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お好み焼 味幸コミュの『うる星やつら ビユウテイフル・ドリイマア』を見て

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 『うる星やつら』は人も知る高橋留美子女史の作品で、原作者は特異な才能を持つた女性漫畫家であり、別に『めぞん一刻』や『犬夜叉』、『らんま……』などの作品でも一世を風靡し、根強い人氣を保つてゐる。
 その彼女の描く二次元を、『ルウミツク・ワアルド』と愛好家は呼ぶ。
 『うる星やつら』の劇場用の漫映(アニメ)が全部で何作あるか數(かぞ)へる氣にもならないが、その中でも最も優れてゐると思はれる『ビユウテイフル・ドリイマア』を見た。
 勿論(もちろん)、大抵の作品は見た心算(つもり)だが、これが一番面白かつた。


 その面白さの理由は、原作者の高橋留美子女史の所爲(せい)といふよりも、映畫監督の押井守氏の力に負ふ所が大きいと言へるだらう。
これはその後の彼の活躍を見るにつけても、さう思はれるのだが、然(しかし)し、本當(ほんたう)の高橋留美子の支持者(フアン)は、この作品よりも他の、例へば『完結編』などの方が好まれるのではないかと思はれる。
けれども、作品の出来からいふと、斷然『ビユウテイフル・ドリイマア』が頭拔けてゐて面白い。


 では、どう面白いかといふと、本來『うる星やつら』は「ラム」ちやんが異星人で、地球人の「あたる」君との宇宙を越えた愛は成就するのか、といふのが物語の軸となつてゐ、これは國際結婚(或いは人種)の問題を、作者がそれとなく考へてゐる證據(しようこ)ではないかと思はれて、面白く讀(よ)めるのだが、漫映(アニメ)ではそれ程大きな主題とはなつてゐず、この作品では荒廢(くわうはい)した未來の友引町──廢墟そのものが自然の一部となつてしまつたやうな美しい光景の中で、樂し氣に遊ぶ主役の「ラム」ちやんと、「あたる」君とその仲間達の姿が序幕(プロロオグ)として現れ、それは直ぐに現實(げんじつ)の學園祭前夜の慌ただしい校内へと場面が移る。


 この學園祭前夜のハチヤメチヤぶりは、その會話も含めて作者の獨擅場(どくせんぢやう)で、これをして『ルウミツク・ワアルド』と愛好家は喜んで鑑賞するのであるが、軈(やが)て、「温泉(綽名(あだな)で多分この字だと思ふ)」がいつまで經(た)つても學園祭前夜の儘である事の不思議に氣がつき、「サクラ(巫女)」の、

 「龜(かめ)でも助けたか」

 といふ言葉に促(うなが)されて、

 「我々は氣の遠くなる前から、學園祭前夜といふ一日を繰返してゐるのではないか。今日と違ふ昨日も思ひ出せないのに、本當に今日と違ふ明日が來るのか。浦島太郎は龍宮城で夢のやうな日々を過ごしたが、地上では數百年の歳月が流れてゐた。もし龜を助けたのが村人(いや人類全て)だとしたらどうなるか。今話した事も明日になると忘れてゐるとしたら」

 といふ「温泉」の言葉に、「サクラ」も不安になつて一緒に夜の校舎に辿り着くと、そこには、さつき濟(す)んだ筈の學園祭前夜を、騒然と行つてゐる生徒達の姿が待ち受けてゐた。


 ここで『學園祭』といふ言葉を、『死』といふ言葉に置き換へると、監督の押井守氏が「温泉」に語らせやうとした内容が、どれ程深いものであるか判らうといふものである。
 事の眞實(しんじつ)を確かめる爲に、「温泉」は他の先生や生徒を學校の外へ追ひ返すが、その日以降、「温泉」の姿は忽然と消えてしまふ。


 一方、歸路(きろ)についた主要な生徒達は、その時不思議な少女を見かける。
その少女は縁(ふち)の大きな帽子をかぶり、これまた白いフリルのついた洋服を著(き)て、幻のやうに空間に佇(たたず)んでゐる。
 この少女と、少し後に出て來る、何も食べようとしない豚のやうな可愛い生物が、前振り即ち『藝術的豫感』を充分に發揮(はつき)したものである事が、實(じつ)は後になつて判るのである。


 「サクラ」の伯父の「チエリイ」を訪ねると、「温泉」より遙か以前に行方知れずである事に氣づき、慌てて學校に歸るべくタクシイに乘るのだが、一向に目的地に到着しない事を訝(いぶか)つて、

 「たかだか二、三分の距離なのに、まだ着かないのか」

 と尋ねられて、運轉手に扮した謎の男が答へ始める。

 「誰でも同じ事を仰(おつしや)いますが、タクシイに乘つたからと言つて、時間が延びる筈はおまへん。お客さん、龜に乘つて龍宮城に行く話を知つてまつか。龜に乘つたのが浦島太郎だけではなく、村人全員やとしたら、全員が龍宮城へ行つて、揃つて歸つて來たとしたら、それでもやつぱり數百年經つた事になりまんのか。誰一人、時の經過に氣がつけへんかつたとしても……。時間は意識の産物なんやから、なまじ客觀的に時間を考へるとややこしなる。世界中に人間がゐなかつたら、時間やカレンダアになんの意味があるねん。過去から未來へきちんと流れる時間はないんとちやうか。確かなんは、かうして流れる現在だけ。お客さん! この儘、龍宮城まで行きまつか。お安すうしときまつせ」

 といふユウモラスな言葉遣に、「サクラ」は龜に乘つてしまつた事を自覺する。


 やがて、校門には行き場のない主要登場人物たちが、學校へ戻つた「サクラ」と共に集まり、「あたる」の家に身を寄せるしかない現實を知る。
 或日、資産家の令息である「面堂」君が、もしもの時の爲(?)に、ある食堂の地下に、飛行機を隱しておいたので、それに乘つて友引町からの脱出を圖(はか)らうとするが、厚かましい主要登場人物たちが、それを默つて見逃す筈はなく、全員で空に舞ひ上がると、そこには驚くべき光景が待ち受けてゐた。


 その驚くべき事實とは、な、なんと友引町だけが世界から切り取られて、巨大な石の龜の背中に乘つて、宇宙を飛んでゐたのである。
 そればかりか、失踪した「チエリイ」や「温泉」達が、アトラスよろしく、龜の背中で友引町を持ち上げてゐるのを見てしまつた。
 その日以降、町は開き直つたかのやうに、今ゐるこの世界の様相を變(か)へ、序幕(プロロオグ)に示された世界へと突入して行く。


 しかし、奇妙な事に、「あたる」の家の近くのコンビニエンス・ストアの食料は、幾ら食べても減らず、それどころか、家には水道・瓦斯(ガス)・新聞までもが無料で供給され、この衣食住に満ち足りたサバイバル(?)を生き拔く爲に、「メガネ」といふ名脇役は呟く。

 「退屈な日常よ、さらば」と。

 さうして、この異常な世界の矛盾に、逸早(いちはや)く氣がついたり、誰かにとつて不都合な人物は、いつのまにかこの世界から消えて行く。
 「あたる」の元戀人(もとこひびと)で、「ラム」の戀敵(こひがたき)でもある「しのぶ」ちやんや、「竜之介(父親の趣味でつけられた名前で本當は女性だし多分この字だと思ふ)」が續いて消え、「サクラ」と「面堂」が事の眞相を調べると、案の定、龜の上で友引町を支へる石像と化してゐた。
 次に消えるのは自分しかない、と考へた「サクラ」は、誰にとつて不都合なのかを突き止めるしかなかつた。


 その誰かとは、

 「ラムだ!」

 と「サクラ」の前に呼びつけた「あたる」に、一緒にゐた「面堂」が謎解きをする。
 しかし、

「乙姫がラムでも、龍宮城へ運んだのは龜で、その龜はお前だ!」

 と言つて、「サクラ」は「あたる」を指差す。

 「一介の高校生に、そんな事は出來ない」

 と「あたる」が言ふと、畳掛けるやうに、

 「本當のあたるは、ここにゐる」

 と「サクラ」が本人を連れて來る。


 ここに「あたる」に扮した謎の男が、その正體を現し、「夢邪鬼(ムジヤキ)」といふ魔物である事が解る。
 「夢邪鬼」とは、血塗られた歴史の暗部で、いつも人間に邪惡なものを吹き込み、ヒツトラアやネロ、釋迦・基督、さうしてアダムとイヴさへもが、お前の囁きに惑はされたのだ、と「サクラ」が言へば、「夢邪鬼」答へて曰く、

 「夢が邪惡になるのは、夢の所爲(せゐ)やない。人間が惡いんや。わいの造る夢と現實と、どう違ひまんねん。夢使ひにも、夢はをまつせ」

 結局、「サクラ」と「面堂」も、まんまと「夢邪鬼」の策略に嵌(は)められて、夢の中へと消えてしまひ、龜の背中で友引町を支へる羽目になる。


 最早、殘るは「あたる」一人となつてしまつたが、彼は「夢邪鬼」と取引をして、ハアレムの生活を實現する。
 だが、その中に「ラム」がゐないといつて文句を言ふ。

 「ラムから逃げてばつかりやつたんやから、別にをらんでも、かめへんやないか」

 と言つて怒る「夢邪鬼」から、魔法の喇叭(ラツパ)が「あたる」の上に落ちた。


 それは「獏(ばく)」を呼ぶ爲のものである事を知つた「あたる」は――その時速く、かの時遲く、「あたる」喇叭を手に取りて、

 「いざ、現實に歸還せん」

 と呼ばはれば、夜空も裂けよ打ち響き、喇叭の音色、「あたる」の家の豚とも見えし生き物に届かん。すると、あ〜ら不思議や、豚、音を聞きし時、目をば爛々と輝かせ、忽(たちま)ち空に舞ひ上がり、巨大な「獏」となりて、夢の世界をば喰らひ始めたるなり。
 ババン、バンバン!


 といふところで、ここから再び『ルウミツク・ワアルド』が展開されるのだが、その面白さは本篇を見てもらひたい。
 「夢邪鬼」は自分の夢を壞した「あたる」を許さず、フランケンシユタインや「カムイ外傳」の話を捩(もぢ)つたり、時にはSF物の話まで捏(で)つち上げ、最後に、DNAの遺傳子のやうに秩序立てられた輪廻の輪の中で、「夢邪鬼」が「あたる」に話しかける。

 「夢やからこそ、やり直しがききまんねん」

 と云ひながら、「莊子」まで引用して、

 「こんな話を知つてまつか。蝶になつた夢を見た男が、目を醒まして、一體、ほんまの自分はどつちやろう。もしかしたら、ほんまの自分は、蝶が見てゐる夢の中にをるんとちやうやろうか、てね。夢やたら、現實やたらいふても、所詮、それは考へ方ひとつや、わいの造る夢は現實と同じなんや、そやから、それは現實なんや」

 強引に結論を「夢邪鬼」から言はれた「あたる」は、しよんぼりと球形の上で坐つてゐた。


 すると、

 「教へてあげようか」

 と言つて、白い服の少女が現れ、どうすればこの世界から拔け出せるかを解明してくれる。
 それは『オズの魔法使ひ』のやうに、好きな人の名前を呼びながら、兩足を揃へてここから飛び降りるのだと言ひ、

 「そのかはりに、約束してくれる」

 と言つて、帽子の縁(ふち)を上にあげて、子供の頃の「ラム」の顏を見せながら、かう言つた。

 「責任とつてね!」

 なんと、白い服の少女は、「ラム」ちやんだつたのでありました。


 と、ここまでの話の持つて行き方の巧(うま)さは絶妙で、活劇(流行「通俗性」)の使ひ方で、讀者を魅了する術(すべ)を心得たものだと言へ、そこに主題の哲學的な命題(不易「普遍性」)もあるので、この監督の才能を認めても良いやうに思ふ。
 さうして、哲學的主題を如何に現實社會に照射させて、鑑賞者に具現するかが藝術家の使命だとすれば、このアニメも、また藝術作品だと言へるのではあるまいか。


 しかし、アニメとして最も秀逸だつたのは、俳優で百戰錬磨の曲者、藤岡琢也を「夢邪鬼」の聲優に起用した事ほど、見事な配慮はなかつたと言へる。
更に、このアニメは、何故さうなつたのか、といふ探偵小説(活劇ともいふ)のやうな、讀者を飽きさせない爲の謎解きもあつて、最後にこれまで提出された一切が、論理的に解決してゐたり、納得出來た上に、感動さへ生まれるのが良い作品だとするならば、この作品は、その條件を滿たしてゐると言へるだらう。
さうして、「夢邪鬼」と「獏」が本來はコンビであつたといふのも、何か象徴的な結末のやうな氣がする。


 しかし、最も面白いのは、映畫を見終つてからが夢でないと、誰が言へるのかといふ事ではなからうか。



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