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小説・評論:孤城忍太郎の世界コミュの日本語への危惧

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 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)の,

 『Motion1(風琴・organ)』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。






     日本語への危惧

 日本人は自國の言葉を、他國に比べて大切にしない傾向があるやうに思はれる。
 仏蘭西(フランス)などは、國全體で言語を守らうとする姿勢が窺へ、

 「仏蘭西語が、世界で最も美しい言葉だ」

 といふ自信に満ち溢れてゐて、歴史の流れを繼續(けいぞく)させる意識がしつかりと感じられる。


 その理由は、日本が四方を海に圍まれた島國で周りの國との接觸が少なく、それ故に、歐羅巴(ヨウロツパ)などのやうに陸續きでいつでも他國の侵入に脅え、言語への侵害から守らうといふ意識を持たないと忽ちの内に亂(みだ)れてしまひ、第二次世界大戰の時に、日本が東南亞細亞で日本語を侵略した國へ押しつけたやうな慘状を呈してしまふ事になるからであらう。


 これは以前にも書いた事だが、言葉には「話し言葉」と「書き言葉」があるが、これはどちらも同じ類(たぐひ)の言葉ではない。
 確かに、言葉の體系(たいけい)としては同じであり、當然(たうぜん)意味においても同じ内容であらうが、實際(じつさい)に行爲(かうゐ)に移すとその差は歴然と現れて來る。
 これは何故だらうか。


 どうして書くやうに話せず、話すやうに書けないのか。
 音は幾つでも組合せられるし、また文字も同じやうな條件であるにも拘はらず、どうもうまく行かない。
 事實(じじつ)、言葉の中では、

 「有難く」が、
 「有難う」と變化(へんくわ)をし、

 「戀」が嘗(かつ)ては本當に、
 「こひ」と發音し、
 「KOHI」の「H」のみが脱落して、
 「こい」

 と發音されるやうなつて、どんどん變化して來たし、これからもそれは續くだらう。


 また、文字に於いても、今では、

 「國」を、
 「国」

と表記するが、この經緯(いきさつ)は面白く、國構へ「囗」の中の「或」から、一旦「王」に變つた所、民主主義の世に「王」は可笑(をか)しいといふので、「王」に點(、)を附けて「玉」として、

 「国」

 としたのだが、このやうに幾らでも變化をしてゐる。


 しかし、「話し言葉」が發音し易い方へと變化して行つたのに比べ、「書き言葉」の變化は作爲的で、國家といふ権力の單位でしかそれを成し得ず、その違ひは「話し言葉」より「書き言葉」の方が自然の流れといふよりも力技と言へるだらう。
 その力技で手に入れた『現代假名遣』にした所で、話すやうに書けない。
 本來、『歴史的假名遣』の「話し言葉」と「書き言葉」差が激しくなつたので、それを解消する爲に『現代假名遣』に代へたのに、それでもまだ駄目である。
 恐らく、これは將來に亙(わた)つて解決が困難な問題であると言へるだらう。
 

 けれども、それは當然の結果と言へるだらう。
 といふのは、「話し言葉」は一人の人間が、過去も未來も周圍に人々のゐない何もない空間で話すのではなく、一つの舞臺(ぶたい)若しくは環境の中で話すのであるから、假令(たとへ)それが獨り言でも、未來や過去の樣々な出來事に對(たい)しての感情の現れであり、その本人さへ解ればそれで良いのである。
 或は、それが數人の人に話しかける場合であれば、周圍(しうゐ)の人々に意志の傳達が出來れば、多少の文法的な間違ひがあらうとも理解は出來るのである。
 

 試みに誰かが議論をしてゐる時に、その儘文字に寫(うつ)すと、文節の切れ目切れ目に、

 「エー」とか、
 「アー」

 とかの意味のない音聲が入り、また、

 「要するに」とか、
 「だから」

 といふ言葉が、意味の成す時と成さない時とに関係なく、その人の癖さへ音聲として表れて來る。
 とてもその儘では、書けたものではない。


 さう言つた事は除いたとしても、昔は言葉を殘す方法は文字しかなかつたし、今でこそ音を録音する機器が一般に普及してゐるが、それとても、意味のない會話をだらだらと録音はしないだらう。
 その爲に書いたものを朗讀するなりして、それ以外の音は、昔と同じやうに空氣の振動が消えると同時に、この世から消失してしまひ、未來の人々に聞かせる事は出來なくなつてしまふ。
 さういふ意味で、文字を書く行爲が記録の役目をしてゐた事は一目瞭然であつたとすれば、その爲に整然とした論理體系がなければ、具體的な内容や意味を傳(つた)へる事は出來ないだらう。


 そこで「文法」が出來るのは、當然の結果だと言へるのではあるまいか。
原初では、本當に「書き言葉」も「話し言葉」も同じやうに發音し、同じやうに書いたり喋つたりした時代があつたかも知れないだらう。


 だが、それは次第に「話し言葉」が文字を裏切り始めた。
 「文法」通りに書く事は出來ても、「文法」通りに話す事は容易ではない。
 それに促音といふものが現れて、

 「行きて」が、
 「行つて」

 となるやうに、音はどんどん變化をせざるを得なかつた。


 一つには、日本の歴史の中に戰爭といふやうな事件が幾つもあつて、「話し言葉」を速くしなければならない事態が起きたのだらう。
明治・大正・昭和といふ時代を經(へ)て地域が廣がるにつれ、音は愈々烈しく變化をした。
 會話は、

 「どうも有難う御座いました」が、
 「どうも」

 となつて、それは、

 「どうもお疲れ樣でした」や、
 「どうもお待たせ致しました」

 などの色々な意味での、

 「どうも」

 であつて、

 伊太利亜(イタリア)語の「チヤオ」や、
 仏蘭西(フランス)語の「ボンジユウル」や、
 獨逸(ドイツ)語の「ダンケシエエン」

 のやうな感じになつて、どうも困つたものである。


 これらは時代の成せる業であつて、「文法」の爲に「話し言葉」まで規制するのは可笑しいかも知れない。
 それと反對に、「書き言葉」も「話し言葉」に依存してはならないと言へるだらう。


 『現代假名遣』が全く新しい言語を創造して、それを實施したのなら文句はないが、同じ昔ながらの言葉を使用してゐるにも拘はらず、音聲が變つたからといつて直ぐに『假名遣』を變へるのは愚かな事で、況(いはん)や權力で規制するのは以(もつ)ての外で、もつと愼重に扱ふ可きだらう。


 何故なら、文字は歴史の連續の中で限りなく不變に保たれる可きものだと思はれるからである。
 その爲には、出來るだけ同じやうに表記し續けるといふ事が第一條件とならうかと思はれる。
 一時の流行の爲に文字まで破壊して、日本語の汚點としてはならないのである。


 歐羅巴の語源は、大方が羅甸(ラテン)語ださうで、尤も、今では『印度歐羅巴語』として扱はれてゐるが、

 羅甸語の「スタアバト・マアテル」が
 英語では「スタンデイング・マミイ」

 となる。
 これは十字架で死刑にされた基督(キリスト)の前で、悲しみに暮れて立盡(たちつく)す聖母マリアの事で、直譯すれば、

 「立つてゐる母」

 となるが、日本語譯で、

 「悲しみの聖母」

 は蓋(けだ)し名譯であらう。


 聞き違へかも知れないが、

 「サラリイマン」

 といふ英語は、嘗て歐羅巴の騎士道華やかなりし頃、日本で殿樣が家臣に祿として米を與(あた)へたのと同じやうに、王は家來に鹽(しほ)を給料として渡したと聞いた事がある。
 鹽は、

 「ソルト」

 であるが、それが今日の英語の、

 「サラリイ(給料)」

 となつたやうに、その語源が羅甸語である。
 因(ちな)みに、獨逸語で鹽は、

 「ザルツ」

 で、地名の、

 「ザルツブルグ」

 も鹽の産地として有名で由來のない事ではない。
このやうに、羅甸語を基礎とした歐羅巴の諸外國の言語は、亂暴な意見と言はれるかも知れないが、日本語の基準點としての標準語に於ける、

 「鹿児島辯(かごしまべん)」や、
 「秋田辯(あきたべん)」

 と考へれば理解し易いだらう。


 さういふ考へもなしに、便利だからといふだけで文字を變へてしまふのは愚かである。
 この儘で行くと、

 「ナスカの不思議な地上の圖柄(づがら)」

 のやうに、後世の人が讀取る事も不可能になつて、日本語は滅びるかも知れないだらう。




正字禮讃
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