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小説・評論:孤城忍太郎の世界コミュの―戰國異聞―  生きてゐた信長

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 その古文書の内容は驚くべきもので、これがこれまで發見されなかつたものである事は、淺學の徒とはいへ、今まで聞いた事がなかつた事でも納得出來た。
 これは僕の手には餘るので、専門家に調べてもらふしかないが、取不敢(とりあへず)その一部を紹介したいと思ふ。
 何故かといふと、十數年前に世界で注目を集めたソ聯の謀叛(クウデタア)、非常に似た状況がそこに記されてゐたからである。

 
    ――『牛一日記』より――


 過ぐる天正十(一五八二)年六月二日未明。
 凡夫(ぼんぷ)の及び難(がた)き明晰さと合理性を具へて、應仁(おうにん)の亂(らん)以降うち續きたる戰國時代を終焉に追込んだ、一代の麒麟兒(きりんじ)織田信長公は、中國地方の平定を命じた羽柴秀吉殿の元へ援軍を送る可く、明智光秀殿率ゐる一萬三阡の兵を向はせ候所、明智殿は一日(つひたち)に龜山城を出發せしが、翌未明、敵は本能寺にありと叫びて、信長公以下數十人の近習といふ隙を衝き、本能寺を包圍し、魔王と恐れられたる信長公を歴史の外へと屠(ほふ)り候段、甚だ惜しむ可き事なり。
 世に是を『本能寺の變』と申し候へ共、其後(そのご)、明智日向守はその天下を十日餘りにて羽柴筑前殿に實力(じつりよく)で取つてかはられ、秀吉殿は無事本懷を遂げ、右府樣の仇である惟任日向守(これとうひうがのかみ)光秀を滅ぼせし次第、公(おほやけ)の事なり。
 然(しか)れども、其際(そのさい)、筑前殿は明智光秀を粛清するに當り、右府樣の和子三法師樣を輿(かつ)ぎ出し、其儘、天下を手中に治め候ひしは、天をも恐れぬ所業と異を唱うる者多き事も事實(じじつ)なり。
 陳者(のぶれば)、豊臣の御代(みよ)以前、未だ柴田勝家殿が存命中の折、妙な噂が世間に流布したる事有之(これあり)候。
 そは織田信長公、本能寺に於いて憤死なされて御座(おは)さず候との事なりしが、流石(さすが)の太閤様もかかる噂に震へ戰(をのの)きたるとの事有之(これあり)。
 かの噂に尾鰭(をひれ)が附き、明智光秀に本能寺を襲はせたる、謂はば『本能寺の變』に於ける謀叛なるもの、實(じつ)は信長公自身が劃策(くわくさく)せしものなりと言ひしが、最も人を驚かせたる事なり。
某(それがし)も祐筆なるが故に、右府樣より内々に聽かされし覺え有之しが、否、本能寺に光秀殿を急襲させんといふ企(たくら)みには無之(これなく)候。
 然(さ)る程に戰上手として最も恐れられし武田信玄、上杉謙信の變死の後、信長公は其為に温存を餘儀無くされたる兵力を總動員し、天正八年には本願寺を石山城から退去させ近畿を平定、續いて天正十年には武田勝頼を滅ぼして、政治の中心を掌握した或る日の事にて候。
 安土城に於いて、今、この信長に取つてかはれる者が家臣の中にゐるとせば、誰にやあらんと言ひし事を、偶(たまさか)其場に居合せた某(なにがし)に問詰められ候ひき。
 かの時何も答へる事能(ことあた)はず、今になつて慮(おもんぱか)れば、當時に於いても次代を擔(にな)ひ得る武將は、秀吉公か將又(はたまた)徳川家康殿より思ひ浮ばず候。
 瓶割(かめわり)柴田と稱へられし權六殿は、豪氣なる點(てん)にて人後に落ちなけれども統率力に難あり。
 惟任日向守殿は線細くして猜疑の人と申す可き、又、織田家に臣(しん)數(かず)あれど、己が野心而己(のみ)にての立振舞ひ多ければ、天下人の器に非ざる者(もの)許(ばか)りと言へば、而(しかう)して、先の二人に止(とど)めを差すものなりといふが、私心に忌憚(きたん)無き所也。
 それが如何なる理由にて、信長公が光秀殿に命じて茶番劇を圖(はか)らひしか。火の無き所に煙は立たずと雖(いへど)も、合點(がてん)の行かぬ事餘りに多く候。
 倩(つらつら)惟(おもんみ)るに、假(かり)に信長公に家臣への信頼なかりせば如何(いかが)ならんや。
 天下を治めて後、ニ心(ふたごころ)ある臣あれば再び世は大亂(たいらん)へ逆戻りとなり、其れ故にこそ謀叛の芽を摘みとらんと光秀に指圖(さしづ)し、それに呼應(こおう)する者あれば、それを潮に獅子身中の蟲(むし)を取除き、天下平安の礎(いしずゑ)となさんと推察するなり。
 奈何(いかん)せん、猜疑心強き統率者は、信の置ける家臣を見極める事甚だ困難にて、信長公如何なる故を以(もつ)て光秀を指名したるか、矛盾と申す可く候。
 本能寺にて頓死せし信長公、其(その)眼(まなこ)曇りて身中の蟲に謀(はかりごと)を持掛けし結果ならんや。其れ眞實なれば、実(げ)に滑稽と申す可く候。縦(よ)しんば、光秀が信篤(しんあつ)き武將にて、信長公の計略に隨つたとせしも、他の武將は如何(いかが)ならんや。光秀唯(ただ)一人(いちにん)にては謀叛成り難く、誰人を參劃致さんにても、事の成就に影響あれば、甚だ心許無しと言へり。
光秀・家康・秀吉のお三方に下命あれば此の案可能なるも、すは本能寺にて、信長公其身いづこへ安堵致せしか。
秀吉殿は中國地方にて戰場なれば信長公隱れ難く、光秀方に隱れて安土城に向ふも謀略の露見の恐れ甚だ多くして難有り。頼るは家康殿而己(のみ)と申し候。然(しか)あれど、かの時家康殿は堺より避難の身なれば、信長公隱れる事能はず。仮令(たとひ)隱れる事可なりとも、蟲から逃るる而己(のみ)にては謀(はかりごと)と言ひ難しとは申し候へ共、信長公、家康殿と駿府城へ向ふは絶好の隱れ蓑にて、意表なるがゆゑに成功の兆し大なりと言へり。
かくて秀吉殿、中國地方より取つて返し、手筈整ひたるなりと動かん。秀吉殿忠臣なれば、信長公の御代いまに續きたり。
なれど秀吉殿が蟲なれば棚から餅落つる心地して、天下は我が手中にあるを察し、此處を先途と光秀を征伐したる後、信長公の死を公表したれば、駿府にて信長公生きてあるとも機を逸したると言へり。
千成瓢箪より駒飛出したるが如し。
又、家康と雖も此の謀成功の曉には信長公に從ひて、更に粉骨碎身の勞を惜しまず候所なれど、謀(はかりごと)失敗となれば、謀は密なるがゆゑに今更信長公は此處に有りとも言へず、さりとて信長公生きてあれば其(その)狂氣なる精神を恐れたるに、此の機に窃(ひそ)かに信長公を闇へ葬りたるより外に無之候。況(ま)して信長公の御代にては大名に終る此の身なれど、秀吉なれば天下を夢見るも可なりと考へるも無理からぬ所と思ひ候。
然(さ)り乍(なが)ら、此れ等の案、信長公若年の折なれば納得せしも、即ち田樂桶狹間(でんがくをけはざま)へ二萬五阡の今川義元軍へ、僅か二阡の兵力にて向ふは、吉法師殿に失ふもののなかりせば成遂げられし也。
かの時期に於いては「天下布武」の旗印の元に、略(ほぼ)天下を手中に治め候所なれば、一歩誤れば水泡に歸するが如き、かかる虚假(こけ)の案を採る事無之(これなく)候。
強いて此の案を採用せんとするならば、信長公に更なる野心有りと見る可きに候。
然(さ)れば其(その)野心とは畏れ多くも天皇を弑(しい)し給はらん事にて、然(しか)る後、信長公自ら天皇を名乘らんと欲するにあらんや。
然(さ)こそ此の謀叛の實體(じつたい)なると申す可く候所なれば、合點のゆく事頗(すこぶ)る多しと言へり。
信長公、右大臣に任じられて後も幕府を開かざるは、此の思惑ならんか。
然(さ)れど信長公が心底(しんてい)、今となりては奈邊(なへん)にありしかを不知(しらず)、將(まさ)に夢幻の如く也。「注()内は筆者」

  文禄五年正月四日
             大田和泉守是を記す


         ―――――――――――――


  この古文書が如何に面白いものであるかは、これで理解されたであらう。
 もしこれが本當に當時のものだとしたら、これ程あの時のソ聯の状況と類似した環境があるだけでも、不思議な面持ちがする。
歴史は繰返すといふが、有り得さうな氣がしてきた。
ゴルバチヨフ氏は、本當に謀叛(クウデタア)に關係があつたのだらうか。
ここで僕の意見を述べると、ゴルバチヨフ氏がなんらかの形でクウデタアに關與してゐたとするならば、彼は西側世界に向つて、
「あなた方が資金援助しないから、ペレストロイカが崩潰して、鐡(てつ)のカアテンが再び閉ぢるやうな事態に陥つたのだ。一刻も早く援助戴きたい。さもないと世界にとつて深刻な状況となるのは、時間の問題だらう」
といふ脅しの意味以外には考へられない。
しかも、その危険度(リスク)たるや、事が成就しなければ、自分の首が飛ぶといふ場合も考へられるので、ゴルバチヨフ氏は、滅私の氣持で國民の麺麭(パン)の爲だけに、事に臨んだとしか思はれないのだが、その後の彼の言動からは、それを感じとる事は難しい。
この事件の眞相も、また、歴史の闇の中へ葬り去られる類(たぐひ)のものなのだらうか。

       ◆

東京に戻つてから數日後、某國立大學の研究室から一通の手紙が屆いた。
それによると、田舎で發見された古文書は、僞書の可能性が高いので公(おほやけ)には出來ない、と叮嚀に記されてあつた。
その理由としては、候文の不備と明治期の造語である漢語なども混じつてゐる事や、桶狹間(をけはざま)での今川軍との戰ひの記事に、吉法師とあるが、これは幼名で、十三歳にて元服の後は織田三郎信長と名乘り、十九にして自官ではあるが上總介(かづさのすけ)信長といふのが正しく、そこら邉りにも不審に感ぜられるし、何と言つても、「文禄五年正月四日」といふ表記には納得出來ないものがある。
何故ならば、「文禄」は四年までしかなく、年の半ばで慶長元年となつてゐるからである、といふやうな事が書かれてあつた。
僕としては、これが世間に發表されなかつた事は返す返すも殘念だつたが、また 一つだけ良い事もあつた。
それは、僕が田舎へ歸る切掛けが出來たといふ事である。
實は、これから早速歸らうとかと思つてゐるところなんです。
勿論、例の古文書の報告を理由にしてなんですが……。

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