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愛玩犬はうたうよ。コミュの『春文暗夜』

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 暗く蠢蠢たる憂いにいつか慣れて了ったのか、死に触れる独り遊びの為と飽かず服用した種々の薬物に依って神経がほんとうに死んで了ったのか、空腹と寒さのほかの何をもをトンと感じることが出来ないでいる己は感性の行路病者であるなあ、と思いながら硬い布団の中で茫漠としていた。
 さあれ仏寺から除夜の鐘が聞こえ始めると振る舞いの甘酒を思い当たりそろそろと身を起こし空気ランプを点けた。吾が腹の現金なるもの哉。

 古い下宿屋の二階に間借りしていた四畳半は、灰色の土壁が四方から押し迫る独房のようにも感ぜられる陰鬱な部屋で、室内には布団と書物と己の冴えない姿だけがあるはずであったが、鮮やかな色が目に留まった。

 ――赤。

 其れは女物の袷で、金糸で刺繍された花車に椿やらの花があしらわれた豪奢な縮緬だった。
 どういった訳でこんなものが間違いのほか何でもないように此処にあろうかわからないでいたが、生来物事を訝しむ過程を省く大胆な処があった所為か、暫くするとシャツの上へ其れを羽織っていた。そうするや否や是に淡く匂う香や思いの外ずっしりとした着心地を気に入り、自前の味気ない平ぐけで結んで了った。
 兎に角全身全霊の不感転じ退屈を持て余していた己は、縋るような思いで陋巷のひずみに咲く千紫万紅の艶を思い描いた。ともすると面白い絵かも知れないと思い、もとより二つに折って巻いていた幅丈あるマフラアを広げて頬かむると下宿を出た。
 酔狂は絵をやっていた祖父譲りであった。
 出たら出たで面白い事など微塵も無いことに小さく滅入って了ったが、腹の空いていた事を厭でも思い出す。
「甘酒。生姜の入った」と呟くと、もう是の侭行こうと決めて煩く建て込んだ小さな家々の隙に瀰漫する闇を歩いていった。

 角を曲がると五六間先に円く大きな柑橘がぽかりぽかりと浮いているのがよく見えるのでさては月が出ているなと思った。
 そうと云って仰ぎ見るでも無く、電柱を幾らか過ぎり石畳の開けた通りに出た。その通りに交差して電車が走っており、乗れば数分で神社に着き念願を果たせるが金が勿体無いので線路沿いを只管歩いていった。

 擦れ違う人々が屡々好奇の目で見ているのが解るが捨て置いて遥か西に聳え立つ山から吹き下りる風のことなどを思う。冷た過ぎる。
 あの山の為に雲は雪を漱がれ、この町は厳しい寒風が吹くばかりで雪の幻想的な化粧を纏うことは無い。かくあれど山の花崗岩を通り抜け地下に流れ至る水は酒造りに好適であるので幕末以来白壁の酒蔵が幾つも建ち並んでおり、恐らくは煌々と昇ってある月に照らされた石畳とそれらの白壁へ寒さが相まって、眼前の全てに雪景色を見紛うて了いそうな心地であった。
 酒、と云えばその名水の使われた神酒にも或いはありつけるだろうか、いやきっと。などと思っていたところへ、除夜の鐘に紛れつつか細い音が流れて来るのを耳にした。
 笛。太鼓や三味線も聴こえるではないか。

 囃子だ。

 何処からであろうと足を止めた自分の丁度すぐ横に、長く伸びる小径があるのに気づく。その先に橙に明るい一角を視た。
 線路が一本走るだけでもうこの辺り迄来るとあるのは松林だけではなかったろうかと頭を擡げる。僅かに凝っとした後、己は小径の砂利の上に歩を進めることにした。
 松影が黒過ぎるように感ずるのは矢張り月が出ている所為だろう。冴え冴えとした闇を流れてくる囃子の音色が練絹のように肌に絡まり心地好くあった。

 鬱蒼と黒いばかりの林を抜けると朱塗りの鳥居に続く短い参道を挟み、小さな住居が五六軒建ち並んでいた。緑や赤や黄やらの綺麗な和紙が貼られた四角や円筒の行灯が軒先から吊られていたり戸の前に据えてあって、無数に灯る其れらの明りで錦絵の中に迷い込んだ風で恍惚を味わいながら歩いていった。
 参道を過ぎ鳥居をくぐると、然程広くもない境内に小さいながらしっかりとした作りの能舞台が置かれていた。その傍で篝火が焚かれていて辺りは中々に明るかった。篝火に照らされて浮かび上がる人影はそれぞれ楽器を持っていた。

 顔を見てギョッとする。
 皆一様に能面をつけているではないか。

 そのなかにあった白狐の面の男が三味線の撥をベンッ、と遣りながら近付いて来てこう云った。

「待っていました。寒い中よう来なすったねお嬢さん、サ、何卒」

 撥の象牙より赤味が無い分際立って生白く見える手を伸べ白狐の面の男は己の手を取った。突き退けようとしたが其の手は煙のように絡まり解けなかった。
 バツの悪い顔で云った。
「いや是は唯の独り遊びで。男です、ホラ」
 金に彫り込まれた眉は微動することを知らぬが嬉々とした表情が見て取れた。不思議な面である。
「男であるにしても肌理の細かいこと、女に見える」
「月の所為でしょう」
「三姫を演る女方でもこんなに美しくは見えないものです、皆にもようく見せてやっておくんなさい」
 断る間もなく面の連中のなかに抛り込まれる。
 猩々、ひょっとこ、飛手に般若、鬼や怨霊、神霊の類、あらゆる面が楽器を奏でるのを止めぐるりを囲む。己を仔細まで眺め回し頷いたり顔を見合わせてはまた音を奏で始める。一言も喋る者はいない事が不気味であった。
 白狐の面の男が「お嬢さん気に入られたようです」と云って嗤う。

 囃子が何かキチガイじみた調子になってゆく。

 白狐の面の男の煙のような手に再び捕われると舞台へと導かれた。
 どうかしてる、と思いながら云った。
「妖怪怨霊鬼神の類迄入り交じってなにするんです」
「それァお嬢さん、新年に福を呼ぶ神事に決まってます。豊作大漁商売繁盛疫病退散無病息災家内安全安産祈願恋愛成就、兎に角全部です」
 馬鹿げていると思った。そもそも装束もみな勝手で鎮具破具だ。
「大体あなた方、人間じゃあないんでしょう」
 云ってみると面の連中の笑みが一層な歓喜に満ちる。般若や鬼など笑っているはず無かろうにそう見えるのだからどうにもオカシイ。
「小面がありますが、その顔、つけんでも面のようだ。お嬢さんまるで表情が無い」
 云いながら生白い手は漆の椀に注がれた御酒を寄こす。
 湛えられた酒の表面に篝火がたゆとうていた。
 この奇妙な連中の囃子のなかで其れを見ているうちに何かもう酔った風になって眩暈して了いフラリと仰向いて倒れそうになった。白狐の面の男が其れを片腕のうちへ留めて云った。

「サァお飲みなさい」

 己は一体全体此処で何が行われているのか釈然としない侭、まさに狐に摘ままれる心地ながら云われる通りに神酒に口をつけて了った。
 白狐の面の男の言葉は魔術か呪詛であるかのようで拒むことが出来なかったのだ。否、魔術か呪詛であったろうと思う。其れに罹った己はこうする事はもう決まっているのだと観念し神酒を飲み干した。

 なんと、なんと強い酒であろう。
 纏わるような濃さの酒精が咽喉を焼いた。

 ――ベンッ。

 束ねられた美しい絹糸が微々と震い三味線の音が指先からつま先にまで熱をもって奔ってゆき酒精を一層巡らせた。熱イ。
 酌を取る猩猩の赤い手に依って、次、また次へと椀へ注がれる神酒を何かわからない侭に飲んだ。なんと深みのある味わいの酒であろうと思った。まさに甘露。若しや己はいま忉利天に謳われる霊液を飲んでいるのではなかろうか、と思った。
 恍惚の侭に囃子の音と闇のなかへ喪失して了いそうな意識を生白い手が強く引き戻す。白狐の面の男が云う。

「是もまた興」

 面をずらし覗く唇は其れでも人間のもののようにも見えた。口角を吊り上げて笑む唇が己の首筋、それから鎖骨の辺りへ幾つかの濡れた熱を置いていった。熱イ。
 舞台の梁に凭れ息を衝いた。立ち眩む間に肩から滑る赤い袷、其のうちにあった草臥れたシャツの釦はいつの間に外されたものか白狐の男の舌が晒された胸を這った。
「アッ、」
 漏らして了った声が妙に女染みているように思えた。
 知らなかった恥辱に震う体躯が狂おしく、熱イ。
「なァに。興ですよ、興」
 流れるような所作で解いた己の袴の紐を絡ませた侭、生白い指が己の深みへ滑り入る。得も知れぬ快感に震う己の体躯はまるでほんとうに女のものであったかのような気がした。

 
 滑ルヤフ ニ  入ツテク ル モ ノニ 甘ンズ ル ト ユフ  
   
                 コ  ノ   感    覚    ハ ?


 白狐の面の男が耳に這わせていた唇から零す。
「矢張り」
 狂った風に鳴り渡る囃子と燃える篝火の暗夜へすっかり露呈されて了った己は、もはや神々の舌を歓喜させるに十分に余りある処女であった。
 寒冷に屹立した夜気を裂き月を穿たんとする鋭さで囃子が止む事無く奏でられていた。
「お嬢さん、今宵は月が丸いのでわたしどもの方では咽喉が渇いて仕方が無い」

 其の声を最後に己は何処へか終と喪失した。

 書物に並ぶ活字のみを追い、来る日も死んだ牛蛙のように孤独へはいつくばっていた己の感性が歓喜していた。
 悦楽の闇に久しく感じ得た興を呷ったのか或いは己が一滴残らず呷られたのか、とまれ滑り落ちた不思議な袷が唯々月光に赤い凍てついた除夜であった。

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