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内村剛介コミュの内村剛介、詩人達、ロシア語事始め、そして自己紹介。

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折しもブームだった五木寛之の『さらばモスクワ愚連隊』に便乗したわけではありませんが、僕は1972年9月に横浜港からソ連船に乗りナホートカからシベリアを横断してヨーロッパを目指したことがありました。
1972年といえば我々世代にとっては決して忘れることのできない
多くの事件や、その凄惨な傷跡の記憶を刻印された年でもありました。
全てに嫌気が差し、日本での生活や友人の存在もうっとおしく感じられるようになり、たいした旅の準備もせず具体的な計画もないままに日本を後にしてしまったのです。
船中と長い列車での旅の途中考えていたことは、内村剛介氏を介して知ったロシア、ソビエットの詩人、芸術家達の数奇な運命についてでした。
奇しくもモスクワで僕の割り振られたホテルはマヤコーフスカヤ駅(地下鉄)に隣接するホテル・ミンスクでマヤコーフスキー広場に立つマヤコーフスキー像を圧倒するように建設されたホテルでした。

内村氏の名訳により我々も知ることのできた詩人S・エセーニンは1925年ホテルで自殺をした。その自殺を厳しく批判したマヤコーフスキーも1930年自らピストル自殺(スターリンの刺客に殺されたとつ言う節も浮上しつつあるが当時は知るよしもなかった)をして果てた。
『ソビエト・ロシアの詩人達は革命のカレンダーに異常な日付を残して等しく銃殺、自殺、獄死という運命を免れてはいない。
スターリンによって銅像にされたマヤコーフスキーはそのとき二度目の死を死んだと言うべきであろう。』(注:長田弘 著 アウシュビッツへの旅より引用)
あるいは、死ぬことすら許されずあの厳しい目を見開き、その後のモスクワを、ソ連と崩壊の激動をどんな気持ちで見続けたのだろうか、というのは僕の感傷に過ぎないのですが、少しの感傷も許さなかった詩人へのレクイエムとは如何なるものなのでしょうか?

管理人さんに許可も得ずに勝手なトピックスを作成してしまいましたが、皆様の自己紹介と共に、ロシアとの出会い、あるいはロシア語ことはじめのようなものをお聞かせ願えれば幸いです。

コメント(7)

天才写楽を騙る凡人Sharakuの「自己紹介」、および「ロシア語ことはじめ」

特別に興味を持つか、学生時代に専攻したということでない限り、ロシア文学などは外国文学のなかでも敬遠される筆頭かも知れません。
僕だって学生時代に文学を専攻(音楽を専攻です、いまでもそれで生計を立てています)したわけでもないし、音楽だって特別にロシア音楽に惹かれたわけでもない。自分のコンサートに乗せるレパートリーとしては一曲もありません。
以前リクエストでラフマニノフの前奏曲とスクリアビンを弾いたことがあったかな?と言った程度です。
ロシアが何時どのようにして自分と繋がったのか分かりませんが、ドストエフスキーは今でも繰り返し繰り返し読みつづけている作家、最も好きな作家の一人です。
学生時代には珍しかったロシア人講師もおられ片言ですが、会話の指導を受けたりもしたことがありました。
そのへんが僕をロシア語学院(当時代々木にあった日ソ学院)の門を叩かせたのかも知れません。
チェーホフも若い頃よりも今の方が良く読んでいます。詩に関しては、日本詩ですら言うに及ばず、外国詩に興味など持ったりするとまさに四面楚歌、出口も入り口も見つからず混乱をきたすばかりであることを痛感致しました。
S・エセーニンという詩人を、これまた内村剛介という国語とロシア語に長けた文学者を通して知り、すっかり取り憑かれてしまい原語で格闘する羽目になりました。
ヨーロッパへ行くことになった時もソ連を経由したのは偏に音楽やバレーよりも文学や言語に惹かれてのことでした。
帰国後はNHKラジオの外国語講座ロシア語応用編(金、土に放送 )にT・アナトーリェヴナ女史とT外大の女生徒と三人で日本の文化を紹介するといったテキストをもとに会話中心の講座に半年間出演いたしました。1978年頃だったと思いますが連日続けられたT女史〔モスクワ大学の日本文学科出身)の厳しい勉強会のお陰で一時失語症をきたしたほどでした。でもその辺が僕のロシア語のピークだったのかも知れません。
その後、ソ連崩壊後のロシア文学もロシア語も著しく変貌を遂げ僕の学んだロシア語では全て歯がたたなくなりました。新たにロシア語学院(現東京ロシア語学院)に再入学したりしましたが、記憶力の減退は恐ろしいモノがあり半ば諦めざるを得ない状態であります。
あらためてsharakuさんの経歴を知り,非常に驚いております。
ナホトカ ハバロフスク シベリア鉄道!
ああっ!かつてのロシア文学青年(?)には,憧れ以外の何物でもありません。

私はsharakuさんより7歳年少の身ではありますが,1972年当時既にいっぱしの五木作品の読者のつもりでおりました。そう,あの年には本当にいろいろなことがありましたね。連日テレビの前で浅間山から送られてくる映像に釘付け状態でした。

けれども十代前半のときにああした事件に遭遇したことが良かったのかどうかは別として,あれ以降私は政治的なるモノから距離を置く生き方を身につけてしまったようです。

sharakuさんに啓発され,内村氏の未読の書をAMAZONに発注しました。「我が身を吹き抜けたロシア革命」と「見るべきほどのものは見つ」の二冊です。一昨日配達されました。これから少しずつじっくり読んでいこうと思っています。
>管理人殿
「我が身を吹き抜けたロシア革命」、「見るべきほどのものは見つ」の読後感は如何だったでしょうか?

 それにしても、今どのようにロシア革命の歴史をひもとけばよいのか、それに帰結するスターリン時代、そして内村氏の11年間のラーゲリでの体験をどのように読んだらよいのか?と時折考えてみたりいたします。また、ソ連崩壊とその後の内村作品を是非読んでみたかったりするのですが、その頃から内村氏の消息をあまり耳にしなくなり、はたしてご健在なのだろうかと案じたりしておりました。

 途中からの断片しか見てない上に、記憶が曖昧で申し訳ないのですが、十数年前になりましょうか、映画作家エイゼンシュタイを語るといったような内容のTV番組が放映されました。出演者は内村氏と山口昌弘氏だったと思います。(曖昧。他の方も参加されていたかも知れません。)
 革命的映画作家エイゼンシュタイがメイエルホリドをはじめとする映画演劇仲間、芸術家達が次々と粛正されるなかを巧みに政府と折り合いをつけるように生き延びる、その生き方こそが自らの芸術を裏切ることであり、挙げ句はスターリンの庇護のもとクレムリンの中に住居を得るといった状況こそ政府御用達作家に成り下がったに等しい、といって厳しくエイゼンシュタインを糾弾していた部分を鮮明に覚えております。
 それに対して山口氏からはそのような捉え方は一元的過ぎるとか、生き延びる作家や芸術家の孤独のようなことで反論したように思います。
しかし、内村氏のロシア語、言語学のように深い見識と人間に対する洞察力を持っいればこそスターリン獄舎の11年間での過酷すぎる生活がロシア革命の夢や希望、人間の良識といったものまでさえが彼自身の骨身を打ち砕くほどの絶望に変えたであろうことを想像することができます。よって山口氏の反論は全くリアリティの欠くものとしか僕には聴くことができませんでした。
 

 全くの門外漢がこのようなことを書くこと自体奥がましいのですが、古い記憶でありながら鮮明に覚えている言葉もあるのだな、と思わず書き込んでしまいました。
sharakuさん

ご返事が遅くなり申し訳ありませんでした。ご指摘の二冊未だに読了し得ておらず,汗顔の至りです。いずれ感想文の如きモノをご紹介できればと思っておりますが,はたしていったい何時のことになるのやら・・・?

ところで,sharakuさんの仰る「ロシア革命」を今どのように再評価,あるいは総括すればいいのか,というのははっきり云ってかなり重いテーマですね。

sharakuさんご指摘の通り,内村氏には11年に及ぶシベリア体験が「個人史」としてあり,彼自身も記しているように,その間彼は個人としてスターリンと向き合っていたのですから(勿論スターリンは彼の方など見てはいなかったのですが)自ずとその舌鋒は鋭くならざるを得ないでしょう。

そのことはスターリンのみならず,彼を中心としたソビエト体勢を支えた勢力にも向かわざるを得ないものですし,その意味でエイゼンシュタイン始め多くの芸術家や作家,詩人等にもその批判の矛先が向けられるのは,当然の帰結だと思えます。

しかし,そうしたこととは別に私はソヴェート政権が地上から姿を消したとき,今だからこそマルクス・エンゲルス思想というものを徹底的に批判すべきであろう,なぞというような不遜な思いを抱いたことがあります。

実を云うと,私の卒論のテーマは「アナーキズムの研究」という誠に大それたモノでした。それは第一次インターナショナルに於けるマルクスとバクーニンの有名な論争を中心に,マルクス主義はその萌芽の時から抱えていた問題点と限界性を論じる予定の論文でした。

しかし,数百枚に及ぶはずだった私のこの卒論は,なぜだか数十枚で中絶してしまったのです。やはり身の丈に合わないことをやるべきではなかったんでしょうね。担当教授からは「もう少し計画的にテーマを選択すべし。」というきつ〜いコメントを添えて,それでもこんな学生残しておくと後続の学生に悪影響が出かねないというお検察により,辛うじて卒業できたという誠に不名誉な経緯があります。

そのとき,これからはまあのんびりとマイペースでやっていこうと心に誓ったワケなのですが,のんびりという部分だけは着実に実現できてるのでは?なぞと考えておる今日この頃です。
懐かしい本が並びましたね!!
どちらも現在手許にありません。いつの間にか書棚からハード・カバーだけを残し本体が消えているなんてことは日常茶飯事のことだったのですが、汗牛充棟には遠く及ばぬもののあるべき位置に本が無く、覚えのない本が書棚にあったりするのはどういうワケなのでしょうか(大笑)
『見るべきほどのことは見つ』早速注文いたしました。これはまさしく武(剛)武将の典型として『平家物語』に描かれた、平知盛の辞世の台詞『見るべきほどのことは見つ』ではなかったでしょうか???(うろ覚え)


 偶然にも上智大学のHPで内村剛介氏についての記述に出会いました。
http://www.info.sophia.ac.jp/fs/russia/history.html

2004年頃の更新だと思いますので、最新情報とは言い難いものですが少しばかりホッとしたところです!


【内藤操(内村剛介)先生】内村剛介のペン・ネームで有名な内藤操先生は、ハルピン学院時代の染谷先生の教え子で、やはり長くラーゲリ生活を続けられました。帰国後は一時商社に勤めた後、北海道大学に勤務されていましたが、1978年に本学ロシア語学科に移られました。戦後の流行語のひとつにもなった「生き急ぐ」は、先生がその著作の表題として初めて使われた言葉です。ラーゲリで鍛えたその強靭な肉体は今も健在で、時々本学を訪れては、得意の早口で、後輩をシッタ激励されています。
イアンさん,1年以上放置プレーが続いていた,斯様にサビれたコミュにようこそ!

sharaku さんに続く頼もしき読み手さんの登場を心より歓迎致します。ご紹介頂いたジャック・ロッシの人となりは,上に上げておいた「我が身を吹き抜けたロシア」巻末で読んでおり存じておりました。というか,この著書自体がロッシに献じられたものでした。二人はラーゲリにおいて数年間をともに生きてきた仲だったのですね。

その中で胸に残った対話をご紹介します。もうすでに既読かもしれませんが,野暮を承知の上で。


−武蔵野は東大和市の内村家の応接間にジャックが座っていた。数日後には彼はパリの自宅に座す。−中略−さて,われら再び共有の時空を持つのはいつのことか。両者の思いは成り行き上,友という名に集約され,ジャックは「友の名に値する人称代名詞の数」をまこと一元論風に問い詰める。「期せずして欧風に」というべきか。

「ぼくらぜークは・・・・」
「?・・・」(無言)
「ぼくらゼークは」
ジャックが遮った。そしていきなりラテン語が飛び出してきた。
「汝の友の名を名指せ。そのとき汝自身,おのれが何者であるかを告げている。」そう言い切ってから今度はロシア語になった。
「『ぼくら』などとあいまいに言うなよ。「ぼくら=「ゼーク」もいただけない。−中略−ほどなくぼくはフランスへ戻るのだ。再会もあろうが別れには別れにふさわしいけじめがほしい。−中略−君は今「ぼくらゼーク」とか言ってスターリンらボリシェヴィキのまやかしに組みしている。『ぼくら』ではなくて単数の『君』と単数の『ぼく』!そしてこの『君とぼく』は「タワリシチ(同志)』の裏返しそのもの,少なくともタワリシチのワリエーションである『ゼーク』同志といったものじゃない。あくまでも1対1の単数形の『君とぼく』なのであって,それは『1対の友』ということのはずだ。ぼく一個にとっての一個の友の名を名指せとなればウチムラ以外ではないし,君一個としてもジャックを名指すことだろう。」
今度はウチムラの出番なのだが,そこには(無言)というト書きだけが残った。−



嵐の時代をともに生き抜いてきた者達だけに通ずる感情−などと書けば言葉が上滑りしそうですが−が,このときの二人に共有されていたのだと思います。

そんなことはともかく,かように怠け者の管理人ですが,これからもどうぞよろしくお願いします。

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