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「実践の倫理」読み合わせコミュのシンガーとその周辺

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シンガーはどのように読まれ、評価されているか。

シンガーに関する雑談です。

コメント(54)

>>13
いささかトピずれですが。
科学は自らその絶対性を放棄しているのが現在の状況だと思います。
「科学主義者」が科学の絶対性を言いだしたら、かなり低いレベルで自己矛盾を起こしていることになってしまいます。
せめてオカルト批判は科学の絶対性などという変なところから出てこないでくれと言いたくなります。
菊池聡などは、「これは科学的である」と言いつのる疑似科学の主張を、「少なくとも科学ではない」という形で退けていますので、そこらへんはやはり本職だなあと思います。

>>14
文人の類は芸能人のようなものですから、その文章の芸を楽しむのが正しい接し方でしょう。
思わず膝を打つことがあっても、もともと正しさを求めるものではないと思います(明らかに有害なものは批判が必要ですが)。
でも、時折「これはアタリだ」とニヤリとするものに出会えると嬉しいですけどね。
>>10

>ツイッターで、無介助分娩への大攻撃に対して以下のようにつぶやいたけれども
>みなさんスルー力高すぎです。
>
>胎児・新生児の命を守るというお話しですが、絶対に守らなければならないのですか。
>絶対に守れという原則なら中絶や選択的治療停止は認められないでしょう。だから
>彼女の行為は、限られた医療資源を使うための行列への割り込みは困るという点で
>批判するのが順当なような気がします。

にえべさんのつぶやきに自分が反論するのも何ですが、個人が自分の趣味を
密かに行うことと、テレビ番組でそれを肯定的に扱うこととは、やはり分けて
考えるべきだと考えます。

テレビ番組で無介助分娩を肯定的に取り上げれば、それが大変素晴しい行為で、
かつ報道出来る程には安全であると、不適切なメッセージを送信することになる。
不適切なメッセージは不適切な需要を喚起し、児の安全を願う人までもが、
無介助分娩という暴虎馮河に臨むかも知れない。これは中絶に反対する
生命至上主義者には容認できることではありません。

また中絶を容認する人たちにも、十分な反対理由となり得ます。中絶容認と、
望まれた児の安全を保障すべきと云う考えとは、何の矛盾もないからです。
中絶容認論者は、望まれぬ児を殺すことには同意しても、望まれた児を
あえて死の危険に晒すことにまでは同意していません。
あっ。
その「無介助分娩」とは、24時間テレビで扱われる予定だった(中止が決定した?)、あの実録エピソードですか?
望まれた/望まれぬの別を以て、児の道徳的立場が左右される。これはパーソン論と
功利主義とで正当化されうると考えます。胎児・新生児はパーソンとは云えず、十全な
道徳的権利を保有する存在ではない。パーソンでない有機体の地位は、親の外的選好に
よって決る。望まれた―則ち外的選好の対象となった―児は、保護される理由を持つと。
児の安全と成長とを願う親の選好は満たされるべき。そうすることが全体の福利に適う。
パーソン論と功利主義の観点からは、そう云う弁護がなされることでしょう。
もしも24時間テレビのほうだったら、誤解していました。
よくある(いや、「よく」というほどでもないか)、
「お産は自然なもの、自然にすることに意味がある、自然なお産をすることは子どもの命に優先する」
というラディカルな人たちの話かと思っていました。
タイムリーだから24時間TVのことだと思うが。

いや無介助分娩一般に対する批判であるにしても、その正当性は中絶への賛否と
関係ないと思うよ。ただ、何が何でも児の生命が大事だと云う考えは、もうすでに
成立しないとも思うがね。

>>15

科学の絶対性にとどめを刺したのは、自分の観るところポパーとクーン(とその先駆者のコイレ)。
ポパーは正当化主義を破壊し、クーンは世界観の進歩をパラダイム転換に置き換えた。
反オカルトの徒や懐疑主義者ならば、この辺の事情くらい押えておいて欲しいのだがな。

はじめましてトピがなかったので、いきなり書き込みさせていただいていましたが、ごちらが雑談用のトピということのようですので、遅れましたが、ご挨拶させていただきます

月餅さまからお誘いをうけて参加させていただきました
シンガーはまだ「生と死の倫理」一冊読み終え、コミュタイトルの「実践の倫理」は読み始めたばかりです
ミクシー自身も始めたばかりで、コミュとかトピとか副垢とかアク禁とかって何ですか?あせあせ状態ですが、お目こぼしいただきますようよろしくおねがいいたします。


ところで、上に書きましたような状況で、「実践の倫理」は読み始めたばかりなんですが、「生と死の倫理」にも登場する「滑りやすい坂」について、自分なりに考察中なんですが、考えているうちに、頭の中で滑りやすい坂を「転がりやすい坂」と置き換えてしまっていることに気づきましたあせあせ(飛び散る汗)
ええーちがうじゃんーーって(笑おもったんですが、じゃあ、どう違うのかな?って考えていたら、この違いは、「滑りやすい坂議論」を考えるときに、存外大きなポイントになるのではないかと思い至りました
つまり、滑りやすい坂というときは、坂の形状や材質がすべりやすいということで、転がりやすいというのは、坂の上に置かれたモノや人ということではないかと

詳しいことは別のトピに書かせていただくとして、ふとおもったのは、にえべさんの危惧されていることは、「転がりやすさ」ということにかけては、無介助分娩やホメを批判することに対して無批判な人も、「転がりやすさ」に関しては、批判の対象と大して変わらないんじゃないかということなんじゃないかということです。

全く素っ頓狂な考えでしたらお許しください乙女座
それでは皆様、お手柔らかにおねがいします
きゃっ(恥

↑の文章
>「転がりやすさ」に関しては
が重複していました。おはずかしい
>>21
>それが現実のものとなったらどう思ったのか、そういう例があれば

ネットでしか見てませんが、あるブログで(URLを記録してませんでした、残念)「それでも自然なお産をしたことに悔いなし」という趣旨のことを書いていた方がいました。
mixiのコミュでもそういう意味の発言をしていた方がいて、福王さんに教えて頂いたことがあります(自然出産関連のコミュだったと思います)。
ものすごく遠いところにいる人たちもいるものだな、と。
>25

私もネット上でですが
生まれた子供に重度の障害があったが、自然分娩で産んだからこそ、障害が受け入れられたっていう人もいました
無介助じゃないけど、吉村関連で、死産になったけど悔いなしっていう人も
ただ、ネット上では、実在するのかはわかりません
転がりやすさの話

まだ「生と死の倫理」しか読んでいないので、こちらの該当トピに書き込むほど
自分でもまとまっていないのですが、シンガー関連の雑談としてちょこっと書きます

もとは、にえべさんの「種差によって守られている倫理」という書き込みから、種による差がなくなった世界を妄想してみたのがきっかけです
肉食がなくなり、必要な栄養は全部サプリメントで摂取
隣人は、手話を操る感情豊かな類人猿
重度の障害をもっている胎児や新生児は、ドナーに
新薬や新しい技術の開発のために、実験に使われるのは、最重度の知的障害者

う〜ん・・・サルと手話でおしゃべりまではいいとして、そのあとは、うなされそうです
これを良い社会とは認めたくないです
しかし、シンガーの理論がこういう社会を導こうとしているというのは無理があると思います
「滑りやすい坂議論」で、「坂」が滑りやすいとしても、例えば、ぬかるんだ粘土でできたような高勾配の坂があれば、そこまで滑り落ちてしまう前に現代人ならば「シンガーが問題にしている現実の直感のレベル」で危険を予知し、改善するなり、迂回路をつくるなりするものだろうから、ここまで,ツルツルとかにゅるにゅるした有り得ない滑りやすさの坂を想定した議論を「物事を極端に悪い方にばかり考えすぎるというものである」というのが、「滑りやすい坂議論」へのシンガーの姿勢だと考えています。

これはこれで、納得のいく考えです
現実的でない議論のための議論ではなく、「現実の直感レベル」で考えよということで、私も主婦属性の生活者としてもともと持っている「現実の直感レベル」で、そんな気持ちの悪い坂はあり得ないし、あってもわざわざ滑りにいかないとおもいます
しかし、現実社会には、もっと、一見わかりにくく気づかれにくい危険なことがあるということも直感レベルで知っています
にえべさんは、駅のホームに止めた赤ちゃんを乗せたベビーカーがホームを勝手に転がって線路上に落ちて電車に接触という衝撃映像を見たことがありますか?
日本でもベビーカーや車椅子がホームに落ちて轢かれるという事故があるそうです
駅のホームや舗装された道路もそうですけど、雨水がたまらないように緩やかな傾斜がつけてあるのですが、一見平らに見えるし、普通に歩いている分には足をとられたりすることもありません
そんな危険とは思えない傾斜でも、転がりやすいものを警戒せずに放置すれば転落してしまう
私たちが警戒し、無警戒なむきには注意を勧告しなければいけないのは、つまり、本当に議論をしなければいけないのはそういう現実に存在しうる危険についてであって、(絶対無いとはいわないけど)実在するとは思えない、にゅるにゅるな坂議論にこだわって、坂について警戒を呼びかける人の意見をなんでも「にゅるにゅるな坂」だと無視していてはいけないのではないかとおもうのです
駅のホームのような、ある程度の傾斜をもつ社会システムのうえに、転がりやすい人間の心理は乗っていると考えるべきではないかと。

「生と死の倫理」訳者あとがきでも、安楽死について、オランダで問題がなくても、アメリカやほかの国に持ち込んでもよいというわけじゃないし、とくに医療や福祉制度の貧しい国では危険であるとかかれています
おそらく、シンガー自身も異論のないところではないかとおもいます

まだ「実践の倫理」の当該箇所を読んでいないのですが、ドイツでのシンガーへの反応というのは「にゅるにゅるの坂」を想定したものなのでしょうか
むしろ、知らず知らずに転落してしまった経験から、人間の心理が自分で思うよりもずっと転がりやすいものだということを自覚しての警告ではないだろうかと、ちょと考えています
まだ、読んでいないので、これは皆さんの書き込みを読ませていただいての感想です
なので、あとは良く読んでからということで
「これ正」読んでないのではっきり言い難いのですが。

サンデルはコミュニタリアンだと一般に言われています。
共同体主義者であれば、功利主義とは正面衝突とは言わないまでも、対立する部分は多々あると思います。
功利主義についての記述が似ていた(同じ解釈を取っていた)のではないでしょうか。

どなたか読んだ方、解説をお願いします。
サンデルは共同体主義者じゃないですよ。「共同体というファクターは現実を考えるときに無視することはできない」主義者です。あえてカテゴライズすれば修正功利主義者となるでしょうか。

実にややこしいのですが、「共同体というファクターは現実を考えるときに無視することはできない」主義者というのは共同体主義者とは違うのですね(汗)。
「共同体はいいもんだよ」というのが共同体主義。「共同体のことは忘れたいかもしれないけど、そうはいかないよ」(ex.昔の奴隷貿易の責任は今の白人も感じるべきと考える)というのがサンデルの立場。

それから「10人を殺して1人が助かるより、1人を殺して10人が助かる方がまし」と思ってるっぽいので、基本的に功利主義者(効用の和が大きい方の選択肢が望ましいと考える人)なのでしょう。
なるほど。

いささか主題をはずれますが、「昔の奴隷貿易の責任を今の白人を」というのは、やはり共同体の問題なんだなと思いました。
アメリカでは白人も黒人も多くは双方の血を引いている人が多く、それを社会的に分けているのは「どちらの共同体の成員か」ということなのでしょう。
一昔前は「64分の1以上、黒人の血が流れていれば黒人扱い」でしたね。今も実質似たようなものかもしれません。
「10人を殺して1人を助ける」よりもその逆であるほうが好ましいというのは、よほどの例外的な事由がない限りおそらくだいたいの人が考えることだと思います。
そして、それでも「共同体のことは忘れがたい」ということも。

サンデルが修正功利主義であるのかどうか(また、修正功利主義の厳密な意味)はわかりませんが、これは世の中のほとんどの人がそう思っているという意味で、現実的な路線なのだろうと思います。
シンガーに関してなのですが。

論理の上で「功利的」であることを追求した結果の「やるべきこと」を主張することが、現実に於いて倫理的であろうとするモチベーションを下げている結果に繋がっていることについて、やや無頓着であると感じています。
非常におおざっぱに、共同体主義とは自由主義に対するカウンターである、と考えたら間違いでしょうか。

重視する対象によって利己主義、共同体主義、超共同体主義の3つがあります。共同体主義は真ん中に位置するので、何がカウンターかという問いは立てづらいのですよ。
サンデル自身は自らを共同体主義者と言っているかどうかはわかりませんが、一般にそのように言われているし、サンデルを共同体主義者として紹介している本に推薦文を書いていたりしてますね。
少なくとも本人は共同体主義者だと自分のことを考えているのではないかと思います。
(それがそもそも間違っている可能性はあるのかもしれませんが)
サンデルは自分で共同体主義者じゃないと言ってましたよ。主張していることも共同体主義じゃないですし。
>自分で共同体主義者じゃないと言ってました

それは知りませんでした。
非常に興味深いです。
どの文献に当たれば詳しいことが分かりますか?
去年日本に来たときのインタビューでそういってました。自分は共同体に言及はするが共同体主義者じゃないと。
リベラリズムと正義の限界
http://www.amazon.co.jp/dp/4326101881

これの前書きに、共同体主義との異同が書かれてあるよ。
ありがとうございます。

だとしたらもっといろいろなところで訂正が入るべき。
これからそうなるのかもしれませんね。
ただ、サンデルを修正功利主義者と呼んで良いのかどうか、
それには疑問が残ります。「修正」という言葉を附ければ、
あらゆる思想を功利主義に組み込むことが出来てしまう。
まあ、そうですね。共同体に留意した功利主義というと、もう少し正確かもしれません。
今頃ですが

>30

>ドイツでのシンガー批判のもともとの始まりはこれだったと拝察しますが、なんだか集団ヒステリーみたいになっている印象の記述でした。バッシングのためのバッシングみたいです。

ふと、朝日新聞と東大医科研の論争も、どことなくダブって見える今日この頃
個人的には、以前から長引けば、泥試合化するのは見えていましたが。
無論議論されている内容は違うし、どっちがどうだということもいえないのですが、「どっちもどっち」な感じのところとかかな
ツイッター上での反朝日を批判したひなだいちさんらのツイートも当初は、正鵠を射た意見で新鮮でしたが、それもまた最近は「上教授とそのお仲間叩き」な気が。
といっても、わたしも全部をみているわけじゃないので、わたしの見方が偏っているかもしれません。

実践の倫理の当該個所を読んでみて、ドイツでの反応は確かに過剰で過激だとおもいますが、どうも、シンガー自身もぴんときていないというか、デリカシーがないというかという風にも見えますね
http://www.interq.or.jp/tokyo/ystation/jw6.html
アメリカ人は一人当たり日本人の7倍近い牛肉を消費し、

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/0240.html
国としての食肉消費量は6倍近い。

アメリカ人口3億1465千人
日本人口1億2771千人(2008年)

ということを踏まえて。

いささか揚げ足取りではあるのですが、シンガーは日本語版序文で日本の菜食主義に関する関心の低さを嘆いています。
かつて肉食が禁止されていたにも拘わらず、菜食主義についてほとんど知られていないと。
そして、「教育のある西洋の人々」が肉食を減らしている一方で、「日本人」は肉の消費量を増やしていると。
これはあまりにも不当な比較であると言えます。
なぜ、教育のある西洋人と、単に一般的な日本人を対比させて日本人を批難するのでしょうか。
第一、肉の消費量を増やしているのはアメリカだって同じなのですが。
ついでに言えば、ヨーロッパ(EU)も肉の消費量は年々伸びてます。
http://www.greenlivingtips.com/articles/321/1/Meat-consumption-statistics.html

さて、シンガーの祖国オーストラリア。

1968〜69年は一人当たりの消費は91.4キロ。
これだけですでに現代日本の約倍ですが。

2005〜06年だと、さらに109.9キロ。

もともと異常に多いのに、さらに増えています。
シンガーは一体日本の何を見てがっかりしたのでしょうか。
>>44
サンデルのインタビュー記事、ありました。

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/hiraokakimihiko/view/20100822/1282481532
コミュニティや社会的団結、共通善を「正義」の不可欠な構成要素とみるのが、私の持論だ。われわれのアイデンティティが生活史や伝統、コミュニティによって形づくられると考えるのがコミュニタリアンなら、イエス、私はコミュニタリアンだ。しかし、単にコミュニティが個人の権利を規定すると考えるのがコミュニタリアンなら、私はそうではない。コミュニティの価値観が間違っていることもあるからだ。コミュニティが正義を規定すると見なすことは、全体主義や権威主義につながりかねない。
(マイケル・サンデル「「正義と善」の哲学を語る」『週刊東洋経済』2010 8/14-21合併号,東洋経済新報社,p.52)


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