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福岡で映画を見るコミュのトーク・トゥー・ハー

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この映画について語るのは難しい。
とても微妙な、繊細な脚本なので、
まずストーリーを事細かに書かなければ、
ダイジェストのあらすじでは、
かえって誤解を招いてしまうであろう。
なので少し長くなるが、
まずストーリーを書く。

「トーク・トゥー・ハー」
看護士ベニグノがバレエの舞台を見ている。
となりの席にはライターのマルコが座っている。
二人は面識がない。
マルコは舞台を見て涙を流している。
マルコには別れた恋人がいて、
今でも時々彼女を思い出して涙することがあるのであった。

ベニグノは看護している植物状態のアリシアに
見てきた舞台の話をする。
アリシアは精神科医の娘で、
バレエをやっていたのだが、
4年前に交通事故に遭って植物状態になり、
現在は病院で24時間介護を受けている。
ベニグノはアリシアの看護士の一人である。

テレビで女性の闘牛士リディアがインタビューを受けている
リディアは男性闘牛士と別れたばかりだった。
マルコは家でそのインタビューを見ており、リディアに取材を申し込む。

やがてマルコとリディアは恋人同士になるが、
リディアは闘牛場で牛に突かれて植物状態になってしまう。
リディアがアリシアと同じ病院に入院したため、
ベニグノとマルコは友達になる。

ベニグノは子供の頃からずっと母親の身の回りの世話をしており、
女性とも男性とも性行為をした経験はなかった。
看護士の資格を取ったのも母親の介護のためであり、
アパートの部屋から見える、
向かいのビルのバレエ教室に通うアリシアの姿をいつも見ていた。
ある日アリシアが路上で財布を落としたのを見て、
アリシアを追いかけて財布を渡し、
そのままアリシアの家の前まで着いて行って、
アリシアの父親が自宅で精神科を開業していることを知る。

母親を亡くしていたベニグノは、
アリシアに遭うために精神科に予約を入れて、
カウンセリングを受けるが、
アリシアの父親に「どんな症状なのですか」と聞かれて、
「孤独なんです」と答える。診察を終えたベニグノは、
同じフロアにあるアリシアの部屋に忍び込んで、
髪留めを盗んで帰る。
その数日後にアリシアは事故に遭い、
植物状態になったので、ベニグノはアリシアの専属看護士になった。

ベニグノはマルコに患者に話しかけろと言うのだが、
マルコは脳が機能していないので話しかけても無駄だと思う。

そんなある日、リディアのもとに
かつて恋人だった男性闘牛士があらわれる。
実は二人は電話でよりを戻していて、
リディアは闘牛の試合のあとに、
マルコにそのことを打ち明けようと思っていたのだが、
その試合で牛に突かれて植物状態になってしまったのであった。
失意のマルコは病院を去る。

八ヶ月後、滞在先の外国の新聞でリディアの死を知ったマルコが
病院に電話するが、ベニグノはいなかった。
実はアリシアが妊娠していることが発覚し、
ベニグノはレイプ犯として刑務所に収監されていたのだった。

帰国してベニグノに面会するマルコ
マルコはベニグノのアパートに住むことになる。
アパートの窓からバレエ教室を見ると、
なんとそこにはアリシアがいた。

アリシアのお腹の子は死産だったが、
おそらくはそのことがきっかけで意識が戻ったのだった。

マルコはそのことをベニグノに伝えようとするが、
弁護士は、ベニグノが混乱するので伝えない方がいいと言う。

そしてベニグノは、おそらく刑務所を出ても施設に隔離されて、
一生アリシアには会えないだろうと絶望して刑務所内で自殺する。

マルコは一人でバレエの舞台を見て、
ベニグノを思い出して涙を流している。
同じ舞台をアリシアも見に来ていて、
休憩時間にマルコに「大丈夫ですか」と話しかける。

休憩が終わり、
バレエの続きがはじまったところで映画は終わる。

ちなみにベニグノがアリシアをレイプした真犯人であったかどうかは、
映画の中ではハッキリと語られてはいない。

この映画のネットでの評判を調べてみると、おすぎが、
「この映画を見て100年分の涙を流した」と言ったそうで、
それを鵜呑みにして観た観客はかなり失望したらしい。
ちなみに僕はポロッと涙がこぼれたくらいで、
100年分は泣かなかった。

しかし、それは映画宣伝のキャッチコピーであって、
そういう宣伝文句は話半分に聞いて映画に臨むべきであろう。
あらかじめ何かの期待とかイメージを持って映画を観ると、
その映画の本質を見誤ってしまうということはよく起こることなので。
なにしろ当時は「おすぎです・・・・」と言って映画を宣伝するだけで、
「映画評論家おすぎ」は500万円くらいのギャラがもらえていたらしいから。

ただ、おすぎは、この映画の監督の前作、
「オール・アバウト・マイ・マザー」のことも
「私の生涯のナンバーワンの映画」と大絶賛しているのだが、
実はそのことがこの映画を理解するうえでの重要なヒントになっている。

この映画の監督、ペドロ・アルモドバルは同性愛者なのである。

この映画ではあまり出てこないが、
「オール・アバウト・マイ・マザー」においては、
同性愛者が差別されているということが、
重要なテーマのひとつになっている。
そのあたりに、おすぎがこの監督を
大絶賛している理由があるかもしれないのだ。

現在おすぎは福岡に住んでいて、
福岡での番組出演をメインに活動しているが、
その、おすぎのレギュラー番組に、
「街でおすぎさんを見かけたので、
駆け寄って握手してくださいと頼んだら、
断られました」という内容のメールが来たことがある。

それに対しておすぎは、
「私はそういうのは断るのよ、
オカマなんて、嫌われてナンボの商売なんだから」
とコメントしたのである。

これは、のんきなローカル番組の視聴者にとっては、
とてもショックな発言だったに違いない。
しかしおすぎという人は、そういう決心で生きていて、
そういう決心で仕事をしている人なのである。
そこらへんの、声かけられたら握手したり、
サインしたりするタレントとは違うのである。

実は僕も街でおすぎさんを見かけたことがあり、
「なんか、おすぎに似てる人だな」と思って見ていたら、
目が合ってしまったので、微妙にほほ笑みかけたら、
睨まれてソッポを向かれた経験がある。

その決心の強さというか、ひねくれ度合いの強さは、
おすぎがオカマであることと無関係ではないだろう。
おすぎがオカマとして、しかも双子のオカマとして、
どれだけいじめられてきたことか。

今でこそ「オネエ」の人たちはテレビで大活躍しているが、
カルーセル麻紀とか美輪明宏とかの時代に、
どれほど異端視されていたかは、
僕くらいの年代なら、かすかに記憶に残っている。
おすぎとピーコもその時代に属する人たちである。

この映画は「孤独」がテーマになっていて、
「孤独」な人間は「愛」とか「温もり」を求めているのだが、
それを自分の当然の権利として
主張できない状況に置かれているからこそ、
その人は「孤独」なのだ。
ということが表現されている映画なのだと思う。

ネットに挙げられている感想の中には、
この映画で看護士ベニグノがする行為を「気持ち悪い」とか
「許せない」と評価している人が多いのだが、
ベニグノの気持ちはベニグノでなければわからないので、
それをただ自分の感情や、
自分の知ってる倫理観にあてはめて批判する人というのは、
同性愛の人の気持ちを一切わからないままに、
ただ、「同性愛は気持ち悪い」とか、
「理解できない」と言っている人と同じだと思う。

僕も同性愛者ではないので、同性愛者の人の気持ちはわからないし、
彼らがどれほど「孤独」であるのかもわからない。
ただ、自分を含めた周りの「普通」の人々が、
彼らをどれほど異端視しているか、
どれほど差別しているかは少しはわかるので、
それをヒントにして、彼らがどれほど「孤独」なのかは、
少しだけだけど推測はできる。
しかし「推測」することと「理解」することは根本的に違うと思う。

つまり、元々この映画は、
僕の体験したことのない「孤独」を
ベースにして作られている映画なので、
おそらく、僕には本当の意味で
この映画を「理解」することはできないのだと思う。

しかし、この映画においてはベニグノもマルコも、
けして同性愛者というわけではなく、
マルコも「孤独」を体験しているので
マルコにはベニグノの「孤独」が理解できる、
というストーリーになっている。

つまり、大本には
「同性愛者の孤独」というテーマがあるかもしれないのだが、
表面上は、この映画で取り扱われている「孤独」は、
誰にでも起こり得る「孤独」ということになっている。

しかしやっぱり僕には、
ベニグノがどれほど「孤独」だったのかは、
わからないと思うのである。

もっとも、こんな長い感想を、
何時間もかけて打っている僕というのも、
かなり「孤独」な人なんだとは思うのだが。

とにかく、この映画について語るのは、
やはり難しかった。
それだけの「深淵」なテーマがある映画なのだと思う。

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