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三つ巴@日本画展示コミュの3月18日意見板

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コメント(20)

佐竹です。坂上PCから。

昨日ダメだし後の会議で日本画のだめなとことか強く言いきる必要があるとの結論になりましたので、考えてみました。
自分の考えでの解説付き。
なお、作品の締め切りが非常にやばいことになっているので、基本大学にいます。ミクシー、メールはチェックします。夕方からまた坂上くん宅から参加します。

ーーー


「日本画」は唾棄すべき存在である。
「日本画」と一言に言ってもその言葉にはさまざまな意味が含まれるのだが、ここで言う唾棄すべき「日本画」とは現在日本国内でのみ認知されている市場の形態、美術のジャンルとしての「日本画」である。
「日本画」と自国の名前を冠しながら、そのジャンルとしての存在意義は日本国内においてのみ有用なものとなっている。独自の市場、独自の組織、独自の発展、そのどれもが国外では認知されることなく密かに存在しており、自己完結・自己満足で終わっている。

「日本画」という言葉は現在使われているようなドメスティックなジャンルとしてではなく、また特定の素材論や権威的に振りかざされるための言葉でもない。「日本人の/日本独自の絵画」という意味で世界に対して広く使われる必要がある。
我々は日本人である事の自覚をもち、日本独自のハイブリットな環境から生み出される感性と世界に誇れる技術力を武器に、改めて「日本画」というものの概念をその表現において形成していく。
世界が求めるものは表面上の美しさや精神性という曖昧なものではない。隠れた欲望や自我を表出させたものとしての「日本人の絵画」、日本の歴史や風土、文化や宗教などを引用してアウトプットさせた「日本独自の絵画」を展示する。



解説
日本画と呼ばれるものの全てを悪ととらえる必要はないと考えています。現状の日本画に不満があるのは、その排他的で、ありもしない崇高さにしがみつく団体であったり、市場やジャンルに対してです。大学の日本画の先生でも、個々では本当に美術や絵画と向き合っている方がほとんどです。否定はできません。
だからこそ、その作家ひとりひとりの本質を濁すように存在している団体、市場、ジャンルといったものは本当に不要なものと考えます。ある種の檻になっていて外に出る事もできず、外から全てをのぞき見る事も出来ない状態です。

仮にその檻が無くなれば、あとには美術大好き人間たちが残ると思います。その美術大好き人間たちの個々の主張がどこから来るかと言うと、日本という国に育まれた感性や優れた技術力に他ならないと考えています。
その主張自体は、美術を志す者全てに共通しているといえるので、それらすべてを「日本人の/日本独自の」という意味で「日本画」と呼べるのではないかと考えています。
今度は檻ではなく舞台としての「日本画」作る必要があると考えています。

僕自身の考え方も変わってきています。名称へのこだわりがとてもくだらないことに思えてきています、こだわりどころをまちがえたというか。自分のこだわりが果たして自分の本質かどうかを考える機会にもなっています。
一度降りてしまいましたが今度は間違えません。よろしくお願いします。

ーーー

さたけ
前半激しく同意です。もっと強くてもいいかも?

覚悟はできています。
舞台としての「日本画」確立させましょう!
すごくしっくりきています。
もう少し考えておきます・・・!!!

日比谷さんもおっしゃっているように、覚悟が必要ですね
現状の「日本画」は存在意義が無い。

名前だけが宙に浮いている。

「日本画」と一言に言ってもその言葉にはさまざまな意味が含まれるのだが、現状の「日本画」とは現在日本国内でのみ認知されている市場の形態、美術のジャンルとしての「日本画」である。
「日本画」と自国の名前を冠しながら、そのジャンルとしての存在意義は日本国内においてのみ有用なものとなっている。

小さい絵画しか需要のない狭い、日本でも確立していないマーケット。
画廊など、画壇の中でのコネクションのみで成り立つ展示体系。
院展や創画展、日展のような公募展組織。
そして現状では、素材論にしか終始することのない「日本画」。

そのどれもが国外では認知されることなく密かに存在しており、自己完結・自己満足で終わっている。言うなれば、絵画は「画壇の美術」に成り下がっているが、本来のあり方は「画壇と美術」というフェアな関係である。

またそういった大きな社会性のない画壇に依存する者は、限定された組織や市場で安心しきっているために、作品そのものも私小説的作品が多く見て取れる。私小説的作品は単なる内面を明らかにするだけの自己陶酔であり、無意味である。

そこには内面とは別の所で時代に呼応する作品の意義が必要である。それは作品そのもの、もしくは歴史的意義、言葉による付加価値を統合し、時代での意義を明確化する。こうすることで、世界のアートシーンに対抗する新しい日本の絵画を確立する。
特定の素材論や権威的に振りかざされるための言葉でもない。「日本人の/日本独自の絵画」という意味で世界に対して広く使う。

我々は日本人である事の自覚をもち、日本独自のハイブリットな環境から生み出される感性と世界に誇れる技術力を武器に、改めて「日本画」というものの概念をその表現において形成していく。
世界が求めるものは表面上の美しさや精神論という曖昧なものではない。日本の歴史や風土、文化や宗教などを引用してアウトプットし、隠れた欲望や自我という本質を表出させたものを「日本人の絵画」とし、展示として時代に対する意義を明確なコンセプト『現状の「日本画」は存在意義が無い』に設定した。


●ヒダリジンガロ
このコンセプトのもと、一見すると我が国に依存しているようにも見える日本画が世界に受け入れられる発端とする。それは、webでグローバルに受け入れられる拡張子 JPEGと同様に、世界から見る日本の標準フォーマットとなることが出来るはずだ。よってJPEG展というフォーマットを設定し、展示するに至った。
展示構成は関東と関西の二部構成にする。人の、興味や関心などの尺度が形成されるにおいて重要な要素として、育った風土があげられる。
この展示のメンバーは関東と関西からそれぞれ5人ずつで構成されており、
双方を一箇所に展示することにより、差異や共通点を明確にするとともに、作品が個人的なものから、社会的な相対性をもつものへの価値づけを行う目的を持つ。
まずは発端として「東対西」という構図を展開する。


●ネモウスジンガロ(?)
現存している若手作家や学生に、『現状の「日本画」は存在意義が無い』などと疑問を投げかけ、問題意識を定着させる。エジプトのFacebookの呼びかけから始まったデモクラシーのように、JPEG(日本絵画進化世代)ならではのmixiやツイッター等のソーシャルメディアの現代ツールを使い、JPEGデモクラシーを巻き起こす。
公募展に合わせた作品作りやギャラリーの要望に合わせた作家体系ではなく、JPEG(日本絵画進化世代)とソーシャルメディアをハイブリット化することで、組織やマーケットそのものを変革する。
こうして集めたメンバーJPEG48を結成し、個人の意見書とともに作品展示を行う。

●カイキキジンガロ
JPEGコアメンバーによるUSTを使ったトークショー。JPEG宣言。
千住博や村上隆といった世界で活躍する作家と、日本の画壇に依存する作家の違いを明確化し、現代作家の存在意義を討論する。
具体的に、大学依存の教育体系や個々のコネクションをどう打破し、世界を自分に引き寄せた形で、作品の意義、ドキュメント性、どう世界と闘うかを発見する。



現状の「日本画」は存在意義が無い。

ここを打破し、我らJPEGは存在意義を確立する。

長くなりすぎて分かりにくくなってると思います。
過激かつ分かりやすく。

コンセプトが「現状の日本画は存在意義が無い」だとただの否定でしかないので、「これが俺たちの日本画だ!」という風に、現状をふまえた上でどういう主張をするかが重要かと。


さたけ
>さたけ
今出ている意見

わかりやすいだけ
当事者としての感情に寄った部分がほしい
死人の権力にすがっている者に告ぐ。と題するとか
佐竹文と混ぜて長いすねw
果たし招待状

拝啓
 ますますご隆盛のことと存じます。私たち「日本画」を志していた者達は、先人たちのおこないに深く感謝しています。そこで学んだ多くの事は、自分の骨となり肉となり非常に重いものになりました。
 しかし、現存する若手作家には重すぎるのです。生きているのに埋もれて行きます。

 いま!行き場を失った学生よ!清聴せよ!

殺さなければ殺される、負の連鎖を断ち切り、殺すのだ。

 全ては自分たちが生き延びるため、未来を作るために。

 さあここに集え!我らJPEGとともに新世界を築こう。

末筆ながら、新たな「日本画」の生きる道のために、賛同して頂けると幸いです。

                                     敬具
権力にすがっている者に告ぐ。

現状の「日本画」は存在意義が無い。

名前だけが宙に浮いている。

「日本画」と一言に言ってもその言葉にはさまざまな意味が含まれるのだが、現状の「日本画」とは現在日本国内でのみ認知されている市場の形態、美術のジャンルとしての「日本画」である。
「日本画」と自国の名前を冠しながら、そのジャンルとしての存在意義は日本国内においてのみ有用なものとなっている。

かつて「日本画」と呼ばれた技術を学ぶためだけの美術教育。
小さい絵画しか需要がなく狭い、日本ですら確立していないマーケット。
画廊など、画壇の中でのコネクションのみで成り立つ展示体系。またそこに依存し、自立しているように考えている作家。
院展や創画展、日展のような公募展組織の古いシステムが成す現状。
そして、素材論にしか終始することのない「日本画」。

そのどれもが国外では認知されることなく密かに存在しており、自己完結・自己満足で終わっている。
限定された組織や市場で安心しきっているために、作品そのものも私小説的作品が多く見て取れる。

そこには内面とは別の所で時代に呼応する作品の意義が必要である。それは作品そのもの、もしくは歴史的意義、言葉による付加価値を統合し、時代での意義を明確化する。こうすることで、世界のアートシーンに対抗する新しい日本の絵画を確立する。
我々は日本人である事の自覚をもち、日本独自のハイブリットな環境から生み出される感性と世界に誇れる技術力を武器に、改めて「日本画」というものの概念をその表現において形成していく。
世界が求めるものは表面上の美しさや精神論という曖昧なものではない。日本の歴史や風土、文化や宗教などを引用してアウトプットし、隠れた欲望や自我という本質を表出させたものを「日本人の絵画」とし、展示として時代に対する意義を明確なコンセプト『現状の「日本画」は存在意義が無い』に設定した。
スカイプの意見まとめ


●坂上君の文章

権力にすがっている者に告ぐ。
現状の「日本画」は存在意義が無い。
名前だけが宙に浮いている。
「日本画」と一言に言ってもその言葉にはさまざまな意味が含まれるのだが、現状の「日本画」とは現在日本国内でのみ認知されている市場の形態、美術のジャンルとしての「日本画」である。
「日本画」と自国の名前を冠しながら、そのジャンルとしての存在意義は日本国内においてのみ有用なものとなっている。

かつて「日本画」と呼ばれた技術を学ぶためだけの美術教育。
小さい絵画しか需要がなく狭い、日本ですら確立していないマーケット。
画廊など、画壇の中でのコネクションのみで成り立つ展示体系。またそこに依存し、自立しているように考えている作家。
院展や創画展、日展のような公募展組織の古いシステムが成す現状。
そして、素材論にしか終始することのない「日本画」。

そのどれもが国外では認知されることなく密かに存在しており、自己完結・自己満足で終わっている。
限定された組織や市場で安心しきっているために、作品そのものも私小説的作品が多く見て取れる。

そこには内面とは別の所で時代に呼応する作品の意義が必要である。それは作品そのもの、もしくは歴史的意義、言葉による付加価値を統合し、時代での意義を明確化する。こうすることで、世界のアートシーンに対抗する新しい日本の絵画を確立する。
我々は日本人である事の自覚をもち、日本独自のハイブリットな環境から生み出される感性と世界に誇れる技術力を武器に、改めて「日本画」というものの概念をその表現において形成していく。
世界が求めるものは表面上の美しさや精神論という曖昧なものではない。日本の歴史や風土、文化や宗教などを引用してアウトプットし、隠れた欲望や自我という本質を表出させたものを「日本人の絵画」とし、展示として時代に対する意義を明確なコンセプト『現状の「日本画」は存在意義が無い』に設定した。

権力にすがっている者に告ぐ。
現状の「日本画」は存在意義が無い。
名前だけが宙に浮いている。

「日本画」と一言に言ってもその言葉にはさまざまな意味が含まれるのだが、現状の「日本画」とは現在日本国内でのみ認知されている市場の形態、美術のジャンルとしての「日本画」である。
「日本画」と自国の名前を冠しながら、そのジャンルとしての存在意義は日本国内においてのみ有用なものとなっている。

かつて「日本画」と呼ばれた技術を学ぶためだけの美術教育。
小さい絵画しか需要がなく狭い、日本ですら確立していないマーケット。
画廊など、画壇の中でのコネクションのみで成り立つ展示体系。またそこに依存し、自立しているように考えている作家。
院展や創画展、日展のような公募展組織の古いシステムが成す現状。
そして、素材論にしか終始することのない「日本画」。

そのどれもが国外では認知されることなく密かに存在しており、自己完結・自己満足で終わっている。
限定された組織や市場で安心しきっているために、作品そのものも私小説的作品が多く見て取れる。

そこには内面とは別の所で時代に呼応する作品の意義が必要である。それは作品そのもの、もしくは歴史的意義、言葉による付加価値を統合し、時代での意義を明確化する。こうすることで、世界のアートシーンに対抗する新しい日本の絵画を確立する。
我々は日本人である事の自覚をもち、日本独自のハイブリットな環境から生み出される感性と世界に誇れる技術力を武器に、改めて「日本画」というものの概念をその表現において形成していく。
世界が求めるものは表面上の美しさや精神論という曖昧なものではない。日本の歴史や風土、文化や宗教などを引用してアウトプットし、隠れた欲望や自我という本質を表出させたものを「日本人の絵画」とし、展示として時代に対する意義を明確なコンセプト『現状の「日本画」は存在意義が無い』に設定した。
スカイプ意見まとめ?

●日比谷さんの文章

果たし招待状

拝啓
ますますご隆盛のことと存じます。私たち「日本画」を志していた者達は、先人たちのおこないに深く感謝しています。そこで学んだ多くの事は、自分の骨となり肉となり非常に重いものになりました。
しかし、現存する若手作家には重すぎるのです。生きているのに埋もれて行きます。
いま!行き場を失った学生よ!清聴せよ!
殺さなければ殺される、負の連鎖を断ち切り、殺すのだ。
全ては自分たちが生き延びるため、未来を作るために。
さあここに集え!我らJPEGとともに新世界を築こう。
末筆ながら、新たな「日本画」の生きる道のために、賛同して頂けると幸いです。
                                                敬具
拝啓
ますますご隆盛のことと存じます。私たち「日本画」を志していた者達は、先人たちのおこないに深く感謝しています。そこで学んだ多くの事は、自分の骨となり肉となり非常に重いものになりました。
しかし、現存する若手作家には重すぎるのです。生きているのに埋もれて行きます。
いま!行き場を失った学生よ!清聴せよ!
殺さなければ殺される、負の連鎖を断ち切り、殺すのだ。
全ては自分たちが生き延びるため、未来を作るために。
                                     敬具
権力にすがっている者に告ぐ。
現状の「日本画」は存在意義が無い。
名前だけが宙に浮いている。
「日本画」と一言に言ってもその言葉にはさまざまな意味が含まれるのだが、現状の「日本画」とは現在日本国内でのみ認知されている市場の形態、美術のジャンルとしての「日本画」である。
「日本画」と自国の名前を冠しながら、そのジャンルとしての存在意義は日本国内においてのみ有用なものとなっている。
かつて「日本画」と呼ばれた技術を学ぶためだけの美術教育。
小さい絵画しか需要がなく狭い、日本ですら確立していないマーケット。
画廊など、画壇の中でのコネクションのみで成り立つ展示体系。またそこに依存し、自立しているように考えている作家。
院展や創画展、日展のような公募展組織の古いシステムが成す現状。
そして、素材論にしか終始することのない「日本画」。
そのどれもが国外では認知されることなく密かに存在しており、自己完結・自己満足で終わっている。言うなれば、絵画は「画壇の美術」に成り下がっているが、本来のあり方は「画壇と美術」というフェアな関係である。
またそういった大きな社会性のない画壇に依存する者は、限定された組織や市場で安心しきっているために、作品そのものも私小説的作品が多く見て取れる。私小説的作品は単なる内面を明らかにするだけの自己陶酔であり、無意味である。
そこには内面とは別の所で時代に呼応する作品の意義が必要である。それは作品そのもの、もしくは歴史的意義、言葉による付加価値を統合し、時代での意義を明確化する。こうすることで、世界のアートシーンに対抗する新しい日本の絵画を確立する。
我々は日本人である事の自覚をもち、日本独自のハイブリットな環境から生み出される感性と世界に誇れる技術力を武器に、改めて「日本画」というものの概念をその表現において形成していく。
世界が求めるものは表面上の美しさや精神論という曖昧なものではない。日本の歴史や風土、文化や宗教などを引用してアウトプットし、隠れた欲望や自我という本質を表出させたものを「日本人の絵画」とし、展示として時代に対する意義を明確なコンセプト『現状の「日本画」は存在意義が無い』に設定した。
つづき

●ヒダリジンガロ
このコンセプトのもと、一見すると我が国に依存しているようにも見える日本画が世界に受け入れられる発端とする。それは、webでグローバルに受け入れられる拡張子 JPEGと同様に、世界から見る日本の標準フォーマットとなることが出来るはずだ。よってJPEG展というフォーマットを設定し、展示するに至った。
展示構成は関東と関西の二部構成にする。人の、興味や関心などの尺度が形成されるにおいて重要な要素として、育った風土があげられる。
この展示のメンバーは関東と関西からそれぞれ5人ずつで構成されており、
双方を一箇所に展示することにより、差異や共通点を明確にするとともに、作品が個人的なものから、社会的な相対性をもつものへの価値づけを行う目的を持つ。
まずは発端として「東対西」という構図を展開する。
●ネモウスジンガロ(?)
現存している若手作家や学生に、『現状の「日本画」は存在意義が無い』などと疑問を投げかけ、問題意識を定着させる。エジプトのFacebook の呼びかけから始まったデモクラシーのように、JPEG(日本絵画進化世代)ならではのmixiやツイッター等のソーシャルメディアの現代ツールを使い、 JPEGデモクラシーを巻き起こす。
公募展に合わせた作品作りやギャラリーの要望に合わせた作家体系ではなく、JPEG(日本絵画進化世代)とソーシャルメディアをハイブリット化することで、組織やマーケットそのものを変革する。
こうして集めたメンバーJPEG48を結成し、個人の意見書とともに作品展示を行う。
●カイキキジンガロ
JPEGコアメンバーによるUSTを使ったトークショー。JPEG宣言。
千住博や村上隆といった世界で活躍する作家と、日本の画壇に依存する作家の違いを明確化し、現代作家の存在意義を討論する。
具体的に、大学依存の教育体系や個々のコネクションをどう打破し、世界を自分に引き寄せた形で、作品の意義、ドキュメント性、どう世界と闘うかを発見する。
現状の「日本画」は存在意義が無い。
ここを打破し、我らJPEGは存在意義を確立する。
新保さんの文

●きっとこの運動(?)に村上さんが火をつけるつもりでいます。
「1000人がついてきたとして、それを引っ張って行く志があるのか?』
と聞かれた事があります。

●野望編→革命前夜編→革命編


日比谷さんの文章

●重すぎて若手はつぶれてしまいます?(新保さん・つぶれて身動きできません。)
 =ゾンビ化

●日本画ゾンビハザード


福田さんの文章

●平山郁夫骨をしゃぶって生きてる皆さん
拝啓 

春暖の候、ますます御健勝のこととお喜び申し上げます。

私達「日本画」を志している者達は、先人様方の行いに深く感謝しております。
そこで学んだ数多くの事は、自分の血となり骨となり肉となり、非常に重いものとなりました。
しかし、現存する若手作家には重すぎるのです。生きているのに埋もれて行きます。

いま!行き場を失った学生よ!清聴せよ!
殺さなければ殺される、負の連鎖を断ち切り、殺すのだ。
全ては自分たちが生き延びるため、未来を作るために。

                                       敬具
JPEG展



拝啓

 ますますご隆盛のことと存じます。私たち「日本画」を志していた者達は、先人たちのおこないに深く感謝しています。そこで学んだ多くの事は、自分の骨となり肉となりました。しかし、現存する若手作家には幻想にしか見えないのです。前が見えなければ進めません。


いま!行き場を失った学生よ!清聴せよ!


殺さなければ殺される、負の連鎖を断ち切り、殺すのだ。

全ては自分たちが生き延びるため、未来を作るため集え。
日本画美大生の未来にはもっと可能性がある
敬具






権力にすがっている者に告ぐ。


現状の「日本画」は存在意義が無い。

名前だけが宙に浮いている。


「日本画」と一言に言ってもその言葉にはさまざまな意味が含まれるのだが、現状の「日本画」とは現在日本国内でのみ認知されている市場の形態、美術のジャンルとしての「日本画」である。

「日本画」と自国の名前を冠しながら、そのジャンルとしての存在意義は日本国内においてのみ有用なものとなっている。


かつて「日本画」と呼ばれた技術を学ぶためだけの美術教育。
小さい絵画しか需要がなく狭い、日本ですら確立していないマーケット。
画廊など、画壇の中でのコネクションのみで成り立つ展示体系。またそこに依存し、自立しているように考えている作家。
院展や創画展、日展のような公募展組織の古いシステムが成す現状。
そして、素材論にしか終始することのない「日本画」。

そのどれもが国外では認知されることなく密かに存在しており、自己完結・自己満足で終わっている。
限定された組織や市場で安心しきっているために、作品そのものも私小説的作品が多く見て取れる。

そこには内面とは別の所で時代に呼応する作品の意義が必要である。それは作品そのもの、もしくは歴史的意義、言葉による付加価値を統合し、時代での意義を明確化する。こうすることで、世界のアートシーンに対抗する新しい日本の絵画を確立する。

古くから外来文化を自国のものをミックスしながら、独自の折衷文化として発展を遂げてきた日本。
その中で日本人である事の自覚をもち、日本独自のハイブリットな環境から生み出される感性と世界に誇れる技術力を武器に、改めて「日本画」というものの概念をその表現において形成していく。

世界が求めるものは表面上の美しさや精神論という曖昧なものではない。日本の歴史や風土、文化や宗教などを引用してアウトプットし、隠れた欲望や自我という本質を表出させたものを「日本人の絵画」とし、未来に向けた「日本画」としての作品意義をここに示す。


日本画美大生の未来にはもっと可能性がある。





●ヒダリジンガロ
このコンセプトのもと、一見すると我が国に依存しているようにも見える日本画が世界に受け入れられる発端とする。それは、webでグローバルに受け入れられる拡張子 JPEGと同様に、世界から見る日本の標準フォーマットとなることが出来るはずだ。よってJPEG展というフォーマットを設定し、展示するに至った。
展示構成は関東と関西の二部構成にする。人の、興味や関心などの尺度が形成されるにおいて重要な要素として、育った風土があげられる。
この展示のメンバーは関東と関西からそれぞれ5人ずつで構成されており、
双方を一箇所に展示することにより、差異や共通点を明確にするとともに、作品が個人的なものから、社会的な相対性をもつものへの価値づけを行う目的を持つ。
まずは発端として「東対西」という構図を展開する。

●ネモウスジンガロ(?)
現存している若手作家や学生に、『現状の「日本画」は存在意義が無い』などと疑問を投げかけ、問題意識を定着させる。エジプトのFacebook の呼びかけから始まったデモクラシーのように、JPEG(日本絵画進化世代)ならではのmixiやツイッター等のソーシャルメディアの現代ツールを使い、 JPEGデモクラシーを巻き起こす。
公募展に合わせた作品作りやギャラリーの要望に合わせた作家体系ではなく、JPEG(日本絵画進化世代)とソーシャルメディアをハイブリット化することで、組織やマーケットそのものを変革する。
こうして集めたメンバーJPEG48を結成し、個人の意見書とともに作品展示を行う。

●カイキキジンガロ
JPEGコアメンバーによるUSTを使ったトークショー。JPEG宣言。
世界で活躍する作家と、日本の画壇に依存する作家の違いを明確化し、現代作家の存在意義を討論する。
具体的に、大学依存の教育体系や個々のコネクションをどう打破し、世界を自分に引き寄せた形で、作品の意義、ドキュメント性、どう世界と闘うかを発見する。
古くから外来文化【と】自国の【文化】をミックスしながら、独自の折衷文化として発展を遂げてきた日本。
その中で日本人である事の自覚をもち、日本独自のハイブリットな環境から生み出される感性と世界に誇れる技術力を武器に、改めて「日本画」という【舞台を】形成していく。
【修正19:51】

JPEG展



拝啓

 ますますご隆盛のことと存じます。私たち「日本画」を志していた者達は、先人たちのおこないに深く感謝しています。そこで学んだ多くの事は、自分の骨となり肉となりました。しかし、現存する若手作家には日本画の権力が幻想にしか見えないのです。

いま!行き場を失った学生よ!清聴せよ!


殺さなければ殺される、負の連鎖を断ち切り、殺すのだ。

全ては自分たちが生き延びるため、未来を作るため集え。
日本画美大生の未来にはもっと可能性がある

敬具





朽ちた権力にすがっている日本画画壇に告ぐ。


現状の「日本画」は存在意義が無い。

名前だけが宙に浮いている。


「日本画」と一言に言ってもその言葉にはさまざまな意味が含まれるのだが、現状の「日本画」とは現在日本国内でのみ認知されている市場の形態、美術のジャンルとしての「日本画」である。

「日本画」と自国の名前を冠しながら、そのジャンルとしての存在意義は日本国内においてのみ有用なものとなっている。


かつて「日本画」と呼ばれた技術を学ぶためだけの美術教育。
小さい絵画しか需要がなく狭い、日本ですら確立していないマーケット。
画廊など、画壇の中でのコネクションのみで成り立つ展示体系。またそこに依存し、自立しているように考えている作家。
院展や創画展、日展のような公募展組織の古いシステムが成す現状。
そして、素材論にしか終始することのない「日本画」。

そのどれもが国外では認知されることなく密かに存在しており、自己完結・自己満足で終わっている。
限定された組織や市場で安心しきっているために、作品そのものも私小説的作品が多く見て取れる。

そこには内面とは別の所で時代に呼応する作品の意義が必要である。それは作品そのもの、もしくは歴史的意義、言葉による付加価値を統合し、時代での意義を明確化する。こうすることで、世界のアートシーンに対抗する新しい日本の絵画を確立する。

古くから外来文化を自国のものをミックスしながら、独自の折衷文化として発展を遂げてきた日本。
その中で日本人である事の自覚をもち、日本独自のハイブリットな環境から生み出される感性と世界に誇れる技術力を武器に、改めて「日本画」というものの概念をその表現において形成していく。

世界が求めるものは表面上の美しさや精神論という曖昧なものではない。日本の歴史や風土、文化や宗教などを引用してアウトプットし、隠れた欲望や自我という本質を表出させたものを「日本人の絵画」とし、未来に向けた「日本画」としての作品意義をここに示す。


日本画美大生の未来にはもっと可能性がある。

我々が「日本画」である。


●ヒダリジンガロ
このコンセプトのもと、一見すると我が国に依存しているようにも見える日本画が世界に受け入れられる発端とする。それは、webでグローバルに受け入れられる拡張子 JPEGと同様に、世界から見る日本の標準フォーマットとなることが出来るはずだ。よってJPEG展というフォーマットを設定し、展示するに至った。
展示構成は関東と関西の二部構成にする。人の、興味や関心などの尺度が形成されるにおいて重要な要素として、育った風土があげられる。
この展示のメンバーは関東と関西からそれぞれ5人ずつで構成されており、
双方を一箇所に展示することにより、差異や共通点を明確にするとともに、作品が個人的なものから、社会的な相対性をもつものへの価値づけを行う目的を持つ。
まずは発端として「東対西」という構図を展開する。

●ネモウスジンガロ(?)
現存している若手作家や学生に、『現状の「日本画」は存在意義が無い』などと疑問を投げかけ、問題意識を定着させる。エジプトのFacebook の呼びかけから始まったデモクラシーのように、JPEG(日本絵画進化世代)ならではのmixiやツイッター等のソーシャルメディアの現代ツールを使い、 JPEGデモクラシーを巻き起こす。
公募展に合わせた作品作りやギャラリーの要望に合わせた作家体系ではなく、JPEG(日本絵画進化世代)とソーシャルメディアをハイブリット化することで、組織やマーケットそのものを変革する。
こうして集めたメンバーJPEG48を結成し、個人の意見書とともに作品展示を行う。

●カイキキジンガロ
JPEGコアメンバーによるUSTを使ったトークショー。JPEG宣言。
世界で活躍する作家と、日本の画壇に依存する作家の違いを明確化し、現代作家の存在意義を討論する。
具体的に、大学依存の教育体系や個々のコネクションをどう打破し、世界を自分に引き寄せた形で、作品の意義、ドキュメント性、どう世界と闘うかを発見する。
朽ちた権力にすがっている日本画画壇に告ぐ。


現状の「日本画」は存在意義が無い。

その名前だけが宙に浮いている。


「日本画」と一言に言ってもその言葉にはさまざまな意味が含まれるのだが、現状の「日本画」とは現在日本国内でのみ認知されている市場の形態、美術のジャンルとしての「日本画」である。

「日本画」と自国の名前を冠しながら、そのジャンルとしての存在意義は日本国内においてのみ有用なものとなっている。


かつて「日本画」と呼ばれた技術を学ぶためだけの美大教育。
小さい絵画しか需要がなく、狭い日本ですら確立していないマーケット。
画廊と画壇のコネクションのみで成り立つ展示体系。またそこに依存しているだけにも関わらず自立しているように考えている作家。
院展や創画展、日展のような公募展組織の古いシステムが成す現状。
そして、素材論にしか終始することのない「日本画」。

そのどれもが国外では認知されることなく密かに存在しており、自己完結・自己満足で終わっている。 限定された組織や市場で安心しきっているために、作品そのものも私小説的作品が多く見て取れる。

そうではなく、時代に呼応する作品の意義が必要である。それは作品そのもの、もしくは歴史的意義、言葉による付加価値を統合し、その時代での意義を明確化する。こうすることで、世界のアートシーンに対抗する新しい日本の絵画を確立する。

古くから外来文化を自国のものをミックスしながら、独自の折衷文化として発展を遂げてきた日本。
その中で日本人である事の自覚をもち、日本独自のハイブリットな環境から生み出される感性と世界に誇れる技術力を武器に、改めて「日本画」というものの概念をその表現において形成していく。

世界が求めるものは表面上の美しさや精神論という曖昧なものではない。日本の歴史や風土、文化や宗教などを引用してアウトプットし、隠れた欲望や自我という本質を表出させたものを「日本人の絵画」とし、未来に向けた「日本画」としての作品意義をここに示す。


我々が「日本画」である。
壁面展示可能なもの

素材自由

サイズは200×100cm以内 組作品可

発表/未発表 問わず。

美術系大学生に在学、卒業した30歳以内の方を対象とします。
学科等は問いません。

応募作品多数の場合は展示希望に添えない場合があります。
おはようございます。
笠原さんからの指摘を受けて改変しました。

現状の問題点の分析をすることで暗に批判をしています。批判をメインにする訳ではなく、あくまでもあたらしい「日本画」とはこうである、と言うことを目的としましょう。

全体的に昨日のものよりシンプルにしています。批判部分は大きく削りました。とくに作品自体や教育機関、画廊システムなどについて言及するためのものではないと思ったので省いています。

企画書【2ページ目】はとくにシンプルにしています。何をするのか分かりやすくしました。
企画書【3ページ目】の段落の構成は「宣言名」→「問題点の確認」→「それを踏まえ、日本画がどうあるべきか」→「今回の展示の目的」です。
段落や改行を増やすと読みにくくなるかと。

展示内容は大きな変更はなしでいいと思っています。
またご意見などあればよろしくおねがいします。


====ここから企画書====


【2ページ目】

「JPEG展」
Japanese Painting Evolutional Generation

我々は現代の日本においての新しい「日本画」の世代であると宣言する。
現状の「日本画」のあり方に異を唱え、その問題点を分析した上で解決策としての「日本画」のかたちを展覧会というかたちで提示する。
また、展示のみならず同世代の学生・作家に呼びかけを行い、今後の大きな活動をも視野に入れたものとする。


【3ページ目】

日本画進化世代宣言

現状の「日本画」とひと言に言ってもその言葉にはさまざまな意味が含まれるのだが、ここで言う「日本画」とは現在日本国内の一部でのみ認知されている市場の形態、美術のジャンルとしての「日本画」である。
「日本画」と自国の名前を冠しながら、その実体は国内に数多く存在する表現形態の中のひとつのジャンルにすぎない。独自の市場、独自の組織、独自の発展、そのどれもが国外あるいは国内においても大衆に認知されることなく密かに存在しているのが現状である。

「日本画」という言葉は現在使われているようなマイナーなジャンルとしての言葉ではなく、また特定の素材論や権威的に振りかざされるための言葉でもない。「日本人の絵画」という意味で国内外において広く使われる必要がある。
我々は日本人である事の自覚をもち、日本独特の折衷文化、ハイブリットな環境から生み出される感性と世界に誇れる技術力を武器に、改めて「日本画」というものの概念をその表現において形成していく。 日本の歴史や風土、文化や宗教などを引用してアウトプットし、隠れた欲望や自我を表出させたものとしての「日本人の絵画」こそが「日本画」である。
これからの日本の美術は現在市場や美術系大学で行われているジャンル(学科)分けが単なる技法や媒体の違いとしてのみ存在し、それらの全ての価値がフラットなものとして存在していくべきである。

まずは国内の市場において使われている「日本画」という言葉のイメージを「日本画」を専攻する我々から塗り替える。もっと自由で、もっと広い意味で、もっと親しみを込めてこの「日本画」という言葉が人々に使われることを願い、ここに「日本画進化世代」としての展覧会を開催する。

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