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関西城郭同好会コミュの【城郭ニュース 第225号】2010/06/14(Mon)

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【城郭ニュース 第225号】                  2010/06/14(Mon)

====================じ=ょ=う=か=く=に=ゅ=ー=す=


 天正18年(1590) 6月23日に前田軍および上杉軍を中心とする秀吉軍に攻められて、北条方の八王子城は一日で落城してしまいました。この段階ではまだ小田原城などは開城していないのですが、この八王子城が落ちたことにより小田原北条氏の抵抗は事実上終結したも同然となりました。八王子城が、「戦国に終わりを告げた城」と言われるゆえんです。

 そんな八王子城の落城から、今年はちょうど 420年となります。これにちなんで、「八王子城と戦争」と題した「八王子城落城420年 特別講演会」が開催されます。講師は東京都立大学名誉教授・峰岸純夫さん、立教大学名誉教授・藤木久志さんと中世城郭研究家の中田正光さんと、なかなかの布陣です。詳細および参加希望については、下記にお問い合わせ下さい。

 ・日 時:7月19日(月) 14時より
 ・場 所:八王子労政会館(JR八王子駅より徒歩10分、京王八王子駅より同5分)
 ・参加費:資料代として500円
 ・連絡先:特別講演会実行委員会 米田さん(042-663-7190)

◆今週の目次◆
(1)浜松城(静岡県浜松市):天守門は2階建て構造の櫓門と推定
(2)阿津賀志防塁(福島県国見町):規模は想定の倍であることが判明
(3)小谷城(滋賀県長浜市):三姉妹博覧会に向けて曲輪復元へ
(4)福岡城(福岡県福岡市):瓦に残されていた刻印の一部は十字架か
(5)多賀城(宮城県多賀城市):発掘調査50周年で記念事業を開催
(6)本の紹介:文禄・慶長の役の戦跡<倭城>


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(1)浜松城(静岡県浜松市):天守門は2階建て構造の櫓門と推定
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 浜松城の発掘調査を行っている浜松市文化財課は、天守門は2階建て構造の櫓門と推定されると発表した。先月17日から行われた発掘調査で、天守曲輪を構成する石垣の上部から櫓門の礎石や屋根に葺かれていた瓦などが次々と見つかった。礎石などの位置関係から、櫓の幅は約12mと推定された。

 櫓の両脇からは土塀に使用する塀瓦が多く出土しており、天守門に土塀が連接していたことも確認された。櫓門の瓦の特徴から、天守門は江戸時代前期の16世紀末に建造されたと考えられ、その後も江戸時代を通じて改修が繰り返されたと推察された。

 天守門は城内でも一際大きく、天守が17世紀に消滅したあとは浜松城の象徴的な存在となっていた。浜松城には徳川家康が17年間も在城したことと、江戸時代には多くの城主が老中などになっていることから出世城とも呼ばれている。

▼浜松城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www.hamamatsu-navi.jp/shiro/
 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4393/sizuoka/hamamatusi.htm
 http://www.burari2161.fc2.com/hamamatujyou.htm


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(2)阿津賀志防塁(福島県国見町):規模は想定の倍であることが判明
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 平安末期の奥州合戦で主戦場となった阿津賀志山周辺の発掘調査を行っている国見町教育委員会は、奥州藤原氏が鎌倉軍を迎え撃つため築いた阿津賀志防塁(国史跡)の規模が、これまで考えられていた大きさの2倍近いことを明らかにした。

 同教育委員会では一昨年から阿津賀志防塁の再調査を行い、これまでに東山道とみられる道路跡や入り口などを発掘した。今回は阿津賀志山の南側斜面の調査を行い、外側の土塁の基礎を確認した。これまでの地表面の観察からは3〜4mと考えられていた幅は約6mもあり、また従来3m弱と考えられていた高さも4m以上あったとみられた。

 鎌倉時代に移る日本史の転換点ともいわれる文治5年(1189)に起こった「阿津賀志山の戦い」に備えて、奥州藤原氏が大規模な工事を行ったことが伺われた。同教育委員会によると、鎌倉軍の動きが分かる高台に大規模な土塁を築いており、当時の藤原氏の作戦が伺える重要な史跡としている。源頼朝率いる鎌倉軍は結局防塁を正面突破できず、藤原勢の背後を奇襲して勝利したといわれる。

▼阿津賀志防塁については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/kunimimati.htm
 http://www7.plala.or.jp/oygd/atukasi.html
 http://homepage2.nifty.com/nanbu_hachinohe/kojo_fukusima/atukasiyama.html


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(3)小谷城(滋賀県長浜市):三姉妹博覧会に向けて曲輪復元へ
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 来年度のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」にちなんで長浜市では「江(ごう)〜浅井三姉妹博覧会」の準備を進めているが、同博覧会実行委員会は小谷城のふもとに当時の山城の一部を復元することを決めた。同委員会の案ではふもとの土地を整備し、土を盛るなどして一部を復元するという。

 同博覧会は小谷城周辺をメイン会場として、12月25日に開催する予定である。来年3月からは奥琵琶湖・木之本、長浜市街地や米原・柏原の連携参加以上も加わり、12月まで開催する。

 毎日新聞によると、山崎丸に復元するという。しかしながら、山崎丸は小谷城とは谷を挟んだ向かいの尾根にあり、決して小谷城のふもととは言えない。浅井氏を援護するために越前から朝倉氏が駆けつけ、小谷城より 100mも高い小谷山山頂一帯に大嶽城を築いた。山崎丸は、この大嶽城から西に派生する尾根に築かれている。復元するのは良いですが、やる以上は史実に乗っ取ったものを造って欲しいものです。一般受けするようないい加減なものはNGですし、現在の遺構を破壊することが絶対にないようにしてもらいたいと思っております。

▼小谷城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www.geocities.co.jp/yogo139/siga/odani.htm
 http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/odani.htm
 http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kansai/Shiga/Odani/index.htm


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(4)福岡城(福岡県福岡市):瓦に残されていた刻印の一部は十字架か
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 福岡城下の橋大手門などの瓦に残されている刻印の一部はキリスト教の十字架ではないかとの新説が、元福岡市教育委員会職員の井澤さんから出された。歴史雑誌「海路」(海鳥社)に発表されたもので、福岡城を築いた黒田長政はキリシタン大名である父如水(官兵衛孝高)の影響を強く受けたとされ、長政にも洗礼を受けさせたといわれている。

 今回問題にした刻印は平成13年(2001)から同16年(2004)にかけて行われた同市教育委員会の調査で、築城時に葺かれたとされる下の橋大手門と本丸表御門(現在は同市博多区の崇福寺に移設)の瓦の一部から見つかった。また平成20年(2008)には下の橋大手門の瓦から、長崎県などで江戸初期のキリシタン建築に使われた十字架をモチーフとする「花十字紋瓦」に酷似した刻印が見つかったことで、井澤さんはこうした一連の刻印は十字架であるとの結論を出した。

 瓦の刻印は粘土を乾かして固める前に押して記すが、通常は生産者などを表す。今回の刻印は長さ2〜4cm×幅1〜2cmで、デザインにはバリエーションが多い。一方、黒田家二十四騎の一人である久野四兵衛の家計にマリア観音像が伝わること、如水の勧めで家臣に多くのキリシタンが存在したことや天正15年(1587)に豊臣秀吉によって出されたバテレン追放令以後も如水と長政は博多でのキリスト教会再建に協力した事実がある。これらの傍証は、井澤さんの説を補強するものとなった。

 さらに如水が播磨から連れてきた瓦職人の頭領である瓦師は名字帯刀を許された家臣団の一部と考えられ、キリシタン信仰の証として残した可能性もあるという。なお福岡でのキリシタン信仰は、徳川家康による禁教令によって衰退した。

▼福岡城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://homepage2.nifty.com/yogo1394/kyushu/hukuokasi02.htm
 http://shiro39.hp.infoseek.co.jp/kyushu/fukuoka/fukuoka.htm
 http://www16.ocn.ne.jp/~sironoki/100fukuoka-no-shiro/105fukuoka/fukuoka0.htm


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(5)多賀城(宮城県多賀城市):発掘調査50周年で記念事業を開催
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 昭和35年(1960)に宮城県教育委員会と当時の多賀城町などが「多賀城跡発掘調査委員会」を組織して政庁跡の調査などを始めて今年でちょうど50周年を迎えることから、多賀城市、宮城県多賀城跡調査研究所と宮城県立東北歴史博物館の三者は9〜10月にかけて記念事業を行うこととした。

 はじめに9月4日から10月24日に史跡内調査を担当している宮城県が東北歴史博物館で、特別展「多賀城・太宰府と古代の都」を開催したのち、古代史上の大発見となった「漆紙文書」などの展示を行う。また9月23日には多賀城市文化センターで、記念フォーラム「多賀城とその時代」の開催が予定されている。

 また多賀城跡周辺の遺跡調査や環境整備を進める多賀城市は、同市埋蔵文化財センターで9月14日から10月11日にかけて「発掘された日本列島2010展」を開催する。なお、今月12日からは第82次となる今年度の発掘調査が県研究所によって開始され、昨年度に新たに見つかった外郭跡を調査するとともに多賀城の規模や構造、時代の変遷を確認するのが狙いとしている。

▼多賀城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www.thm.pref.miyagi.jp/tagajyo/index.html←東北歴史博物館のサイト
 http://www.city.tagajo.miyagi.jp/monosiri/bunkazai/maibun/index.html
 ↑多賀城市埋蔵文化財センターのサイト
 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/tagajo.html
 http://www.siromegu.com/castle/miyagi/taga/taga.htm
 http://www.burari2161.fc2.com/tagajyo.htm


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(6)本の紹介:文禄・慶長の役の戦跡<倭城>
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 朝鮮半島南部に今でも数多く残る倭城は、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に日本軍が現地に築いた城である。国内の多くの城は江戸時代を通じて改修などがされ、築城当時の姿を残しているものは数少ない。一方倭城は文禄・慶長のわずか数年あまりに築かれ、そのままの形で残っているいわば城の化石で城郭史的にも貴重な存在である。近年こうした倭城が注目され始めているが、これらを扱った書籍は一部の専門書を除くとほとんどない。このようなことから注目したのですが、結果は×でした。

 不勉強で著者のことは知らなかったのですが、フリーのカメラマンで城郭撮影では日本の第一人者とされているようです。しかしながら掲載されている写真はそれほど多くはなく、倭城の魅力が全く引き出されていません。また文章も中途半端で、城郭用語の使い方にも正確さが欠け、お世辞にもお勧めできません。

 書 名:文禄・慶長の役の戦跡<倭城>
 著 者:斉藤 政秋
 出版社:ごま書房
 価 格:1,050円(税込み)
 ISBN :978-4-341-01896-2
 内 容:はじめに 倭城を巡るにあたり
     第1章 秀吉の野望、文禄・慶長の役
     第2章 日本型城塞「倭城」を巡る
     倭城探訪を終えて

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