相神浦松浦氏と平戸松浦氏
(H21.12.24 コミュニティ名変更しました。)
このコミュニティは、現在の平戸を本拠地に長崎県北部(壱岐を含む)を中心に活躍した平戸松浦氏と、それに対抗した佐世保地方を本拠地とする相神浦松浦氏の両氏を応援するコミュニティです。
平戸の方、佐世保の方、長崎県北部の方。
そして、何となく興味がある方、どうぞコミュに登録お願いします。
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はじめましてはこちらから。
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いつなにをしたの?という方はここから。
平戸松浦氏・相神浦松浦氏関係年表
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【相神浦松浦氏】
相神浦(あいこのうら)と読みます。
海賊で有名な肥前松浦党の宗家筋であり、戦国時代、現在の長崎県佐世保市相浦にある飯盛山に城を築き、平戸松浦氏と激しい戦いを繰り広げた一族です。
【松浦丹後守親】まつらちかし(1494〜1577)
政の子。政が討たれた際、母親と共に平戸に幽閉される。
しかし、家臣団により奪回。その後、平戸弘定が上洛した間を狙って蜂起。
永正九年(1512)相神浦に飯盛山城を築き、少弐家や有馬家の勢力を後ろ盾平戸松浦氏に対し反旗を翻す。
その後、平戸家よりの度重なる攻勢を撃退するも、永禄十年(1567)隠居し、宗金と名乗る。天正五年(1577)死去
【松浦定】まつらさだむ (1571〜1593)
松浦九郎親の子。相神浦松浦氏最後の当主。
島津征伐に参加後、豊臣秀吉への人質として堺に上る。
その後、文禄の役に参加、松浦鎮信、松浦久信、日高喜、志佐純高らと共に第1軍小西行長軍に属し朝鮮に渡るが、平壌城攻防戦で討ち死に。
相神浦松浦家は幕を閉じ、飯盛山城も廃城となる。
ちなみに、その後定の子孫は宗家松浦氏とゆかりの深い今福に分知され、今福松浦家として存続し、最終的には旗本として明治維新を迎える。
【平戸松浦氏】
【平戸弘定(松浦弘定)】ひらどひろさだ(1466〜1515)
平戸の一地方を治める身から、平戸〜生月等に勢力を拡大。
平戸を勢力下に治め、さらに田平まで勢力を伸ばすが、その急な勢力拡大を良く思わない、峯氏や少弐氏、有馬氏等から攻撃を受け一時滅亡の憂き目を見る。
しかし、その後復帰し、佐々地方や佐世保地方まで勢力を拡大する。
【平戸隆信(松浦隆信)】ひらどたかのぶ(1529〜1599)
松浦家を戦国大名にのしあげた松浦家中興の祖。
中国人貿易商王直、ポルトガルとの貿易などに膨大な利益を得て、鉄砲や大砲などにより相神浦松浦氏と死闘を繰り広げる。
相神浦氏を降伏させ戦国大名化に成功するも、籠手田氏などの家臣や領民がキリシタン化し、数々の悲劇を生む。
【平戸鎮信(松浦鎮信)】ひらどしずのぶ(1549〜1614)
平戸松浦藩初代藩主。
隆信の跡を継ぎ、秀吉による朝鮮出兵や関ヶ原の際も東軍に付くなど常に舵取りを誤ることなく、明治まで続く平戸藩の基礎を築く。
大曲記に曰く「武辺かたは不及申、何事につけても無油断人」
【家臣】
【相神浦松浦氏】
遠藤専右衛門・遠藤盛胤、赤崎伊代、東甚助時忠、秀勝秀次親子、北野源蔵等
【平戸松浦氏】
籠手田安昌・安経、大野定弘・定屋・定晨、大島筑前照家・澄月。
【戦】
20年以上も攻防が繰り広げられ、当時の最新兵器だった鉄砲や大砲が飛び交った”飯盛山城攻防戦”そして、当時佐々と相神浦の境界であり常に両者が火花を散らした”半坂合戦”。
松浦九郎丹後守親と松浦丹後守盛の二人の丹後守親、そして、将兵も親子相打つ悲惨な戦いとなった”相当原合戦”
【逸話】
佐世保湾にすでに埋め立てられた蛇島。その蛇島の由来となった松浦九郎親の横恋慕と白縫姫の伝説。
佐々東光寺の僧、伝坊の物語。
今も相浦で開かれる愛宕祭りの由来。
地元の人もそうでない人も、知ってる人も知らなかった人も、これを機に興味を持っていただき、ついでにコミュニティ登録していただければと思います。
もし興味があれば、こちらもどうぞ
まつ☆すた
〜戦国期における松浦党の軌跡〜
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(現在鋭意制作中。まだ未完成ですが。)
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戦国時代、戦国大名、松浦党、松浦水軍、松浦隆信、松浦鎮信、志佐氏、籠手田氏、キリスト教、キリシタン、平戸城、飯盛山城、鉄砲、大砲、海外貿易、フランシスコザビエル、ポルトガル、王直、平戸藩、鎮信流、道可、法印
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