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rufu's room るふの広がる部屋コミュの【6】rufu's room//2009-06-22 [歴史] 伊能忠敬-----崇峻天皇

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rufu's room//2009-06-22
[歴史] 伊能忠敬-----崇峻天皇

江戸時代、列島を旅行しながら正確な日本地図を作成した伊能忠敬(1745〜1818)
http://www.city.katori.lg.jp/museum/
の実測(測量)は、16年間、10次に亘り続けられた。その測量の様子を伝える資料が見つかった(2008/6/26)。因幡国芦崎村(鳥取市青谷町)の「石井記録」で、寛政8年(1796)〜明治6年(1873)、当主が綴った文書だが、4代目の世左衛門(1766〜1831)が、忠敬の測量隊の村への訪問を記していた。
 面白いことに、忠敬の人柄がうかがえる記述がある。
例えば、文化10年(1813)閏11月、中国地方をめぐる8次調査の途中、芦崎村に立ち寄った。この夜、忠敬は鹿野町で星の観測を行ったのだが、「往来の事故、人通りし繁く何となく騒がしく候て(略)御機嫌以ての外に損じ、測量も其夕は漸く十星ばかりにて、相済み(略)旅館に引取」とある。人通りが多く騒がしかったため、怒って観測を中断し旅館に帰ってしまった。そこで世左衛門が「上木綿半疋(ひき)、上々美濃紙五束」を調えて進呈したところ、機嫌が直り、月を待ってわざわざ遠眼鏡(望遠鏡)で観測させてくれたという。
この、新しく発見された資料から垣間見る忠敬は、仕事熱心だが怒りっぽく、
座の勢いではすぐに大風呂敷を広げる自信家のオヤジと言ったところ。

偉業は偉業として輝かしく、50歳をすぎてからのフロンティア精神と、その功績はもちろん尊敬に値するが、忠敬本人は地図の完成を見ることなく最期を迎えてしまい、その功績を称えられることなく永眠したことは、やはり無念の旅立ちだったであろう。
更に、忠敬の没後、その実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成させた高橋景保は、
文政11年(1828年)のシーボルト事件に関与して投獄され、翌文政12年(1829年)2月16日、45歳で獄死している。しかも獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、後日改めて引き出されて罪状申し渡しの上斬首刑に処せられている。
 いかにも他界の忠敬はこれを見て怒り狂ったのではなかろうか・・・(想像)。
現代でも、職業柄このような短気で見栄っ張りオヤジは多々見受けられる。

宗祖 崇峻天皇御書に曰く「殿は一定あしき相かを(顔)に顕れたり。いかに大事と思へども、腹あしき者をば天は守らせ給はねと知らせ給へ」

 三十三代崇峻天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%B3%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87

は欽明(きんめい)天皇の太子で、聖徳太子の伯父に当たる。聖徳太子の忠告を破り、天子でありながら臣下の蘇我馬子(そがのうまこ)の謀(はかりごと)によって非業(ひごう)の死を遂げた。
日蓮大聖人は、崇峻天皇を「腹あしき王」と御表現あそばされたが、「腹悪しき」とは、邪智をもって策略を廻らすということではなく、豪毅(ごうき)で猛々(たけだけ)しく、短気で怒りっぽいという意味でである。

このことは、いかに正直一途で求道(ぐどう)の心が強くても、すぐに怒り、どなり散らすようでは、仏天の護りは薄いということを御教示されたものである。

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