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関西城郭同好会コミュの【城郭ニュース 第262号】  2011/04/04(Mon)

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=じ=ょ=う=か=く=に=ゅ=ー=す==================

【城郭ニュース 第262号】                2011/04/04(Mon)

==================じ=ょ=う=か=く=に=ゅ=ー=す=

◆今週の目次◆
(1)大鳥井山遺跡(秋田県横手市):山城の出現が200年遡る可能性
(2)勝瑞館(徳島県藍住町):枯山水庭園を復元
(3)鍋島陣屋(長崎県雲仙市):江戸中期の水路石垣などを発掘
(4)筒井城(奈良県大和郡山市):従来より数十年遡って13世紀末に整備か
(5)要害山城(和歌山県白浜町):二の曲輪で鍛冶炉跡を発見
(6)塗屋城(和歌山県上富田町):堀切を確認


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(1)大鳥井山遺跡(秋田県横手市):山城の出現が200年遡る可能性
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 大鳥井山遺跡については昭和52年(1977)から昭和58年(1983)に調査が行われ、南北680m×東西200mの大きさで、川に面していない三方が土塁と堀で囲んだ構造であることが分かっていた。国史跡の指定を受けようと横手市教育委員会が昨年まで3年にわたって再調査を行ったところ、11世紀後半に最盛期を迎えた山城であることが分かった。永保3年(1083)から寛治元年(1087)まで行われた後三年の役で源義家と戦った、現地の豪族清原氏の拠点と推測された。

 過去の調査で山城であることは分かっていたが、どの時代のものであるかは不明だった。近年になって平泉などの古代遺跡の調査が進み、土器の編年作業がかなり進んだ。その結果、大鳥井山遺跡は10世紀後半に築造が始まり、土塁や堀が完成したのは11世紀後半であると特定された。

 また、構成の戦国時代には使用されていないことも判明した。これまでの定説では武士による山城の出現は14世紀の南北朝期頃とされていたので、それを 200年以上遡ることとなる。奈良大・千田教授によると、畝状竪堀群と思える構造もあり、土の城としては技術レベルも高く、15〜16世紀にならないと出現しないとされてきた構造だという。

▼大鳥井山遺跡については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www.city.yokote.lg.jp/kakuka/bunkazaihogoka/kakuka_bunkazaihogoka.jsp
 ↑横手市による公式サイト。関係資料がダウンロードできます。
 http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/25183313.html
 http://blog.goo.ne.jp/ohmagari-yh/e/ab4e89d2aaa1ceb2a2c3f0ecc7151f0f


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(2)勝瑞館(徳島県藍住町):枯山水庭園を復元
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 勝瑞城館跡公園整備事業(第1期)によって国指定史跡勝瑞館跡の整備を進めている藍住町は、16世紀後半に造られたとみられる枯山水庭園を復元した。この庭園は約60平米で、青石など12個を配置して芝生を敷き詰めた。

 平成11年(1999)度の調査で見つかった遺構の上に約1mの盛り土をし、その上に発掘されたものと同種の青石や砂岩などを同じ場所に配置して復元した。また館跡に張り巡らされていた濠(幅約10m×深さ約1m)の一部も、復元した。

 さらに周辺約4千平米も庭園として整備し、同館を居館としていた三好義賢(大永6年〜永禄5年:1526〜62)が好んだとされるソテツをはじめとして、梅や桜なども植えた。

▼勝瑞館については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www15.ocn.ne.jp/~shouzui/←藍住町教育委員会の公式サイト
 http://www.siromegu.com/castle/tokusima/syouzuiyakata/syouzuiyakata.htm
 http://www.geocities.jp/qbpbd900/shouzuijokanato.html


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(3)鍋島陣屋(長崎県雲仙市):江戸中期の水路石垣などを発掘
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 国の伝統的建造物群保存地区である神代小路(こうじろくうじ)遺跡と鍋島陣屋跡の発掘調査を行っている雲仙市教育委員会は、江戸中期に造られたとみられる水路の石垣や道路遺構などを確認し、先月13日の現地説明会で説明した。

 神代小路は今から約350年前の第四代神代鍋島領主の嵩就(たかなり)が鶴亀城の東側を埋め立てて造成したといわれる武家町で、雲仙市のまちなみ整備事業にともなって小路北側を発掘調査した。また、解体修理中の鍋島邸の長屋門(国の重要文化財)の敷地についても、同時に調査を行った。

 昭和23年(1948)に埋め立てられた北側の神代村立中学校グラウンドからは、幅約8m×高さ約 1.2mの水路の石垣が確認された。周囲からは、江戸後期の鍋島焼の破片など磁器類の遺物も多数出土した。今回出土した水路石垣や道路遺構は文政5年(1821)に作成された神代村絵図などと一致し、歴史を裏付ける貴重な成果といえる。また長屋門は文久2年(1862)に建て替えられた記録が残っており、建て替え前の基礎の石列も見つかった。

▼今回の発掘調査結果については、下記サイトからダウンロードできます。
 http://www.city.unzen.nagasaki.jp/file/press/5116998.pdf#search='鍋島陣屋 雲仙市'
▼鍋島陣屋については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/nabesima.htm
 http://homepage2.nifty.com/avisk/castle/nagasaki03/nabeshima.html
 http://www.geocities.jp/ikomai4koku9syu/nagasaki/nabesimajinya.html


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(4)筒井城(奈良県大和郡山市):従来より数十年遡って13世紀末に整備か
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 筒井城の発掘調査を行っている大和郡山市教育委員会は、13世紀末に大規模な盛り土で整備した跡や井戸の遺構が見つかったと発表した。盛り土は13世紀中頃に地山に掘られた幅約2mの堀を埋めたあとを造成し、堅く締まっていた。また井戸は盛り土の上面から掘り下げられ、直径90cm×深さ2mと推定された。木枠は檜で、皿や椀などの土器や常滑焼の埋め甕も見つかった。

 筒井城はこれまでの調査から14世紀前半には存在したとみられていたが、今回の調査で13世紀中頃に堀をめぐらした前身設備があり、13世紀末には本格的な城郭として整備されたと推測された。筒井城が整備されたのが数十年遡ることで、大和で武士団が頭角を現してきた時代を知る手がかりになるという。

 奈良では鎌倉時代後期(1293〜97)に興福寺塔頭間の争いが発生し、これを機に武士団が力を持ったとされている。筒井氏もこうした一団として、13世紀末には頭角を現したと考えられる。鎌倉時代の武士の拠点の一角が地方で分かっている例はほとんどなく、地域史的にも大きな意味があるといえる。

▼筒井城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://homepage2.nifty.com/yogo1394/nara/kooriyamasi.htm
 http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/kinki/c-1-3-6-13-siro-TUTUI.html
 http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/tutui.htm


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(5)要害山城(和歌山県白浜町):二の曲輪で鍛冶炉跡を発見
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 要害山城の発掘調査を行っている白浜町教育委員会は、二の曲輪で鉄製品を造るための鍛冶炉跡を発見した。要害山城は熊野古道富田坂沿いの富田平野が見渡せる小山(標高90m)上にあり、伝承によると明応3年(1494)に熊野水軍の一翼を担ったとされる安宅氏が家臣の吉田春季に築城させたといわれている。

 同町教育委員会では安宅氏の実像を探り、関係する山城群を国史跡への指定に結びつけようと平成17年(2005)度から調査を行っている。今回は第2次調査として、防御の要となる二の曲輪の一部が対象となった。

 鍛冶炉以外にも柱穴や土坑が確認されるとともに、白磁や青磁、備前焼、土師器、鉄釘や鉄塊なども出土した。また鍛冶関係遺物として砥石や鉄床(かなとこ)石なども出土していることから、二の曲輪では恒常的に野鍛冶が行われていたと推測された。さらに以前から存在が推測されていた虎口も、二の曲輪で確認された。

▼要害山城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://yama46.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-ce07.html
 http://www.geocities.jp/ikomaihyogo/wakayama/yougaiyama.html


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(6)塗屋城(和歌山県上富田町):堀切を確認
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 近畿自動車道紀勢線(阪和自動車道)の整備工事にともなって塗屋城の発掘調査を行っている和歌山県文化財センターは、丘陵部に堀切を確認したと発表した。今回確認された堀切は幅が底の部分で約1.5m、深さは最大で約1.7mあり、約20mにわたっていた。

 自動車道の整備により遺跡の一部が破壊されてしまうために、今回の調査は記録が目的である。調査するのは整備にかかる部分で、遺跡全体の 1/4ほどである。堀切の西側には2ヶ所の竪堀があるとされていたが、今回の調査では自然地形の可能性が高いことが分かった。なお、曲輪の部分は整備にかからないために、今回の調査対象とはなっていない。

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