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「実践の倫理」読み合わせコミュの第三章 動物に平等を

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・人種差別と種差別
「利益に対する平等な配慮」という平等の原理が人間の種に属する他の人々との関係のための確固とした道徳上の基礎であることを認めた以上、この原理は動物との関係のための確固とした道徳上の基礎でもある。
何かを苦しんだり楽しんだりする能力は、利益を持つための不可欠の条件である。
畜産、実験、狩猟、娯楽での動物の扱いは根本的に改める必要がある。

・種差別の実態
 【食物としての動物】
動物が食物として利用されるのはほとんどの場合、贅沢品としてである。
効率的な畜産工場で、動物たちは悲惨な状況に置かれている。
このような畜産行程で生産された肉はボイコットすべき。

 【動物実験】
「動物実験が医学上役立ち、正当である」というのは間違った信念だ。
多くの実験は、種に関わりなく利益にたいしての平等な配慮をしていないという過ちを犯している。
例外的な劇的効果がないかぎり、これらは行われるべきではない。
植物状態の人間にすら行われない実験を、それらの人々よりも存在である動物に行うのは偏見を示している。
   
・いくつかの反対意見
 【動物が苦痛を感じ得ることを我々はどうやって知るか】
苦痛を受けたとき動物は人間と同じように振る舞う。
これは苦痛を感じていると信じるに足根拠となる。
この推測は「脊椎動物、特に鳥と哺乳類の神経組織は基本的に類似している」ことから裏付けられる。

【動物は互いに食い合っている、それならどうして我々が動物を食ってはいけないのか】
人間は動物の肉を食べる必要が全くない。
人間以外の動物は自分の食事の選択肢を考慮したり、食事が道徳的に善いかを反省できない。
「動物を食べることで適者生存の世界での役割を人間が果たしている」という、人間の肉食が自然のプロセスであるという解釈は誤りである。
畜産工場での生産物消費は自然の進化のプロセスとは関係ない。
自然のプロセスそのものも、改善の余地がないと想定する必要はない。

【人間と動物の違い】
人間と動物の境界は生物学上の発見により次第に曖昧になりつつある。
またその境界が妥当なものだとしても道徳の問題には影響しない。
考察の対象は「利益に関する平等な配慮の原理」だけである。
比較される利益に違いがなければ自己意識の有無は議論の対象にならない。
「動物への無関心さと同じレベルで知的障害者を扱い始める危険性」は悲観的すぎる。

【倫理と互恵関係】
人間と動物は互恵的でありえないので、動物はプラトンの「国家」でグラウコンが述べているような倫理的契約の範囲外にある。
しかし、これは重度知的障害者や乳幼児、奴隷、発展途上国、我々の子孫にも同じことが言える。
契約論的な見解は放棄し、普遍化可能性に基づいて、いかなる存在が道徳のうちに含められるべきかを考えるほうが良い。

コメント(52)

前半、乳幼児やハンデのある人にも平等な権利を認めるべきだという感覚は共感に由来するものでしょう。哺乳動物や鳥に共感にする人はこれらの動物にも平等な権利を認めるべきだと思うかもしれません。

後半の線引きによって守られる利益の方は互恵性に由来するでしょう。今はいらないいたみやすい食べ物をお互いに融通することはお互いにとっての利益になります。ただし、お返しを期待できない相手に資源を渡しても持ち出しになるだけですから、相手を見て線引きしないと不利益が発生します。

多分、互恵性の方が射程は短いのですが実質的な利益がありますからその分長続きします。共感の方は長い射程を持ちますが、心理的には満足しても実質的には不利益な場合がありますから、その場合は長続きしないかもしれません。


>>13
なるほど。
ありがとうございます。

実質的な利益を困るほど損なわないためにも、共感にあまり拘泥してはならないと自分を戒めているのかもしれません。

それは、今いる自分がどういう範囲の共同体によって活かされているかという感覚とも繋がっていそうです。
自分が属している集団に対する義理、なんてものも考えています。

たとえば、自分はaという集団に属しているとします。
aはAというさらに大きな集団に属し、Aにはaのほかにb,c,d....という小集団を内包しています。
自分はaの利益を大幅に損なわない限り、bやcの集団へ便宜を図っても良い。
しかし、aを困窮させるようなやり方は「不道徳」である。
さらにしかし、aはAが成り立たなければやってゆけないのであるから、自分はAを維持するためにはaの利益を通常では考えられないほど削ってでも、b,cなどへの便宜を図ることは積極的に奨励される。
こういう階層がいくつも積み重なっている状況が現在の道徳と関わっているかなと。
そういう複数水準のモデルは必要ですし有用ですね。
>>17
シンガーに言わせれば、節足類は人格以外ということになるので、大丈夫なんじゃないでしょうか。
(そのうち、「結構知性が高かった」とかいう研究が出てくると困りますが、行動のほとんどが先天的な反応に近いものなので、大丈夫ではないかと思ってます)
以前、中央アジアから日本に嫁いできた女性についての記事を読んだことがあるのですが、日本のちりめんじゃこにショックを受けたそうです。
「こんな小さな魚を、しかも大量に食べるなんて残酷な」と。
しかし、実家では普通に獣肉食べて、ご本人は牛の目玉が大好物だそうです。
文化の違いによる共感の対象の違いの例として面白いと思いました。
こんな小さな細胞をこんなに沢山・・とは言わないわけですね。
>>4
>いえいえ「ナチス・ドイツの有機農業」ではむしろ動物の方が上だったと書かれています。
>種差より人種差の方が大きかったというのがナチスであったと。←プギャー
>アーリア人種中心主義で説明可能と思います。

現代の日本でも、高等教育を受け経済的に恵まれている人が、これに近い感覚を口にすることがしばしばあります。
「優れた人間」としての自己を含むグループ、それに近いものとして(だが下位に)動物を置き、その下に劣等な人々がいるという世界観です。
結構根強い考え方、ないしは感覚のようです。
ここらへん、やはりちょっとひっかかります。
単なる細胞は、選好どころか快・不快すら持ち得ませんからね。
ヒト胚の道徳的権利が問題になるのは、パーソンたる人間になる
可能性があるからでしょう。潜在性に関する議論は、本著の中にあります。
>>19
細胞レベルを共感対象にする文化というのは今のところないみたいですね(笑)。
しかし、どんなディープエコロジストが現れるか分からないのが現代なのかもしれません。

>>21
潜在性をあまり云々すると、それこそどんな下等生物にもこれから高等な知的存在に進化するかもということが言えてしまいます。
ヒトの胚も、子宮内にあってもかなり高い確率で胎児になれないものがあるのが、現実だと思いますし。
小惑星探査機「はやぶさ」に共感する人は世の中にごまんといますが、個々の細胞が持つフィードバックシステムや自己修復システムの精妙さは「はやぶさ」の比ではありません。そういったものが知られるようになると細胞に共感する人も出てくるだろうと思います。「人体」シリーズをやってた頃はT細胞やマクロファージに感情移入してたひといましたし。

そんな事例で思考実験をしてみるにつれ、共感ベースで線引きをするのはいいかもしれないけど無理があるなあという気はしますね。
>>23
それでも、はやぶさに共感する人は、それが自分のセンチメンタリズムであることをどこかで了承していると思います。

ところが、と思うのですが。

もしもはやぶさに極めて精巧な人工知能が付けられていたとしたらどうでしょうか。
それは自律判断ができ、人間の神経系と同じシステムを持ちます。
外宇宙探査など、極めて遠距離長時間の航行を想定しているため、故障があれば(可能性は少ないですが)通りすがりの知的生命体に助けを求めるために、知的な共感を求めるための苦痛を表現したりもします。
もちろんテューリングテストは弱いレベルをとっくに通り越しています。
解体が決まれば、出力を最大限に駆使して周囲を説得し、自律的に逃げたり抵抗します。
こういう「機械」に対しても、平等の恩恵は与えられるべきでしょうか。
選好うんぬんを重視するのであれば「状態を評価する評価関数を用いて行動を制御するフィードバックシステムは、すべからく平等に扱うべし」となるかもしれませんね。
>>25
ありがとうございます。
いささかトピずれですが、そうなるとそういうシステムを組むこと自体、倫理に問われることになりそうですね。
最近の冷蔵庫も炊飯器も「お風呂が沸きました」も結構精巧なフィードバックシステムですからね。「評価関数を用いて自己を制御する権利」とか「自己制御するシステムをつくることの倫理的な問題点」とか考え出すと厄介です。

ただ「細胞の生存権」とか「機械の自己制御権」とかは「動物の権利」を考える補助線として導入したものですから、あんまり深入りする必要はないと思いますが。
そうですね、あんまり深入りする必要はなさそうです。

もしもそういうのが要求されるとしたら、今後、動物を人格と非人格とで厳格に分ける際に、人間が組んでいるシステムを参考にするとかですかね。
>29

>やはり人と畜生の境界はしっかり引いておいたほうがいい

この「いい」と云う意味は、人間の福利にとって「いい」と云う事ですよね?
でも人間の福利のため「だけ」に「いい」ことがなぜ正当化出来るのかを
シンガーは問うています。それを正当化することは困難だと。

人間にとって「いい」ことだけを求めてきたし、それは他の動物も同じです。
これは「〜であった」「〜である」という事実ではありますが、「〜であるべき」とは
云えない。「〜であるべき」を考えるのが応用倫理の眼目であってみれば、
「〜であった/あるべき」は参照事項の一つではありますが、そのまま
イコール「〜であるべき」にはならないと考えます。


× 「〜であった/あるべき」

○ 「〜であった/〜である」
たとえ論理的な正当化は不可能であると仮定しても、そうでもしなければ、そもそも倫理的な思考の空間である人間社会が脅かされてしまう。
それは本末転倒だなと思います。

パオロ・マッツォリーニが「13歳からの反社会学」という新刊だしてまして。
息子も今度13になるし、パオロの本は普段から喜んで読んでいるので早速購入しました。
別に、一般向けだから子ども向けだからと文体や内容のレベルになんの手加減もないのがいいです。

この本の終りのほうで筆者は、過激な環境保護団体、動物保護団体への批判として、「自分≧自然・動物 > 他人」という思想を「他人に暴力をふるってまで自然や動物を守ろうというのは目的を見失っている」と述べています。
自然や動物を守ることは、あくまで人間社会の福利として還元されるべきことなのだという考えに立脚していることがうかがえます。

どんな人であってももっとも大事なのは自分であり、それは人間社会が成立して初めて大事にできるものです。
どんな自己犠牲の人でも、自分が自分であるという最大の一点は放棄のしようがない。
そして、ヒトを生物としてではなく、思考する存在としてあらしめているのは紛れもなく人間社会。
その思考の産物として自然・動物優位などという発想も出てくるのだと思います。



にえべさんが「人間と動物を分けることで守られる倫理もある」と述べていたことに非常に興味をひかれ、普段からいろいろと考えています。

(この文章は偶然自分の日記に書こうと思って練っていたことなのですが、こちらで話題が出たので多少手直ししてこちらにアップしました)
ただ、「〜であった/ある」と「〜であるべき」とは同じでないにしても、
「〜であった/ある」を無視した「〜であるべき」は、「〜であった/ある」の前に
敗れ去るんじゃないかとも思います。生理を無視した当為は、生理の
しっぺ返しを喰らうだろうと。

>32

>自然や動物を守ることは、あくまで人間社会の福利として還元されるべきことなのだ

コミュの趣旨、「『実践の倫理』読み合わせ」に即して云うと、シンガーはその思想
そのものに疑義を投げかけており、やはり正当化出来ないと結論付けている。
また、動物を十把一絡げに考えてもいない。どんな動物にどれだけの配慮を
為すべきか。そのための枠組みを提示している。

これは自戒を込めて云うのだけども、過激な自然保護団体を批判する側は、
自分達の論理の荒さに気付いていない。それは、懐疑論者と僭称する連中が、
疑似科学・オカルトを批判するのに似ている。勝ち戦だからと、武器の手入れを
怠っているように見えるんだよな。

>>34

論理的な演繹の結果として「○○すべき」となったとしても、それが実行不可能であれば画餅であり、倫理が画餅になるのは実践として考えた場合避けるべきことなのではないかと思います。

過激な自然保護団体への批判の論理が荒い、甘いというのは、最近読んだ「イルカを食べちゃだめですか?」などでも感じました。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%82%92%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%81%A1%E3%82%83%E3%83%80%E3%83%A1%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B-%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%AE%E8%BF%BD%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%81%BF%E6%BC%81%E4%BD%93%E9%A8%93%E8%A8%98-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%96%A2%E5%8F%A3-%E9%9B%84%E7%A5%90/dp/4334035760

人工飼育下の動物を屠殺することと比較してイルカ漁を正当化しようとしていますが、これはそもそも畜産を否定している人間には通用しない理屈です。

>動物を十把一絡げに考えてもいない。どんな動物にどれだけの配慮を
>為すべきか。そのための枠組みを提示している。

これなんですが。
いわゆるフルタリアンなどにとっては、やはり納得できない「荒い論理」ではないでしょうか。
いや、そもそも論理で納得させるものじゃないのかもしれませんが。
>35

論理が荒いことと、合意が得られぬこととは違う。
フルータリアンの論理は寡聞にして知らないが、その論理を敷衍して
誰の福利が増すのか、内的整合性はあるのかなど、合意出来るか否かに
関らず、論理とその帰結を検証することは出来る。
>人間と動物を分けることで守られる倫理もある

その倫理は果して正当化できるのか?種差別で守られる何かがあるとしても、
それによって侵犯される何かもあるのではないか?漠然としたことを云うより、
帰結で比較しようYOってのが、シンガーだけでなく、功利主義全般の考えです。

帰結は一切顧慮する必要はない。なるほどそう云う立場もあり得ますが、
その立場が招来する帰結は、引き受ける覚悟が必要だと思います。
シンガー『生と死の倫理』で、発言のもたらす帰結について責任を持てと云う趣旨のことが
書かれてあります。脳死移植に反対なら反対で良いが、その信念がもたらす帰結―移植で
助かる患者を助けない―を引き受けよと云うことでしょう。移植推進団体や移植でしか
助からぬ患者からの批判から逃げるな、あなた方の生命より大事なものがあり、その為に
死んでくれとごまかさずに云え。

こと脳死移植に関しては、推進派・反対派の両者に不満を感じています。推進派は
移植の恩恵しか口にしない。反対派は脳死移植は殺人に等しいとしか云わない。
移植推進派は、移植で助かる患者の方が脳死者より価値ある生命だとはっきり
云うべきだし、反対派は、移植で助かる必要など無い、安んじて死ねと表明すべき。
論理だ合意だと云う前に、哲学と行動の落とし前は付けろと云いたいね。
いや、シンガーの倫理が現実になされた場合、どのような結果がありうるのか、そこらへんがひっかかるんです。
シンガーは実践の場で自分が導きだした複数の倫理がバッティングしたらどちらを優先すべきかということを少なくともこの本の中では明確にしていないでしょう。
たとえば、第三世界の人間を畜産業界で雇用することで先進国で受け入れるなどということがあったら、それはどうなのか。

>人間と動物を分けることで守られる倫理

これは死守すべきとは思わないのですが、功罪含めて考えたいです。
そして、倫理を生み出す空間としての人間社会が守られてこその倫理だと思っています。
>39

シンガーの倫理哲学には弱いところが幾つかあって、その代表的なものは、移民受け入れと
自然保護だと思っている。移民受け入れの理は分るが、利はかなりあやふやなもの。
多国籍的な雰囲気を味わえるとか、移民の経済的成功は受け入れ先の利益になるとか、
移民を多数受け入れた国の悲劇を無視しているよう。自然の価値にしても、テレビゲームより
トレッキングの方が好ましいとかね、もうアボカドバナナ。

33とも少し関連してくるんですが。
論理的に「すべき」という結論が出ても、それが持続可能かどうかはまた違ってくる。
ある程度「本当はこうしたほうがいいのだけれど、実際にはできない」ということを念頭に置いていつの日かの実現を待てばよいのか。
それとも逆ねじ巻いてでも実践をするのが良いのか。

人間同士の制度をいじるよりも、この動物への平等がかなり高い垣根だなと思うんです。
>41

シンガーは「動物への平等」を主張したことなどないぞ。
パーソン論を援用していることを見ても、生命がただ生命であるだけで、同じ権利があるとは
看做していない。人間にも道徳的権利に差をつけるように、自己意識や未来志向の選好を
持つか否かで、動物にも差をつけている。彼自身はベジタリアンだが、肉食そのものを
否定したことは無い。ただ、応分の配慮をせよと云うだけ。

この辺、やはり批判者は荒いなと思う。まあそれは、シンガーにしても同じかも知れないが。
いや、三章のタイトルが「動物に平等を」なので、それに倣ったのですが。
それと、肉食が贅沢品でしかなく、「利益に対する平等な配慮」を求めるのであれば、どのような飼育方法屠殺方法を取ったとしても、それは否定するしかないのではないでしょうか。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=55969474&comment_count=1&comm_id=5214194
移民の問題は、九章のほうでどうぞ。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=55879912&comm_id=5214194&page=all

この1-2に、人格を殺すことがなぜ不正かについて書いた。
逆に人格でないものは、人格と「同等の」道徳的諸権利はないことになる。
「同等」ではないが、快・不快や選好を持つ能力により、「応分」に配慮すべきと
云うのがシンガーの主張。当然、快・不快や選好を持ちえぬ土くれには
道徳的諸権利は全くない。

利益に対する平等な配慮は、利益を受ける度合いにより、扱いを変えて良いと
いうことになる。金持ちの美食より、飢餓線上の人々の飢えを癒すほうが
優先するのも同じ理窟。この辺は限界効用逓減と云う理窟で説明可能だが、
そんなことをせずとも、ある程度自明でもある。

この辺のことも、シンガーはちゃんと書いてあるよ。、
ホモサピエンスに近いとされる大型類人猿の集団同士が、何かのきっかけに戦争状態となった場合、
死ぬ者が出ることを防ぐため、ホモサピエンスが介入することも義務になるのか?もしそれが
可能ならそうせよとなりそうな気がする。しかし些か滑稽な構図になるよね。また食性変換が
可能であれば、生き物を殺さぬよう、ホモサピエンスが指導すべきなのかとか。
動物と一線を引くことによって守られる倫理、なんですが。

滑りやすい坂とも関連してきますが、人間は動物に溺れやすい面もあるということと関係あるのかな、と思います。
いわゆる犬バカ猫バカをこじらせて、応分をだいぶ逸脱している人がしばしばいる。
ナチスの有機農業なんかが、それが個人ではなく国家レベルで起きた逸脱なんでしょう。
そういうことへの警戒なのでは。
>45

>金持ちの美食より、飢餓線上の人々の飢えを癒すほうが
>優先するのも同じ理窟。

ここらへんも悩ましいと思います。
畜肉のボイコット呼びかけが成功すれば、確実に職を失う人々がいるわけです。
国によっては飢餓レベルの貧困に転落するでしょう。
先進国である程度社会保障が整っていても、悲惨さを動物の苦しみと比べてどうなのか。
シンガーの考えているさまざまな社会改革と同時にボイコット呼びかけが成功すれば、問題にならないことなのかもしれませんが、そうも上手くいかないでしょう。
現在、ベジタリアンやっていられるのは先進国の一握りの裕福な層だけなのもひっかかっています。
衣食足りて礼節を知る、よってそういう富裕層からの実践が必要なのでしょうけれど。


だから、シンガーは間違っている、と短絡的なことを言いたいのではなく、思想の実現化のネックはどこなのかと、その解決を探りたいからです。

今年は熊被害が多いので、いろいろと考えることも多いです。

>45
>「同等」ではないが、快・不快や選好を持つ能力により、「応分」に配慮すべきと

これを熊被害で考えてみます。

人里に出没した熊は、「快・不快や選好を持つ能力により応分に配慮」すれば、心神喪失したライフルを持つ人に相当するかと思います。
そういう人が現れたら、いきなり射殺されることはないでしょう。
人を殺した時点での射殺はあり得ると思いますが。
しかし、熊は人里に現れた時点で射殺されてしまう。

これに対しては、「麻酔銃で捕獲して山に還すべき」という意見もあります。
ですが、これは現在の野生動物捕獲技術では危険でほぼ困難。
結局「そうできれば良いのに」という枠を出られません。

「技術的に無理」であるから倫理的に問題はないのか。
それとも「倫理的に問題がある」にもかかわらず技術が追いついていないのでこのような不道徳が行われていると考えるべきなのか。

また、いつ殺人を犯すかわからないというのは障害児だけでなく、ある種の前科者などもいます。
これらの人は「人里の熊」ほどは危険ではないし、管理も容易ということなのでしょう。
人と動物を分ける、というよりも、「どのような扱いが可能か」が大きいのではないかと考えます。

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