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仏教コミュの連立方程式 「空」とは何か、「色即是空空即是色」とは何かを解く

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空についての、いろいろな理解や定義、あるいは解釈について、延々と議論することも楽しいのですが、議論を集束させるために、それぞれの空理解で、色即是空空即是色を説明するとどうなるかということも含めてお話していただくと面白いのではないかと思います。

もちろん、これは色即是空空即是色に意味があるということを前提としています。

色即是空空即是色には意味がないと思っておられる方は、その考えを展開していただいてもかまいません。

では、よろしくお願いします。

なお、トピ主も、後ほどあらためて自説を展開したいと思います。

コメント(106)

> 「有る」ということについては、日常的・相対的な次元(世俗)においては>63でおっしゃっているとおりで、これを「言説の量」といいます。
もうひとつ、真理・絶対的な次元(勝義)においては上記のような瞑想によって知りうる「正理知の量」があります。
(上では言説によって説明していますが・・・)


「瞑想」というのは感覚器官で知覚することとそこから得られる知識及び正しい思考方法によって思考されるものではないということですね。

つまり、感覚器官で知覚されず、知識とはならず、正しい思考方法によっては知られないものです。

それは一体何ですか?

それは「言葉では言い表せないもの」であり「アートマン・神・道」などと言われるものでしょう。


>般若心経は「行深般若波羅蜜多時」とあるように禅定における境地(三昧)に於いての見解であり、勝義に於いての話です。
これを世俗でも「何も無い。十二縁起も四諦も無い」と考えるのはとんでもない間違いです。


たとえば禅定で「無い」ものがどうして世俗では「有る」のですか?
>般若心経は「行深般若波羅蜜多時」とあるように禅定における境地(三昧)に於いての見解であり、勝義に於いての話です。
これを世俗でも「何も無い。十二縁起も四諦も無い」と考えるのはとんでもない間違いです。


こんにちは。 少し不親切だったので。

では「世俗」で「何も無い」のであれば、何が有って、何が無いのですか? 
>世俗における、自身でで知覚すること(現量)と正しい思考方法によって思考されるもの(比量)では不十分です。

>それに対して、瞑想・正理知の量は空を現量で知るためのものです。


つまり「現量」には二つあるというこどてすね。 自身で知覚する(感覚器官で)ことでなければ「瞑想・正理知の量」とは何によって知覚するのですか? 感覚器官以外の感覚器官で知覚するということですか?


>ちょっと質問の趣旨がつかめないのですが、「世俗で何も無い」というのは法が生起していないということでしょうか?

「これを世俗でも「何も無い。十二縁起も四諦も無い」と考えるのはとんでもない間違いです。」これを受けてのことです。

「十二縁起も無く、四諦も無く、何も無い」のであれば、いったい何が「有」るので、何が「無い」のかということです。


「何も無い」のであれば、何かが有るとも無いとも言えないということでしょう。 


>いかなる有為法が生起していなくとも虚空という無為法が有ります。虚空にしろ、畢竟無にしろ、概念に仮に名をつけているだけにすぎず、実体性を欠き、空であります。

つまり世俗では「十二縁起も無く、四諦も無く、何も無い」が「無為法」は「有る」ということですか?

で、その「無為法」は「自身で知覚すること(世俗の)」ではない知覚で知覚したということですか?
>いかなる有為法が生起していなくとも虚空という無為法が有ります。虚空にしろ、畢竟無にしろ、概念に仮に名をつけているだけにすぎず、実体性を欠き、空であります。

その「有為法」とは「アートマン・ブラフマン・神・道・イデア」などと呼ばれるものでしょうね。

しかし「実体の無い空なるものが有る」ってどういうことでしょう?

私には実体のないものがどのようなものだかさっぱりわかりません。
>繋辞と存在辞の区別も解せない言説不全者が彷徨っているようで・・・(苦笑)。

こんにちは。

以前別の某掲示板であなたと同じようなことを言っている人がいました。

イデアリストですね。
>73

こんにちは。

では、またあなたには答えられない質問をしましょう。

「ここにリンゴが一個ある」。

この場合、あなたはどのようにしてリンゴか一個あることを知りましたか?


「これはリンゴである」。

この場合、あなたはどのようにしてこれはリンゴであると知りましたか?




「比丘たちよ、討論を通じて、人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。比丘たちよ。もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに、断定的に解答せず、分けて答えるべき問いに、分けて解答せず、反問して答えるべき問いに、反問して解答せず、捨て置くべき問いを捨て置かないならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしくないのである。

またもし、比丘たちよ、もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに、断定的に解答し、分けて答えるべき問いに、分けて解答し、反問して答えるべき問いに、反問して解答し、捨て置くべき問いを捨て置くならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしいのである。


討論を通じて、人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。比丘たちよ。もしある人が質問されて、よりどころとよりどころでないものをはっきりと立てず、仮定とするものをはっきりと立てず、了解した論議をはっきりと立てず、方法をはっきり立てないならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。

比丘たちよ。もしある人が質問されて、よりどころとよりどころでないものをはっきりと立て、仮定とするものをはっきりと立て、了解した論議をはっきりと立て、方法をはっきり立てるならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人である。

討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。比丘たちよ。もしある人が質問されて、矛盾して答え、他の方に話題をそらし、不機嫌になって敵意を示し不信をあらわにするならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない 」

と仏陀も言っています。
>77 論点先取・多問虚偽の標本採集トピかいなここは(冷笑)。


では、何についてどのようにして論点を先取りしているのですか? 「論点先取」という言葉の意味を理解ているならば答えられるはずです。

もう一つ、質問の仕方を変えましょう。 もっともあなたには答えられないという点については同じです。

この掲示板に書き込みをするには、パソコンなりなんなりの機器を操作しなければならないはずです。

たとえば、それがパソコンだとしましょう。 バソコンを起動するスイッチをあなたはどのようにして認識しましたか?

さらに文字を書き込むにはキーボードなどを操作したはずです。 それがキーボードである場合、キーボードに刻印されている文字をどのようにして認識しましたか?

まさかスイッチや文字を認識せず、どのように操作したか分からないとか、認識した覚えはないとはいわないでしょう。
>79、阿呆陀羅経さん、

>捨て置くべき問いを捨て置かないならば、このような人は、
比丘たちよ、ともに語るにふさわしくないのである。

>捨て置くべき問いを捨て置くならば、このような人は、
比丘たちよ、ともに語るにふさわしいのである。

捨て置くべき問いを発し続けてる某人はこの部分を読んでいないのでしょうかね?
>79
>80

こんにちは。

では「捨て置くべき質問」とはどのようなことでしょうか?

イデアリストであるならば「語り得ないものには沈黙しなければならない」というでしょうね。 

こういう人達は皆同じパターンで反応するので、扱いが楽です。


では「語りえないもの」とは何でしょうか?

それは「もの自体・アートマン・ブラフマン・神・道・神」などと「仮の名」でよばれるものですね。
>83 弁当を食べた後は弁当が空になります。
なぜ弁当がそこにあったのか、それは知覚による器と米や卵焼きなどによってです。空があるためには器+1という前提が必要です。

こんにちは。

「そこには何かが欠如している」ということが「無」の意味だということですね。

これはインドの正統な実在論であるニヤーヤやヴァイシェーシカの主張と同じです。

すると「無」も「有る」のであって、認識出来るということになります。


>器+1−1=空
無はその背景にあります。


違います。 


それはわざわざ「空」などと言わずに「弁当が<無い>」と言えばすむことですし、理解出来ることです。

ご飯の入った弁当箱からご飯を取り去ると弁当箱だけになります。 この場合「弁当箱にはご飯が無い(ご飯の無が有る)」という言い方が出来ます。 

別の表現をするならば「弁当箱にはご飯が欠如(空である)している」と言うことが出来ます。
>83 器+1−1=空
無はその背景にあります。


面白いので少し遊んでみます。

この式は誤っています。

器+1-1=器+0(1の無)


ですね。
自分はゼロ点

軸を動かすのは自分

マイナス1もプラス1も自分次第…


しっかり自分を自在に観るってことかなウインク

軸の動く音を聞き逃すな〜ウインク
みんな言葉ではなんとでも言えますってほっとした顔

トリップして来いよ揺れるハート

もっと空で遊べよ揺れるハート
もっと夢中になれよ揺れるハート
ていうか、Steveさん、日蓮正宗のコミュにでもいったら?
これについて連立方程式のように考え、あくまでも概念的思考の枠内で理解しようとすることは、ギリギリの所まで接近するという意義はあるでしょうが、
王道はあくまでも禅定において味わわれなければならないことを忘れてはならず、それゆえ元より限界のある接近法ですね。
わたしにとっての無常がわたしにとっての空であるハズ。

              ウダーナヴァルガ12章はそう読める

しかし「諸行無常」に比べると 真理の表現として「一切皆空」はランクが落ちる
「空」を主題にすると変なムードがただよう。
三(四)法印の仲間外れになったのも そういうことだと理解してます

どんなものであろうとそれは他にまったく依存せずに独立で存在しうるような力を持つものではない。
すなわち私たちの認識というものはさまざまなものを一つ一つとらえ、それによってどうしてもそこに無意識的な実体化を抱え込み、これが執着の因、苦しみの因となる。
この私たちの中の無意識的な実体化までも滅してしまおうとするのが空観である。
すべてのものを空として見切ることが心の底から実現した時、すなわち無意識的な実体把握までも滅するに至った時、私たちは空にしっかりと落ち着くことになる。
しかし、この空も執着され、実体化されるなら途端に空観を裏切ることになる。
空さえも抱きしめられるべき実体ではないことにすぐさま気づくなら、さっきまで落ち着いていた空はたちまちあらゆるものそのものとして再びありありと蘇る。
人も、この世の一切も、五種類の構成要素から出来ているんだと観察されたブッダは、その五種類―――色受想行識の一つ一つをさらに観察されて、どれもが無常だ、苦しみだ、無我だと観察されたことは原始仏典の中にたびたび記載されている。
これによって涅槃に到達することが修行の最終目標だとされていた原始仏教とちょっと異なり、般若経典群のあらわす大乗仏教は、
涅槃を知った者があらためて輪廻に還って、涅槃と輪廻が一枚であるかのような新たな眼でこの世界を生き直すことを教えているように受けとめられます。
仏教は、とても厳密で合理的な教えなんだろうなぁと思うけど、連立方程式とかにしてしまうと、無味乾燥で味気ないし、論理に執着すると、却って道が遠のくのでは?と感じるのは、杞憂だろうか?
仏教が合理的なのは、教義が無いことに、関連があると思います。
教義がないから合理がまあ強いわけです。

しばしば、教義を明らめようと、連立方程式を立てたりするんでしょうけど、
教義が無いので、無駄に終わる。無駄に終わればまだいいほうで、考え抜いてなんか教義を捻り出しちゃう。
禅宗的な感じっすね。
あっ、いい意味でですけど。
仏教の中でも、唯一教義が無さそう。
他の宗派は、なんだかんだ、作ってるように見える。
見えるだけかな?
ブッダにしても、自分が体得したところをあえて人を導くために言葉にしようなんて思ったところで(人間同士の伝達・伝道は少なからず言葉を使わざるをえない)、言葉という手段はたちまち何かを固定化し絶対であるかのように見せてしまうので、それはまさに体得したところと逆に作用することを敏感に察して、
「いやいや、言葉を使って伝道するなんてゆうことは根本的に無理な仕組みに人間は縛せられているな」と見て、伝道なんて所詮できないのではないかということも考えられたようですね。
>>[103]
浄土教も、弥陀の力にすがって救かる、これだけ。
これって哲学ベースの教義じゃないですもん。
神話っぽい。
しかしこれで済んじゃうところが、浄土教のすごいところです。
色即是空の「空」は一般に「恒常不変の実体はない」と解釈されており、この考えを基にして霊魂や死後の世界を否定する学者もいるようです。
ただしこの場合、イデアや霊魂などの目に見えない実体を「恒常不変」と定義づけた上で否定しています。永遠不変な実体は存在しないとしても、可変的流動的な目に見えない実体は存在するのではないでしょうか。
私は、身体が、誕生、成長、老いと変化しつつ存在しているように、もし霊魂が存在するなら、それは、ゆるやかに変化しながら存在し続ける「流動的なイデア」のようなあり方をしているのではないかと考えています。
多数派の見解とは違うと思いますが、私は「空」を「目に見えるもの(色)の元になる目に見えないもの」として捉えています。

唯識思想では、「阿頼耶識」は、生まれ変わりの本体であり「本当の私」である深層意識で、カルマが種子(しゅうじ)として貯えられるとされています。不滅の存在である阿頼耶識を、変わり続けながら存在し続ける滝にたとえると、肉体は表面に浮かぶ泡のようなものだといいます。
阿頼耶識は私がイメージしていた「流動的イデア」に近いと思いました。阿頼耶識によって、日常の「我」より深いレベルでの霊魂の不死や輪廻転生を説明することができると思っています。

空を「目に見えるものの元になる目に見えないもの」と捉えることにより、身体や霊魂を固定的な実体と捉えることによる執着を絶つとともに、「死ねば全て無になる」というニヒリズムに陥ることもない、希望に満ちた世界観を持つことができると考えています。

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