ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ミロクの世に生きる101の方法コミュの仏陀意識と科学は永遠の平行線

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
とあるブログで、以下のようなコメントを投稿しました。↓

「生命とは何か」を感得するには、科学の殻を突き破り、はるかに高位の意識を用いる必要があります。仏陀意識はそのような高位のものであり、自然科学により近いといったレベルで比較できるものではないと思います。

投稿先のブログ、↓

主義で進化は起こらない 涅槃と再生<5>
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/60324654.html

これに対する返信がありましたが、回答が長くなりそうですので、記事にしました。(イベント以下は返信文のもの)

イベント 既成仏教と同じで、あなたも、「仏陀(が達成したと創造している意識)」という妄想上のスーパービーイングをあなたの仮説(仮定)の根拠にしていますね。

それは違います。私の主張は、「科学の不可能性」に依拠するものです。
「科学とはなにか?」と問われれば、私は「可視的な因果関係のみで世界を説明する試み」だと答えます。
このような方法論をを機械論といいます。↓

えんぴつ 機械論は、天候や地形、生命などの諸々の自然現象を、心や精神や意志、霊魂などの概念を用いずに、その部分或いは要素の決定論的な因果関係のみ、特に古典力学的な因果連鎖のみで、解釈でき全体の振る舞いも予測できる、とする立場。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E8%AB%96

「決定論的な因果関係」とは、測量技術の発達によって、「より遠く」「より細かく」といった時代的な進歩はあるものの、言うなれば、「測量不能のレベルにおける因果関係を認めない」という姿勢なのです。
言い換えれば、自らの測量に最大限の信頼を置く姿勢ということです。
この姿勢は、「世界のあらゆる根底に因果を認める」仏陀意識と、決して両立することのないものだと、私は考えます。
ですから、仏陀を神格化するあまり妄想を作り上げているという、あなたの評価は、私の主張の真意を捉えていません。
森羅万象のあらゆるものの因果を認める仏陀意識の前には、科学はあまりにも欠陥的思想だと言っているのです。


イベント 脳を中心にした肉体の機能には無限の可能性も想像できますが、私の推量の根拠は現在までの科学の成果です。

「現在までの科学の成果」を本質的に述べるならば、「科学の方法論は間違いであった」という謙虚な反省が全てだと考えます。
「科学にはまだ未来がある」といった甘い評価こそが実は妄想だと、私は考えます。
量子力学というものを御存知でしょうか。
世界を取り巻く事象が科学的因果関係の枠外にも存在していることを、最初に突き止めた学問です。
実は、この時「科学は死んだ」のです。
今や、科学がずたずたに切り裂いた世界観を少しずつ修正し繋ぎ合わせることが、世界認識の発展となっています。
最終的にそれが到達するのは、「全てはつながっている」という仏陀意識でしょう。
科学の成果を拠点としていては、「生命とは何か」を感得することは、不可能といわずとも非常に困難ではないか?と私は考えます。


イベント 妄想的な「高位の意識」を仮定していません。

仏陀意識は、私たち凡人が絶対に到達不可能な意識であるといったものではないと考えます。
ブッダが実践したといわれるヴィバッサナー瞑想法というものがあります。
それを行なうことで、仏陀意識の片鱗には触れることができると思います。
ただし、仏陀の偉大さはその世界認識の深さにあると思います。生半可な修行ではその境地に到ることはできないように思います。
ですから、「高位の意識」などありえないと否定してしまう態度も、あまり好ましいものではないと思います。


イベント お釈迦様が涅槃を成就し、全ては妄想であると喝破された後、お釈迦様の涅槃を理解し体得した人はごく少数。

そうかもしれません。
しかし、私は全人類的な精神的発達の功績といったものは存在すると考えます。
たとえば、江戸時代の将棋の棋譜は、現代に比べて戦術的に未熟です。
ところが、それを出発点にして後達が新たなひらめきを加え、積み上げることによって、現代将棋の成果があるわけです。
それは将棋に限らず、スポーツ・音楽・思想、もちろん科学も、人類活動のあらゆる分野に、人類の努力が目に見える形で功績を加えています。
仏陀の境地は、はるか遠いものであることには変わりありませんが、それでも人類全体の努力の結果として、2500年前の人類よりも、現代人類の全体的な意識はより仏陀に近づいていると、私は考えます。


イベント 後世の「仏教徒」は、結局妄想を離れられなかったため、屁理屈を捏ね続けてきました。
涅槃を成就したいのなら、理屈は必要ないのです。

「必要ない」という否定も、もしかしたら必要ないかもしれませんね。
人間はこの先も、あ〜でもないこ〜でもないと迷い続け、寄り道を重ね続けるでしょう。
だけど、それらは決して無駄ではないのです。
なぜならば、「あらゆるものはつながっている」からです。
誰かの失敗は、その人一人のものではありません。私たちは「視覚的に捉えることのできない因果」として、それらの経験を共有しているのです。科学的思考のもとに、それを否定しなければ、の話ですが。


イベント その間、ヨーロッパでは、何百年もかけて少しずつ確実な知識を積み上げてきました。

それは現状の判断において確実だと思われているだけに過ぎません。
実験室の中には、「生命とは何か」に対する答えは、永久に存在しません。
「科学には何もわからない。」これは、すでに人類が導き出した答えです。ただ、それに納得し、次へ進む準備ができていない研究者が、まだまだ多く存在するというだけのことです。

イベント研究方法も提示できない、「仏教」的な推量では、生命も精神も解明できるはずがありません。

生命や精神の解明に、研究は必要ありません。
それは推量ではなく、科学自身が到達した結論です。


イベントお釈迦様の涅槃の視点からは、科学も「仏教」も全て妄想なのです。

なにか、あなたの意見のほうが、仏陀意識を手の届かないものとあきらめてしまう、一種の妄想のように、私には思えます。



〜〜2回目の意見交換〜〜

イベント 私は、お釈迦様在世中の教え(と私がほぼ確信しているもの)と科学は協同できると思っています。
むしろ、科学の知見をちょっとかじってみると、お釈迦様の教えが一層良く分かります。

ここが、私の意見と全く折り合わないところですね。
科学とは、根源的に、勘違いから発生した学問である、と私は考えます。
量子力学の発見により、機械論的世界観が否定された時以来、科学の法則には全て「条件」が付されるようになりました。「ここからそこまでは法則が成立します」といった感じ。
そうした折衷案的科学は、社会のあらゆる場面において、当然のように採用されています。
「塩素が○○以下であれば、人体被害は明確な形で現れない。だから許容できる」といったものです。
しかし、この考え方をいくら突き詰めても、完全に循環バランスが整合した世界にはなりません。
水道水だけでなく、食品、化石燃料の燃焼、排ガス、排熱etc.
全て、大まかにはバランスが取れているという見地のもとで、どんどん循環できない化学物質がまん延していきます。
そんな社会的な様相と仏陀思想を並列で述べるのは飛躍が過ぎると思われるかもしれませんが、世界を好ましい姿で永久に循環させるには、「条件」の付かない、全き形で世界を捉えなければなりません。科学には、それが永久に不可能です。
反対に、仏陀思想とは、そんな全き形の世界を理知的に捉えようとした試みだと思います。
もちろん科学にも、そんな理想高き時代はあったでしょう。でも、今や科学は妥協と虚栄の産物です。そこが、仏陀思想と決定的に融合できない理由です。


イベント パーリ仏典に説かれている「涅槃」は、科学が解明しつつある物質世界の説明と一致すると感じています(私は涅槃を体験していないので、推測)。

読んでないのでなんともいえませんが、ニューエイジサイエンスと呼ばれる分野は、上述の量子力学による、科学の敗北から発し、一旦科学を分解し世界と矛盾しない形で捉えなおそうとした試みでした。
この試みを追求していくと、不思議なことに、東洋哲学により近づいていきます。
それは、確かに科学者が活躍した思想的発見ではありますが、科学というよりは、「科学を超えたもの」といったほうがふさわしい様相になっています。
この分野は、古典科学信奉者からは今だに認められていません。ニューエイジ的主張をする研究者は、異端扱いされ、論文は採用されず権威からは追放されます。
かつてはノーベル賞を受賞した学者が、霊的な探求を試みそれを言動に表わした途端、世界的には無名の物理学者でさえ平然とトンデモ扱いします。(私の実体験からですが)


イベント しかし、何度も主張しているように、日本の仏教宗派が説いている仏教と科学は土俵も違うし、協同も出来ないと思います。

日本仏教の歴史は詳しくありませんが、宗派の多くは、「世界をどう捉えるか」といった学究的方向には目が向いていないように感じます。


イベント 日本の宗派仏教と科学は平行線でしょうね。

平行線というよりも、同じ土俵で捉えようという土壌が育成されていない。そんな印象を受けます。


イベント それから、科学の限界とか、科学の終焉とか言っていますが、現に日々研究は進展し、これまで分からなかった事柄を少しずつ解明していると思いますがね。

確かに、快適さ、便利さといった方向へは、少しずつ進展しているように見えます。
しかし、それらの利点は、実は、この世界に命を授かった理由、何をなすべきかという目的、に照らした場合、究極的には全く不要なものなのです。
科学は、命の理由を全く理解できないため、努力の方向が完全に誤っています。
火星に人工衛星を飛ばしたって、何も得るものはありません。
クローン技術を進展させても、科学が生命を作り出すことはできないでしょう。
高速の交通機関が発達すれば、同じように環境負荷も増大します。その多くはメディアが報道しないため、一般には理解されませんが。(資源枯渇、自然破壊、コンクリート、定期的な補修の必要etc.)
今、一斉に科学が前進を止めたとしても、世界はなんら困りません。
むしろ、環境負荷はその時から改善へ向きを変えるでしょう。

イベント 仏陀意識などという意味不明な用語を使わずに、悟りとか涅槃とか解脱という用語で説明した方がいいと思います。
あなたの造語なんでしょうか?

一般的にふさわしい用語がわかりません。
ですが、悟りも涅槃も、私の意図するものと多少違ったニュアンスのように感じます。


イベント お釈迦様の悟り・涅槃は智慧の獲得だと思いますよ。
老・病・死からの開放は智慧による以外不可能だと思います。

これはおおいに同意します。
だからこそ。
科学の道では永久に到達できないのです。
科学が宣伝する、小さな利点に惑わされずに、科学に押し付けられた間違った概念を思考から取り除いて、ようやく、仏陀の智慧を素直に捉える心の環境が整うのだと考えます。

コメント(5)

〜〜3回目の意見交換〜〜


イベント ?あなたは、科学と「科学の価値を論ずる思想」とを混同されているようです。

「科学の価値」つまり、科学がもたらした成果というものは、科学を論じるにあたって重要な要素だと考えます。


イベント あなたの主張、すなわち<量子力学の発見により、機械論的世界観が否定された時以来、科学の法則には全て「条件」が付されるようになりました。「ここからそこまでは法則が成立します」といった感じ。>は、何という科学者もしくは科学者たちの理論(研究結果)のことを言っているのでしょうか?

科学全般に言えることです。
たとえば、原子力。
放射線が物質を透過し、環境へ漏れ出すことは、実験的に明らかであるにもかかわらず、「それは微量だから考慮しなくて良い」という信念のもと推進されています。
化学調味料もそうでしょう。「人体への害は考慮するほど重大ではない」という信念が、使用を認めさせています。
科学というものは、事象のある側面は整合するという形で法則を成立させますが、それはどこまで行っても「ある側面」に限定され、世界全体を正しく表わすことができないのです。
この点を、あなたは軽視なさっているように思います。
この点が決定的に、仏教哲学(仏陀思想という言葉はお気に召さないようですね)と相交われない部分だと考えます。


イベント 物理学はもう進展の余地がない、完全に行き詰まったなどと主張しているのは何という名前の科学者ですか?

ノーベル物理学賞を受賞したブライアン・ジョセフソン氏の著作「科学は心霊現象をいかにとらえるか 」からの引用です。↓

ペン こうした中で、意識の問題の解明は、従来の科学的パラダイムの転換なしでは不可能であると主張する人々が現れている。意識には、非アルゴリズム的な計算過程が含まれており、その理解には未解明の量子重力のような新しい物理学が必要と考えるオックスフォード大学のロジャー・ペンローズはその代的な例だ。
また、カリフォルニア人学のデイビッド・チャーマーズは、私たちの感覚にともなう質感、すなわち 「クオリア」 の解明こそ、意識に関する損も本質的で、しかも解決が難しい問題であると主張している。ジョン・サールは、「中国語の部屋」 と呼ばれるたとえを用いて、機能主義的なアプローチでは、意識の属性の一つである 「理解」 には迫ることができないと議論している。

「従来の科学的パラダイムの転換」を果たしたあとの学究を、科学と捉えるか、全く別のものと捉えるか?という議論はあるかと思います。
私は、科学の限界を認め、その枠組みからの解放を目指した学究は、もはや科学という呼び名を与えるべきではないと考えます。


イベント 機械論的世界観を、あなたは歴史的・哲学的に・方法論的に、どのように理解しているのですか?

一般的な理解は、辞書などを読めばわかると思います。
私の結論では、「科学の計測能力が及ばない事象は考慮に値しない」とする考え方だと捉えています。


イベント 機械論的世界観というのは、酷く古風な哲学ですね。
いまどきそんな「機械的な」考え方をしている科学者がいるとしたら、その名前を教えてください。

一般的な物理学者は、概念としての機械論的世界観は否定しています。
しかし、そのことを自らの研究分野に反映させているか?といえば、必ずしもそうとは言えません。
上述のブライアン・ジョセフソン氏などは、「ニセ科学」として完全否定されていますし。
参考に、こんなページがあります。↓

ペン 実際、現代の物理学では、原子・分子といった小さなスケールから、天体や銀河といった大きなスケールまでの、「物の世界」での出来事を、いくつかの基本的な法則にもとづいて、ほぼ完全に理解できるようになりつつあります(それでも、「人間の心」は、わからない!)。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/md/abs.html

この物理学者は、「人間の心は、わからない!」と、はなから科学には手に終えない分野があることを正直に言明しています。
しかし、私たち人間は誰しも、「心」の存在を認めています。
科学という枠組みでなければ、「心」を捉えることは必ずしも不可能ではないと思いますし、仏教哲学はそれこそ「心」を捉えるための学究ではないかと考えます。
仏教哲学を真理として捉えるためには、科学という凝り固まった思考から、解き放たれ自由にならなければならないのです。科学の牢獄の中からでは決して、仏陀の英知に触れることはできません。


イベント ?仏陀意識とか仏陀思想とか言いますが、この場合の仏陀とは、何のことなのでしょう? まさか仏教の開祖・お釈迦様のことではありませんよね?

専門用語の使い分けはよくわかりません。仏教哲学あるいは仏教思想という呼び方であれば、納得してくださいますか?


イベント しかし、この危機的状況を招いている元凶は、科学ではなく、科学をも含めたあらゆる人間文化・文明を利用している人間の欲望です。

私は、欲望だけで世界が悪くなっているとは思いません。
「科学は全て解明できる」といった類の慢心も、非常に大きな元凶となっていると考えます。


イベント お釈迦様は人間のこの根源的な欲望を火に喩えて、「世界は燃えている」と言いました。
人間は自分(世界)が燃えていることに気づいていません。
これが「無知」です。

お釈迦様が諌めたのは欲望だけではないと思います。
因果応報を認めない科学の慢心は、それこそ欲望に火をつけます。
「科学が認めないものはみんな迷信」という思想も、危険性という点では欲望と同列だと思います。


イベント 「無知」な人間は、科学が使えなければ、他の方法を考え出します。
あなたは人間が今どんなことをしているのか、過去にどんなことをしてきたか知っているはずです。
問題なのは、科学ではなく、人間の欲望なのです。

それではあなたは、科学が人類の欲望を制御する一助になっていると、お考えですか?
私は、全くそうはなっていない、むしろ欲望を助長していると感じます。
その点でも、仏教哲学と科学はおおいに隔たっているのです。


イベント だからこそ、お釈迦様は自分を深く観察し、いかにして「無知」を克服すべきか考え出されたのです。


まさしく、そのような思考、それを希求する心的環境をして、私は仏陀意識と呼びました。


イベント あなたと違い私は精神・心は脳の所産だと思っています。
脳の仕組み・働きを調べれば、人間の欲望の構造も少しは分かってきます。
つまり、科学の方法で、お釈迦様の悟り・涅槃を理解する手がかりが得られると思います。

おっしゃるとおり、ここは私とまったく意見が合いませんね。
脳はただの目に見える部位でしかないと思います。
これも科学者が犯す決定的な間違いだと考えます。
進化のカギが遺伝子にあるとする従来の思考では、永久に進化を理解することはできないと、私は考えます。
進化のカギは、科学者達がわからないと敗北を認めた、「心」にこそ存在すると思います。


イベント 科学は、自分や世界を理解する方法です。
方法ですから、人間が正しく使用すれば、正しい結果をもたらします。

正しい使用という以前に、科学という思考実験が失敗だったのです。
だから、それに固執していては、到底正しい結果には到らない。そう考えます。


イベント 問題の根源は人間にあるのです。
人間を、自分を知り、理解することが重要なのです。

人間を知るには科学は不要です。
ただし、科学は失敗だったという認識は重要だと思います。
〜〜4回目の意見交換〜〜

コメントをいただいた日が3月12日。震災の1日後のことです。
私の住む岩手はこの時停電になり、これを読んだ数時間後にパソコンのバッテリーも切れました。
そんなこんなで、コメントについてすっかり失念してしまい、すっかり返答が遅れてしまいました。
10ヶ月経過した今、改めて読み返してみると、当時の仏教観・科学観と現在では、多少考えが変わっている部分があります。
その大きな理由は、竹内文書と日月神示という2つの大きな情報を得たことにあります。

初めて知る方はこちらの記事を参考に。↓

天皇は宇宙の中心だった!?
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1769780889&owner_id=5975583
手伝え〜〜!神様は急いどるど〜〜!
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1802433172&owner_id=5975583


この2つの情報に信を置くか否かによって、それぞれの人の宗教観・科学観は大きく相違することでしょう。
私は私の信条「心から願うことは実現する」に則り、特に日月神示をどこまでも信じ、その教えに従って生きることによって、どのような未来がもたらされるのか、非常に興味を持って日々を過ごしています。
神示は、そのような生き方の結末が輝かしいものであることを、力強く保証してくれています。↓


富士山神がまこと心見抜いたら どんな手柄でも致さすぞ。自分でびっくり。まことの人程おかげおそい、おそい程 大きおかげあるぞ。
ひふみ神示 第27巻  春の巻第五十七帖


神示が約束するとおりの未来があるのかないのか、その結果によって、日月の神が真実なのか、誰の目にも明白となる。そう考えます。
私の人生を懸けて神示の真偽を実験する。そんなスタンスで現在はおります。
そんな近況を踏まえていただき、質問にお答えすることとしましょう。
イベント以下はコメントから転載)




イベントまず、私たちが論じている課題は、恐らく現代でも最も最先端のものだと思っています。
この課題を解くには、これまでに人類が得てきた全智識を一人で理解できるような能力が必要でしょう。
私ごときが云々できる問題ではないのは良く分かっています。

私は科学に関しても宗教に関しても、特別な知識を持っているわけではありません。
ただ、自分が生きていく上で実感する心象を第一の指標として、あなたの質問その他にお答えしているだけです。
それでも十分用は足りるのです。
宗教にしろ科学にしろ、付け焼刃の知識ではなんの議論もできないかのような権威めいた装いで、論の危うさを取り繕う姿勢が感じられます。
レベルの低い論者ほどその傾向が強いように思います。
しかし、真理というものは、ありふれた意識の者が容易に到達できないような、限られた門では決してないのです。
以前の記述で私は、仏陀の言う「悟り」(私は仏陀意識と読んでいたものです)が、凡人では到達の難しい境地であるかのような意見を述べていますが、現在はそう考えません。
「悟り」も実際は、この世界に生きる誰にでも、手を伸ばせばいつでも開けることができる、開かれた門なのです。
それなのに、教義を高度に理解した者にしか到達できないかのように思わされているのは、仏陀後継者自身の蒙昧さも原因となっていますが、そのような格調高いものであるかのような装いを意図的にしてきたという点も多分にあると感じます。
この点が10ヶ月前と現在とで最も意見の変わった部分です。この詳しい説明はそのうち折を見て。
とにかく、この議論を進めるにあたり、特別な資格がいるとか、相当に知識が必要だとか、そういったことは一切ないと、私は考えます。


イベントあなたも、あなたなりに何か動機があってこういう課題に真剣に取り組んで居られるようですね。

それなりの使命感はありますが、一番の動機は、巷で常識のように述べられていることが本当に真実なのか、それを確かめたいということです。



イベントここまでのあなたのお考えを読んできて、目指す方向は多分同じなのではないかと思えます。

あなたの目指す方向が、生きるために真に有用な知識といったものであるならば、私と同じと言えるでしょう。


イベントただし、私の主張が独断偏見に満ちているように、あなたのお考えもかなり独断的な感じがします。

独断と少数意見を混同するべきではないと思います。
私のように考えるものは確かに少ないかもしれません。
しかし、それが身勝手な独りよがりの考えに基づいているとお考えならば、それには同意できません。




イベント??の素朴な問いに率直にお答えいただいた中に、具体的な内容が二つあります。
ペンローズとチャーマーズという学者の名前です。
(中略)
ペンローズは、立派な「科学者」だと思います。
チャーマーズは、専門は哲学のようですが、次のような発言からすると、哲学と科学の協同を目指していると考えてよさそうな気がします。

以前の議論の焦点は、古典的な科学方法論の枠組みを乗り越え、新たな方法論を組み込むことによって、科学は進化できるのではないか?そのような「新たな科学」は可能なのか?といったところであったように思います。
そのような観点から返答させていただきます。

イベントチャーマーズは、意識に関する全ての物事を"現在の物理学"の範囲内の現象として説明してしまおうとする還元主義的な方法は、うまくいかない、と力説している。しかしながらこれは別に生気論や神秘主義といった系統の主張ではなく、チャーマーズは現代の物理学は拡張されるべきだと主張しているのである。
イベント重要な点は、ペンローズもチャーマーズも、科学を否定しているのではなく、科学を進展し変化していくべきものと考えていることだと思います。

この主張を、科学の可能性という点から要約しますと、「(古典科学のままでは)うまくいかない、(新たな方法論をもって)拡張されるべきだ」ということになるでしょう。
問題は、拡張するべき方向はわかっていても、それが実践可能なのか?という点には、なんら言及されていないことです。
従来の方法で拡張が不可能だとする場合、違う方法で拡張が可能であっても、それを科学と呼ぶべきなのか?
それこそが、科学が抱える矛盾なのです。
人類の知性はそこのところで右往左往し続けている。そして、永久にその抜け道は見つからない。
抜け道は科学を超えたところにあり、それを容認した途端に、科学という様式を失ってしまうからだ。そのように考えます。
あなたの引用によると、ペンローズやジョセフソンも、同じ袋小路でもがいているように感じます。↓

イベントジョセフソンは心や生命を説明するためには、従来の量子力学を大幅に拡張するか、もしくは全く新しい理論、新しい物理学が必要であると主張する。現代の還元主義的量子論ではなく全体的な理論が必要であり、また言語・音楽などのように定式化できないものまで含むような理論も必要であるとする。





イベント三つの引用の最後で述べている考え方は重要だと思います。
「科学者が全体としてある考え方を否定したとしても、その考え方が不合理だという証拠にはならない。むしろ、そのような主張の基盤を慎重に調査し、どれほどの精査に耐えるかを判断すべきだ」
どれほど精査に耐えるかが肝要なのだといっている。
精査というのは、科学の一番基本的な方法だと思います。

しかし、その精査という方法では、袋小路をいつまで経っても抜け出せないのだとしたら?
くりかえしになりますが、それが科学の抱えるパラドックスなのです。


イベントそういう意味で、超心理学だろうがなんだろうが、研究者が「そのような主張の基盤を慎重に調査し、どれほどの精査に耐えるかを判断すべきだ」という姿勢を持ち続ける限りその研究は科学と呼んで良いのではないでしょうか?

そのような方法論で学究を志す方々を否定するつもりはありません。
ただ、独断という批判をあえて自認して言わせていただければ、真理へ到達する抜け道は結局そこには無いのではないか?と、思わずにはいられません。
物理現象のみを取り上げてこの世界を定義することが、全くの的外れであるように、私には思えます。
考えてばかりでは真理には至らないのです。感じなければ。信じなければ。


イベント「(前略)サールは、第三者から見て観察可能なデータのみを扱う行動主義や機能主義のようなアプローチを、意識の還元不可能性を無視する姿勢だとして批判している。」
これは納得可能です。

最前線の認識に誠実な学者は、漏れなく現状の科学方法論に否定的だということでしょう。
この点に関しては、もう既成事実として考えるべきではないでしょうか。



イベント「意識という心的なものは脳の物理的なプロセスによって産出されることは明らかなことであって、心的/物理的というようなカテゴリーはもはや廃棄すべきだと考えている。」
この考え方に大賛成です。

私は同意できません。
「心的なものは脳の物理的なプロセスによって産出される」がどうして明らかだと言えるのでしょうか。
たとえば、後頭部をポカ〜〜ンと叩いたら、急に幸せな気分になった、とかいうのなら、物理的はたらきかけが、脳の活動を促し気分を変えたということにもなるでしょう。
でも、感情はそんなに単純じゃありません。
一日同じ所に座り続けてるだけなのに、楽しくなったり悲しくなったり、物理的はたらきかけなしに、人の心は浮遊するのです。
心を動かすものは決して物理的要因のみではないと考えます。



イベントニューロンの活動を個別に調査して徐々に意識へと迫るという、通常採用されるビルディングブロック的なアプローチよりも、意識する状態にある脳と無意識の状態の脳の差異を比較する統一場的アプローチ(unified-field approach)のほうが、より効率的に意識の謎へ接近できるとして推奨している。」

「脳の差異を比較」するという方法がどれだけ有効なのかわかりません。
「ビルディングブロック的なアプローチ」よりは多少ましかもしれませんが、どっこいどっこいじゃない?という思いのほうが強く感じます。



イベントいずれにせよ、サールという学者も決して科学の終焉とか科学が根本的な誤謬を犯しているとは考えていないと思えます。

私には、「ほら見ろ〜〜!科学はまだ可能性があるじゃないか〜〜!」ってな感じで、とりあえず希望にすがっている態度に思えます。絶望以前の姿とも言えます。
「科学には希望がある」という信念にすがっているからといって、本当に希望が存在するかは別問題でしょう。
正直、そうやって、理屈のみで世の中を定義しようとする方法の全てが、私にはただただまどろっこしいのです。
だからは私は、理屈の果てに見つける証拠よりも、「そのように捉えれば、あらゆる物事の説明がつく」といった、「筋が通る」ことを最も重視するべきだと述べているのです。
理屈から抜け出せない科学は総じて、心的問題へと進展する方法論として不適切だと言わざるをえません。
これはおそらく、私の最終結論になると思います。



最後に、日月神示の一説から、この議論にふさわしいと思えるものを紹介しましょう。↓

富士山自分で自分の心の中は中々につかめんものであらうがな。その中に又心あり、又中に心があるのぢゃ。心は神界ぞ。霊界や神界のものを肉体の自分で掴まうとしても中々ぢゃ。うなぎつかみと申してあらうが。ヌラリクラリと掴んだ筈が掴んでないぞえ。掴むには身と魂と一つに和せねばならん。
ひふみ神示 第26巻 黒鉄の巻 第二十二帖

霊界や神界のものを肉体の自分で掴まうとしても中々。つまり、心という物質世界に住まないものを、物質(物理)的に理解しようとする姿勢そのものが、大きな間違いであるということです。
私には、どんなに高名な科学者が人生を捧げて到達した理論よりも、神示の一言のほうがよほどすんなりと胸に染み入ります。
これまで2度ほど下記のページを通読しましたが、今だに不可解に感じたり、筋が通らないと思えるような個所に出会っていません。↓
http://hifumi.uresi.org/
筋が通らなければ、私もこれほどこの神示を重視しなかったでしょう。
神示など持ち出すと、科学の議論から遠く隔たってしまったように思われるかもしれませんが、それほど、今の私には科学はかすんで見えます。輝きが感じられないのです。
あなたが、神示よりも科学の将来に強い期待を抱くのであれば、それも自由でしょう。
でも、私は科学に全く期待していません。いつか私の鼻を明かすような、素晴らしい発見があればいいですね。
それでは。返答が遅れたことを今一度お詫びして終わりにします。



ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ミロクの世に生きる101の方法 更新情報

ミロクの世に生きる101の方法のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング