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内村剛介コミュのあなたの内村初体験は?

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とりあえず私が初めて読んだ内村剛介氏の著書は対談集でした。

「幕末は終末−内村剛介歴史対談集」昭和49年刊(新人物往来社)

対談相手は杉浦民平,五木寛之,井上幸治(立教大学教授),芳賀登(筑波大学教授)井上ひさしといった面々。
30年以上も昔の対談集であるが,今読み返しても全く色褪せていない。否むしろ今のような時代にこそ再度読み返されるべき一冊であるのかもしれません。

ところでトップページの写真はこの対談集から取り込みました。
著作権,肖像権ちょっぴり微妙です。


コメント(7)

始めまして。
学生時代(文学部ではありません)から読んでおりましたが、初体験といえるほどのものは、平凡社から出版されたドキュメント現代史4(スターリン時代)の編者としての内村氏だったと思います。
続いて手許にはありませんがソヴィエト抵抗文学シリーズだったと朧気に記憶しております。今でも手許にあり、ことあるごとに読み返しているのは三一書房刊の「我が思念を去らぬもの」です。
エセーニンの翻訳などに顕著だと思うのですが内村氏の優れた言語感覚には読むたびに敬服しております。
ところで内村氏はその後どうなさっておられるのでしょうか?
生きておられればかなりご高齢だと存じますが・・・・、
追記:
レニングラードのホテルで自らの血でかき綴ったという
彼の最後の詩、最後のフレーズが内村剛介氏の名訳ともども忘れられません。
(↓マウスで拾った文字なので誤字などあったらお許しください)


В этой жизни умирать не ново 

Но и жить、конечно、не новой

今日に始まる死ではなし
さりとて むろん ことあたらしき生でなし

(だったでしょうか?)
sharakuさん はじめまして。

書き込み有り難うございます。
なにやら筋金入りの読み手さん現る,ってな感じで嬉しくまた頼もしい限りです。

実は私の学生時代の恩師がハルビン学院関係者でした。
お一人は胡麻本蔦一教授,もうお一人は中田甫教授。内村氏の最初のロシア語の授業は胡麻本教授の文法だったそうです。また中田教授はハルビン学院の先輩でもあり,また卒業後そのまま学校に残り教師となったのでやはり内村氏の師匠筋にあたるわけです。

つまり,私は内村氏の不祥の弟弟子の末席に連なっているのでは?などとかなり図々しい思いこみを勝手に致しております。

sharakuさんが内村氏の言語感覚にも言及されておられますので,私からも一言。

今では誰もが当たり前のように使っている「生き急ぐ」という言葉も,たしかこの人の「生き急ぐ」から始まったのではないのでしょうか?「死に急ぐ」という言葉は昔から使われていましたが,生き急ぐという言葉はなかったように思われます。

内村氏の代表作である「生き急ぐ」というタイトルはヴァゼムスキー公の「初雪」(ПЕРВЫЙ СНЕГ)の一節からとられています。

И жить торопится, и чувствовать спешит

生き急ぎ また 感じせく

内村氏が現在ご存命かどうか,いろいろ調べたのですが,今いちはっきりしたことがわかりません。どなたかご存じの方がいらしたら是非ご一報をお願いします。

ついでに云うと先に挙げたハルビン学院の関係者,即ち私の恩師お二方は既に鬼籍に入られております。
でんごろうさんの書き込みを読み、得も言えぬ懐かしさに耽ってしまいました!
先ず、今ではその名前さえ知る人も少なくなってしまったであろうハルビン学院!
勿論小生が当時のハルビンを知っているわけではありませんので誤解のなきようにお願いいたします。
楡のハルビン 緑の都
国際列車が  今日も出る
花の東京と パリの空へ
虹の架け橋 なかどころ(ハルビン小唄)

アナーキーな大陸浪人の夢の街、はたまた西洋へつながる夢の街でもあったわけですね!
学院で教鞭をとっていらした胡麻本蔦一氏は内村氏ともども数奇な運命を辿られた方だと聞いております。学院時代にスターリン憲法批判を講義し、あの悪名高きロシア共和国刑法第五十八条でシベリアに抑留されたところソ連側から要求された大変な交換条件のもとに釈放されたなどという話も聞き及んだことがあります。

学院そのものがソ連側からはスパイの養成所としてみられ、アメリカからは親ソ派の温床と睨まれたわけですからそのご苦労は察して余りあるものです。
氏は帰国後、東京外大には就職せずにA知大学やT殖大学で教鞭をとったと聞き及んでおりますが、これは真実なのでしょうか?
ハルピン小唄!なんとまあ懐かしい!

って私もこの歌をリアルタイムで知ってるわけではありませんが・・・。たしか古賀政男作曲でしたね。作詞は当時ハルビン学院に在籍していた学生だったようです。

>アナーキーな大陸浪人の夢の街

ええ,まさにその通りだったようです。
何せハルビン学院の前身である日露協会の創設には,黒龍会の内田良平が関わっていました。というか黒龍会そのものが日露協会の前身と云うべきでしょうか。彼は玄洋社にも一時身を寄せており遠山満に師事していたはずです。玄洋社といえば,あの「ドグラマグラ」の作者夢野久作の父親杉山茂丸も創設時からのメンバーでした。

おっと,懐かしさのあまりついつい脱線してしまいました。

ところでお尋ねの胡麻本先生についてですが,A知大学にて職を全うされたのでは?と思います。(そう私もこのA知大学出身です)T殖大学については私は存じません。ひょっとして客員待遇とか講師という形で教鞭をとられたことがあったのかもしれません。これについてもご存じのかたがいらっしゃいましたらご一報をお待ちしております。

私がロシア語を教えていただいた当時,胡麻本先生は既にかなりのご高齢でした。「今日はヒヤリングをやる。」と授業にテープレコーダーを持参されたのはいいのですが,操作方法がわからなくなり結局授業が潰れた,なんていうようなほのぼのとしたエピソードがあります。

もうお一人の中田先生は内村氏と同様シベリヤに4年間の抑留の身となりました。これは先生ご自身から直接お聞きしたのですが,「俺はあまり重要人物じゃなかったんで4年で済んだが,内村は優秀すぎて11年もくらっちまったんだ。」とのこと。
ほろ苦いユーモアを感じたものでした。

sharakuさんのお陰で,懐かしい方達の懐かしい想い出に浸ることが出来ました。
有り難うございます。

これからもどうか宜しくお願いします。
記憶違いだったら大変申し訳ないのですが、内村剛介氏の本名は
内藤 操 とおっしゃるのではなかったでしょうか?
氏は1978年頃(?)北大から上智大学に赴任され1999年4月16日ハルビン学院同窓会幕引きと学院記念碑除幕式 には参列され、開会の辞を述べておられますからもし同一人物であれば当時までは確実にお元気でいらしたということですね!
(僕のロシア語の教師も上智出身で現在は慶応で教鞭を執っているのですが機会があったらお聞きしてみようと思っております。)

でんごろうさんは既にご存知だろうと思いますが、下記のサイトで情報を得ることができました。
http://www.keigado.co.jp/harubin.school.html

先述しましたハルビン小唄の作詞者は中村秀補という方でハルビン学院7期生(1926年)だったそうですね。
内村剛介氏の話題から逸脱してしまい申し訳ありません。

 
    
ご指摘の通り,内村氏の本名は内藤操です。
学生時代にそのことを知り,「剛介」と「操」という名前のギャップに少なからずにんまりしたことを想い出しました。

sharakuさんもロシア語を学んでおられたんですか?
うっひゃあ〜!これからはあまり知ったかぶりなことは書かない方がよさそうですな。

そんなことはさておき,ご紹介頂いたサイトは存じませんでした。
たいへん参考になりました。あらためて感謝,深謝です。
またハルピン小唄の作詞者の名前も始めて知りました。こちらも感謝,深謝です。

7期生だったんですね。
たしか内村氏は21期生だったと思いますので,14年先輩だったということでしょう。蛇足ながら10期生には「ルバイヤート」を翻訳された小川亮作氏がおり,彼の同期生にはあの加藤登喜子さんの父幸四郎氏がいたと記憶しております。

「逸脱」,大歓迎です。
これからもさらなる「逸脱」情報を希望します。

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