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小児風邪対策研究会コミュの我が国のインフルエンザ診療への危惧(後半)

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今後のインフルエンザとパンデミック

今後懸念されている新型インフルエンザウイルス候補では、H5N1高病原性トリインフエンザウイルスが重要です。他に、H5N2,H5N3,H7N1,H7N2,H7N7,H9N2などの亜型がヒトへ感染することが知られています。

水禽、特にカモは本来の自然宿主として、A型インフルエンザウイルスのHA亜型16種類とNA亜型9種類の全てを保有し、他の水禽や家禽や家畜、さらにヒトへのA型インフルエンザウイルスの供給源です。水禽ではウイルスは腸管で共存して宿主に病原性を示すことは殆どありませんが、家禽に感染すると病原性を発揮することがあります。大部分は低病原性ですが、HA遺伝子に変異を起こして強毒株になった場合、高病原性鳥インフルエンザ(Highly Pathogenic Avian Influenza; 以下HPAI)と呼ばれます。HPAIの分子遺伝学的定義は「HA分子の開裂部位に塩基性アミノ酸(Arg,Lys)の連続が存在」することです。

また、トリインフルエンザウイルスHAは「隣接するガラクトースとの結合様式がα2-3結合のシアル酸」になっている受容体を認識して吸着しますが、ヒトインフルエンザウイルスHAは「隣接するガラクトースとの結合様式がα2-6結合型のシアル酸」になっている受容体を認識して吸着します。この受容体認識の違いはHA側の受容体結合部位の2個のアミノ酸(226番目と228番目)が規定しています。

トリインフルエンザウイルスの増殖の場であるトリ腸粘膜上皮にはα2-3結合型のシアル酸が存在し,一方、ヒトの気道粘膜には主にα2-6結合型のシアル酸が存在します。一方、ブタの気道粘膜には両方の結合型のシアル酸が存在するため、トリウイルスもヒトウイルスも感染できます。ブタの気道上皮細胞に、ブタウイルスに加えて、ヒトウイルスやトリウイルスが混合感染すると、ウイルス間で遺伝子交雑が起こるため、ブタは“mixing vessel”と言われています。

従来、トリウイルスとヒトウイルスでは受容体認識に関わるHA構造も、受容体のシアル酸構造や分布も異なるため、種の壁を越えて、直接トリからヒトへ新亜型ウイルスが感染するとは予期されていませんでした。先ず、mixing vesselであるブタの体内での遺伝子再集合により新亜型ウイルスが産生され、哺乳動物で増殖しやすく馴化されてから、本格的に、ヒトの世界に侵入して大流行を引き起こすと考えられてきました。特に、中国南部の農村ではヒトの住居近くで、ブタと家禽を飼育しているため、水禽から家禽にトリインフルエンザウイルスが伝播したのち、トリウイルスがヒトウイルスと共にブタに混合感染する環境が整っていて、遺伝子交雑による新型インフルエンザウイルスが出現する可能性が高いと予想されてきました。

しかし、1997年香港でのH5N1高病原性トリインフルエンザウイルスのヒトへの感染例(罹患者18名中6名死亡)や1998年以降のH9N2によるヒトへの感染例によって,直接トリからヒトへ種を越えて感染する可能性が示唆されました。2003年2月には中国福建省を旅行した香港の家族3人がH5N1高病原性トリインフルエンザで肺炎を発症し、2名が死亡しました。 2003年のオランダでは高病原性H7N7が養鶏場で流行し,作業員89名の感染が確認され、さらに家族内感染3名もみられました。78名に結膜炎症状,7名にインフルエンザ様症状がみられ,獣医師1名がH7N7に感染して死亡しました。2004年春には東南アジアや中国の養鶏場でH5N1高病原性トリインフルエンザの流行がありました(タイで感染者12名中8名死亡、ベトナムで感染者22名中15名死亡)。

興味深いことに、ヒト肺胞上皮にもトリインフルエンザウイルスに対する受容体が存在することが示されています(NATURE 440(23): 435-436,2006.)。但し、この受容体は肺深部にあり、トリインフルエンザウイルスに大量に暴露した場合を除いては容易に感染は成立しないと考えられています。しかし、ウイルス受容体が肺深部に存在する分、一旦、発病すると急激な呼吸障害など、重症化しやすいことが想定されます。実際、H5N1亜型感染症の特徴的な経過として、早期から下気道症状が出現し、急速に増悪する点が挙げられ、初診時に既に一次性ウイルス性肺炎が認められています。

さらに、受容体認識を規定するHAの226番目と228番目の2個のアミノ酸がトリ型(Gln226, Gly228)からヒト型(Leu226, Ser228)に変異すれば,トリインフルエンザウイルスがヒトに容易に感染し、ヒトからヒトにも伝播してパンデミックを引き起こす可能性が危惧されます。H1N5高病原性トリインフルエンザの診断では、先ず第一に、渡航歴と接触歴が重要です。特に、発症10日前までに、現在トリインフルエンザが発生している地域へ旅行したかどうか、さらに家禽との濃厚な接触歴、あるいは、肺炎患者と1〜2メートル以内で対面接触したかどうかが大切です。

H1N5高病原性トリインフルエンザの潜伏期間は2―5日間で、初発症状は発熱、咽頭痛、筋肉痛、咳、などですが、下痢が多いとされます。とりわけ、H1N5高病原性トリインフルエンザウイルスは本来、腸管粘膜に感染しやすいことに留意しなければなりません。その本来の感染動態から見て、宿主側には、非特異感染免疫反応として下痢が起こっている可能性があります。下痢に気をつけなければいけないのではなく、むしろ、下痢でウイルスの排除が出来ない場合、広範な消化管粘膜を介してサイトカインによる全身性炎症(サイトカインストーム)が誘導されて組織・臓器障害が惹起され、重症型の病態が形成される恐れがあることを憂慮すべきです。とりわけ、現代は、アトピー体質の増加も影響して慢性鼻副鼻腔炎の有症率も高い現状があり、後鼻漏の誤飲に伴うエアロファギアで腹満、腸蠕動抑制、便秘が日常的に存在するため、高病原性トリインフルエンザウイルスの腸管からの排出が大幅に遅れることが懸念されます。

感染様式は、飛沫または飛沫核感染、糞口感染ですが、トリインフルエンザの場合、無症状の渡り鳥から空中散布される糞便を介して、想定外の場所で突然流行拡大が起こる可能性について、特に考慮しておかなければなりません。水際作戦としての感染防御には、気道はもちろん、上述のように、消化管における高病原性トリインフルエンザウイルス停滞時間を如何に短く出来るかが重症化阻止の大変重要な鍵になります。人類は、パンデミックインフルエンザH1N12009の経験を元に、盲目的に薬物療法に依存したり、過信したりする他力本願を脱却し、生体の本来の感染防御システムを最大限に生かす、インフルエンザに対する根本的な対処法を見直し、かつ、身に着けておかなければなりません。


インフルエンザと漱石の周辺

ここでは、インフルエンザが漱石の人生にもたらした二つの重要なエピソードを回顧します。

立花銑三郎
1867(慶應3)年−1901(明治34)年
哲学者・教育学者
明治34年1月26日ベルリンで撮影された生前最後の写真
京都大学附属図書館所蔵「立花文学士遺稿」(1903年)扉から

立花銑三郎は共立学舎で英学を修め、1884(明治17)年9月、東京大学予備門に入学しました。1888(明治)21年7月、第一高等中学校(1886年名称変更)本科第一部(文科)を卒業し、1888(明治)年9月、帝国大学文科大学哲学科(西洋哲学史)に入学し、学習院講師、東京専門学校講師にもなりました。1890(明治23)年4月、芳賀矢一と共編、上田万年校閲の『国文学読本』(富山房)を出版し、1892年明治25年7月には、夏目金之肋・藤代禎輔・松本文三郎らと『哲学雑誌』の編集委員となりました。1892年明治25年7月、帝国大学文科大学哲学科を卒業すると、直ちに帝国大学大学院に入学し、1892年明治25年九月には学習院嘱託教授となって、心理学・倫理学・美学を講じました。また東京専門学校でも社会学・論理学の講師となりました。1896年明治29年三月、日本で初めてチャールズ・ダーウィンの『生物始源一名種源論』(経済雑誌社)を翻訳出版しました。

1893(明治)26年7月、帝国大学文科大学英文科を二人目の文学士として卒業後、東京の高等師範学校(英語嘱託)、四国松山の愛媛県尋常中学校(英語)、九州熊本の熊本第五高等学校(英語教授)と歴任していた夏目漱石は、1899(明治32)年9月、五高教授のまま、英語研究の目的で英国へ留学しました。ちょうどその頃、1899(明治32)年8月、かつて帝国大学文科大学英文科を卒業したばかりの漱石が希望した学習院出講について周旋した友人で、学習院教授の立花銑三郎も、中学教育に関する取調べのため、学習院在職のまま渡欧しました。

ベルリンの立花からは、1902(明治34)年1月、オーストリアやハンガリーへの旅行に出発する旨の年賀状が英国の漱石に宛てて届いていました。しかし、立花はこの旅行中にインフルエンザに罹患しました。恐らく1900(明治33)年に始まったパンデミックに巻き込まれたと推定されます。

1902(明治34)年2月5日付ベルリン在住藤代禎輔宛漱石書簡に「立花も病気だつてね加愛想によろしくいって呉給へ」とあり、漱石は立花の病気を知っていましたが、詳しい病状までは理解していませんでした。立花は、ベルリンに帰ってから、独人医師や留学中の東大医学士の治療を受けましたが、極寒のベルリンで、病は重く、「帰国して治療するのが一番よい」と言う長岡外史など日独友人の衆議は決し、3月3日付で帰朝を命ぜられました。

3月23日ベルリン=ポツダム駅にて学友に送られ、「春雪の降りて心の寒さがな」の一句を残してベルリンを離れ、アムステルダムより日本郵船常陸丸に乗船しました。その後、漱石も、立花の病状の深刻さを承知し、3月18日付立花銑三郎宛漱石書簡では、すぐに軽快すると思っていたのに、思いがけず、立花の経過が果果しくなく、帰国しなければならなくなったことに強い驚きを示しています。それでも、会いたいから、ロンドンの自分の下宿に泊まるように勧めるなど、立花が予想以上に重篤とは思い至りませんでした。3月27日付漱石日記を読むと、アルバート・ドックの常陸丸より帰国途中の立花の書簡が届き、漱石は直ちに船に立花を訪問し、涙ながらの最後の対面を果たしました。

容態は非常に悪く、同船していた医学士望月淳一、渡辺雷をブリティッシュ・ミュージアムおよびナショナルガレーに案内して話を聞きましたが、「立花ノ病気ハダメナリトアリ気の毒限ナシ」(漱石日記)と悲嘆にくれる外ありませんでした。これが立花と漱石の永遠の別離となりました。孤独な留学生活を送る漱石にとって、回復の見込みのなくなった朋友、立花の姿は慙愧に堪えませんでした。4月19日、漱石はポートサイドから立花よりの端書を受け取りましたが、明治34年5月12日、立花は上海沖の常陸丸船中で死去しました。享年35歳でした。四ヶ月という亜急性の経過で、インフルエンザ肺炎から二次性細菌性肺炎を併発し、遂に呼吸不全に至ったと思われます。

大塚楠緒子
1875(明治)8年-1910(明治)43年  歌人・詩人・小説家  
財団法人日本近代文学館所蔵から

宮城控訴院々長、大塚正男の一人娘でした。その才色兼備は有名で、歌人、小説家としても活躍しました。1893(明治26)年7月、帝国大学文科大学英文科を卒業した漱石はそのまま大学院に入り、帝国大学寄宿舎で暮らしていましたが、当時の寄宿舎々監、清水彦五郎の仲介で、小屋保治と共に、大塚楠緒子の婿候補になりました。しかし、明治28年3月、楠緒子が結婚したのは小屋保治でした。楠緒子は漱石が理想とした女性とされています。楠緒子と漱石の文芸上の交際は生涯続きました。

時は過ぎて、1908(明治40)年、漱石は帝国大学文科大学英文科講師を辞して東京朝日新聞社に入社し、小説記者となりましたが、この頃、同じく小説家でもあった旧知の大塚楠緒子に結核の影が忍び寄っていました。1909(明治41)年5月11日付大塚楠緒子宛漱石書簡では、楠緒子が肺炎で転地を考えていたことが窺えます。さらに1911(明治43)年3月、楠緒子は「雲影」執筆中、インフルエンザにかかって新聞連載を中絶、さらに、結核を悪化させ、高輪病院に入院します。その後、大磯大内館で静養に努めましたが、寛解には至らず、大磯と高輪病院の往復は三度に及びました。

一方、漱石も、明治43年5月頃から胃の不調が続き、長与胃腸病院で便の出血反応を指摘されて胃潰瘍を疑われ、6月18日から7月30日まで入院治療を受けました。その後、小康を得て、松根東洋城の勧めもあって、8月6日から、転地療養のため修善寺温泉菊屋旅館に逗留しましたが、8月24日夜、胃潰瘍による大量吐血で、30分間程度、人事不詳となりました(修繕寺の大患)。九死に一生を得て、10月11日、ようやく東京に戻りますが、そのまま、長与胃腸病院での療養生活が続きました。

ところが、その入院中、11月13日の新聞で、静養中の大塚楠緒子が大磯で11月9日午後に亡くなったことを知ります。享年36歳でした。夫の大塚保治から、死の報知と広告に友人総代として名前を使って良いかと電話で照会されて承諾しました。15日には、その死を悼んで「棺には菊投げ入れよあらん程」「あるだけの菊投げ入れよ棺の中」「ひたすらに石を除くれば春の水」と詠みました。19日に雑司が谷で行われた葬儀には参列できませんでした(「硝子戸の中」25)。

インフルエンザウイルスには免疫抑制作用があります。インフルエンザを契機に結核が増悪して肋膜炎や粟粒結核に進展したと思われます。漱石と楠緒子は若き日の出会いを経て、当時は文芸創作上において親密な交流が続いていました。折りしも瀕死の重体から回復した漱石に突きつけられた楠緒子の突然の訃報は衝撃も大きかったと思われます。

終わりに

インフルエンザとパンデミックの歴史を概観し、漱石が生きた時代、特に「三四郎」に描かれたインフルエンザを感染免疫学の立場から検証し、インフルエンザに対する免疫ついても述べました。また、現在のインフルエンザ診療の問題点と今後のインフルエンザに言及すると共に、体に備わった免疫機能とそれを支える生活習慣の重要性を強調しました。最後に、インフルエンザと漱石の周辺に関して二つのエピソードを紹介しました。漱石の人生の大切な転機に登場した立花銑三郎や大塚楠緒子が、思いがけず、インフルエンザを契機に急逝しました。思い出も多かった二人を見送った漱石には深い感慨が残されたと思われます。

本稿は、2010年に京都漱石の会会報「虞美人草」第5号:8-9に発表した同名記事に加筆したものです。

文責:医療法人操南ファミリークリニック 横山俊之

参考文献

岡部信彦:新型インフルエンザ(パンデミックインフルエンザA/H1N1 2009)感染症の疫学:小児科診療 74:1329-1335, 2011
森島恒雄:新型インフルエンザの臨床的特徴:小児科診療 74:1337-1342, 2011
高橋 央:トリインフルエンザ感染症:小児科診療 74:1343-1351, 2011
国立感染症研究所 感染症情報センター:鳥インフルエンザに関するQ&A:
http://idsc.nih.go.jp/disease/avian_influenza/QA0612.html
本郷誠治:新型インフルエンザ:
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsb/topics/influenza/influenza.html
横山俊之:インフルエンザと漱石の周辺:京都漱石の会会報「虞美人草」第5号:8-9, 2010
夏目漱石:三四郎(岩波文庫);岩波書店、1990
荒正人:増補改定 漱石研究年表;集英社;1984
原武 哲:喪章を着けた千円札の漱石 伝記と考証; 笠間書店, 2003年
小坂 晋:漱石の愛と文学:講談社, 1974年
漱石全集:第22巻 書簡上; 明治22年−明治39年; 岩波書店, 1996年
漱石全集:第23巻 書簡中; 明治40年−明治44年; 岩波書店, 1996年
夏目漱石:漱石日記:平岡敏夫編;岩波書店、1990

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