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南京大虐殺論コミュの所謂「三百人斬り」について

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南京法廷に於ける「裁き」は、その法的不備や正義を著しく欠いた点で、数多のBC級戦犯裁判の中でもひと際「異彩」を放っておりますが、とりわけ両少尉とともに処刑された「三百人斬り」の田中軍吉の判決ほど、当該裁判の本質を表したものは無いと考えます。一方、このカフカ的状況下に於いて田中が見せた度量は、死地へ向かう両少尉をどれほど心強く支えたか、想像は難くないでしょう。戦争裁判の本質を看破し、堂々と死地に赴いた田中という存在は、この極めて不当な裁判で日本人が見せた矜持を体現しているものと考えます。
また、所謂「百人斬り」問題が、その本質に於いて如何に議論するに値しないものかを如実に示した事例として、所謂「三百人斬り」を検証することは大変重要であるとも思料いたします。
以下、秦郁彦氏が当該問題を詳細に検証しておりますのでご紹介させて頂きます。

日本大学法学会『政経研究』第42巻第4号
秦郁彦論文「いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(2)」P97〜102より引用

「三百人斬り」のトリック

 ここで田中軍吉の「三百人斬り」事件を取り上げておきたい。すでに言及したように、田中は1947年4月に逮捕、南京へ移送された。最初は単独で取調べと予審を進めたが、12月の判決段階から3人の合同公判とされ、18日の判決文は3人の連名となった。死刑も、同じ翌年1月28日に執行されている。
 しかし向井、野田両人の起訴状、申弁書、弁言、上訴申弁書など一連の法廷書類が残っているのに対し、田中の遺族(長男の田中輝昭)に保管されているのは断片的なものにすぎない。
 したがって田中に関する裁判の経過は、他の2人に比べやや明確を欠く。判決文の記述も史料により多少の異同があり、一部はすでに紹介したので、次に法務省司法法制調査部が作製した「中国戦争犯罪裁判概見表」の要約記事を引用したい。

 昭和12年12月第6師団の中隊長として南京戦で計画的屠殺を以てその鬱憤を晴らすべく南京西南郊一帯において宝剣「助広」を以て中国人捕虜及非戦闘員三百余名を斬殺し、同14年漢口攻略後、湖北省の強盗を中国官憲が逮捕し死刑を宣告したのを同地警備隊長であった田中はこれを斬罪に処した。

 すなわち田中の罪状は南京戦の三百人斬りと、2年後の処刑一人の2件とされているのだが、前者はともかく後者は基本的な事実認識が資料によってかなり違う。田中が南京へ送られた直後の47年5月から半年に及ぶ予審段階における検事との応答を記録したものがある。第二歴史档案館所蔵資料を使って書かれた南京市文史資料研究会編『証言・南京大虐殺』(1984、前出)で、「田中は『皇兵』という本は田中が書いたものではないと云った」(47年5月29日)、「検察官が、田中軍吉が軍刀で人を殺している写真をかれに見せ・・・・・写真の中国人はかれが殺したということを認めた」(9月5日)、「わが湖北省通城地方で、一人の姓名もわからない中国人を跪かせて刀で叩き斬ったと供述」(9月20日)、「(田中は)正定、広済、全山および南京の西南で人を殺したことはあるが、三百人を殺したことは認めなかった」(12月12日)のような問答が引用されている
 通城は38年から39年にかけての田中中隊の駐屯地、正定以下の地名は転戦した場所である。後者は戦闘行為による殺人を意味するから、田中が認めた非戦闘行為による殺人は通城の一人だけということになる。それを立証する写真は中国档案館が編集した『南京大虐殺図証』に収録されているが、刀を振り上げている田中らしき人物は後姿にすぎないし、斬られる中国人も写っていない。
この写真を突きつけられて「自白」したとは信じがたいが、添付された文書によると、三百人斬りの証拠とされた「助広」の写真とともに在日朝鮮人の朴在文なる男が中国の駐日代表部へ「密報」したものだという。
 つまり朴が持ち込んだ材料が判決の唯一の証拠とされたことになるが、それは東久邇宮首相の私設秘書を経て飛行館に事務所を持ち、隠退蔵物資の摘発事業に関係していた田中が、朝鮮人の逆恨みを買い密告されたと遺族などへ伝わっている風聞と符号する。
 朴が2枚の「証拠写真」をどこで入手したのか経路は不明だが、『皇兵―田中軍吉隊将兵の手記』(同盟出版社)は1940年11月に市販され、12月には第70刷を重ねているから、当時のベストセラーと言ってよく、入手は容易だったろう。副題が示すように、この本は南京戦、武漢攻略戦に参加したあと湖北省に駐屯していた時期に田中中隊の隊員に書かせた戦記を集録したもので、中隊長だった田中自身の手記もふくまれている。
 田中軍吉は陸士37期生、近衛歩兵第三連隊で東久邇宮連隊長の旗手や中隊長をつとめ、1933年には新聞に「血の叫び」と題した小説を連載したり、国家改造運動に首をつっこみ2.26事件にも危うく連座しかかるなど異色の青年将校だった。大本教の弾圧に巻きこまれ、36年予備役に編入されると、東宝映画へ入った。
 37年8月召集されて鹿児島歩兵第45連隊の第三大隊第12中隊長として出征、北支から中支へ転戦するが、中隊を主役とする東宝映画「戦ふ兵隊」(亀井文夫監督)の制作に協力している。『皇兵』は映画の原作と見なしてもよく39年夏、満州転勤を命じられた田中が旧知の作家山中峯太郎へ行李一杯の原稿を送り、出版を依頼したのが『皇兵』の由来らしい。
 この本には18枚の写真がグラビアで掲載されたが、そのひとつが出征にさいし友人から贈られた「助広」の写真で、横に「悲願三百人斬りの隊長愛刀助広」というキャプションが入っていた。
 素直に読めば、三百人斬りは他人の願望にすぎないのは明らかなのに、南京法廷は「三百人斬の隊長(田中軍吉を指す)愛刀助広の傍注」(判決文)と読みかえ、しかも南京戦での犯行とこじつけたのであった。

 ところで田中軍吉が南京戦で戦ったのは、南京城西南方の上河鎮付近であった。ここは城外北東方の紫金山と並んで、もっとも激しい戦闘が展開された地点で、のちに虐殺記念館が建設された場所に近い。
 激戦とは言っても、歩兵第45連隊は退路遮断のため南京城の西側を北上して下関埠頭へ前進中の37年12月13日の未明、脱出をはかって南下してきた中国軍(第51、58師)の大集団と遭遇、朝霧のなかの大乱戦となった。全滅した中国側の遺棄死体は2,300余とカウントされ、「死体は枕木を敷きつめたように泥濘地帯を埋め」という惨状を呈した。
 日本軍の死傷数は第11中隊が49人、田中の第12中隊は26人と以外に少ないのは、日本軍の火力が優勢だったこともあるが、脱出途中の中国軍に戦意が乏しかったことも影響していよう。
 つまり新河鎮の戦闘は日中両軍が正面から戦ったというより、敗敵の掃討選に近いが、中国側は「捕虜と市民2万8千人を虐殺」に仕立ててしまう。南京虐殺事件で主要な虐殺現場のひとつとなれば、第6師団から谷中将と田中大尉の2人を「いけにえ」に選んだ理由も理解できるというもの。2,300余人のうち田中の「助広」だけで三百余人斬ったという構図にしたのだが、いささか強引にすぎた。
 南京の虐殺記念館が百人斬りを特筆大書し、正面に向井、野田両少尉の等身大パネルを飾っていることは既述したが、なぜか三百人斬りと田中の展示は見かけない。「愛国虚言」は大目に見てもらえるといっても、百人斬はともかく三百人斬りは誇大すぎて誰も信じてくれないだろうし、「悲願三百人斬」の添え書がついた写真は逆効果になりかねないとの配慮からだろうか。
 三百人斬りほどの不条理は数多い戦犯裁判のなかでも珍しいが、獄中における田中軍吉の言動を書きとめた野田、向井の日記や手記で、彼の心境が窺える。
 2人の目に田中は「生死を超越した達観」(野田日記)の人と映じたようである。かといって寡黙というわけではなく、俳句を添削したり、義兄弟としての血盟を提案して「同甘共苦心身一体」の規約を作らせたり、ゆれがちな若い2人をそれとなく励まし、心服させていたらしい。
 俎にゆたりと鯉の昼寝かな
が遺族に届いた田中の辞世である。
<以上、引用終>

コメント(1)

南京法廷に於ける「百人斬り」「三百人斬り」判決の総括

トピック冒頭で、田中軍吉の南京軍事法廷に於ける起訴事由・事実認定等について、秦論文を引用することによってその不当性を検証いたしましたが、(谷裁判を除く)南京軍事法廷判決の問題点について、改めて整理したいと思います。

南京軍事法廷は「政治的ショー」であり、法律論的観点から極めて不公正な裁判でありました。ただ一方で、中国側が戦争で被った甚大な被害を背景とした「人民の義憤」を最大限考慮し、軍事法廷に於いて民衆へのアピールが必要であった点については考慮する必要はあるでしょう。日中戦争の惨禍は甚大であり、戦争要因の多くが日本側にあることは謙虚に受け止めるべきであると考えます。
田中軍吉並びに両少尉は、こうした日中両国の諸事情を背景とした、中国側の「既定の政治路線」に基づいて、粛々と処刑されております。

裁判が如何に不公正さについては、両少尉弁護人崔培均律師の法廷での反証が最も正鵠を射たものであると考えますので、改めてご紹介させて頂きます(以前ご紹介しております)。
<崔培均律師(弁護人)の弁護論要旨>
?新聞記事を証拠となしえないことは中国最高法院の判例がある。米軍も不問に付した。
?犯罪事実は積極証拠によって認定すべきことは中国の刑事訴訟法に規定がある。
?被告等が殺人競争をなしたことを証明する直接間接の積極的証拠(目撃証言等)はない。
?百人斬りは殺人競争を形容したもので、住民、捕虜等への行為ではない。
?判決が被告の関知しない南京大屠殺の共犯と認定したのは不当。
?百人斬りの新聞記事は、被告らとは全く別個に新聞記者が創作起稿したもの。被告の冗談を自白と認定しても自白は事実と符号せず、刑事訴訟法に違反する。
※現在、上記弁護論の内、?については信憑性は別として望月証言があり、?については両少尉が積極的に新聞記事報道に関与(協力)していたことは明白であります。また、秦郁彦氏の調査によって彼らが捕虜を斬殺した状況証拠も存在します。

一方、南京法廷では当該事実関係、並びに崔弁護人の主張は、法的厳密さでもって検証される事無く、猛烈なスピード裁判(両少尉の場合、1947年10月12日南京着、同年11月4日起訴、同年11月6日審理開始、同年12月18日死刑判決)で3名は処刑に至っております。

当該裁判の問題点の一つは、正当な手続によって保護を受ける請願人の法的権利を無視する軍事的必要性等が無かったにも関わらず、適正を欠く起訴状に基づいてスピード裁判が実施された点を挙げることが出来ます。確かに国共内戦等の国内事情はあったとは言え、それが当該裁判の不備を担保するものではありません。
また、弁護人等に本来与えられるべき調査並びに準備時間についても、上記裁判日程では著しく制限されたことが容易に推察可能です。中国側はこの点で後世に禍根を残したと考えますが、南京法廷開廷当時でさえ、例えばカーペンターGHQ法務部長は「中国側の公正な裁判実施への懸念」を抱いていたと云われております。

裁判の二点目の問題点は、戦時国際法に基づく裁判として、中国側が挙証責任を半ば放棄し、死刑判決を下した点にあります。
ハーグ陸戦法規違反行為の認知は、告発や新聞報道等によって存在しますが、戦時国際法に於ける不法行為の挙証責任は中国側にあり、中国側は半ばこの責任を放棄した点は否定できません。従って、戦時国際法成立要件を満たす事無く、死刑が執行されたことは誠に遺憾であったと考えます。
因みに、中国側は現在に至るもその歴史見解(公式見解)を南京法廷等に依拠しておりますが、説得性を有しない原因は上記の点にあります。近年、劉傑先生を始め若手中国研究者から、従来の歴史認識(東京裁判・南京法廷)からの「脱却」が主張されつつありますが、中国側研究者から見ても、当該裁判内容が歴史学的に見て問題を有するとの認識を抱いているものと理解可能です。

嘗て、有名な山下裁判を審理した合衆国最高裁判所に於いて少数意見を提出したマーフィー最高裁判事は、その少数意見書の中で次のように述べております。南京軍事法廷を考える上で有益あると思いますので、最後に皆様にご紹介させて頂きます。
「私の意見では、そのような手続きは(注:マニラ軍事法廷)我が国民(注:米国民)の伝統、若しくは人類の共通した理想を推し進めたるために彼等がはらった莫大な犠牲に対して、恥ずべきことである。瞬間の昂奮した感情は、疑いもなく満たされるであろう。しかし静かな残照の中で人々は、今日是認された訴訟手続に、無限に危険なかかわり合いが潜んでいることを自覚するに違いない。」

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