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ミロクの世に生きる101の方法コミュの素直にエッチのできる宗教者になろう!

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ミロクの世に生きる101の方法目次
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=72041751&comm_id=4650196


「仏教が好き!」から↓

えんぴつよくお坊さんが「人間はどうしたら幸福になれるでしょう」という質問をされているのを見かけます。そこでお坊さんが少し当惑してくれればいいんだけど、しないんですね(笑)。さも当然のごとく「我執を捨てれば、あなたは幸福になれる」と答えるのですが、我執を捨てれば安心は得られるかもしれないけれども、ハッピーになったりはしないだろうに、ボヌールが訪れたりはしないだろうに、と思えたりするのです。


この件を読んで、私が感じるのは、「仏教って、イカサマ占い師と大して変わらないんじゃない?」ってなことです。
ためしに、「シルバーサーファー我執を捨てれば、あなたは幸福になれる」と答えるお坊さんに、「少年そういうあなたは我執を捨てていらっしゃるんですか?」と聞いてごらんなさい。お坊さんは十中八九こう答えるでしょう。↓

シルバーサーファー私はまだまだ修行中の身です。

そしたら、すかさずこうたたみ掛けましょう。↓

少年では、我執を捨てた方とは具体的にどの方なんですか?私たちの身近にいらっしゃいますか?

お坊さんは、内心「ヤバイ!」と思いながらも、顔には出さずにすまし顔で、こんな返事をします。↓

シルバーサーファー私のお師匠の兄弟子の○×上人という方が、大変徳を積まれた方で・・・

少年へ〜。その人に会ってみたいな。どこにいらっしゃるんですか?

シルバーサーファー残念ながら一昨年に亡くなららました。惜しい方を亡くしたものです。なんまんだぶ。


ってな感じで、「我執を捨てた人」というものは、話ではよく耳にしますが、実在している姿を私たちは一度も見たことがありません。「仏教が好き!」では、キリスト教の抽象性を批判する発言がありますが、この「我執を捨てる」という表現も、抽象的という面では大差がないように思います。
結局、我執をど〜のこ〜のと言っていながら、おそらくこの仏教者の方々も、真の悟りやそこに至る方法など、皆目理解していないのであろうと、私には思えてなりません。
果たして、仏教に人生を捧げた人で、喜びに満ち溢れ大満足で生を終える人というものはいるのだろうか、とさえ考えてしまいます。
特に、性の問題について、魂の奥底まで納得して生きておられる修行者というものが、宗教(仏教以外も含む)の世界において有りうるものだろうか、強い疑問を感じます。
もちろん、ダライ・ラマのように、生涯に女犯の戒を守っておられる方もいらっしゃいます。
しかし(極端な例えですが)、朝目覚めた時、そこは乱交パーティー会場結婚式だった。自分の寝床の周りを数人の男女がくんずほぐれつキスさしさされズッコンズッコンクラッカー、見れば自分も一糸まとわぬ姿赤ちゃん・・・ってな時に、ピクリともチンポが反応しませんでしたというならば、ああそれは確かに「我執を捨てた人」かもな〜という気はします。
でも、実際問題そんな人いるの?と言った時、禁欲修行の方々というのは性の問題が意識下に降りてこないように極力遠ざける努力をしているわけで、決して性欲から解放されているというわけではないように思います。
そのような生き方というのは、確かに苦しみの元を近づけない点で賢明なのかもしれませんが、性の喜びという人生に大きなウェイトを占める歓喜を端から断念しているという点で、鬱屈としたすっきりしないもの、率直に言ってつまんなそ〜という思いを抱かずにおれません。
お父さんお母さんからいただいた、チンコとマンチョという肉体の一部を、この方々は刺激しないように起こさないようにと、まるで現代医学のアトピー患者の治療のように扱っているわけです。それが本当に楽しい?って思うと、やはり断じてそうではないと、私は考えます。
「仏教が好き!」から↓

えんぴつ青年に近づくと、たくさんの女性と親しくなるようになりました。でも、どの女性ともそんなに長くいっしょにいられない。そこで、つぎつぎと相手を替えていくことになります(笑)。そういう自分の生活を見ていて、「こういうの何かおかしい」と思い始めました。青年期の悩みってやつです。そこで気がついたんですけど、自分は強烈に女性の何かをもとめていながら、現実の女性だと幻滅していく。これはきっと現実の母親や女性をいったん否定して、一人一人の女性のなかにあっても表には出てこれないでいる女性というものに向かわなけりゃあならないんじゃないか、と思ったわけですね。いったん否定した上で、もういちどそれと結びつく道はないかって。

青年期の数人の異性経験のみで、異性関係の一切に見切りをつけてしまったような発言ですが、私は「本当にオイシイ経験していないんじゃない?」という疑問を呈さずにいられません。
第一、青年期というのは、性についてほんの駆け出しです。青葉マーク初心者です。自分も青葉マーク初心者なら、相手も青葉マーク初心者。セックスだって未熟です(私の経験です)。
そんな駆け出しの時期に恋愛の喜びが見つけ出せなかった、だから異性関係全体が無価値だと判断してしまうのは、あまりにも尚早ではないでしょうか。
「自分は強烈に女性の何かをもとめていながら、現実の女性だと幻滅していく」という屈折した感情は、まさに宗教の賜物だと思います。
正直な気持ち、つまり魂の示唆は異性とエッチしたいと感じているにもかかわらず、経典には「禁欲しないと悟れません」と書かれているわけです。そこで、無理くり精神力で魂を押さえ込んじゃうわけです。
多くの修行者にとって、禁欲は自らの経験で見つけ出した方法ではありません。他から勧められたからそれに従っているにすぎません。
そんな方々のために贈りたい言葉があります。「神との対話」から。↓

日の出あなたがたは自分で体験するまで待たず、他人の体験を(文字どおり)福音として受け入れ、実際の体験をするときには、すでに知っていると考えていることをなぞる。そんなことをしなければ、まったく違った体験ができるのに。その体験は、教師や情報源のほうが間違っていると教えてくれるかもしれない。
だいたいあなたがたは親や学校、宗教、伝統、聖書を間違っていると考えたがらない。だから、教えられたと思うことを受け入れて、体験のほうを否定する。人間のセクシュアリティに対するあなたがたの態度を見ればよくわかる。誰でも、性的体験が人間の行為のなかで最も愛すべき、胸躍る、力強い、新鮮で、エネルギッシュで、前向きで、親密で、一体感のあるものだと知っている。それなのに、あなたがたは他人が考え出した性に関する判断、見解、考えのほうを受け入れる。その他人は、自分が得になるから同じ判断をさせたがるのだ。
そういう見解、判断、思考は体験と真っ向から対立するのに、あなたがたは教師が間違っていると考えるのがいやだから、間違っているのは体験のほうだと自分に言い聞かせる。その結果、あなたがたは真実を裏切り、そのために、破壊的な影響が生じている。

もしも私がそんなお坊さん方に「あなたのはただの痩せ我慢じゃないんですか?」と聞けば、多くのお坊さんは「シルバーサーファー私は我執を捨てますので我慢ではありません」と答えるかもしれません。「我執を捨てる」とは便利な言葉です。本当に我執を捨てているのか、ただの痩せ我慢なのか、確かめる方法はいくらでもありますが、あえて私はしません。ただ単に気の毒だからです。
どこかで読んだ本に、ガンジーが自分の禁欲が完璧かどうか確かめるために、少女と一緒の寝床で一夜を過ごしたそうです。翌朝、「私は少女に指一本触れなかった」と誇らしげに語ったそうな。
あほくさ。いかに尊敬するガンジーさんでも、超アホくさいです。
ガンジーにしろダライ・ラマにしろ、世界の偉人がことごとく禁欲だからといって、それが正しい選択だとは言い切れないと思います。偉人の方々がことごとく騙されているだけなのかもしれません。騙されたって偉人は偉人ですから。神の光を避け闇を突き進むことを選択した人類なのですから、社会認識の善悪と、魂が示唆する善悪が逆転してたっておかしくないと思います。


結論を申せば、宗教における禁欲の戒律は、魂の実現、真の悟りという点において、全くためになっていないと考えます。故に、「悟り」の実現のためにお釈迦様が禁欲を奨励したという話は、宗教史最悪の捏造ではないかと疑っています。
神の光から遠ざかり、闇を突き進むことに喜びを見出す為政者にとって、大衆から性を取り上げる動機は十分あります。日々の生活に不満のない人々を戦争や労働に駆り出すためには、欲求不満の状況を作る必要があるだろうし、人々を啓蒙するには禁欲者でなければ示しがつかないという風潮を作り上げることによって、精神的指導者としての意気込みを牽制する狙いもあるでしょう。
仏教は2千年以上前に成立した教えです。しかも、教祖であるお釈迦様は、自らの教えを一切文字として残していません。つまり、幾人もの人の手を介して、人の心を介して伝わった教えなのです。
それは延々と続く伝言ゲームのようなものです。お釈迦様の最初の真意のどれほどが正しく受け継がれているのでしょうか。
というか、お釈迦様の真意というものは、「100%は無理だけど80%ぐらい伝わればいいんじゃない」とかいったものなのでしょうか。
お釈迦様のような「悟り」をご存知の方が、人間の身体能力の一部を否定するわけがない。私は率直にそう思います。
自然界の生き物を見れば、いかなる種も生命最大のクライマックスをセックスにおいています。生命の周期を交尾期に照準を合わせ、そこに全生命力をかたむけます。一生一度のセックスをしたら、そこで死んでしまう種もあるほどです。セックスこそが人生最大の喜びだと言っても過言ではないのです。
それなのに私たちは、セックスを思い浮かべるとき、蔑みややましさを抜きに、純粋に喜びオンリーで思うことができません。まさしくこの事実こそが、宗教の最も罪深い部分なのではないでしょうか。
「神との対話」から。↓

日の出あなたがたは小さいころから、「悪い」と言われつづけてきた。自分が「罪」を背負って生まれたのだと思いこまされてきた。罪悪感は、そういう学習の結果だ。完璧な者として生まれなかったことを恥じるように、教えられてきたのだ。あなたがたは不完全な者としてこの世に生まれ出たと教えられている。あなたがたの宗教で言う原罪だ。たしかにそれは最初の罪だが、あなたがたの罪ではない。神が不完全なものを創造した、創造できたと考えているとすれば、それは神の何たるかを知らない世界があなたに対して犯した最初の罪だ。
その誤解を中心にすべての教義ができあがっている宗教がある。まさに「誤解」だ。わたしが生み出したもの、生命を与えたものはすべて完璧だからである。生きとし生けるものはすべて、完壁さの完壁な反映であり、わたしの姿をかたどって、わたしに似せてつくられている。だがあなたがたの宗教は、神は罰するという考えを正当化するために、怒りの対象をつくりあげた。そのせいで、模範的な人生を送っている者まて救われなければならないことになった。救われなければならないような悪いことはしていなくても、もって生まれた不完全さから救われなければならないというわけだ。こうして(その宗教は)、あなたがた全員に、急いで何とかせよ、そうしないと地獄へ落ちるぞとおどす。


とはいえ、禁欲の戒が捏造であるという私の説には全く証拠がありません。お釈迦様は本当に「悟りを得るためには禁欲しなければならない」と言ったのかもしれません。
しかしそうなると、私としましては、なおさら仏教者の方々からお叱りを受けそうな推測をしてしまうことになります。
つまりそれは、それを言った時点でのお釈迦様の悟りがさほどレベルの高いものではなかったのではないか?とういことです。
人間心というものは何かと線引きをしたがるものです。たとえば、「あなたの悟りレベルは及第点に達しています。合格!」ってな感じのことです。
一体「悟り」とは、ここから上は合格、下は不合格といったラインがあるものなのでしょうか。私はそうは思いません。30代半ばで開眼したお釈迦様でも、そこから新たな経験を重ねることによって、より淀みのないものへと高まっていったはずです。それも、直線ラインで着々と曲折なく高まったというわけではなく、時には克服したはずの煩悩にさいなまれることもあったのではないでしょうか。
「神との対話」から。↓

日の出ほかの人間や場所、出来事との関係を通じてのみ、あなたは(個性のある実体として、他と区別しうる何者かとして)宇宙に存在できる。他がなければ、あなたも無だということを覚えておきなさい。自分以外の他との関係があるから、あなたは存在する。それが相対性の世界というもので、それと対照的なのが絶対性の世界、わたしが存在する世界だ。

私たちが生きる物質界は相対性の世界です。他のものとの比較によってのみ、自分というものを捉えることができる世界です。つまり、「あなたは私より芸術性において悟ってるね〜〜」といったような比較においてのみ、悟りのレベルを確認できるのです。
「絶対的な悟り」というものはこの世界に存在しません。あるひとつの頂点に達した時、そこからまた新たな目標が見えてくるというのが、イヤサカに繁栄する神の法則なのだと、私は考えます。この「向かいつつある」という感覚こそが、神そのものなのだと私は考えます。
もしもお釈迦様が「私は完全に悟った者である」といった発言をしたとしたら、それは思い上がりです。「私はいつ何時も悟りの方向に向かっている」と言ったのであれば、理解できます。
もちろん、仏教という伝言ゲームにおいて、「悟りに向かっている」がいつの間にか「悟りきった」に改変されてしまうということは、十分ありうることだと思います。私にはこう考えるほうがよほど納得できます。
救いがたいことに、絶対的な善悪の線引きがないはずの物質世界にもかかわらず、仏教の教えは、どこをとっても戒律という線引きで満ち溢れています。
「仏教が好き!」から↓

えんぴつ釈尊と弟子のセックス問答集、パーリ語聖典『律蔵』抄訳
サーリブッダ長老(『般若心経』に登場する舎利子)は、釈尊や自分たちのような直接教えを聞いた弟子たちが滅した後も、その教えが正しく伝わるよう、釈尊に戒律の制定を強く望んだ。戒律こそ、花が風に散らされぬようまとめる糸のような存在であるというのだ。
しかし、釈尊は抽象的な戒律の制定を拒否し、「自分は戒律を制定すべき時を知っている。それは誰かが私の教えに反したと、私が認めた時だ」と答える。
(かくして、『律蔵』には、さまざまな弟子たちの行動の具体例が記され、それに対する釈尊自身の判断がしめされるという、「判例集」のようなものとなった)
●カランダ村にスディンナ・カランダブッタという資産家の跡取り息子がいた。彼はヴェーサーリーにおいて釈尊の説法を聞き、出家弟子入りを志す。しかし、両親はこれを許さず、彼は断食に入る。両親はやむなく出家を許す。出家して遊行生活に入った彼がしばらくしてヴェーサーリー近郊に来たことを知った両親はあらゆる口実で還俗を求めた。しかし、スディンナはそれを拒否する。
家督を継ぐものがないと財産すべてを王に没収されることを恐れた両親は最後に、スディンナのもとの妻を呼びよせ、せめて子供をつくって家系を保持するよう懇願する。スディンナはこれを受け入れ、月経の日からの日数を計算した上でもとの妻を伴って森林のなかで三回の交わりを持った。もとの妻は懐妊し、ピージャカ(続種の意)という息子を授かる。
未だ戒律は制定されてなかったが、スディンナは罪を犯したのではないかと悩む。
それを知った釈尊は、そんなことをすれば、教団が世間から誤解されると、スディンナを大声で叱責し、はじめて戒律の第一を制定することを宣言する。日く、「すべての出家修行者は女人との交わりを持てば、すべからく教団を追放とする」

「仏教が好き!」の二人の対談者は、仏教がこのような事細かな戒律があるからこそ優れているといった主張をしていますが、私には、悟ったはずの人にしてはあまりに人間臭い態度だな〜と思えてなりません。
大声で叱責した?悟った人にしては大人気ないな〜〜。教団が世間から誤解される?そんな場しのぎ的な理由でルール作っちゃったの?ってな感じです。
本に紹介されているパーリ語聖典を読んでいくと、何?その細かな線引き?と笑わずにはいられません。
たとえチンコをマンチョに入れちゃったとしても、エクスタシーを感じなければ許す。感じたら破門といった、超アホくさい記述が並んでいます。私は、これが悟った人による教えだなどと、全く信じる気になれません。よって、お釈迦様の悟りレベルは低かったという結論になります。

そんな結論、断じて認めないという方は大勢いらっしゃるでしょう。かく言う私もこれで納得しているわけではありません。というのも、お釈迦様の時代と現代とでは、時代背景や常識観がかなり違っていたはずです。その点を考慮する必要はあるように思います。
「仏教が好き!」から↓

えんぴつ鎌倉時代の武士がおこるまでの平安時代は、本当に殺生の少ない時代ですね。(中略)そして面白いですねえ、みんなある意味では仏教信者だけれども、男女関係は非常にフリーというか。性に対してみんな仏教の戒をどう考えていたんでしょうねえ。

たかだか千年前の鎌倉時代でさえ、性意識は現代と大きく違っていました。ならば、お釈迦様の二千五百年前なら、なおさら性は自由奔放に解放されていただろうと思います。そんな時代であれば、禁欲することに何らかの意義があったということも、考えられるかもしれません。ちょっと苦しい説ですが。
ちなみに、「平安時代はみんなある意味では仏教信者だ」は大ウソです。日本はこの時代、やおろずの神様、つまり日本古来の神道がまだまだ健在であったはずです。自由な性と残忍な心のない世界。それは日本古来の神々の本質であり、仏教の本質ではありません。見え透いたウソを書かないでほしいものです。


私はこれまで数名の禁欲する宗教者の方とお会いしてきましたが、その中の一人が「早いとこ年老いてしまいたい」と言っているのを聞いたことがあります。性欲が邪魔だから年老いて股間に元気がなくなるのが望みだというのです。
父さん母さんから受け継いだ生命力・活力を素直に喜べないのです。これは悲劇ではないでしょうか。
おそらく、数十年禁欲を通してきた方にしてみれば、いまさら性欲に溺れ道を踏み外すようなことをせず、このまま命を全うしたいという気持ちがあるのでしょう。在家の信者さんからは、「お勤めご苦労様」と尊敬の目で見られます。いまさら、エッチがしたいなどと口が裂けても言えないのです。
それは、その人が選んだ道です。私がとやかく言うべきものではありません。
でも、やっぱり私は言いたい。やせ我慢しないで素直になればいいのに、と。
我執を捨てるつもりでいながら、反対に我執の塊になってはいませんか?
最後にもう一つだけ、「神との対話」から引用して終わります。↓

日の出だいたいあなたがたは、「もし神が法に厳格に従うことを望むなら、どうして法が破られる可能性などをお創りになつたのか」という、あたりまえの質問をしようとしない。もちろん、彼らは、神があなたがたに「自由な選択」をさせようとなさったからだ、と教える。だが、一方ではなく片方を選んだら責められるというなら、自由な選択とは言えない。あなたがたの意思ではなく、誰かべつの者の命令によって選択するのなら、「自由意思」とは言えない。あなたがたにそう教えた者は、神を偽善者にしている。

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