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仏教・中観思想・空思想を学ぶコミュのシャーンティデーヴァ論師「入菩薩行論」の学びについて

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シャーンティデーヴァ論師「入菩薩行論」の学びについてのトピックでございます。菩薩行の実践を扱う重要な要綱書「入菩薩行論」につきましての論考を深めていければと存じております。

コメント(73)

mixiの日記で入菩薩行論の解説をなされているShavariさんの解説に反論した文書を転記します。

議論としてはShavariさんとは和解していますので、本トピックスに参考となる部分だけを転記します。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=195181664&owner_id=535251

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Shavariさん
解説・入菩提行論(75)「無我の修習」※第9章の解説

この辺は今度はおそらくサーンキヤ哲学等を相手に想定した対論ですね。この辺も、興味がない人は読み飛ばしてもらってもいいと思います(笑)。

 ところで、「ヨーガ・スートラ」に代表されるヨーガ派の哲学はサーンキヤ哲学に近いわけですが、私は個人的には、サーンキヤも、ヨーガ派も、中観派も、唯識派も、原始仏教も、あるいはヴェーダーンタの不二一元論や、ギーターなどのバクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガなどの見解も、あるいは密教も、ゾクチェンも、マハームドラーも、すべて認めます。
 その見解から、この中観派の見地から他派を論破していく類の論書をどう考えるか、ということに関しては、いろいろと思うところはありますが、話がより複雑になりますので、詳しくはここには書かないでおきます。

 しかし大まかなわたしの感想としては、(この章が後世の挿入という説もありますが、仮に本当にシャーンティデーヴァの言葉とだとすれば)、シャーンティデーヴァは、他派と自派がどちらが正しいかどうかというようなレベルの話は、どうでも良かったのではないかと思います。シャーンティデーヴァなら、他の章を見る限り、言葉の哲学的追求よりも、この論書を読んで実践して読者が実際にいかに利益を得るか、ということに、この章においてもポイントを絞るはずだからです。

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★上記に対する生徒さんらしい方のコメント

>この章が後世の挿入という説もありますが

これは現在ではほぼ確定的な説でして、お察しの通り、よりオリジナルに近い敦煌本と言われる版本においては、このあたりの他宗批判の部分はごっそり抜け落ちています。

★Shavariさん


そうなんですか。そこまで確定的だったら、本にまとめるときは、私もその部分をごっそりと抜きます(笑)。明らかにここだけ雰囲気がちょっと違いますもんね。
Shavariさんに対する自分の反論

入菩薩行論は、現状チベット仏教でのみ重要な位置づけを与えられ伝承されてきました。九章がシャンティデーヴァの手になるものかどうかは別としてチベットで尊重されてきた最大の理由が九章にあったことは間違いありません。そして現代のチベット仏教で、本書が特別な位置づけを与えられているのも、九章があるからにほかなりません。
チベットでは本書に関する多くの解説書が出されましたが、九章だけを取り出した解説書も数多くあります。
特にミパム・リンポチェの解説書は有名です。十何歳のとき、パトゥル・リンポチェ解説を一度聞いただけで、この解説書を書き上げ、パトゥル・リンポチェがチェックしたが1つも直すところがなかったという逸話が残っています。
上記のやりとりは、大乗偽作論と同じです。九章はすばらしい宝のごとき人類の英知です。
誰の作かは別としてです。

本日記のShavariさんのこのコメントには自分としては???があります。

>その見解から、この中観派の見地から他派を論破していく類の論書をどう考えるか、ということに関しては、いろいろと思うところはありますが、話がより複雑になりますので、詳しくはここには書かないでおきます。

なぜ???かというと
?この第9章は、論議の形をとっています。

プラーサンギカ派(帰謬論証派)に対して、他派からの論議が挑まれ、それに対して帰謬論証派の見解から反論しております。
この論議というものは仏教の1つの伝統的な修行法です。見解を磨く重要なものだということは正統な仏教を学んでいるものからすると常識的なことです。けっして他派の主張を排撃するものでも、他派を侮辱したり、憎んだり、否定するものではありません。チベット仏教では、仏教大学ではこの論議という課程があって、盛んに行われるものです。
チベット仏教に限らず、日本の禅宗などでも行われています。


?中観派には2派があります。
スヴァータントリカ派(自立論証派)と帰謬論証派です。

中観自立論証派の論証方法は、「空とはこのようなものである」と空を論証したり、定義つけたりする派です。

対して、中観帰謬論証派には「不立言」という重要な主張があります。
つまり「いかなる(言語による)イデオロギーも主張しない」逆にいえば、いかなる「言説」もかならず正しくないという主張です。

したがって中観帰謬論証派の論証方法は「読んで自明のごとく」、「空でないいかなる言説も正しくない、矛盾がある」と論証し、結果としてだから真理とは「空」であるとしか考えられないというまさに「帰謬論証」を用います。だから中観帰謬論証派と呼ばれているのです。
そして第九章はもちろん「中観帰謬論証派」の立場から書いています。そして中観帰謬論証派はこのような論議の形式で「空でない」見解を論破して、結果的に「空」を浮かび上がらせるというのが常套手段なのです。
実際、中観派の始祖、龍樹の「中論」もそういう形式になってますよね?

Shavariさんの反論をお待ちしています。

Shavariさん
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反論を待ってたんですか笑?

私は今、あることで頭がいっぱいなので、ネットで議論をする気にはなれませんし、特に反論もありません。

いみじくもデチェンさんが「シャーンティデーヴァの作かどうかは別にして」と書いておられますが、逆に私は、シャーンティデーヴァの作かどうかを重要視したわけです。ただそれだけのことです。そしてわたしは1〜8章が好きで、デチェンさんは9章が好き。それでいいのではないでしょうか笑

それから、今回のデチェンさんの疑問というのが正直よくわからなかったのですが、つまりシャーンティデーヴァは帰謬論証派であるという断定が前提となっているのでしょうか。
中観派を二派に分ける観念は、チベット仏教で中心的に展開されたものです。チベット以前、インド仏教においてそのような明確な区分があったという確たる証拠は今のところなかったと思います。そして当然、シャーンティデーヴァを帰謬論証派だなどと断定する学術的証拠は何もありません。謎の多い人ですからね。

私はシャーンティデーヴァが好きなんですよ。ここにおいては別に空観とか中観とかについて語ろうとしているのではなく、私は入菩提行論の1〜8章の内容を見ると、9章の一部において違和感を感じると言っているだけなんです。そして最近の研究では、その部分が後世の挿入だとされてるということなので、ああ、やっぱりそうなのかと書いただけです。

その挿入かも知れない部分が真理か真理ではないかとはここでは論じてません。単にシャーンティデーヴァらしくないと感じたと、それだけなんですよ笑

ちなみに、中観派をわざわざ観念的に二派に分け、そしてその中で帰謬論証派に高い位置づけを与えるのは、ツォンカパの系統を組むゲルク派で特に重視される観念ですよね。まあ現代のチベット仏教はゲルク派中心なので、あたかもそれが正統仏教であるような宣伝がされていますが、ニンマ派はどちらかというと自立論証のほうを推すのだと思っていました。まあ、というかそのような区別すらあまり意味がないと考える人が多いのかと。デチェンさんはニンマ派系の方だと思っていたので、ちょっと今回の書き込みは意外な感じでした。



>九章がシャンティデーヴァの手になるものかどうかは別としてチベットで尊重されてきた最大の理由が九章にあったことは間違いありません。そして現代のチベット仏教で、本書が特別な位置づけを与えられているのも、九章があるからにほかなりません。

この部分も、私はそうは思いません。私はあの本が、ダライ・ラマ法王も亡命の際にそれだけを持ち出したというこの本の特別な価値は、1〜8章にこそあると感じてるんです。

でも9章こそ最高という考え方を否定はしません。いろいろな考えがあっていいと思いますから。

ですから別に私はデチェンさんの思想に反論はないんです。お互い、心が惹かれる部分が違うというだけのことですから。


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〉シャーンティデーヴァは帰謬論証派であるという断定が前提となっているのでしょうか。
中観派を二派に分ける観念は、チベット仏教で中心的に展開されたものです。チベット以前、インド仏教においてそのような明確な区分があったという確たる証拠は今のところなかったと思います。そして当然、シャーンティデーヴァを帰謬論証派だなどと断定する学術的証拠は何もありません。謎の多い人ですからね

◎前提、私はあくまで自分の修行の一環として、自分の心を知ることを目的として教学もしています。したがって仏教教学のプロではありません。
そして自分の仏教の知識は、天台宗の僧侶から学んだこと、臨済宗のかつての師から学んだこと。中村元選集をはじめ、いろいろな仏教本を読み漁ったもの。そしてパトゥル・リンポチェ、ケンポ・トプテン・ロドゥ・ニマをはじめとするラマについて学んだことです。
●ただ上記の文書はあまりにも?です。
Wikiの中観派のページです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A6%B3%E6%B4%BE
そこに中観派を二派の図が載ってますよね?シャーンティデーヴァは帰謬論証派の図の中に載ってますよね?
また、中村元先生の講談社学術文庫の「龍樹」の中村元先生の解説部分、431ページでも、同じような表があり、中観は二派に分かれ、シャーンティデーヴァは帰謬論証派と明記されています。中村元先生が書いていらっしゃるので、学術的に間違いないと思いますよ。
また自分学んだ天台宗の住職も臨済宗の老師も二派と言っていましたよ。
またwikiの上記ページを見てもわかる通り、二派の多くの人物はインド人です。

〉、ニンマ派はどちらかというと自立論証のほうを推すのだと思っていました。まあ、というかそのような区別すらあまり意味がないと考える人が多いのかと。

●ニンマ派でも、帰謬論証派が上とされます。確かに自立論証派の見解との差は小さいとされますが。チベット仏教で自立論証派の立場に立つのは、4派ではない「チョナン派」だけとケンポから教わりました。
ニンマの見解では、空の理法は、定義できない、言葉では表現できない、不可思議(考えも及ばない)ものですから、方便(言葉)によって空を定義しようとする自立論証派に比べ、帰謬論証派の方がダイレクトに空を表現するとされます。


〉この部分も、私はそうは思いません。私はあの本が、ダライ・ラマ法王も亡命の際にそれだけを持ち出したというこの本の特別な価値は、1〜8章にこそあると感じてるんです。

●根拠は?感じてるだけ?
九章だけが特別に大事というわけではありませんが、九章が非常に重要な位置づけにあるというのは、チベット仏教の基本的な考えです。「後世の挿入」とされる部分を含めてです。

〉そしてわたしは1〜8章が好きで、デチェンさんは9章が好き。それでいいのではないでしょうか笑
〉ですから別に私はデチェンさんの思想に反論はないんです。お互い、心が惹かれる部分が違うというだけのことですから。

●もし、Shavariさんが仏教を説くというなら、単なる好き嫌いではなく、菩提心と空性の2面を一定のレベルで習得していなければならないはずです。
なぜかと言えば、この2つは、仏教の、特に大乗仏教における両輪だからです。
「菩提心」と「空性」これは教えの段階と局面により、いろいろな言い方がなされます。「慈悲」と「空」、「方便」と「智慧」、「如来蔵」と「空」、「顕れ」と「空」などですが、すべて同じものを違う局面から説明するものです。
大乗仏教のダルマの多くは、この2つに(大方)大別されますし、修行法もこの2つに(大方)大別されます。
○ダルマから言えば、要は、第2転法輪が「空」であり、中観等になります。
第3転法輪が「如来蔵」であり、唯識等になります。

○修行法から言えば、仏教の基本である「止観」の「止」が空の側面であり、「観」が「顕れ」の局面です。※突っ込まれそうなので、先にわかりやすくいうと止めて顕れるものが究極的には「如来蔵」です。
あるいは「生起次第」が顕れの局面であり、「究竟次第」が空の局面です。

そして両方が兼ね備わってダルマと言えます。

Shavariさんが心を惹かれないという「空」がもしダルマになければ、仏教のダルマはダルマとは言えません。
仏法というものは空性というものがあって、初めて特別な教えになります。
たとえば「帰依」です。帰依の対象が無常なものであり、実体のないものである。そして帰依という行為そのものもまた無常であり、実体のないものである(三輪清浄)という空の理解がなければどうなるのでしょうか?
世間ではそれはグルイズムや原理主義と呼び、カルトでよく見られる「絶対的な信仰」「盲目的な信仰」そのものになってしまいかねません。
「布施」なども同じです。布施をする対象も無常であり、実体がなく、布施をする主体(我)も無常であり、実体がなく、布施の行為そのものも無常であり、実体を欠いています。
そうでないなら(空を理解せず実体視するなら)、己の行った布施を実体視し、その果報を期待する。自分があれだけの布施を行ったのだから「悟れるはずだ」「商売がうまくいくはずだ」「世間的成功するはずだ」などという思いが生じます。そのとき布施は純粋な布施とはなりません(布施の心を伴わない行為だけの布施)。布施の心がない以上、布施の果報もまた得られません。
「菩提心」でさえ、空の理解が欠けるならば、ダルマどころか困った存在になりかねません。「菩提心」を発する主体が「救済者」として実体をもち、「菩提心」の対象が「汚れた衆生」となり、「菩提心」が「救済心」となりかねません。まるでどこかのカルトですよね。
このように「菩提心」でさえ、空性に対する理解が欠けるならば、人を悪趣への縁に導きかねないことになります。

●本物の菩薩であるシャーンティデーヴァがこのことを理解しなかったと思いますか?仮に九章のある部分が後世の挿入であったとしても、シャーンティデーヴァが九章で「智慧波羅密」を説いたことは「まさか」否定されませんよね?
その九章を「聖なる経典」を否定し、このトピックスの本文にある通り、
〉この中観派の見地から他派を論破していく類の論書をどう考えるか、ということに関しては、いろいろと思うところはありますが、話がより複雑になりますので、詳しくはここには書かないでおきます。

などと単なる論争と貶めて「解説」されて、仏教徒としては(特に菩提心のかけている自分のような人間のできていない者)黙ってはいられませんでした。
----中略----

Shavariさんとの和解後の雑談の部分です。


PS どうしてプロフィールのところの名前に「ただの道具」とあるのですか?ヨーガの教えでも何か違和感があります。
人はけして誰の道具でもありません。人間に生まれた貴重な機会を、自分自身の心の中にある「菩提心」の灯をともし、自分自身の足で、自分自身の菩提行を歩むべきだと思います。


-----------------

Shavariさん

私はバクティヨーガが好きなんですが、バクティヨーガにおける最高の理想は、バガヴァーンのただの道具、しもべ、召使いになることなんです。
その深い意味は、長くなるので気が向いたときにします笑。

*********************
上記のやり取りは、仏教とヨーガの違いが表れていると思います。
大乗仏教の修行者は、すなわち菩薩行を歩むことが、師から求められると思います。

しもべでも召使でもなく、自らの菩提心という「灯り」をともし、菩提行の実践として、功徳を積む修行も行うものだと自分は理解しています。

Shavariさんとのやりとりは以上です。

どうでしょう?

どなたかそろそろコメントしてくれるとうれしいです。



デチェン・ナムドゥルさん



 コメントしようと思ってはいたのですいが、実際にはShavariさんの書き込みはここではないし、悪戯に書き込みしてもナーガールジュナの論争を超越するという趣旨とは逆のことを刺激しそうなので、『廻諍論(ヴィグラハ・ヴィヤーヴァルタニー)』の意向に従い、沈黙を守っていました。

取りあえず、ご苦労様でした。


お互いに尊い教え、清らかな伝統を真摯に自分も学ぼうとされて、その歩みの中でそれぞれに感じられたこと、疑問に思ったことなどを話し合ってみることはとてもいい学習の一環だと思います。
もちろん自己の了解を丁寧につむぎ洗練してゆくことがおろそかにされたまま議論の勝敗にばかり傾くなら論外ですが、共に同じ目標に向かう同士が助け合い、高め合うための意見の交換をすることは、とても有意義なことだと思います。
Shavariさんの考えとしては、
仏教を瞑想実践派と哲学論争派という基準で分けていて、
自分は瞑想実践派だと思ってるから、九章を嫌うのでしょう。

どういう基準で分別するにしろ、我執があればダメだと思います。
賢者が論書で論争してるのは、智慧を磨くために必要なもので。
それを見て、凡夫は煩悩で論争するけど、それは不要なもの。

大雑把にしか見えなかったら違いが分からないかもしれませんが、
それらは動機も結果も違います。
動機が大事でしょう。
ノルブさん

Shavariさんとの議論の中身はまだよく検討していないので置いておきますが、議論というものの価値についてはノルブさんのおっしゃるように必要なことだし、大事なものだと思います。

言葉で語れる限りの真実については、議論というものはお互いが清らかな向上心を持っている限り修練のための大事な方途の一つになりうると思います。
とても体力、知力のいることですが、丁寧で忌憚のない議論が良心的な者同士によってなされる時、思いがけない世俗諦への理解の進展が開かれることもあると思います。
僕が書きたかったのは、
単に「議論がダメ」とすると、
ナーガルジュナなどの論師たち、賢者・聖者にも過失があることになる。
単に「議論はいい」とすると、
凡夫による、我執や煩悩を増長させるような議論も認めることになる。
だから、単純な話ではなくて。

凡夫同士で議論してもうまくいかないと思います。
両方とも迷っていて。有益な議論にはなりにくいかと。
ただ、仏法について話し合うのは問題なくて、いいと思いますけど。

自分の修行ができてないうちに、外に、他に向かっても、
うまくいかないと思います。
一つ一つのことを実体化してしまうのは人間の思考が持つ言語というものの本質的な働きによることを明らかにされたナーガールジュナ師の鋭い議論は本当にすばらしいものですね。
第9章 智慧

1.シャキャムニはこれまでのすべての教えを智慧を得るために説かれたのです。
したがって、苦しみを滅ぼしたいと願う者は、智慧をこそ得なければなりません。
2.世俗と勝義、2つの真理があると明らかにされています。
勝義は認識の及ばないものであり、認識の及ぶものは世俗であるとされています。
第3頌は理解の仕方によって訳し方の分かれるものですね。
僕は次のように読みたいと思います。

3.したがって、世俗には二通り認められることになります。
それは瑜伽行者にとっての世俗と凡夫にとっての世俗です。
凡夫にとっての世俗は瑜伽行者にとっての世俗によって否定されます。


皆さんのご意見はいかがでしょうか?
第4頌は、実は僕はよくわからないのです。最後の所の意味がどうもまだわからないのです。

4.瑜伽行者の間でも、見識の劣る者はそれの勝る者によって否定されます。
その際、用いられるのは両者が共に認める例証であって、決して結論を求めて分析するようなことはしません。


皆さんはどう思われますか?
5.凡夫は現象を知覚すると、それは現実であって幻ではないとみなします。
この点で凡夫と瑜伽行者の見方は異なります。

6.誰もが知覚する色形も、決して正しい論証によってその存在が認められるわけではなく、誰もが有ると考えるから存在するとされているだけです。
この知覚自体、虚妄なものであり、あたかも汚れがないかのように思われていますが、不浄なものと等しいのです。


6の最後の解釈は異論があるかもしれませんが、僕はこのように読みました。
皆さんはどう取りますか?
>第9章「智慧」
1.シャキャムニはこれまでのすべての教えを智慧を得るために説かれたのです。したがって、苦しみを滅ぼしたいと願う者は、智慧をこそ得なければなりません。


ああ、智慧の大切さがよくわかりますね。
>2.世俗と勝義、2つの真理があると明らかにされています。勝義は認識の及ばないものであり、認識の及ぶものは世俗であるとされています。


これは仏教における真理論のとても大切な所ですね。
>3.したがって、世俗には二通り認められることになります。それは瑜伽行者にとっての世俗と凡夫にとっての世俗です。凡夫にとっての世俗は瑜伽行者にとっての世俗によって否定されます。


世俗諦と勝義諦の境のありかについて時々議論が生じるのは、こういう事情もあるからですね。
>4.瑜伽行者の間でも、見識の劣る者はそれの勝る者によって否定されます。その際、用いられるのは両者が共に認める例証であって、決して結論を求めて分析するようなことはしません。


頭の中で分析して結論を出そうなどということは瑜伽行者同士では行わない。
瑜伽行者の結論の出し方はあくまでも実体験のみだ、という意味だと思います。
「  第一章 菩提心の恩恵
すべての仏陀と菩薩方に捧げます

1.善逝とその法身とその後継者たちと崇拝するにふさわしいすべての方々に礼拝いたします。
経典に従って、菩薩行の実践について簡単に述べさせていただきます。

2.いまだ説かれていないことは、ここでは語られず、私には詩作のしようもありません。
したがって、これが人様のお役に立つとも思われません。
ただ、自らの心の修行のために私はこれを書くのです。」
大乗仏教における菩薩という一つの理想的生き方について、シャーンティデーヴァ論師の『入菩薩行論』は、本当に丁寧に、心にしみ入るように教えて下さっていますね。

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