験はできないですし。

JUST FEEL NOT THINK
>>なべorまっきーさん

もともとの引用文が

「「具体的なものから抽象的なるものへ」は西田哲学の本来的な志向であるが、本書はその最も具体的なるものを「純粋経験」としている」

とのことなのですが、この引用文だと

「具体的なものは抽象的なもので、さらにそのもっとも具体的なものが「純粋経験」」

とは、違う意味になると思います。

そして、「具体的と抽象的」の意味も変わって来ると思います。さらに「対象化されたものも、具体的であり、また抽象的でもあるが、そういう判断自体に意味がない」ということにはならないと思います。

そもそも、

「具体的なものは抽象的なもので、さらにそのもっとも具体的なものが「純粋経験」」

についての解釈とのことだったので、フッサール現象学に対する批判を援用して、解釈してみました。おそらく、整合性がとれていたとしても、もともとの引用文とは合致しないと思います。
>>なべorまっきーさん

はい!まったく僕はその通りだと思います☆

「(純粋経験とは)毫も思慮分別を加えない真に経験そのままの状態を言うのである。
……自己の意識状態を直下に経験した時、いまだ主もなく客もない、知識とその対象とがまったく合一している。
……何らの意味もない事実そのままの現在意識あるのみである。」


(『善の研究』より)
この純粋経験というものを味わおう味わおうとして仏教における禅定の試みもあるのだろうと思います。
人間は純粋経験、直観の後にたちまち反省的思考に巻き込まれてゆく。
これをただ反省的思考の中に巻き込まれたままでおかない努力こそ、純粋経験、直観にじかにしっかりと立脚しようとする『善の研究』の立場であり、それは同時に仏教における止観の試みでもあった。
しかし、もちろん一旦純粋経験とか直観というものをしっかりととらえたなら、それだけで人間の生活が成り立たないこともまたあらためて明らかになる。
すなわち純粋経験や直観と反省的思考をともに包容する自覚があらためて問題になる。
『自覚における直観と反省』で打ち出された立場だ。
「この書を『善の研究』と名付けたわけは、哲学的研究がその前半を占めてはいるけれども、人生の問題こそ中心であり、終結する所であると考えたからだ。
純粋経験というものを唯一しっかりした実在であると考えてすべてを説明したい、というのは私がだいぶ前から持っていた考えである。
初めはマッハなども読んでみたが、どうしても満足できなかった。
そのうちに、『個人があってから経験があるのではない。経験があってから個人が立ち現れるのだ。個人的区別よりも経験のほうが根本的である』と考えるに至って独我論を脱することに成功し……」

(『善の研究』序文より。78910の現代語訳)
純粋経験とは単一でそれ以上分析できないものとか、瞬間的なものとかを意味しているわけではないと西田さんは言う。そうではなく、具体的な意識が厳密に統一されてあるものなのだと。

まず、それ以上分析できない単一性を決して含意しないということについて西田さんは言う。すなわち、さまざまに並立する精神的諸要素が結合されて一つになったものが純粋経験なのではなく、
むしろ分化発展という重層化を内包した一つの構築的体系こそが純粋経験なのだ(僕の理解に立った言葉で表現させていただきました)。このいわば垂直的な分化発展を内包した重層構造が厳密に統一されてある時、それは純粋経験と言える。
そして西田さんは意識の発達、分化発展の観点から、この純粋経験が持つ重層的体系構造について説明する。
すなわち、私たちは初め、初生児として明暗の別すら定かではない混沌たる統一の意識を持つに過ぎない。
そしてそこから多様なる種々の意識状態が分化発展してくるわけだが、実は私たち一人一人の具体的意識というのは、これら分化発展の諸段階のさまざまな意識状態を重層的に内包しながら一つの体系を作り上げているものなのである。
しかし、上の僕の解釈には当然、疑義をとなえる方もいらっしゃるかと思います。そこまで考えるのは西田さんの考えから逸脱しているのではないか、と。
皆さんの正直なご意見、ご指導がうかがえたなら嬉しいです。
すなわち、西田さんが体系とか体系的発展とかと言ったって、そんなに根本的な所から(発展の原初段階から)の発展やそれを包括した体系を言っているわけではなく、
ただ物の全体を知覚するのに、眼の運動とともに注意が自ら推移しながらやがてその全体を知るに至る程度のことを言っているに過ぎない、
という別の解釈がありうる。
例えばなのですが、
マクドナルドで「コーラ」を頼んだのに、間違って「アイスコーヒー」が入ったカップを渡されたとします。
両方とも「カップは同じ」で、見え方も同じ「黒い液体」なので、
頼んだ人はパーフェクトに「これから自分はコーラを飲むのだ」と思ってそのカップの中の液体飲むでしょう。

そうしたら……、次の瞬間、人はどんな「経験」をするでしょうか?
まず最初の一瞬、思っていたのと全く違った味が口の中に広がり「なんじゃこれ?」と混乱するでしょう。いや混乱の前の瞬間は「コーラでない」ことすらわからず、ましてやそれが「アイスコーヒー」であることに気付くには1秒ほどはかかります。
同時にその時には「私が●●を飲んでいる」という「私」すらも無いでしょう。

その本当の最初の最初の、何物でもない未分化な溶液みたいな一瞬の瞬間の「経験」、
その時の経験こそが「純粋経験」というものなのではないでしょうか。

西田はそれを、
人が風に当たった時、そのほんの最初の一瞬に感じる、未だ「風」でもないし、未だそれを感じる「私」もない、
その「風のざわざわ」という純粋な感触こそが「純粋経験」と言っているのではないかと思うのですが……。


>>[39]

注文通りの飲み物が出てきて、それを飲む時にももちろん純粋経験はありますね。
第一編第一章「純粋経験」に次のような一節がある。

≪それで、いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、すなわち単に事実である。これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。≫

うどんを無心に食べているときに味わっているうどんの味は純粋経験である。しかし、「ここのうどんはうまいなぁ、ひょっとしたら河内屋のうどんよりうまいかも知れん。」と考えたりするのは純粋経験ではないと言っているように受け取れる。これだと思惟は明らかに純粋経験ではないことになる。しかしこの文のすぐ後に不可解な説明が続く。

≪しかしこの統一、不統一ということも、よく考えてみると畢竟程度の差である。全然統一せる意識もなければ、全然不統一なる意識もなかろうすべての意識は体系的発展である。瞬間的知識であっても種々の対立、変化を含蓄しているように、意味とか判断とかいう如き関係の背後には、この関係を成立せしむる統一的意識がなければならぬ。≫

どうもこの「統一」ということが理解できない。純粋経験と純粋経験でない経験の区別が定かではない。ここで考えられるのは、どうも西田は経験そのものと経験(思考)により生み出した命題を混同してしまっているのではないかということである。

「ここのうどんはうまい」と考える(あるいは感じる)こと自体は経験であるが、「ここのうどんはうまい」というのは命題(西田は「意味」という)であって経験ではない。「ここのうどんはうまい」いう命題はあくまで主観から生まれるものであり、そのの真偽は定かではない。しかし、「ここのうどんはうまい」と考えた(あるいは感じた)ことは経験であり意識現象の事実である。これを純粋経験と区別する理由は見当たらないのではないだろうか。
>>[42]

>「ここのうどんはうまい」と考えた(あるいは感じた)ことは経験であり意識現象の事実である。これを純粋経験と区別する理由は見当たらないのではないだろうか。


確か西田さんもそういうことを言っていたのではないでしょうか。初めは思考をすべて純粋経験から除外するような書きっぷりでいて、筆を進め、考察を進めるうちに思考の成立自体も純粋経験してるではないかと気づいたような展開になってたように記憶しています(今、手元に同書がありません)。
ではなぜ西田さんは、この一見対立する二つの受けとめをそのまま並記するにまかせて、最初からより厳密に書き直すということをしなかったのか。
この順番的気づき・洞察がまさにそれ自体、大事だと思っていたからではないでしょうか。
この順番で気づいてゆくことこそまた真実だ、真実の体験だと思っていたからではないでしょうか。
>>[43]

ならば、われわれはいつでも純粋経験の中にあるのであって、この世界は純粋経験以外のなにもない。という趣旨であれば私には名にも異論がありません。
西田が主客二元の立場をとらないのは良いとして、主客を混同することがあってはならないと思う。観念論というときの観念は「私」の観念であって、そこに他者の観念などは無い。西田の純粋経験もその所有者は無人称ではあっても、それは決して他者のものではありえない。

そういう意味で「善の研究」第2編第2章の中の次の一節には非常に大きな問題がある。

≪ かくのごとき難問の一は、若し意識現象をのみ実在とするならば、世界は凡て自己の観念であるという独知論に陥るではないか。またはさなくとも、各自の意識が互いに独立の実在であるならば、いかにしてその間の関係を説明することができるかと言うことである。しかし意識は必ず誰かの意識でなければならぬと言うのは、単に意識には必ず統一がなければならぬと言うの意にすぎない。若しこれ以上に所有者がなければならぬとの考えならば、そは明らかに独断である。然るにこの統一作用すなわち統覚というのは、類似せる観念感情が中枢となって意識を統一するというまでであって、この意識統一の範囲なる者が、純粋経験の立場より見て、彼我の間に絶対的分別をなすことはできぬ。もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するの故を以って一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであろう。  ≫(「善の研究」岩波文庫第97刷P.74-75)

これだと、例えば剣術の名人同士が真剣勝負をした場合に、無念無想の境地になって相手が自分か自分が相手かの見境もつかないように状態を想像してしまう。もしかしたら、どちらが切ったか切られたかの区別がつかないような気さえする。しかし、「痛っ!」と感じたら、それは自分が切られたのであり、次の瞬間倒れているのは自分であって相手ではない。もちろんその逆もある。「彼我の間に絶対的分別をなすことはできぬ」というようなことはあり得ない。はじめから「彼」の純粋経験などは存在しないのである。
西田さんは意識が多層構造をなしているということまでははっきり言っていないようですが、日常の彼と我を分けて考える意識よりもっと深い意識の層では、彼と我が明確な境界を失ってくる、ということを言っているのではないでしょうか。
>>[46]

意識の中に彼の意識が混じってくるということはあり得ないでしょう。
西田の「意識現象が唯一の実在である」という言葉は、カントの「すべては表象である」という言葉に相当する。ただ、カントはそれらすべての表象に「『私は考える』ということが伴い得る」ということから「統覚」による統一を措定するが、西田はそれをしないで、ただ「統一」と言っている。
主客二元に陥らないというのは一つの見識だとは思うけれど、「善の研究」は「純粋理性批判」ほどの理論的に堅牢ではない。

>>[45] に戻ります。
>「かくのごとき難問の一は、若し意識現象をのみ実在とするならば、世界は凡て自己の観念であるという独知論に陥るではないか。」

それ程の難問でもないように思う。「世界は凡て自己の観念」であるならば、「自己」という概念も剥落していく。それこそ主客二元を脱する唯一の道筋である。
ここで、「自他の意識の間にも同一の関係を見出す」などと言い出すのは場違いというか、なにか混乱があるとしか思えない。

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