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相神浦松浦氏と平戸松浦氏コミュの松浦氏武将列伝

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 戦国時代といえばやはり武将。

 全国的に有名な武将は数多くいますが、それぞれの個性がさらに戦国時代を魅力的にしているのも事実。

このトピでは、松浦氏を取り巻く様々な個性を持った武将や人物を取り上げていこうと思います。

もし、気になる武将が居たらドライブがてら足跡巡りに行くのもいいかも。

ちなみに、内容はいろんな所で見聞きやネットで拾った物ですので、必ずしも事実と違う部分があるかも知れませんのでご承知ください。

コメント(17)

No.01 所属:平戸松浦氏 

松浦鎮信(まつら しずのぶ 1549〜1614) 
松浦隆信の長男 母は杉隆景の娘

隆信隠居後、佐賀龍造寺氏の勢力拡大に伴って、傘下に入るも、大村家との闘争や志佐家の内紛への介入、波多家に対し反旗を翻した日高喜治める壱岐を傘下に加えるなど着実に領地の拡大を行った。
 豊臣秀吉による九州征伐にはすぐさま秀吉の元に拝謁し領土を保ち、その後の朝鮮の役では小西行長率いる第一陣として活躍。
 関ヶ原では、当初息子の久信を西軍に付かせるが、鎮信は態度を急変させ東軍に付く。領土は安泰となりその鎮信の決断力、判断力の正しさを表している。
 平戸藩の初代藩主となるが、幕府への忠誠を示すため城を焼いた話は有名。
「大曲記」曰く、「武辺かたは不及申、何事につけても無油断人」

・隆信とどちらを最初にしようか迷いましたが、一応初代藩主ということで鎮信にしました。
 鎮信がいつ家督を継いだかという点については、諸説ありますが1570年代は隆信の影響力も大きかったのかも知れませんが、80年代はほぼ権力は交代していたのではないかと思います。
 隆信は結構粗暴な面があり、確かに政治力を持って海外貿易を行い富を得ましたが、ポルトガル船を襲ったり、重臣の籠手田氏を同じく重臣の加藤氏と共にいじめたり、なかなか冷静沈着とは言えないものがあります。
 しかし、鎮信は「武辺かたは不及申、何事につけても無油断人」との言葉が示すとおり、冷静な人物で、隆信時代は宿敵の関係だった大村氏とも和解をおこない、また、朝鮮の役、関ヶ原も他の松浦党が改易等で消滅していく中、城を焼いてまで無事に家を存続させました。また、平戸においてオランダやイギリスなどとの貿易を認めさせるなどその政治力をいかんなく発揮しています。 
子煩悩で、長子久信が急死した際は、あまりの悲しみに怒り狂い、久信の回復の祈祷した僧などを含め、平戸中の僧を切ろうとするなどするなどの一面もあったようです。
No.02 所属 相神浦松浦氏
松浦丹後守親(まつら ちかし 〜1577)
松浦政の長男 妻は多美野。
父政が平戸松浦氏より大智庵城に急襲を受け自刃。
その後、平戸松浦氏の人質になるも脱出し、相神浦松浦家の再興を果たす。
ただし、強大な力を持つ平戸松浦氏の圧力は強大であり、少弐家や有馬氏を養子にし軍事、外交両面からも平戸家の度重なる攻撃に耐え抵抗するも、ついぞ1568年降伏する。
強大な平戸松浦家からの度重なる侵攻を何度も退け、ついには兵糧責めに屈するも、よく防ぎ抵抗した。

・相神浦松浦氏の当主でありますが、父政が大智庵城を急襲され一時人質として過ごすなどその長い人生は波瀾万丈でした。
そして、なによりも平戸松浦氏との死闘。
生涯をかけ平戸松浦氏に対抗しその戦力差にもかかわらず、数十年に渡って飯盛山城を守り、力攻めには最後まで屈しませんでした。
北野源蔵、東時忠らの家臣の力もさることながら、長期間戦い抜くためにはその個人的カリスマ性についても優れていたのでしょう。
隠居後は宗金と称し、妻の多美野と仲むつまじく暮らしたようで、天正五年九月二十三日に八十歳で宗金は死去しますが、その6日前に多美野も死去しています。
また、相神浦の将来を案じ神社などの建立も行っています。
No.03 所属 平戸松浦氏
  山川 賢信(やまかわ かねのぶ 生没年不詳)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。富塚小平二。帯刀。伊達氏家臣・富塚信綱の弟。
関ヶ原の戦いの時に上杉景勝軍と戦い、戦功を挙げるがその後伊達家を出奔。山川賢信と名を変え大坂城に入城。
大坂冬の陣では後藤基次の下で八丁目口の守備を任される。
大坂夏の陣の道明寺の戦いで奮戦するも及ばず、北川宣勝と共に八幡滝本坊に隠れたが、やがて自首。徳川家康に罪を許され、その後平戸の松浦隆信の家臣となった。
道明寺で討死したとの説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

・先に主要人物を書く予定でしたが、たまたま調べていた時に見つかり意外な出会いに掲載。
 元々は伊達家臣であること、そして大阪の陣に参加しその上で家康に許されていること等、平戸家臣ではかなり毛色が違う人物。
 伊達時代から同僚でもあった北川宣勝は共に家康に許され、こちらは大村家の家臣となっています。
 実は両氏とも道明寺合戦での死亡説もあり、この事から、実は家康のスパイではないかとの説もあります。
No.04 所属 平戸松浦氏
 平戸弘定(松浦 弘定)(まつら ひろさだ 1466〜1515)

 最初、平戸西部の津吉氏を追討し、生月の加藤、一部、山田を勢力下に置き、更に田平氏の支配していた田平、江迎を落とした。また、御厨氏の家中の混乱に乗じ御厨も所領とした。
 しかし箕坪城合戦により自身は大内家に身を寄せなければならないほどの状況になるが、瞬く間に返り咲き。
 復帰してからは、そのとき反平戸に荷担した勢力を中心に圧力をかけ、江迎の深江氏や佐々の佐々氏、宗家松浦氏などを併呑し、勢力を拡大、興信以降の基礎を作る。

・少し時代が遡るので、マイナーではありますが個人的には隆信鎮信に勝るとも劣らない名君だと思います。
 平戸松浦氏の勢力範囲は、ほぼ弘定により決まったと言っても過言ではないのでしょうか?
何より戦が上手く、しぶとい。箕坪城合戦では一敗地にまみれ大内家に逃れますが、瞬く間に復帰し、あっという間に所領も回復。
 大智庵城の松浦政も奇襲で破り、平戸島の一部しか領していなかったのが、あっという間に佐世保地方にも影響力を持つほどになります。
なお、大内氏に従って、子の興信と共に上洛もしています。
No.05 所属 平戸松浦氏
平戸興信(松浦興信)(まつら おきのぶ ?〜1541)

 大内家の上洛命令にに伴って、京へ帯同するもその隙に相神浦松浦氏により相神浦等を奪われるる。しかし、鷹島、今福等着々と奪い返し、その後も相神浦松浦氏に対し圧力をかけ続けるが、当時はまだ少弐家の勢力が強大で大規模な攻勢はできなかった。
 しかし、それ以外の地域へは常に圧力をかけ続け、江迎、佐々は興信の時代にはほぼ勢力下に入っている。

・父が弘定、子が隆信とちょっと地味ではありますが・・・。ただし、、弘定が広げた版図を着実に領地化するなど、その後の基礎を作ったのは事実。
 また、中国人和冦王直などとの中国人商人等との交易を行い、南蛮貿易の基礎を作った。
No.06 所属 平戸松浦氏

日高甲斐守喜(ひだか このむ)(〜1593)
  
  波多氏筆頭家老であった資の子。
資が波多親と後室により殺害されると、その後主君を追い落とし岸岳城をもを乗っ取る。
その後、岸岳城を波多氏に取り戻されるも、壱岐島を占拠。
対馬の宗家の襲撃も得意の謀略を持って敗退させ、その後、壱岐島と共に平戸家の傘下に入る。
文禄2年(1593)平壌城の戦闘で主従36人とともに戦死。

・個人的にあくが強くて好きな武将の一人です。
元々波多家の宿老日高資の長子であり、自身も家老職として仕えていたものの、波多氏の後継者争いにより父の日高資が暗殺されます。
この時、喜は密かに逆襲の機をうかがい機を見て岸岳城を自らの手勢だけで乗っ取ります。
また、後年の宗氏による壱岐攻めにおいても宗家からの内応の手紙を逆手にとり壊滅させるなど、謀略に長けた印象があります。
そのせいか、壱岐では人気がなさそうな感じではあります・・・。
No.07 所属 相神浦松浦氏

松浦丹後守政(まつら まさ 1477〜1498)

松浦丹後守定の子であり1492年に家督を継ぐ。当時15歳。
 峯昌による有馬家の箕坪城攻めに参加。弘定の恨みを買う。
 1498年、平戸弘定による夜襲に加え家臣の裏切りにより大智庵城は落城。
 政も脱出を計るが、討たれてしまう。

・親の父親で討たれたときは二十歳前後。
さすがに若すぎたのか、箕坪城合戦後の平戸松浦家を過小に評価し、逆に滅亡を繰り返す少弐家を過大評価してしまった。
また、本人の素質に問題もあったのか下級家臣と諍いを起こし、謀反の発端を作ってしまう。
定が、あと10〜20年生きていれば、滅亡しなくても良かったのかも知れない。
また、政には弟が居たが(佐世保諫)平戸家と血縁関係があったからか、その後数十年存続している。
No.08 所属 平戸松浦氏

大島筑前照屋・民部澄月兄弟(おおしま てるいえ・すみつき)(〜1563)

大島筑前は、平戸家最精鋭の鉄砲隊を率いた将として有名。
 1560年の相神浦攻めの際、500の兵に100丁の鉄砲を持たせ鉄砲隊とした。
 当時、100丁の鉄砲を持っていることの更に、それを鉄砲隊として組織的に使ったことは特筆に値する。
 相神浦攻めで活躍するも、1563年の半坂合戦の中里の戦いで殿を勤め討ち死に。
 
・平戸松浦家の重臣、弘定の代にも箕作城合戦で窮地に陥った弘定を助けその後死去。兄弟はおそらく、その子ではないかと推測。
 半坂の合戦で主力として出陣し、飯盛山城目前の中里まで攻め入るも、相神浦側の必死の反撃と伏兵に襲われ平戸松浦軍は大崩れ。
 平戸松浦軍はこの戦いで中山治部兄弟・山田忠左衛門兄弟・紫加田市之丞・南蔵人・佐々刑部・船原・城・遠藤兄弟が討死。そして、大島筑前兄弟も籠手田、一部らの主力を逃がすが、耐えきれず兄弟とも討ち死にする。
 澄月「澄月の村たつ雲に誘われて暫しは影の見えぬ有明」
照家「定めなき雲かくれとは思えども見へすは惜しき有明の月」

辞世の句が残っているのは、よっぽど平戸家において重要な位置の人だったんじゃないかなと。
しかし、半坂合戦で平戸方討ち死にしすぎ。
No.09 所属 平戸松浦氏
松浦丹後守定(まつら さだむ 1571〜1593)

松浦丹後守九郎親の子。九郎親の死に伴って、5歳で家督を継ぐ。
 父の跡を継ぎ相神浦飯盛山城に入り、豊臣秀吉の島津征伐にも従軍。
 その後、松浦家の人質として堺に。妻は秋月種実の娘。

 朝鮮の役では、当主松浦鎮信、松浦久信、松浦信実、日高喜、志佐純高らと共に従軍。1593年 平壌で戦死。
 
・一番気になる武将の一人。
 相神浦松浦氏の跡継ぎではありますが、すでに父の代から実質平戸家の一員となっています。
相神浦との戦い等で名のある武将が相次いで討ち死にし、隆信の子らも親、惟明もこの時期にはおそらく存在しておらず、家臣の質量ともかなり低下している中で、非常に重要な位置になったのではないかと思います。
初陣は、秀吉による島津攻め。その後、人質として3年間堺に留めおかれます。
その後、鎮信、久信らと共に朝鮮へ。
平戸松浦家の跡継ぎの久信とは従兄弟でもあり、年代も近く非常にお互いに信頼関係にあったのではないかと思います。
しかし、1593年、日高甲斐守喜らと共に討ち死に。
もし、討ち死にしていなければ、相神浦松浦家として平戸家の重臣として、また、相神浦も今より栄えていたのかも知れません。
定の死後、祖父に当たる松浦隆信は飯盛山城内にあった勝軍地蔵を飯盛山山頂に移し祀っています。また、この事により、相神浦松浦氏はその歴史を閉じました。
若くして不慮で死んだ親、その忘れ形見である定の死は、隆信にも相当堪えたのではないのでしょうか?
その後、相浦の金照寺に妻と共に葬られたそうです。
なお、子孫は今福松浦家として分地された後、江戸に登り旗本として幕末を迎えたそうです。
No.10 所属 平戸松浦氏
松浦隆信(平戸隆信)(まつら たかのぶ 1529〜1599)

 興信の跡を継ぎ、相神浦松浦家への攻勢をかけ続け居城飯盛城に孤立させ、1568年兵糧攻めにより陥落させる。
 この相神浦松浦家攻めでは、ポルトガルとの南蛮貿易により得た巨万の富とともに、新兵器の鉄砲、大筒などの使用、鉄砲を主とする部隊による集中攻撃など、革新的な運用も行っている。
 ただし、南蛮貿易に関しては、隆信自身は熱心な仏教徒であったため、後年はキリスト教の布教をきっかけにポルトガルや家臣との間に亀裂が入ったことと、中国人商人の王直が中国に倒れ平戸における交易拠点としての意味が売れてしまったこともあり最終的にはポルトガルとの貿易は途切れてしまう。
 しかし、相神浦松浦氏を下し現在の長崎県の北部をほぼ手中にすることにより、戦国大名としての地位を確立する。

・ポルトガルとの南蛮貿易を行ったことを含め松浦氏の中ではもっともメジャーな武将。肥前のクマーこと龍造寺隆信と同じ名前から、「頭がいい方の隆信」として一部の信長の野望ファンの一部にも人気がある。
 ただし、結構乱暴な面があり「頭がいい」といえるかは疑問が残るところ。
同じく仏教徒の家臣、加藤源之介と共に、籠手田や一部をいじめたり(ジャイアンか!)している。

 なお、海外貿易はうまくいったものの宿敵である相神浦家攻めでは連戦連敗。
 特に平戸松浦家を継いだ直後の1543年では「前代未聞の丹州党の勝利」、半坂合戦の1563年の戦では娘婿の奈留三郎左衛門・重臣の大島筑前兄弟・中山治部兄弟・山田忠左衛門兄弟・紫加田市之丞・南蔵人・佐々刑部・船原・城・遠藤兄弟らが討死。
 相神浦を落とした後は、ほとんど余力がなかったというのが正直なところかも知れない。
No.11 所属 平戸松浦氏
東甚助時忠(ひがし ときただ ?〜1574)

 先代?には筑前千葉氏の家臣であったが、内紛により東尚盛が相神浦松浦家に亡命する。
 1543年の平戸家による相神浦攻めにおいて、活躍し平戸家を退ける。その後、相神浦家の戦いには必ず参加し、飯盛山城を守っている。
 飯盛城落城に伴い平戸家に降るが、相神浦松浦家を継いだ九郎親との確執があり誅されようとしたところ逆に親を殺害。その身も討ち取られる。

・相神浦家はどのような家臣がいてどの程度活躍したのか平戸家より明確ではありませんが、北野源蔵直勝と並んで飯盛山城を最期まで支え続けたのは事実といってもいいようです。
 元は丹後守親がスカウトしてきた武将なので厚遇はされていたと思うのですが、対平戸家との戦闘において活躍したことから、後半は更にその存在感が増してきているようです。半坂合戦においては、3百騎を率いて城から打って出ていますが、当時の相神浦家の兵力を考えるとその厚遇ぶりが分かります。
 なお、最期については九郎親と刺し違えたとの説があり本当かどうか疑問が残るところですが(子?と思われる東五郎秀勝、東四郎秀次らの消息が不明)、平戸家が証拠隠滅に走ったとの話もあり事実であるかも知れません。
No.12 所属 相神浦松浦氏
遠藤但馬守専右衛門(えんどう せんえもん ?〜?)
遠藤但馬守盛胤(えんどう もりたね ?〜1572)

松浦政の弟、源三郎諫が元々佐世保氏を名乗り納めていたが、享禄元年(1528年)死去。
 子がなかったため、遠藤専右衛門が継ぐ?
平戸家からの圧力が大きくなる中非常によい治世を行い、親子ともその治世は非常に評判が良かったようです。
 相神浦家が平戸家に降った付近に隠居もしくは、没か?
 子の盛胤が後に、相神浦家が平戸家に降伏する際、両者の実務的な周旋役に指名されており、平戸家、相神浦家にも信頼があったことを伺わせます。
 しかし、盛胤は元亀3年(1572)に龍造寺家に内通しているとして、九郎親(丹後守親ではない)に討たれてしまいます。
 
・親子かどうかよく分かりませんが、個人的には親子説を採用しています。
 遠藤氏は佐世保氏の後、佐世保地方を治めますが非常に良い治世を行ったようで、親子?共非常に評判がいいです。
 相神浦家の力が健在なうちは当然相神浦家に属していましたが、1560年代前半には、どうやら平戸家の相神浦孤立化作戦により圧力をかけられ、武雄の後藤氏に降っていたようです。
 そのこともあり、相神浦家が降伏した際、調停に盛胤が起用されます。
 しかし、その盛胤は龍造寺氏に内通していたとして飯盛城に呼ばれ向かう途中討たれます。
 (原因は盛胤の娘、白縫を巡る九郎親の横恋慕という説もありますが(蛇島伝説)、旧相神浦勢力である遠藤氏を潰そうとしたと思われます。)

佐世保市竹辺町に「うたれがはい」と呼ばれる坂道がありますが、そこが討ち死にした場所であると言い継がれており、その後、『夜中に頻りに轡の音がする。但馬守が欺かれて討ち取られた遺恨であろう』として、里人は山の上に但馬を神として祀りました。但馬越の但馬神社がそれです。
「武士の名は残りにけり野に山に かばねは朽ちて草はむすとも」
遠藤但馬守盛胤の辞世の句です。
No.13 所属 平戸松浦氏

金子九右衛門(かねこ きゅうえもん ?〜?)

2ch戦国ちょっといい話・悪い話まとめより

松浦鎮信の従者に、金子九右衛門という無類の忠義者がいた。

戦の折りのこと。
敵と相対するうち、戦機と見た鎮信、「おい、くつわを放せ」と九右衛門に命じる。
しかし九右衛門、しっかと馬を押さえて動かさない。
何度言っても聞かない九右衛門に、ついに鎮信は立腹し、軍旗をもって殴り始めた。
「まだ、潮時ではありません」
九右衛門はいくら罵られようと離さない。
やがて頃合を計り、「ここです!」と馬を放つと、お味方大勝利となった。

そうしたことが何度もあったという。

また、鎮信は陣中で夜出歩く際、馬上で自ら松明を持っていた。
松明は、灯りとするうちに燃えカスがたまって暗くなる。
そうすると、鎮信は馬を引く九右衛門の頭に松明を叩きつけ、煤を落とした。
そのため、九右衛門の頭はいつも火傷だらけだったという。

・武将ではありませんが、こんな家臣もいるということで。
 鎮信ヒドスというより、ほほえましい主従関係の図ですかね。
No.14 所属 平戸松浦氏
 佐々刑部少輔元喜(さざ もとのぶ ?〜1563)
 佐々清左右衛門(可雲)(さざ かうん ?〜1586)

佐々氏は、14世紀末頃から現在の長崎県佐々町付近を治めていたが、平戸豊久に併合されるも、平戸弘定の時に一時独立。
 しかし、独立し箕坪城合戦に参加したため、平戸弘定の恨みを買い弘定の子の頼を養子に迎え平戸松浦氏の傘下に入っている。
 
 佐々元喜は、頼の子で1563年の半坂の戦いで討ち死にしている。
 佐々清左右衛門(可雲)は、元喜の長男で、鳥屋城城主。
 平戸松浦氏の武将として、広田城を守っていたが、天正十四年(1586年)大村・有馬連合軍が井出平城・広田城を攻め、守将として守るも、可雲は敗走。
 その後、佐々に逃れようと船で逃げるが九十九島の金繁島付近で捕まり、この島で自害。
その子、伝右衛門は平戸に仕え、その子の仁兵衛も平戸に一五〇石で仕え江戸時代を迎えている。

・佐々氏の憂鬱

現在の佐々地方は上記の佐々氏の他に、紫方田、吉田氏(大野氏)らが治めていたが、平戸松浦氏と相神浦松浦氏との抗争が続くと、一番割を食う形となった。
 対相神浦攻めの最前線として東光寺城や鳥屋城などに平戸松浦氏が駐屯し、前述の通り、佐々元喜や、紫加田定相、市之丞が半坂合戦で討ち死に、可雲も平戸松浦家のために討ち死に。
 おそらく、将だけでなく兵士も数多く徴兵されていたと思われ、この時期の兵はほぼ半農状態であったため、度重なる敗戦で非常に困窮したものと考えられる。
 
おそらく、地元佐々でもほとんど知られていないと思います。
 佐々町の歴史資料館においてもほとんど関係資料もなく、唯一佐々町史に若干名前が出てくる位です。
 もし、佐々町の方で見られている方が居たら、たまには思い出してみてください。
No.15 所属 平戸松浦氏

佐川主馬利純(さがわ としずみ 1579?〜1624)

志佐純意の子。兄である純高の討ち死に死に伴って、朝鮮に渡ろうとするが13歳のため周囲から阻止されるも、輸送船に潜伏し朝鮮に上陸。朝鮮ではしばしば戦功を立てた。
その後、福島正則に仕えるが、松浦鎮信が呼び返し家老として重用した。
利純も鎮信の期待に答え、子の隆信の代において平戸藩の歳出の大削減を行っている。
寛永元年(1624)死去

・十三歳で朝鮮に渡り戦に参加しようとして、輸送船に潜伏し参戦するなど剛の者。
 性清廉にして剛直。
 帰国後は福島正則に仕えるなど、よほど朝鮮での活躍は素晴らしかった様です。
 鎮信が、その才を惜しんで呼び戻しますが、利純もそれに答えて平戸藩に貢献しています。

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