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ミロクの世に生きる101の方法コミュの宗教を卒業しよう!その2

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ミロクの世に生きる101の方法目次
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=72041751&comm_id=4650196


時計じりりりりりりーん
オボッチャマン朝だぞ〜。起きる時間だぞ〜〜。
ピースケ眠い(睡眠)
オボッチャマン聞こえないふりしたってダメだぞ〜〜。さ〜起きろ〜〜。
ピースケふわぁ〜、もう朝かよ〜〜。ボクはまだ眠いよ〜〜。
オボッチャマンマンガに熱中して夜ふかしなんかするから、そんなことになるんだよ。ほどほどにしとけって言ったのに。
ピースケうるさい。楽しいことに熱中して何が悪いんだよ〜〜。ボクはまだ起きないぞ〜〜。
オボッチャマンそんなこと言って、まだ宿題でかしてないんだろ?スパルタンスッパマンにシゴかれてもいいのかい?
ピースケいいよ。ボクは世の中のこと一切放棄。それよりも大切なのは、今この瞬間の眠い(睡眠)
オボッチャマン甘いな〜。ほらほら、ママご案内が布団はがしに階段上ってきたぞ〜〜。
ピースケ・・・・・
オボッチャマンほらほら、廊下を近づいてくる。
ピースケ・・・・・
オボッチャマンさあ、とうとうドアノブに手がかかった。
ピースケわかったよ〜。君の言うとおりにするよ。



ってな感じの朝を、現代人のみなさんなら誰しも経験あると思います。
心の中の葛藤。決められたスケジュールに従おうとするタテマエくんオボッチャマンと、自由気ままでありたいホンネくんピースケ
社会常識では、眠気に負けて義務や責任を放棄してしまう人は、決定的に社会人失格の烙印を押されます。ダラシNEE奴と言われ、蔑みの対象となります。ですから、大抵の人は、ホンネを表に出すことを控え、タテマエくんとして社会生活をします。
実はこのホンネとタテマエ、心の中の魂と精神の働きを表しています。
「神との対話」から。↓

日の出最も大きな意味で、あなたの本質的ないのちは、自分の望みに目覚め、それと喜ばしい一体化をする時を求めている。だが、いのちは決して、現実のあなたの意識的、肉体的な部分に自分の欲求を押しつけることはない。しかし、精神はしじゅう意志を身体に押しつけようとするし、実際に押しつける。同じく、身体はしじゅう精神を支配しようとし――支配に成功することが多い。だが、身体と精神が一緒になって魂を支配しようとする必要はない。魂には何かしなければならないという必要性がなく(身体と精神は、必要性に制約されている)、身体と精神がしたいようにさせておく。それに、魂はほかにどうすることもできない。自分という存在を創造するため、そして自分が何者であるかを知るためには、自発的な意志による行為を通すほかないからだ。魂の働きとは、その欲求を示唆することであって、押しつけることではない。精神の働きとは、選択肢のなかから選択することだ。身体の働きとは、選択を行動に移すことだ。

魂の示唆を完璧に反映するならば、朝目が覚めた時、まだ準備の整わない身体を急いで動かそうとはしないはずです。ボーッとした状態でとりとめのない回想をしながら、その時一番興味のあることに向けて精神と身体の体勢を整えていく。「そうだ、今日はいい天気だから、サッカーボールを持って河原に行こう。」などという感じで、まずはやる気を整えてから具体的に動き出す行程があると思います。
そのような目覚めならば、「まだ寝ていたい。でも起きなきゃ。」という様な迷いや葛藤は起こらないはずです。
そんな「完璧な目覚め」を、現代社会のどれだけの方が常日頃体験してるのでしょう。おそらく9割がた(もしかしたらそれ以上?)の方は、前日のうちに決められたスケジュールに従い、「まだ寝ていたい」という気持ちを押し殺し、顔を洗ったり朝食をとったりしながら、しぶしぶ気持ちを切り替えていくという生活スタイルではないでしょうか。
現代社会は、魂の示唆を軽視、ヘタをすればほとんど無視して生きることを私たちに要求します。
魂は楽しいことが大好きです。いつなんどきでも遊んでいたい。遊ぶだけ遊んだら寝たいだけ寝る。そんな生活を望んでいます。純真無垢な子供のような生活です。
でも社会は、まずは義務を果たしなさいと言います。自分の責任をすべて終えて、しかるのちに残った余暇で遊ぶなり寝るなりしなさいと言います。
ご案内あなた。お隣の元気くん栗頭大五郎、幼児のための英会話教室に通い始めたんですって。うちのひふみピースケも、もうそろそろなにかやらせてみようかしら。
ってなことを、気の早いお母さんは言い出します。
実は、これこそが、楽園の中で喜びのままに生きるアダムとイブに差し出された原罪のリンゴなのです。
哀れひふみくんピースケは、気の早いお母さんによって、自由な遊び・完璧な眠りという楽園から連れ出され、社会的適応力を身に付けるべく、様々な外部知識に染められていきます。
それはある種の精神の汚染です。純粋で透明な魂の状態から知識によって染め上げられ、人はどんどん魂の示唆に心を留めなくなっていきます。
遊び心や眠りの誘惑に負けない人を、社会は大人だといい、「自制は美徳である」という観念を社会から刷り込まれ、思い上がった精神(顕在意識)は我こそが自分という命の主人公だと思い込むようになります。
そしてこれこそが、私たち人間の不幸の始まり、お釈迦様のいう煩悩なのです。

ところが、精神があまりに魂の示唆と矛盾する指図をするので、魂の勇気付けを得られない精神が確信を抱けずに機能しなくなってしまう人がいます。引きこもりとか精神病とか呼ばれる方々です。
将来のためだとか自分のため愛する人のためだと言われても、全くやる気が湧いてきません。社会が意義のあると勧めることに、全く興味が見いだせないのです。
「仏教が好き!」から↓

えんぴつ青年のなかにはそのレベルが浅いままの「否定」に止まっている場合がある。引きこもりがそうですね。何しても面白くないわけですから。単位なんて取っても仕方ないでしょう。就職しても仕方ないでしょう。恋愛も仕方ない。つまり、全部「ノー」「ノー」「ノー」なんです。死ぬのも「ノー」。ただふわーっと生きている。
 そういう完全に引きこもってる人に僕らがどうしてるか言うたら、ただ会ってるんですね。それで「あれも仕方ない」と言うたら「うん、うん」、「これも仕方ない」と言うたら「うん、うん」と言うてるわけです。そう言うとる人が「何か絵描いたろかなあ」とかなると、もういいんですね。「絵描くのだけは仕方あるんだ」と、僕らはその線でいくんですよ。だから、その人としてはそこに何かを肯定する道があるんですね。そこで彼らの「否定」を僕らが「否定」したり、「肯定」を説いたりはしません。ただずうっと、生まれるのを待っているわけです。

「仏教は否定の教えである」というテーゼに結びつけようとして、この発言者(精神病のカウンセラー)は引きこもりの青年が所々の物事を否定していると述べていますが、私が思うに彼らは別に否定も肯定もしていません。その段階にすら至っていないのです。否定とか肯定とかに心が動かない、魂の示唆を無視することに慣れすぎて、精神が自信を持って決定できないのです。
この引用で面白いのは、引きこもりの青年の中ですっかり自信を失ってしまった精神に成り代わって、カウンセラーが精神の役になって魂の示唆を点検しているところです。
この青年の魂は、精神の代役の助けを借りて、絵画という興味の対象を見つけ出すわけです。
飛躍がすぎると思われるかもしれませんが、お釈迦様が打ち込んだ修行、解脱への試みも、この引きこもり青年とカウンセラーと類似するものがあるように、私には思えます。
王族の生まれであったお釈迦様の周囲には、多くの強烈で魅惑的な誘惑が溢れていました。それら全てに興味が持てない、享楽的に没頭できない。そんな思いが出家へとお釈迦様を導いたのでしょう。
出家をして行った数々の過酷な修行も、魂の平安、「悟り」というものに至る道ではありませんでした。それらは、魂の求めに応じた自発的な修練ではなく、他者によって既に確立された苦行のマニュアルを踏襲するだけのものでした。
ウィキペディアペンから↓

ペン出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、その結果、死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。次にアーラーラ・カーラーマを訪れ、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。
ペン減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6


お釈迦様の得た「悟り」とは、上記のような精神活動によって魂をコントロールしようとする試みとは全く逆の、どこまでも魂を解放することにこそ道があるのだという認識ではないかと考えます。差出された布施に素直に応じるスジャータの逸話に、そのことが象徴的に語られているように思います。
楽園を追われた無垢な魂は、今再び自らの中に楽園を見出したのです。
そのように解釈すれば、お釈迦様が晩年に残した言葉が理解できるように思います。
ウィキペディアペンから↓

ペン私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。
ペン汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように

「みずからを灯明とする」とは、まさに魂の導くままに生きろという意味だと感じます。
そしてこの言葉は、「神との対話」でくり返し述べられていることとも、「悟り」の本質が自己実現、つまり魂の示唆の実現にあるという点において、本質的に共通しているように思います。
「神との対話」から。↓

日の出悟りとは、東洋の神秘主義者がサマディ(三昧)と呼ぶ体験を通じて、心を開いて神と一体になること、神性と融合し、神性のなかに溶けこむことだ。したがって悟りとは結果を放棄することである。決して情熱を放棄することではない。それどころか〈マスター〉は直感的に、情熱こそ神への道であることを知っている。情熱は自己実現への道である。

お釈迦様が見出した「悟り」とは、魂の解放、魂の示唆に全力で進むことなのだと、私は解釈しました。
「お釈迦様が浮世を捨て、苦行の果てに獲得したものが、そんな簡単なものなわけないだろう」といった反論はあるでしょう。しかし、私たち人類も、お釈迦様の時代以後様々な経験を経て成長しているのです。人類がいつまでも愚鈍なままでいるという思い込みは改めるべきではないでしょうか。愚鈍は愚鈍なりに、私たち人類も霊的進化の歩みを少しずつ成し遂げているのです。子供の頃には届かなかったタンスの上のお菓子に、大人になれば手が届くように、お釈迦様の時代には雲の上のものに思えた「悟り」も、経験を重ねともすれば手の届くところまで来ているのだと考えます。

もしも、このような私の解釈に間違いがないとしたら、これは大きな社会矛盾を際立たせる主張となります。
というのは、現存する仏教その他の宗教は全て、戒律などを重んじ、魂の示唆に心を向ける方向には向かっていないからです。
宗教は全て、朝の目覚めの時間から、次に何を行うのか事細かにスケジュールが組み立てられ、その時々で心が何を感じるのか、魂が何を望むのかという思惑に留まることを制限します。魂の休息である眠りを制限する修行すら存在しますし、苦行でやせ衰えたブッダ像を尊ぶ宗派もあるようです。
仏教その他の宗教が、これまで一度も試みようとしなかったこと。それは、魂の示唆に全的に答えるということではなかったでしょうか。
一刻も怠ることなく、魂の赴くままを生きる。それはむしろ、人間以外の生き物なら誰もが自然に行っていることです。
そう考えれば、「仏教が好き!」における、以下の発言は、全く見当はずれであるように思います。↓

えんぴつ巨大な食物連鎖の輪の中に生きていると、お腹をふくらませて楽になりたいと、ほかの動物を殺しますが、お腹がいっぱいで楽になったのもつかのま、またお腹は空いてきて、狩りを始めなければならない。それにどんな生き物も年を取る、そして死を免れることはできない。たとえライオンでさえ、年を取ればもはや安全ではなく、いったん力を失って倒れれば、ハイエナのような腐肉を食べる動物の餌食になっていく。動物たちには、どうしたら本当の楽を得ることができるのか考えるための「余暇」がない、って言うんですね。

生き物には、精神(顕在意識)という魂と独立した意識というものが存在しないように思います。
精神という働きがない、あるいは極度に希薄なため、悩みや葛藤といったものがない。
確かにライオンは獲物を求めて追いかけますが、「今日獲物がないと俺は飢え死にだ〜〜」みたいな不安に突き動かされてではなく、ライオンにとってそれが自然だから、ライオンの魂がそれを示唆するからなのです。
反対に追われる方の生き物も、逃げることが魂にとって自然だから逃げる。
不安や恐怖のない追いかけっこは、ある種ゲームのようなものです。動物番組などでハンティングのシーンがよくテレビで放映されますが、私はそこに無残さを感じません。「あれは高級食材だからウマイゾ〜〜」といった下劣さが微塵も感じられないせいでしょうか。
人間の生物学は、「あれは夜行性、これは昼行性」といったような、あらゆる生き物がある秩序のもとに生きていると考えたがるようですが、多くの生き物は、昼とか夜とか全く気にせず、寝たい時に寝て、動きたい時に動いています。いかなる生命にも一定の生活スケジュールがあると思い込んでいるのは、実は人間の大きな勘違いなのではないでしょうか。
精神活動の希薄な生き物たちは、物理的な思考というものがありません。それがあるのは人間だけです。だから生き物は下等なのだと、人間は考えたがりますが、そこにはなんの優劣もなく、ただ生き物はそういう種、人間はそういう種だというだけに過ぎないのです。むしろ、魂の示唆のみを行動する生き物たちの方が、自己実現という点では人間よりはるかに優秀なのです。

なぜ野や山には、動物たちの死骸が見当たらないのだろう?と考えたことはありませんか。毎日無数の生き物がこの世界に生まれているのに、それに見合うだけの死骸を見た人はありません。秘境のジャングルのどこかに象の墓場があり、象牙が捕り放題だという伝説を聞いたとこがありますが、実際にそれを見た人はいません。
もしかしたら、死骸を残すのは、物理的な死を考えずにいられない、確かめるという行為をせずにいられない、人間だけのものなのではないでしょうか。自分の体が以前より劣化し衰えていると感じるのは人間だけです。だから、人間だけに物理的な死が存在するというわけです。
物理的な死とは全く別の、量子的な死。それは死というよりは消滅という言葉がふさわしい。
それは、精神的思考、つまり物理的な思考形態をとらない、魂的衝動、いわば量子的思考といったものに全霊を預けた生き物だけに許される。そんな未知の神秘が存在するような気がします。
多くの生き物は、怪我をしたり病気になったり十分成長できないことは明らかになった時、この世界から自然に消滅する。だから、いくら野山を探しても死んだ痕跡が見つけられないのです。私はそのように考えます。
もしそれが真ならば、種の存続とか絶滅危惧種とか、新種とか進化とかいった人間の思考による区分けや選り好みが、全く無意味であるということにもなります。たとえ絶滅したと思われる生き物でも、環境さえ整えば、消えた時と同じように自然に復活するでしょう。

人類は物理的思考を手に入れました。アダムとイブはリンゴをかじったのです。それは魂(神)が自分自身を体験するための宿命的な出来事でした。
「神との対話」から。↓

日の出在るというのは、存在の最高の状態である。純粋なエッセンスである。それは「現在であって/現在でない」「すべてであって/すべてでない」「常在であって/無である」という神の側面である。純粋に『ある』とは、純粋に神であることだ。
だが、私たちは単に在るだけでは決して満足できない。つねに、経験を求める。自分が何であるかを経験したい。それには神性の全く別の状態が必要となる。行為だ。あなたがたの核心は愛と呼ばれる神性の状態である(ちなみに、これがあなたがたの真実である)。ところが、愛であることと、愛することとはまったくべつのことがらである。魂は経験によって自分を知るために、何かをしたいと願う。魂は行為を通じて最高の考えを実現しようとする。何かをしたいという衝動は情熱と呼ばれる。情熱を殺せば、神を殺すことになる。

今や物理的思考はすっかり袋小路に入り込み、それによって人々は身動きが取れなくなっています。
お釈迦様がなしたことは、その袋小路を解消するための試みであり、そこから抜け出るための大きなヒントが「悟り」なのです。
楽園の貴さを実感するために、人類は透明な心を汚し染め上げる必要がありました。それが科学や経済、現代社会と呼ばれる幽界おばけの役目だったのです。
仏教を始めあらゆる宗教は、教義の中に物理的思考の袋小路を宿したままです。そのため、魂の解放とは全く逆の行いを重んじたり、見当はずれな人生観に翻弄されているように、私には思えます。
「仏教が好き!」から↓

えんぴつどんな生物も、自分に苦痛や危険を与えるものを遠ざけて、快感や安心を与えてくれるものに近づこうとします。仏教ではそういう苦痛が、内面化されて、我執によって内面の心に苦悩や歪みが発生すると考えています。そこで自我への執着を捨て去っていくことができると、内面の心にはとっても「楽」な状態がつくられます。あらゆる生命体の理想こそが、この「楽」の状態で、ほかの生物には実現できなかったことが、人間には自分の心を制御することで実現できるのですね。普通の生物がもとめている「楽」をはるかに超えて「大楽(大いなる楽)」が、心のうちに実現できるようになるわけでして。まあ、犬がひなたぼっこして気持ちよさそうにしているという状態を、とことんつきつめていきますと、仏教で言うこの「楽」が出てきます。

果たして、「犬がひなたぼっこして気持ちよさそうにしているという状態を、とことんつきつめて」行くような生き方を、宗教は実践していると言えるでしょうか。
最初に述べたように、宗教は「気持ちよさ」を追求する態度を見れば、ダラシNEEといって蔑みの目で見る教えです。そう受け止めるように教義自体が堅苦しさ・厳粛さを前面に押し出してしまっているのです。
心を制御することで「楽」を実現すると言っていますが、社会を見渡せば心を制御した人々ばかりです。なのに心の平安を獲得しているように見える人はどこにもいません。
むしろ、どこを見渡しても見当たらないのは、心を全的に開放した人です。
宗教が無意味だったと言うつもりはありません。人類の霊的成長を促進したのは、確かに一面では宗教の功績だったと思います。
しかし、人間が己の中の神を実感して生きる「ミロクの世」となった今、宗教は用をなさなくなったのです。用をなさないならまだしも、多くの場合、宗教は魂を縛る鎖となっています。
今時は熟しました。
宗教という人類規模の霊的実験は卒業の時を迎えました。再び人類は、自然に生きる動物たちの純真さに立ち返る時を迎えたのです。
「神との対話」から。↓

日の出身体、精神、魂が一体となって調和し、ともに創造するとき、神が肉体化する。そのとき魂は自らの体験のなかで自らを知る。そして、天はそれを喜ぶ。


身体、精神、魂が一体となる生き方。せっかくの命です。そんなふうに生きてみたい。そうすれば天も喜ぶのです。

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